2011年11月14日

ブロムシュテットのこと

monogusablog / monogusablog
去年のN響アワーだったか、ブロムシュテットのシューベルト「グレート」をたまたま観たのだけれど、これがとんでもなく素晴らしかった。録画もしなかったし一度聴いたきりなのだけれども、早めのテンポで疾走するグレートで、この曲独特の躍動感と愉悦を存分に表現していた。N響もノリノリの名演。 at 11/14 03:19
monogusablog / monogusablog
楽章の合間にブロムシュテットのインタビューが流れたのだけれども、テーマを口ずさみながら楽しそうにグレートの魅力を語っていた。ブロムシュテットは昔からよくN響に来ていて細かい折り目正しい繊細な音楽をやっていた記憶はあるが、個人的には音楽全体のスケールに物足りなさを感じたりしていた。 at 11/14 03:22
monogusablog / monogusablog
単に私に聴く耳がなかったのだろう。ところが、そのグレートは軽快ながらも実に堂々とした深い音楽になっていて驚いたのである。ブロムシュテットは現在84歳だそうである。かつての細かさがむしろ音楽にメリハリを持たせて堂々たる巨匠の音楽になっている。 at 11/14 03:26
monogusablog / monogusablog
ギュンター・ヴァントが若い日は細部に行き届いてはいるがスケールに欠ける演奏をしていたのが、晩年大化けしたのと似ているのかもしれない。生真面目な音楽から何かが溶け出して滔々とした深い響きを生む。しかしそれが老年特有の重さにならずに、むしろ若々しく少年に戻った溌剌さなのだ。 at 11/14 03:28
monogusablog / monogusablog
それでいて、もともとの音楽のつくりの繊細さが最大限にブラスに働いて実に豊かな美しい響きをオケから引き出すことに成功している。最近見た、ラフマニノフピアノ協奏曲三番とチャイコ5番の「名曲」コンサートでも涎のたれそうな瑞々しくて美しい音を通俗名曲から見つけ出していた。 at 11/14 03:32
monogusablog / monogusablog
チャイコ5番の2楽章も実に美しかったのだが、会心の出来だったのか楽章が終わると、聴衆に見えないようにコッソリ左手でガッツポーズをしていた。なんとも可愛らしくて憎めないお爺ちゃんぶりである。 at 11/14 03:36
monogusablog / monogusablog
もともと持っていた無邪気な純真が歳をとってそのまま表面に噴出してきたかのような素敵な歳の取り方だ。動画で最近N響と共演した、ベートーヴェン英雄、皇帝、マーラー第九など聴いてみたが基本的にどれも同じことが言える。不感症の美女のようなところもあるN響も、精一杯の熱演でこたえているのだ at 11/14 03:38
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2009年02月25日

ショスタコーヴィチ交響曲第七番十五番

ショスタコーヴィチ交響曲第七番ロジェストヴェンスキー十五番ムラヴィンスキー

ショスタコーヴィチ交響曲第七番「レニングラード」(ロジェストヴェンスキー=ソビエト国立文化省so.)

