2008年05月06日

(メモ)小林秀雄 物質への情熱 

当時の最新風俗を書いている作家たちについて、「単に見物しているだけで、本人たちのつらさを知らない、かといって本当の残酷さもなく、いたについていない」と批判している。
現代ではどうか。残酷な目は持っていそうでも、ただ救いのない現実の破片が見てとれるだけだ。甘い観念主義は不要だが、あまりに観念がスッポリと抜け落ちている時代。行くところまで観念を徹底的に破壊するのはよい。しかし、あまりに観念を破壊するという意識なしにあっけらかんとやられると、私みたいに甘ったれた古いタイプの人間はまいってしまう。
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2008年03月09日

小林秀雄「バッハ」

春先になぜか聴きたくなるスティングのブラン・ニュー・デイをリピートで流しながら、小林秀雄の中期作品を、気の向くままに、パラパラと拾い読みしている。
そう、今は「怪しうこそ物狂ほしけれ」(徒然草)という感じなのである。
中期作品は、浪人時代に、はじめて文庫で「モーツアルト・無常といふこと」を読んだ。浪人している時なんて、誰でも精神的に多少はおかしくなるものだけど、本当に救われるような思いがした。特に、西行とか実朝とか。
今読み返すと、当時よりも色々なことがはっきり理解できる。でも、あの当時も、ちゃんと分かっていたのだなあとも思う。こうして読み直すと、いかに知的理解をしようとして読んでも意味ないかが、分かりすぎるほどよく分かるのだ。本当に、そのまま読めばいい。新たな小林解釈なんて全く必要ないのだ。
特に、かつてはどういう意味なのだろうかと、知的に解釈しようとしていた部分が、まったくそんな必要なく、くっきり理解できる。一言芳談集の一節も、実にいい文章ではないか。あんまりこういうことはいいたくないが、知的理解とは別に、年取らないとどうしても分からないということは確かにある。同じように知的に理解していても、体の奥底までよく分かるようになるためには、どうしても年をとらないとダメなのだろう。
この生女房の嘆きも、小林の「常なるものを見失った」というのも、実に当たり前のことを当たり前に言っているだけだ。なぜ、そんなことをいちいち理屈づけて考えようとしていたのだろう。バカバカしい。
これは、文庫には収録されていたか記憶が定かでないのだが、今読んでいて「バッハ」という小文に一番心打たれた。バッハの未亡人がバッハを語った本について書いている。「無常といふこと」などの、中期の諸編で語っていることは、結局このことだと思うので、引用しておく。多分、このことが分かっていないと、小林など読んでも全く無駄だ。でも、頭で分かっていなくても、西行の歌になぜか胸打たれてしまう人はちゃんと分かっているのだと思うが。
あっ、言い忘れたけれど、今かなり泥酔しているので、もう訳分からないことはいわずに、間違えないように、しっかり引用して終わりにする。

夫の音楽の精髄については、かう言って夫を笑はしただけだ。「人間がみんな聾でも、貴方はやっぱりかういふ音楽を書くに相違ない。」この冗談には、恐らく彼女の万感がこもっていたので、バッハの死後、彼女は同じことを非常に明瞭に書いたのである。長いから引用はしないが、それは次のようなことだ。これは早くから感じて驚いていたことだが、彼はそのことについて一言も語らなかったし、私たちは幸福で多忙だったし、熟考してみる暇がなかったことなのであるが、それは、バッハは常に死を憧憬し、死こそ全生活の真の完成であると確信していたという事だ、今こそ私はそれをはっきりと信ずる、と。
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2008年01月16日

小林秀雄の「本居宣長」を頑張って読了!だけど・・。

最近小林秀雄の「感想」を読みまして、えらく興奮してこんなことを書きました。今自分の書いたことを読み返してみると、完全に小林秀雄に「やられちゃって」います。小林秀雄がとりついたようなことをぬかしているし、口調まで小林先生風の独断調だ(汗)。かなり恥ずかしいが、まあいいや。とにかく、それだけ楽しませてもらえたって事であって、別に小林を客観的に読もうという姿勢などハナから放棄している読者としては、いい映画を見て感動したり「騙されたり」するのと同種の快感が何より大切なものですから。
でも、この「本居宣長」については、困りました。特に、後半読み進めるにつれて、当惑が限りなく広がり続けたので。かなり前に、一度チャレンジして挫折したときのことを思い出したが、やっぱり、あの古事記の神話解釈をめぐるくだりで、ついていけなくなったのだった。