この第七番は独ソ戦に対する愛国心の表現として書かれたということになっていたが、ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」によると全く違う意味が込められていたという。
(この曲は)戦争の始まるずっと前に構想され、従ってヒットラーの攻撃に対する反応ではなく、「侵略の主題」は実際の侵略とは全く関係ない。この主題を作曲したとき、私は人間性に対する別の敵のことを考えていた。ヒットラーにより殺された人々に劣らずスターリンの虐政の犠牲となった何百万という人々の悲運を悼んで書いた。
ショスタコーヴィチの曲には、常に付きまとってくる隠されたテーマの問題が、一番分かりやすい形で現れている。
個人的には第一楽章で、「戦争の主題」が、ラヴェルのボレロのように繰り返して展開されて膨大な管弦楽に膨れ上がっていくところが好きである。あの「戦争のテーマ」は、その名前とは反して軽妙な魅力的なメロディーである。かといって、迫抜けに楽天的というのではなく、何かそこに隠された意味が秘められているような不思議な味わいがある。それは、ショスタコーヴィチの曲全てについて言えることだが。
タルコフスキーの「映像のポエジア」によると、魅力的なイメージというのは、一律的な意味がすぐ分かるようなものでなく、相反するイメージが共存して解釈不能ながら豊穣な内容を含んでいるものだという。ショスタコーヴィチの曲は、まさしくそういうものである。
この曲についても、スターリンへの抗議がこめられているとしても、そういう具体的意味を超越したイメージの力がなにより魅力である。ショスタコーヴィチの音楽には、そういう彼にしかない特別な性質があり、聴く者の心を離してやまないのである。それはあくまで純音楽的でありながら、同時に音楽的ではない意味も志向していながら、言葉の意味には堕さない緊張感を保っている。そういう類のない音楽である。
第七番は、大音響の巨大な壁画で、純音楽的な精緻さに欠けると評されることもあるが、そういうショスタコーヴィチ的な魅力は十分な曲だと思う。先述したように第一楽章のボレロ的な部分の不思議な味わい。
ロジェストヴェンスキーとソビエト国立文化省so.のコンビは、こういう巨大な音響を表現するのに最適のコンビである。ロジェストヴェンスキーは、何をやっても出て来る音が楽天的で、人間としての性質では常に深刻なショスタコーヴィチとは対照的ともいえる。しかし、あの精緻かつ膨大なスコアを余すことなく再現する能力ではずば抜けており、なおかつやはり「ロシア」のオケというのが、やはりきいている。個人の性質とは関係ない、深い民族的な共通性を感じずにはいられない。特に、巨大な音塊の部分は、ロシアのオケじゃないと決して出ない味わいがあると思う。
昔に輸入盤で、全ての交響曲を揃えたのだが、現在は入手が難しいようである。

ショスタコーヴィチ交響曲第十五番(ムラヴィンスキー=レニングラードフィル)

ショスタコーヴィチの最後の交響曲。ウィリアム・テルやワーグナーのリングを引用したりする不思議な曲である。ショスタコーヴィチの人生の回顧とも言われる。しかし、この曲についても、やはり相反するイメージが統合されて同時に矛盾しながら並存しているイメージということが言える。ある意味、ショスタコーヴィチのもっとも私的な意味合いが込められていながら、逆に最も普遍的なイメージを放射しているといえるかもしれない。個人的にも、一番好きな曲である。
たとえば、ワーグナーの引用にしても、曲想をそのまま生かしながら、それをどこか客観視して異化するような面があり、軽やかでいて深刻、真面目なようでいてどこかユーモラス、浅いようで深い、気軽なようで深遠という曲なのである。こうして言葉で説明するのが一番難しい曲である。
ムラヴィンスキー=レニングラードフィルは、この曲の構造を極端なくらい精緻にレントゲンのように再現する。しかも、それをすこしも機械的でなく、あくまで人間の芸術的な手作業として行うのである。きわめて硬質で甘いところが微塵もないのだが、決して音楽が死なずに微妙なニュアンスが常に息づいている。集中して耳を傾けていると、その完璧な演奏への意志に興奮せずにはいられない。
そして、なによりあの打楽器群によるラスト。人間が書いたもっとも美しい音楽の一つだと思う。
しかも、その打楽器群のパターンが、自らの第四交響曲からの引用なのだ!
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2008年02月22日

早くも春の気配の感じられる宵に

まだ結構寒いんだけど、こうして夜更けに雰囲気だけ春の気配濃厚。
変な感じ。
まあ、誰しも春先というのは心身ともにちょっとはおかしくなるものでしょう。
でも、歳取ると、なんか深刻に影響受けるようになってきている感じがする。
わたくしの場合、全くなんにもする気がなくなるという症状が起きて困ります。
でも、なんとなく気分だけは浮かれているような現実感のない変な感じでね。

春といやあ、マーラーの「大地の歌」ですよ。
ブルーノ・ワルターがウィーン・フィルを指揮して、キャサリン・フェリアーが歌った名盤中の名盤がある。
でも、私が一番好きな部分は、パツァークの「春に酔へる者」。
あの投げやり感、どうでもいい感、ヤケのやんぱち感がたまりません。いはゆる名優ではないのかもしれないが、個性派俳優の味なのである。
歌詞もよくってねえ。原詩は李白のはずなのだが、私は読んだこともないし、ドイツ語もわかりゃしない。だから対訳を読むだけなんだけど、私が持っているのは格調高い訳。こんなんじゃ物足りない。
ということで、私訳を作ってみよう。対訳のアレンジなんで、私的創造なんだと言い張っても許されるだろう。
シドニー・シェルダンの「超訳」とかいうのが一時はやっていたけど、あんなもんだろうか。
明らかに違うよね。


「春に酔へ!酔いやがれ!コノヤロー!ダンカン!」

人の一生なんて しょせんは一場の夢
あくせくしたところで一体なんになる?
オイラにとっちゃ こんなステキな一日なんだ
酒かっくらって過ごしゃいいのさ イヤになるほど飲んでやれ!