宣長の神話に対する態度は簡単明瞭、書かれていることは全てありのままに受け取れ、ということである。まあ、並の現代人には無理な話である。宣長に言わすと、古事記の中に入り込んで読めと主張している師の賀茂真淵すら、その点では不徹底だということになる。
当時、一番はっきりストレートに反対を唱えたのは上田秋成だった。引用を読めば明らかだが、秋成は、学識も深く合理的で都会的な教養人である。秋成は、神話を安易に合理的に解釈することと愚を十分承知した上で、神話をそのまま信じることなど、どうして出来ようかと主張している。それに対して、宣長は、(普通の意味では)全然ちゃんと応えておらず、古事記の言葉に没入して、ありのままに感じ取れば、それがありのままの事実としかいえないことが分かるはずだという、合理的とはいえない説明を繰り返すだけだ。私だって、どう考えたって、ここでは秋成が正しいと言わざるをえない。
秋成の論拠としては、神話ならわが国だけでなく、各国が持っている、なぜわが国だけのものが、正しくて普遍的だといえようか、というのが一番説得力がある。それに対して、宣長は、比喩を用いて、ある一つものに対して、二十種類のものが自分のものが本物だと主張している場合、ほとんど全ては偽者だとしても、一種類だけは本物じゃないとどうして言えようか、単にいくつかの偽者を見抜いただけで、賢いと思い込むのは実に浅はかだ、という意味の応え方をしている。無論、合理的には、説得力があるとは言えないだろう。
宣長の場合、とにかく対象に没入して、ありのままに感じ取るというのが、根本的な姿勢なので、インテリで理知的な秋成とは、対象に対する姿勢が全く異なるということまでは、納得できるだろう。しかし、だからといって、宣長の神話経験を、そのまま無条件に受け入れろといっても無理な話である。
さらに、一番疑問に思うのは、小林が、二人の論争を、外部から客観的に追うだけで、小林自身の考えを言うのを慎重に控えていることである。無論、小林は、対象に対する態度としては、宣長の肩を持っているのだろうが、だからといって、宣長と同じように、神話をありのままに信じる、というところまで行くかどうかは全く別問題である。もし、宣長に本当に同意するというのであれば、そこまではっきり言うべきだと思うが、それは言わないのだ。いくら小林ファン、場合によっては信者ともいってもよい、私でも、当惑せずにはいられない。
ただ、宣長かこんな比喩を用いて説明している。もし、人が死滅した後に、かつて人間がどういうものであるかを説明した文書があったとして、目が二つあって、鼻があり口があり、心というものがあって、などと書かれていたら、それを読んだものは「人間」の存在を信じられないだろう、神話も同じことで、今の人間の常識で測るから、事実とは思えないのだ、という言い方はある種の説得力はある。現代的に解釈すれば、現在の人間の感覚知覚と、かつての人間の感覚知覚が全く異なるものであり、かつての人間にはまさしく神話のように物事が見えていた、という説明は一応可能ではある。しかし、実はそういう理知的解釈こそ、宣長が「漢心」として一番拒絶したであろう物であろうから困ってしまう。
宣長的な「ありのままに対象を感じる見方」とは別に、思惟の力によって対象を捉える力にだって、何らかの意義もあるはずだろう。そのことで、失うものがある一方で、そういう能力の持つ意義や必然性だって存在するだろう。宣長は、老子の無為自然を、一見日本の古代のさかしらなき心と類似しているように見えて、実は理知的に考え出した上での「自然」であり、漢心の最たるものであるとして拒否する。しかし、それだって、屁理屈を言えば、宣長が、老子の言う無為自然を、ありのままに対象化せずに実体験した結果でいってないともいえる。宣長が、本当に老子の原文に無私の心で当たった結果、無為自然の真実性を感得することが絶対ないと、なぜ言えるのだろうか。