胃袋も満たされて すっかりいい気分になりゃあ
もう飲めなくなっちまえば
ゴロリとなって
何一つわずらうこともなく眠っちまえばいいだけのこと

オッ、目が覚めたら何かきこえるぞ
なんだ?
鳥が梢で歌ってやがる
オイ、鳥!
春でも来たのかよ?
夢うつつの寝ぼけマナコでオイラがたずねりゃ

鳥は囀るよ
その通りでございます、ってか!
一夜にして春が訪れたのでございます、ってか!
鳥が歌って笑いやがる
オイラは なぜかシミジミと 鳥の語りに聞きいっているのさ

さあ また飲め飲め もう一杯 いや何杯でも飲んでやらあ
盃の底までしっかり飲み干してやらあ
お月様が暗い夜空にポッカリ浮かぶまで
オイラは 歌って歌って歌いたおして過ごすのさ

そうして もう歌うことすらままならなくなったら
そうしたら また眠っちまえばいいのさ
春?
そんなもんがオイラになんの関係がある?
オイラはただ酔っぱらっていたいだけなのさ
頼むからほっといておくれ
posted by rukert | Comment(2) | TrackBack(0) | クラシック

2008年02月02日

ホロヴィッツのノスタルジア ラフマニノフ ピアノ協奏曲第三番

タルコフスキーの、ロシア大地への、あるいはロシア的精神の原型への強烈なノスタルジア。とことん美しい映画である。啄木的な郷愁と違って、ノスタルジアまで、広大で深々としている。ロシアは、単なるローカルな風土ではなく、折口信夫が沖縄に抱いたような昇華された憧れが、別の国の人間まで巻き込んでしまうような郷愁が、確かにあるような気がする。
カーネギー・ホールで、ユージン・オーマンディ指揮ニューヨークフィルとともに、ホロヴィッツが弾いたラフマニノフ三番。オーケストラビルダーとしては無能だったバーンスタインのせいで、オケとしては雑な響きしか出せなくなっていた当時のニューヨーク・フィルだが、オーマンディの手にかかると、驚くほど色気のある豊かな響きを引き出すことに成功している。
しかし、このホロヴィッツは、いったいなんなんだ。たった一人の人間が、ちっぽけなピアノだけで、こんな巨大な憧れや情熱やため息や眩暈を生み出せるものだろうか。技術をこえた何かが、はっきりと聴こえてくる。
ホロヴィッツは、この曲を弾くために、長く離れているロシアの心、ロシア人の感情を思い起こすために、朝な夕なチャイコフスキーやリムスキー=コルサコフのオペラを聴いたのだという。
故郷がない都会育ちの人間の心の奥底にも、必ず不可視の故郷への郷愁が眠っていて、ホロヴィッツはそれを揺り起こすのだ。もう、ロシアとかなんとかは、ほとんど関係ない、人間が存在する普遍的根拠の奥底を垣間見せるような怪演である。
あまりに、こういった種類の故郷から遠く離れた生活にすっかり倦み疲れ果てた時、これを目いっぱいボリュームを上げて、ガンガン鳴らすとよく効くのだ。
こうした、憧れや郷愁を、すっかり忘れ去ってしまった現実のあわれでちっぽけな世界のことなど、もうどうだっていいのである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2007年09月17日

パリ・オペラ座のマリア・カラス

マリア・カラス没後30周年ということで、記念CD発売等色々行われている。その一環で、スカパーのシアター・テレビジョンで、これが流れている。私ははじめてみた。1958年なので、声も凄けりゃ、美貌やスタイルも文句なしっていうやつです。