要するに、宣長の場合、あまりに、対象に没入することに気を取られているあまりに、物事を客観的に相対的に捉える視点が、決定的に欠落しているのだ。また、対象を、理性的に対象化する姿勢の意義を、無視しすぎている。もっとも、そういう言い方も、宣長の立場に立てば、全て「漢心、さかしら」、だということになるのだから、水掛け論になってしまうわけだが。
宣長が、古事記に、一切の理論的解釈を拒否する心のありようをはっきり感じ取ったのは、恐らく間違いない。それは、宣長だけでなくも彼とは全く別な道を通って、日本のことを考えた丸山真男も、直覚していたことである。但し、そういう理論化への拒否は、当然普遍的な真実ではない。そのことの長所もあり、短所もある、ローカルな一特性に過ぎないだろう。それを日本人は、過大に誇る愚を犯すべきではないし、かといって卑下する必要もない、それこそ「ありのままのあり方」なのだから。
小林が、この宣長を書いた当時には、対象を科学的に理知的に捉える姿勢が主流であり、それへの苛立ちと深い反発が、小林を宣長に向かわせたということはあるだろう。小林が語る、宣長に限らない、真淵、徂徠、契沖などの、全く現代とは異なる、学問に向かうあり方はきわめて魅力的である。また、宣長の源氏における「もののあはれ」論も、読んでいて楽しい。しかし、宣長という対象を選べば、当然、彼の神話に対する姿勢とぶつからざるをえないだろう。やはり、その点で小林は、対象を間違えたという気がするし、はっきり言って、この「本居宣長」は、失敗作だと思う。この「本居宣長」が、小林の代表作だとして、現在でもまかり通っているのは、この本がいかに読まれていないかの証拠だという悪態もつきたくなってしまう。さらに言えば、小林が本当に封印すべきだったのは、「感想」ではなく「本居宣長」だったのだとさへ、言いたくなる。
しかし、そういう話とは全く別に、この「本居宣長」がたたえている、一種の肉体的な圧倒的な存在感を、誰も否定することは出来ないだろう。いはば、ストーリーや構成が、完全に破綻しているにもかかわらず、観るものをひきつけずにはいられない映画とも似ている。小林の場合は、言うまでもなく、傍観的な批評家ではなく、創造的な批評家である。そういう創造的な作業においては、当然失敗はつきものである。それが、小林の批評家としての最大のよさとも言えるだろう。どんな偉大な映画作家でも、必ずといっていいほど失敗作があるが、そのことによってその作家が否定されることはありえないように、小林を否定するのも愚かである。むしろ、晩年になって「感想」や「本居宣長」のような、きわめてあぶないところのある諸作を残したことの方が、素晴らしいと思う。少なくとも、この「宣長」は、小林にとって、円満な伝統への回帰による安息とかいったものとは正反対のものだったのではないだろうか。小林自身の「モーツアルト」でも、晩年のゲーテの心のうちに、どんな激しい嵐が吹き荒れていたか、他者の伺い知るところではない、という意味のことが述べられていたと思うが、それは小林自身にも当てはまることだろう。最後まで、こんな得体の知れないことを書き続けていたことこそ、小林の偉大性の証明だというのが、私のねじけた結論なのである。

「本居宣長」は、宣長の遺書の記述から始まる。最終章において、小林は、宣長が古事記において感得した死生観について述べている。最後に、小林は、最初に書いた宣長の遺書に戻って欲しいと述べて、本書を終えている。
これをどう解釈するか。例えば、本書の巻末に解説を書いている中村光男は「死を身近なものとして扱いながら、ロマンチックな陰鬱さはなく、名所案内のような明るさが漂っているのは、主人公が生活の延長の上に見出した永生への確信が著者によってもわかたれたことを示すのでしょう。」と、結構思いきったことを言っている。(小林(宣長)の言う死生観は「永生」というような抽象的な言葉では要約できない、生きた微妙でリアルなものなので、それについては本書を全部を読むしかないのだが。)
そうかもしれない。本来、これについても、合理的には、簡単に受け入れたりしちゃいけないのは言うまでもないだろう。でも、そうかもしれない・・。
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2008年01月11日

小林秀雄「感想」 読書メモ

とりあえず、一度読み終えたが、理解できていない部分も多く、単なるメモ書きにしか過ぎないことを最初にお断りしておく。それと、これから読もうと思われている方に。二巻に分かれているのだが、上巻を頭抱えながら読んでいたら、下巻でなぜかそれまでの再説明要約のような部分があり、その頃はベルグソン思想にも慣れてきていて、すごく分かりやすかったことだけ言っておく。辛抱して、とにかく下巻まで読むといい事があるかもしれませんぞ。

いきなり怪談じみたエピソードで始まる。ある時小林が夕暮れに外出し、蛍が飛んでいるのを見かける。そのとき、小林の亡母が、今は蛍になっているという考えから逃げられなくなった。茂木健一郎の「脳と仮想」でもこの話は紹介されているのだが、そこには書かれていなかった部分もある。いつもは、小林を見てもおとなしくしている近所の犬が、その時だけ猛烈に小林に吠えかかってきた。さらに、子供たちが、大騒ぎをして小林を走って追い越して行き、口々に火の玉が飛んで行った、火の玉が飛んで行った、と大声で口々に叫んだ・・。
もうひとつ、小林は泥酔して、水道橋の駅のプラットフォームから墜落する。しかし、奇跡的な位置に落ちて、九死に一生を得る。その時、小林は、おっかさんが助けてくれた、と何の疑いも持たずに考えた・・。この話は坂口安吾の小林論、「教祖の文学」にもちょっと出でくる。
小林にとって、それらの「経験」は一切の解釈を拒絶する絶対的な意味合いを持っていたという。そして、ベルグソンの「経験」に話がつながっていくのだが、話しの脈絡は決して合理的とはいえない。
なぜ、こんな話を小林は最初にもって来たのか。この「感想」は未完に終わったわけだが、最後まで続けられていたならば、この話に戻ってきたような気もする。そうじゃないかもしれない気もする。
ひとつだけいえるのは、この小林のベルグソン論は、普通の哲学解説や講義として読んでもほとんど意味がないということだ。この小林本人言うところの「ある童話的経験」に共感できないと、たぶんどうしようもない。小林自身の表現を借りると、こうした経験の絶対性に対する信頼が、この論文の「通奏低音」なのである。

ベルグソンの「記憶」と「知覚」の完全な二元論について。ベルグソンは、失語症の研究などを通じて、「記憶」は脳のどこかに貯蔵されているようなものではないとする。失語症で損傷するのは、記憶を知覚の形にする機能だけで、記憶自体は、一切損傷されることなく、完全に保持されているという。
当然、素朴な疑問として「じゃあ記憶はどこに保存されているのか」と思う。しかし、それにはベルグソンは答えない。それは、自然が答えるのを拒否する種類の問題だと。そうではなく、「記憶」が、脳髄のどこかに貯蔵されているという、一見科学的な考え方の偽りを明らかにするという「否定的方法」を用いる。何かを積極的に証明するというのではなく、どういう考え方がおかしいかを、否定的に徹底して追及するという方法である。ソクラテスの「デイモン」は、常に「禁止」の方向で囁いてきた。何かをしろというのではなく、何をするなと。
と、今、「感想」の内容について具体的に書こうとしようとしてみたのだが、結局、この本の内容を全て言わないと仕方ないことに気づいた。もうやめる。
要するに、脳が全てを生み出すという一見科学的な考え方が、実はいかに恣意的であるかを、ベルグソンも、それを追う小林も、こだわって追及しているのだ。それを、形而上学的方法ではなく、科学的方法で行おうと努力しているのだ。その結果「精神」の独立を考えざるを得ないということだ。この問題は、小林の時代だけでなく、現代においても変わらぬ問題であろう。
私は、現代の脳科学を否定するというような、大馬鹿者が言いそうなことを言いたいのではない。ただ、ベルグソンにとっても、小林にとっても、「精神」の自立は、恐らく最初から自明だったのだと思う。しかも、それを形而上学的な観念論としてではなく、科学の誠実な果実をきちんと受け止めながら、言おうとしているのだ。それは神秘主義でもなければ、観念論でもない。そういう、ありのままの事実としての、精神の独立は、少なくとも私自身にも自明すぎるくらい自明にしか思えない。それは、科学的態度と、一切矛盾しないと思う。