マリア・カラス パリ・オペラ座デビューの記録

一部はコンサート、ベルリーニのノルマから「清らかなる女神よ」など、第二部ではゴッピとトスカ第二幕全篇を歌っている。
人を完全に跪まずかせる声というのはこういうのをいうのだろうか。アナウンサーが「パリを征服した」とか言っているが、それが大げさではないくらいである。一人の人間の女性の声だけで、大聴衆の劇場を完全に支配してしまっている。
何より映像でしか見られない風貌とオーラを確認できる。スカラ座でヴィスコンティの演出で「椿姫」をやった際、ヴィスコンティは徹底的に細部まで演技指導をつけたそうだ。共演のステファーノは、それが気に入らず、すっかりオカンムリでヴィスコンティのことを無視しようとしたらしい。しかし、カラスは本当に熱心に演技を完成させようと自発的に協力したという。歌うことについても、演技についても、徹底的なパーフェクショニストのプロフェッショナルだったのだ。
ここでも、あの大きい目のつくりの大きい顔で、ちょっとした表情の動きで完璧に十二分に感情を表現し、舞台での身のこなしも隅々まで計算されつくされ洗練されている。カラスは単なる歌うたいではなく、トータルな表現者だったのだろう。晩年ヴィスコンティ映画に出なかったのが本当に惜しまれる。そういう完璧な演技で、なおかつ圧倒的な声で「恋に生き、歌に生き」を絶唱されたりしちゃあ、もうどうしようもなく感動せずにはいられないってもんです。
私のように、オペラの快楽、特にイタリア物、にはあんまり興味がない人間も、引っ張り込んでしまう何かがマリア・カラスには確かにある。カラスほど、様々な俗性のゴシップに取り囲まれた人間もいないが、彼女の芸術には俗的な要素が全くといっていいほどないのだ。よく言われるように、声の美しさ、テクニックということなら、カラスよりうまい歌手はいくらでもいるのだろうが、総合的な表現者としては彼女を上回る人は過去も、未来も出現しえないだろう。カラスは永遠に前衛であり続けるだろう。
などと、私がたどたどしく書いていても心もとないので、小林利之氏の、何も付け足す必要のないカラス評を紹介して終わりにする。

「カラスの無類さ、その歌のすばらしさは、そのような声の質とか技巧の練達といったマチエールの問題を超越した点にあるのだった。つまり、問題は音楽の本質に迫る芸術性の深さ、表現力の的確さ、その視線の鋭さ、個性美に徹し、音楽的に完璧で、しかも劇的にもシャープな解釈と表現の魅力なのだった。したがって、カラスの歌で聞くと、アリアひとつから、そのオペラの中におけるヒロインの人間像の全てが理解できるといっても過言ではない。」

例えば、このオペラ座での「ノルマ」の「清らかなる神々」を、観ながら、なおかつ聴いていると、そのことが心から納得できる。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2007年08月31日