では、精神と物質はどういう関係を持つのか。小林は、後半で、現代物理学の成果を通覧している。ハイゼンベルクの言う「観察者が対象物に及ぼす影響」を無視できない世界においては、物質は、通常の物質とはいえない様相を呈してくる。そういう現代物理学の成果について、哲学は何かをいいたい誘惑に駆られるだろう。しかし、その種の試みは、安っぽい詐欺に終わる危険性を常にはらんでいると思う。そもそも、そういう世界においては、科学的実験よりも、いかに有効な仮説が提出できるかが問題になってくる。当然、絶対的な結論はありえないだろう。そういう世界を、哲学が安易に取り入れる必要はないと思う。
小林は、非常に科学的に、最先端の考えを貪欲に吸収する人物だったので、この点についてふれずにはいられなかったのだろう。単なる哲学的思惟に閉じこもらず、科学と照らして考えようとする姿勢は素晴らしいと思う。しかし、結局今言った理由で、その関連付けは、常に危険性をはらむ。小林が、なぜこの「感想」を、未完にして出版を禁じたかのはっきりした理由は不明だが、この最後に出てくる現代物理学の部分が関係しているのかもしれない。

そもそも、小林は、現代物理学の成果など借りなくても、物質と精神の関係について、初期から正確な考察を示していた。マルクスの唯物論について、マルクスのいう「もの」とは観念的な精神でもないし、かといって固定的な物質でもないと指摘している。精神と物質の二元論において、精神と物質がどう関係するかについての「直感」は、恐らく初めから小林にはあったのだ。マルクスさへ、本来必要はなかったかもしれない。
私が、小林のことを愛読するのは、文芸批評家としてエラいからとかそういったことでは全くない。小林のそういう直感を常に彼の文章から感じるからだ。小林の対象に対する姿勢は、多分、何を論じても、各時代を通じても、一切変わっていないのだ。マルクスでも、西行でも、ランボーでも、ドストエフスキーでも、ゴッホでも、モーツアルトでも、本居宣長でも、何でもだ。
単なる物質ではない物質を超える物質、単なる浮遊する精神ではない具体的形をはっきり持つ精神、そういうものに対する感受性を持たない人間が、いくら小林を読んでも無駄だと思う。無論、意識的にそのようなことを考えてなくても、小林を愛読している人間ならば、必ずそういう「感受性」を持っているのだと思う。また、いまだに小林を愛読する人間が跡を断たないというのは、結局は、そういう人間において本質的とも言える感受性を、たとえ無意識であっても、読者が小林と共有しているからなのではないだろうか。

最初の怪談じみたエピソードに戻る。小林は、講演でいきなりユリ・ゲラーのことを語ったりしている。小林は、ユリ・ゲラーの超能力など「あんなことは、なんでもないことですよ。」と、志ん生の様な語り口で言い放つ。これも、神秘主義というような話では恐らくないのだ。「あたりまえの事実」でしかない。最初の怪談も、本来怪談などと呼んではいけなかったのだ。
今後、そういう小林の読み方をする人間が増えていく予感がする一方で、そういう読み方に徹底的な拒絶反応を示す人間も、増え続けていくような気がする。私としては、ただ黙って愛読するだけだ。
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2007年08月03日

小林秀雄 横光利一

横光利一を読んだことがないので、なんともいえないのだが、とにかく「新感覚派」といったレッテル張りでなく、横光のギリギリの肉声のようなものを、小林の個人的資質をぶつけて聞き取ろうという姿勢だということは分かる。基本的に「印象批評」なのだが、やはりこれだけ徹底してやれば立派だ。場合によっては、原作よりも批評のほうが魅力的で面白いというような。無論、誰にでもできるということではない。
「そこには人間の誠実の正体が痛烈に描かれている。作者は誠実を極限まで引っぱってみせてみた。世人の誠実とはなんでもない。世間の誠実で己の誠実に不潔な満足を感じていない誠実はひとつもないのだ。「私」という人物の誠実は、己に何の満足も感じないで死んでしまう誠実だ。」
まるで、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を語っているかのようである。
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2007年08月01日

小林秀雄 文学は絵空事か

小林の言葉、文学についての考え方
「言葉は真理をあらわさぬとは現代に限ったことではない。言葉が嘘とともに生まれた事実については、私は先々月の時評に、口がすっぱくなるほどしゃべったのだ。(中略)言葉が社会の発展につれて、ますます膨大な社会的偏見をはらむようになった十九世紀にいたって、言葉を嘘から救助しようとする熱烈な文学運動が起こった。」
「ポオとセルヴァンテスは、恐らくは、言葉の嘘に対しては同じ嫌悪と憤怒を覚えたのであるが、ポオは、言葉からその社会性、通俗性を洗い落とし、言葉の実体化、純粋化に近づきうるという信念の元に、言葉の嘘から逃れようとしたとこを、セルヴァンテスは、詩的言語の自立性を信用せず、社会とともにある言葉の嘘をあるがままの嘘として高所より受け入れ、この嘘を逆用する道を選んだ。」

現代日本においては、誰も本気で文学を読もうなどとは思わない。ポオ的な言葉の追求をしている作家、もしかしたらいるのかもしれないが(私も興味ない俗人の一人だ)、見向きもされないだろう。言葉の嘘を本気で剥ぎ取ろうとする気がないならば、別に本など読まなくていいのだ。テレビを見るのが低級で、本を読むというのが高級などというのは錯覚である。むしろ、どちらもどうしようもなく嘘なのに、本が真実と信じているとしたら、滑稽なだけである。
しかし、セルヴァンテスのやり方は現代でも可能だ。唐突に名前を出してしまうと、よしもとばなな。たぶん言葉の嘘に抵抗しようなどと思って書かれていない。でも、嘘だらけの時代の言葉をそのまま使って、真実を書くことに成功していると私は思う。じゃあ、別に文学じゃなくってもいいじゃない。そう、別にいいのだよ。たまたま、よしもとばななは言葉を使っているだけだ。音楽でも、映画でも、画でも、テレビのお笑い番組でも何でもいいのだ。そのことを自覚していないで、この現代において芸術を差別化できると本気で信じているとしたら、楽観的を通りこして悲惨だ。
この論文で、小林はシネマを退屈だといっている。多分、本当にくだらない映画しか観てなかったのだろう。小林に一昨日死んだベルイマンを見せたら、ちゃんと評価したと信じる。
ただ、やはり小林は「文学」を信じている人である。いくら小林は古くないといっても、そういう違いはどうしようもない。
もっとも、現代日本にも、本気で言葉の嘘を剥ぎ取ろうとしている、作家や読者がいても不思議でない。完全に世間には無視されているだろうが、その価値は昔も今も変わらない。人知れず、とんでもない詰め将棋を作り続けている本物の芸術家たちのように。
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2007年07月27日

小林秀雄 アシルと亀の子 X

文学雑誌やある作家に、思いっきり毒づいている。いやーー、面白い。講演と同じで志ん生である。江戸っ子の啖呵なのだ。昔読んだときはあまり気がつかなかった。やっぱり小林秀雄は、まじめーに読まないといけないと思いこんでいたからね。
チェーホフの名前が出てくる。安吾が「退屈な話」を絶賛していた影響で、結構読んだ。また読みたくなった。無論、昔みたいに自由に本を読み放題というわけには行かないのだが。もっとも、時間に制限がある時ほど、こういう欲はわいてくるものだ。
最近、ようやく歳とることはそんなに悪いことじゃないと思いはじめている。ちょっと、こういうことを言うには早すぎるのだけど。
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2007年07月25日