トスカニーニ・ボックス

貧乏人なもので、クラシックの廉価盤が大好きである。これは、トスカニーニのNBC交響楽団との録音を集めた10枚組1980円の超廉価盤である。
いきなり話が変わるが、最近は、テレビの純お笑い番組は、ほぼ壊滅状態である。私が今見ているのはダウンタウンの「ガキの使いじゃあらへんで」と、スカパーのガオラで流れている関西ローカルの「明石家電視台」だけである。後者は知らない人も多いだろうが、お笑い道場的な番組で、さんまを司会に、レギュラーに間寛平、村上ショージ、ゲストに、松尾ばんない、雨上がり決死隊、中川家、なぜか若槻千夏でおりなすお笑い原風景的なプログラムだ。
他には、オセロ松島と鶴瓶がやっている「キラキラアフロ」も一時期見ていたが飽きた。そもそも、私が史上最高のお笑い番組だったと思うのは、鶴瓶と上岡龍太郎がやっていた「パペポ」である。そういえば、鶴瓶が俳優をゲストに迎えての完全即興ドラマ「スジナシ」も、お笑い番組ではないが好きだ。鶴瓶マニアで、年末にやっている「朝まで生鶴瓶」もチェックしているし、青山円形劇場の「鶴瓶噺」も見に行ったことがある。
他に好きなのは、正統派シチュエーションコントのアンジャッシュとか、バナナマンの初期のコントとかかなあ。
「ガキ」の名物企画に、「ハイテンショングランプリ」というのがあって、芸人たちがただひたすらテンションの高さを競い合うというのがある。ココリコ遠藤の「愛ほほほーい」で、白のブリーフ一丁で「ほほほーい、ほほホーい」と自分のホッペタを叩きまくりながら、珍妙に踊り狂うのは、もう理屈抜きの面白さだ。
で、なぜ、こんなことを書いたかというと、もしクラシック指揮者「ハイテンショングランプリ」を開催したら、トスカニーニはダントツで優勝だと思うからである。これが言いたかっただけ。
もともと、私はトスカニーニがそんなに好きじゃなく、偉大さが分かったのはごく最近のことである。元々、ドイツ系の指揮者が好みなので、トスカニーニは、あまりにそっけなさ過ぎて、味気ないなどと思っていたのだ。勿論、私に聴く耳が全くなかったからに過ぎない。やっと、イタリア的カンタービレの澄明さとか、混じりけのない純捨なエネルギーに満ちた造形美とかが、いまさらながら分かってきただけである。
このボックスにも一部収められているが、意外にもワグナーとかが本当に素晴らしい。ドイツ的作曲家ワグナーという先入観さえ捨てれば、トスカニーニの、完璧な造形と熱狂が、いかにワグナーにピッタリで、ワグナー的旋律を俗気無しに歌わせるのに、いかに適した指揮者なのかが分かる。ワルキューレなどの勇壮なのは勿論、ローエングリン序曲での混じりけのない憧れにもため息が出る。ワグナーにかぎらず、どの国の作曲家をやっても、完璧なのだ。
でも、やっぱりイタリア物のよさといったら、もう言葉を失う。このボックスにも、ロッシーニ、ヴェルディの序曲集が入っているが、どれだけすごいかといったら・・。学校の運動会では、ウィリアムテルのトスカニーニ盤を使えば、誰もが普段より速く走れそうだ。そして「運命の力」、ココリコ遠藤にも負けないハイテンションぶりで、たたみかけるように盛り上げられると、もう笑うしかない。人は、あまりにすごいものに接すると笑い出す生き物なのである。
そういえば、廉価盤といえば、一時期タワーレコードなどで「ミケランジェリ・ボックス」もバカ売れしたらしい。これも、10枚組2000円程度だ。ドビュッシーの「映像」のライブとかだけでもうおなかいっぱいだ。ただ、中には、とんでもライブも入っていて、バッハのシャコンヌをピアノ編曲したのをライブ演奏している。これがミケランジェリなの、というくらい、曲が進むにつれて自分が抑えられないように盛り上がっていき、どうかしてしまったかのように弾きまくっている。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2007年08月22日

メシアン「鳥の歌」(ウゴルスキ pf)

昔見たメシアン自身出演のドキュメンタリー。メシアンには、音楽を聴いているとその色彩が視覚的に見えるそうである。西欧音楽には、実は色彩のある音楽は少ないと。ドビュッシーやラベル(まあ、この辺は分からないでもない)、他にモンティベルディにも色彩があるそうな。現代音楽は救いのない灰色だと。ブーレーズがメシアンの講義を受けてたらしいが、いかにも灰色の音楽だ。
色彩の見え方も、単に何色っぽいというような生易しい話じゃない。この部分ははっきりどの色で、それがどのように変化していくかが克明に「見える」そうである。
そういう人間が書いた音楽だというのは分かる。鳥の歌。なんて色彩にあふれた官能的な快楽の音楽だろう。官能と快楽といっても、すこしも俗なところはなく昇華された鳥の囀りである。
メシアンが鳥の鳴き声を聴きにいって作曲する様子も映されていた。そう、メシアンには、本当に鳥の声がこのように聴こえていたのだ。まあ、普通の人じゃない。高級なユリゲラーだよ。しかし、鳥の声もこんな風に聴こえるんじゃ、さぞメシアンには世界は深い神秘だったことだろう。
また、ウゴルスキのテクニックが、唖然とするほど冴えわたる。
トゥーランガリラもそうだが、メシアンの音楽はきわめてセクシーだ。セクシーといっても、やはり俗なところのない聖なるエネルギーだ。タントリストたちの主張するような、本来神聖な性のエネルギー?
こんな、異教的な罪深い官能的な音楽を書いていて、メシアンは、根っから敬虔なカトリックだったそうだ。ああいう人間が何考えているのかは、もう凡人には分かりませんよ。
ところで、私には、鳥の囀りの種類も区別できないし、色彩の違いも全然見えない。まあ当たり前だ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2007年08月08日