小林秀雄 アシルと亀の子 W

いきなり難解な論文だ。何回か読み返したが、結局理解しきれない。まあねえ、マルクスの話が出てくるのだが、私の知識といえば、大学のとき近経と一緒にやらされたマル経のおぼろげな記憶(もっとも私はマル経以上に近経にまったく興味がもてない不良学生だった)と、同じく大学時代に無理して読んだ、廣松とか柄谷とかのおぼろげな記憶だけだからねえ。まあ、それでもなんとか読めるのが私みたいなどシロウトにとって小林のいいところなんだけど。
要は、マルクスが「商品」について分析したことは「言語」についてもいえるということ。商品が関係性の網の目で、人々を支配するように、言葉も、魔術的に人々の心を拘束する。文学とは、そうした言語が商品的な魔術になる前の「絶対の言語」を取り戻そうとする試みである。但しその「絶対の言語」とは、カント的な物自体とは関係ない。絶対の言語は、絶対自然に通ずる。また、それは徹底的に特殊に徹底することで普遍に通じている。などと書いていると、自分でも何言ってるのかよく分からないが。
マルクスを俗流唯物論として読むのを拒否しながら、観念論に堕するのも厳しく拒否する。そういう姿勢に基づく「絶対言語」というのは難解な概念である。
多分本当にものを良く知っている人間ならば、この小論文だけを元に一冊の本が書けるだろう。私などは、その緊張感に満ちた思考の跡を何とかたどるだけでもう十分だ。
とにかく、小林は一面的な「物質」も「精神」も信用しなかったことだけは分かる。扱う題材が時代によって変わっていけども、根底にはそういう直覚のあった人だと思う。マルクスについても、精密に読んだ結果というより、まず最初にそういう直覚があった人なのではないかなどと、妄想が膨らむ。
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2007年07月24日

小林秀雄 アシルと亀の子 V

瀧井孝作と牧野信一を取り上げている。いかにも小林らしく自分にひきつけた紹介の仕方だ。自分の批評理論を実践している。客観的ではないと批判できそうだが、「客観的」批評ほどつまらないものはないのだ。
牧野信一は、坂口安吾の処女作「風博士」を絶賛して世に出した人だ。安吾も何度も牧野について書いている。特に牧野の自殺の際に書いた文章は、安吾の中でも特別に訴える力の強い特別な文章に仕上がっている。
牧野の文章は、小林の引用だけ読んでも面白い。日本的感傷文学とは対極の、理知的な一種のユーモア文学である。私が言うより小林の見事な批評を引用しておく。はっきりいって、このシリーズ、小林引用ノートになりそうだが、別にそれでもいいやと思いだしている。
「この作家の心は、芸術上の理知派の心である」
「例えば人は、もっとも精密な理論をめぐりあぐんで、緊張した理論のうちにあるとき、理論そのものが欲情を持って、君の知らない歌を歌ってくれるように思ったことはなかったか。」
坂口の初期の諸作品とも通じる世界だ。ただ、牧野は妙に明るい、安吾は本質的に暗すぎるくらい暗い。
「彼の作品の主人公は常に女に一喝されることを必要としている」
「女は彼の理論の幻を破る実在として姿を現す」
勿論、その女は現実の女ではなく、牧野の理知が要請する幻の女に過ぎないが。ダンテだってやってることさ。
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2007年07月23日

小林秀雄 アシルと亀の子 U

今竜王戦の佐藤vs久保戦を見ながらこれを書いている。
ここに書かれているマルキシズムの文学論、今となっては隔世の感がする。社会が個人を規定するという思想について小林は毒づく。マルキシズムの問題とかには無関係に共感せずにはいられない。全然古くない。
「社会とはあなたの眼前に生きた現実だ。あなたの頭の中でひょっとこ踊りをする概念ではない筈だ。現実のどこをとっても社会という同じ顔があるという類の社会なるものは、飴の中から飛んでくる金太さんのように無益である。」
面白いねえ、講演での小林の志ん生調が彷彿とする。で、やっぱり小林流の名言。
「批評するとは自己を語ることである、他人をだしに使って自己を語ることである。」
そう、例えばこうして私がブログでブーたれるのだって、レベルや質の問題こそあれ、そういうことなのだ。小林や音楽や映画や将棋の何を語ろうとも。また、そういう風に書きたいとは一応思う。
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小林秀雄 アシルと亀の子 一