クナのパルジファル

なんなんだ、この暑さは。頭がおかしくなりそうだ。だからというわけではないのだが、昨日、クナッパーツブッシュのバイロイトのパルジファルを、ふとかけてみたら、最後まで聴き通してしまった。なんせ、四時間だ。馬鹿なことした。今日は一日中、眠かった。
ワグナーというのは、本当に厄介だ。まず、あの音楽を理解するだけでも大変だ。あのピエール・ブーレーズが、バイロイトでリングを振った際に、ノイローゼ気味になったというくらいだ。どシロウトに、本当にきちんと理解するのなど、到底無理。しかも、あの碩学の丸山真男でも歯が立たなかったという、古いドイツ語だ。かといって、歌詞カード片手に、四時間聞いているのも、あまりにきつい苦行だ。
さらに、オペラにこめられた思想。神話学から、宗教学まで、精通している人間でなけりゃ、本当には理解できないだろう。
ということで、クナのパルジファルについても、本来、安易に語ったりしてはいけない。でも、暑すぎるし(関係ないか)、別に誰にも迷惑かけるわけじゃなし、大風呂敷広げちゃうか。
パルジファルの音楽については、吉田秀和さんがこんなことを言っている。
「それら全てを覆い包んでいる音楽!!ここでも、私は、自分がよく分かったなどとはいえない。いや、今でも、私は、そういうまい。ことに、私にとって躓きの石は、全曲を覆う、あの疲れたような、緊張に乏しいリズムとダイナミックである。(中略)私には、その足取りの中に、このころすでに芸術の歴史を通じてももっとも偉大な天才に数えるべき大家の骨の髄までくいいっていたところの疲労を感ぜずにはいられないのだ。」
吉田秀和さんの耳に何が聞こえているか、私などには想像することすら不可能だ。ただ、正直言って、私にはあの聖杯の動機など、どうも本当には神聖な音楽には聞こえないのだ。どこかに感傷とか通俗がひそかに混じったような音。リングの方の音楽はワグナーらしい音楽として納得できる。しかし、パルジファルについては、神聖そのものではなく、神聖にあこがれる音楽のように聞こえてしまう。バッハや、ブルックナーの後期の交響曲は、私にとっては、本当に神聖な音楽である。(もっともブルックナーについても、カトリックの:敬虔な音楽には聞こえないのだが、まあその話は今はいい。)パルジファルは、どうしようもなく、地上の生に引き止められている人間が、神聖なものに無限の憧れを抱きつつ書いた音楽とでもいうか。キリスト教への帰依というのが、素直には信じられない音楽だ。
しかし、そういいつつ、クナのこの演奏を聴いていると、結局恐ろしく感動してしまうのも事実なのだが。ワグナーという、とんでもない俗性と聖性が共存する人物が最後に書いたこの音楽は、いったいなんだったのだろう。
また、ここで扱われている聖杯伝説。これまた、ちゃんとした宗教的知識など全くないままに書いているのだが、キリスト教の中でも異端の匂いがプンプンする。一応パルジファルが題名だが、ワグナー自身は限りなくアムフォルタスなのだと思う。深く傷を負った救いのないアムフォルタスが、パルジファルに貫かれることで救済される。ワグナー自身というのは、全ての毒や属性を背負った人間であって、そういうアムフォルタス的な人間が、救済を願った書いた音楽である。(段々断定調になってきたぞ  笑)パルジファルが、本当には神聖な音楽ではないのに、もし聞くものの心を深く揺さぶって止まないとしたら、アムフォルタスの負った傷が知悉する人間が、余すところなくそれを音に形象化するのに成功しているからだと思う。現代人が心に負った傷や弱点を、いやというほど内省させられるから、この音楽は偉大なのであって、音楽自体が神聖なのではない。
といった、わけの分からない妄想が心に浮かびつつ聞いていた。
クナのことを書くのを忘れた。伝記などを読むととんでもないオヤジだ。しかし、ただの善人ではないから、パルジファルをこれだけふれるのだろう。一方、大学の論文がクンドリーについてだったというわけの分からない人間だ。とにかく、ここでは普通でない音が鳴り続けている。辛抱強い職人であり、常に即興性が息づいており、決して音が観念的にならず、なおかつ音が限りなく深遠である。生来のワグナー振りとしか言いようがない。
ヒットラーはクナが嫌いだったそうである。「軍楽隊長」とか呼んでいたらしい。そりゃ、そうだろう。ヒットラーのような、とことん観念的で現実否認の人間には、クナの深い生命肯定などわかりっこないさ。
posted by rukert | Comment(2) | TrackBack(1) | クラシック