小林秀雄を少しずつ読み直してみると宣言したはいいものの、全然やっていない。そう、全集の第一巻は結構退屈で骨っぽい文芸時評が続くので、初めて読んだときもなかなか進まなかったのを思い出した。とにかく一日一論文でやってみよう、てなやり方じゃ到底続きそうもないけど。
ここでは対照的な二つの論文が取り上げられている。片方は「形式主義」、もう一つは「文藝戦術論」、どちらについても小林はその「抽象性」を徹底的に批判している。その理論的精密性、切れ味は大したものだ。中途半端な粗雑な「抽象」を決して見逃しはしない。「抽象」をするのなら徹底して、それが抽象なのかどうか分からないところまでするべきなのである。伝統的な日本的な感傷文学にノーを言いながら。
取り上げられている論文は、完全に時代を感じさせるものだが、現代だって事情はすこしも変わりはしない。例えば、ウェブをめぐるもっともらしい論考とか、古めかしい主体の生む思想への蔑視とか、そういう「流行」に抗するのは極めて難しいように思える。でも、その種の流行のほとんどは怪しいものだと思う。
小林秀雄は次のような「らしい」名言で締める。
「私がプロレタリア根性を持っているか、ブルジョワ根性を持っているか誰が知ろう。私はただ貧乏で自意識を持っているだけで、私の真実な心を語るのに不足はしないのだ。」
こういっちゃ、身もふたもない。ただ小林の場合徹底的に理論的に考えた上でこういうことを言うから説得力があるのだ。
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2007年07月02日

小林秀雄 様々なる意匠

茂木健一郎をきっかけに、また読みたくなった。新潮社版の全集持ってるんです。講演テープのこととも関連するが、小林秀雄には、顕教的な部分と密教的な部分があるのだと思う。密教的な視線から、顕教的な小林の文章を見直してみたいというか、まあ、そんな大げさなもんじゃないのだけれど、とにかく毎日少しずつでも読んでみようかと。

ユングも、顕教と密教がある。シンクロニシティとかUFOについて、意外なくらい合理主義者的な書き方をしている。無論、それは隠れ蓑でそうしているのでなく、基本的に合理主義を貫くべきだというスタンスなのである。でも、ユング自伝を読んだ人なら知っているだろうけど、彼が個人的に抱いたイメージは、本当に強烈で神秘主義的存在だ。そういう、強烈なイメージの海を内部に抱えていた人だからこそ、顕教では徹底的に合理的じゃなければ自分をもちこたえられなかったのだろう。

フロイドとの決裂も、結局その種の問題をめぐってだった。フロイド=養老孟司、ユング=茂木健一郎説とか立てたら、やっぱり怒られるっすよね。

柄谷、蓮実、浅田とかが討論した際、蓮実が小林秀雄の通俗性についてボロクソ言っていた。モーツアルトを聞いて、呆然としたとか、そういうエピソードは全部通俗だと。でも、講演テープを聴いた者からすると、小林は、もともとそういう人なんだよといいたくなる。

また、中野重治と関連して、マルキシズムでの文壇制覇を本気で考えていたとかも、討論で言われていた。確かに、そういう面も多分にあった人かもしれないが、基本的に、講演で志ん生ばりに、ユリ・ゲラー語っちゃったりする人だと思う。また、自分はそういう面にしか興味ない。

前置きが長くなりすぎた。その討論でも、珍しく彼らが小林をほめていた、マルキシズムについての一節。

「脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物論における「物」とは、飄々たる精神ではないことは勿論だが、また固定した物質でもない。認識論中への、素朴な実在論の果敢な、精密な導入による彼の唯物史観は、現代における見事な人間存在の根本理解の形式ではあろうが、彼のごとき理解をもつことは人々の常識生活をすこしも便利にはしない。」

マルクス唯物論についての、これ以上ない正確な読み。認識論として、唯物論でもなく、観念論でもない「物」の措定は、今なお古くさくないのだ。 この処女論文からして、小林は「優れた直覚の人」である。

なおかつ、そういうことが分かっていても「人々の生活が便利になるわけではない。」ことのほうが、よほど重要である。普通に、人々が暮らしていることの方が、よほど不思議で神秘的で、興味をそそることなのである。

さて、無論ここでは小林はマルクスの認識論についてしか語っていない。しかし、すごく強引に結びつけると、こういう考え方、感じ方、直覚力の人だから、ユリ・ゲラーをのっけから否定もしないし、かといって盲信したりする愚も犯さないのだ。「あんなことは不思議でもなんでもない」ということになる。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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