2007年07月04日

カラヤンのマーラー

カラヤン=BPOのマーラー第六。「冷たい」マーラー、完全に音の美意識だけで組み立てたマーラー。しかし、バーンスタインのような自己没入型のみが真実というわけでもあるまい。そういうのも好きだけれども。むしろ、この醒めきった、純粋音響美学に強く引かれるものを感じる。第三楽章の耽美的世界、私のような厭世的な人間にとっては、つかの間の別世界である。

マーラーの大地の歌の奇数楽章に、心から共感を覚えてしまう人間である。一番好きなのは、リュッケルトの詩による歌曲集。マーラーのシンフォニーでなく、これに心の底から共感できる人間でなくては、本当のマーラー好きとは言えないだろう。このカラヤン盤にも、ルードビィッヒの名唄が余白にはいっている。しかし、私に言わせると立派に歌いすぎだ。もっとも人間の弱さがなくてはダメだ、CDでは、F=ディスカウがバーンスタインのピアノの伴奏で歌ったのがよい。

しかし、BSではるか昔に流れた、ハンブトンがピアノ伴奏で歌ったのが最高だった。彼は、本当にマーラーの屈折、厭世などが全て分かっていると思う。残念ながら録画しなかったので、二度と聞けないのだが・・・。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

クレンペラーの大地の歌

クレンペラーのオタである。大地の歌も、これを聴くとワルターも子供に思えてしまう。とてつもなく遠いところから聞こえてくる何か、しかしすこしも曖昧なところなどなくしっかりした厳しい形をなしている。しかし、マーラーの弱さも、何もかもすべて抱擁している。クレンペラーって、いったい何者だったのだろう。

最後の「Ewig Ewig」(永遠に、永遠に)の部分では、本当に何もかもすべてよくなってしまう。しかし、クレンペラーの場合は、決して単なる現世否定にはならない。ニーチェのような、現世否定のはてにたどり着いた、徹底的な現世肯定なのだ。仏教の現世否定の鬼子の「空海密教」のように、たくましい現世肯定を聴き取ることが出来る。

現代に対する違和感は、否定の全く存在しない肯定、浅い快楽主義の氾濫である。ニーチェのいうように「世界は、思っているより深い、恐ろしく深い」はずなのに・・・。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2007年07月03日

N響アワーの松崎さん

この前週に将棋の佐藤康光棋聖が出演したのを見たら、最後に告知があったので二週連続で見た。言うまでもなく、とんでもないホルン奏者である。どういう事情があったのか知らないが、バイエルンをやめてN響で吹いているのが不思議なくらいの人である。
N響は伝統的にホルンセクションが強力なようで、なんと言っても昔では千葉馨である。ストラヴィンスキーがN響を指揮して「火の鳥」を自作自演した画像が残っているが、終曲の冒頭での千葉さんのソロ、背筋がゾクゾクする。カラヤンが千葉さんをベルリンフィルに連れて行こうとしたのもうなずける。N響が断っちゃったというのは、本当にもったいない話だ。
松崎さんの「ジークフリート」での、例のホルンソロも番組で流れた。すごい、ただそれだけ。
スヴェトラーノフ指揮のチャイコ5番第二楽章、あのオッサンでなくても参る。固めのしっかりした音質なのだが、同時にとてもしなやかで、スケールの大きい叙情・・下手な説明はやめておこう。
しかしスヴェトラーノフも、わざわざ松崎さんを指揮台まで連れてって上らせちゃうって・・。とかいいつつも、ああいうのに実は私は結構弱かったりするのだが・・。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。