2009年01月16日

ピンクパンサー2  (ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンクパンサー2 The Return of the Pink Pantherは前作「暗闇でドッキリ」以来、実に十一年ぶりに撮られた。ウィキペディアによると、セラーズと監督のエドワーズの関係が必ずしも良好ではなかったために、これだけ長期間のブランクになったそうである。
1975年の作品で、全二作とはやはりかなり肌あいが異なる。前作までがどちらかというと古典的な定番喜劇だったのに対し、本作はかなりドタバタ喜劇の性質が強まってくる。個人的には、前ニ作の古いタイプの笑いが好きなのだが、改めてみてみたら、やはりかなり笑ってしまった。
電話を修理するだけで、ルームサービスでホテルの部屋を掃除するだけで、ホテルで風呂に入るだけで、いちいちいちいち大修羅場と化すのである。ありえねえ。馬鹿馬鹿しくてよろしい。とても分かりやすい笑いである。
セラーズの変装で秀逸なのは、プレイボーイに扮するところ。思いっきり分かりやすいタイプのプレイボーイになりきり、それがとことんかっこ悪いのだ。服装、趣味、喋り方等あらゆる点で最低である。完璧だ。「キミの瞳に乾杯」と真顔で言うところは、マドンナ役でなくても、そりゃ噴き出してしまいますわ。
あのヘンテコな英語も徹底してきて、それはもう分かりやすく発音を間違えまくる。字幕をつけるのも大変そうだ。登場キャラクターも、ドレフュス警部、その片腕のフランソワ刑事、ケイト−他、レギュラーとして定着。
ただ、ドタバタ度では、その後のピンクパンサー3、4でどんどんエスカレートしていく。ピンクパンサーシリーズの分岐点過渡期の作品ともいえそうだ。本作では、まだ映画としてのストーリ展開へのこだわりがあるのだが、3や4では、もう完全に吹っ切れて笑わすことだけ考えている。
ちなみに、セラーズの扮するプレイボーイの名前は、ギィ・ガドボア。すごい名前です。ネーミングだけで笑わせてくれます。
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2009年01月15日

ピンクパンサー「暗闇でドッキリ」(ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワース監督)



ピンクパンサー・シリーズ中、個人的には最も好きな作品である。なんてったってピーター・セラーズが、これでもかこれでもかと最初から最後まで古典的に格式高く馬鹿馬鹿しくボケまくるのである。たまりません。
登場シーンからして、「これがアホの顔です」という表情を完璧につくって画面に現れるのである。そして、車から降りるといきなり泉に落ちる。「アァー」という間抜けそのものの声で。
ジョージ・サンダース演じる大富豪とのビリヤードのシーンでも、いちいちいちいちこれでもかこれでもかというくらいボケ続ける。また、あのジョージ・サンダースが無表情で冷たく奇異な生き物を眺めるようにセラーズのアホぶりを見守り続けるのがたまらない。最後はドアと間違えて壁に頭をゴツンとぶつけるのだが、怒ったように「この建物の設計者には精神分析の必要があーる」とかわけの分からない捨て台詞をはくのである。あのヘンテコな発音の英語で。
他にも、得意の変装で尾行捜査をしようとするたびに逮捕されたり、ヌーディストキャンプから真っ裸でマドンナと車で帰る破目になったりと、名場面の連続である。
本作では「あの」ハーバート・ロムのドレフュス警部が登場。クルーゾーの上司なのだが、アホのクルーゾーがメチャクチャな捜査を繰り広げる上に、しかもクルーゾーの言うことが正しいかもしれない。登場第一作で既にクルーゾー憎しで精神を病んでしまう。この後のシリーズでは、ただクルーゾーを殺すためだけに悪の帝国を築き上げたりして、どんどんエスカレートしていくわけだが。
ピンクパンサー4で、ドレフュスがクルーゾーの弔辞を読む羽目になる場面は、コメディ映画史上でも有数の名シーンだろう。ハーバート・ロムのドレフュスは、ピーター・セラーズのクルーゾーと同クラスの奇跡である。本当に素晴らしい役者だと思う。怪演である。
最後に容疑者全員を集めてクルーゾーが犯人推理をするシーンも実によく出来ている。例によっていちいちいちいちボケるわけだが、ソファーから転げ落ち、大富豪夫人に「この間抜け」と言われて、
「私のやっていることは全て綿密に計算してのことなのです、奥様。」
と強がりを言うのだが、恐ろしいことに、ここでセラーズは本当のことを言っているのだ。セラーズの名人芸を堪能しようではないか。
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2009年01月13日

ピンクの豹(ピーター・セラーズ他、ブレイク・エドワース監督)



ピーター・セラーズのファンである。ピンク・パンサーシリーズをはじめ、キューブリックの「博士の異常な愛情」、「マダム・グルニエのパリ開放作戦」等々、そして、ハル・アシュピーが撮った「チャンス」という不思議な映画。
彼はコメディアンであると同時に偉大な役者だった。「チャンス」で共演したシャーリー・マクレーンの証言によると、なぜあれほどまでにもどんな役にも完全に成りきれるのかと聞かれて、その役の人生を実際に生きたことがあるような気になれるという意味のことを答えていたそうである。役者ということをこえて、人間として何か特別なものを感じさせる俳優である。
ピンクパンサーのクルーゾー警部といえば、ピーター・セラーズである。どちらが本物の人格が分からないくらい、まさに役柄になりきっている。
このピンクの豹はシリーズ第一作。主演はデビッド・ニブンなのだが、完全にセラーズが主役をくってしまっている。怪演であり、この後はセラーズが主役のシリーズが何作も撮られることになる。監督はオードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」なども手がけた名匠ブレイク・エドワース。従ってコメディなのだけれども、映画としてのクウォリティもきわめて高い。
とにかくセラーズが、古典的にこれでもかこれでもかとボケ倒すのである。いきなり地球儀を回したのを忘れて手をついてこけるシーンで登場。古典的ボケもいいところなのだが、その表情、動作、発声等完璧である。余計な小細工などしなくても十分笑わせることが出来るのだ。当然、チャールズ・チャップリンやバスター・キートンと名前を並べられてしかるべき人である。
クルーゾー婦人役のキャプシーヌが、セラーズと息のあったところを見せていて、とてもよい。ベッドで彼女が夜眠れないと言うと、クルーゾーがいつもの手を使おうと言い、キャプシーがあわててやめさせようとする。何をするのかと思ったら、セラーズが、とてつもなく下手糞なヴァイオリンをギーギーやりだす。ライトがついた時のキャプシーヌの「カンベンしてちょうだい」という表情に腹を抱える。間男二人を部屋に隠してセラーズと演じるシーンは、芸術的な小劇である。いかにもフランス風の美女なのだが、ぶっちゃけて言ってしまうと、ああいう「いーい女」(志ん生のように力んで発言すること)がコメディを真剣にやっているのを観ているだけで、もう満足である。
ちなみに、ウィキペディアを見ると、ダーク・ボガードが生涯唯一回プロポーズした女性だとか(断った)、重度の鬱病でマンションから転落死したとか、興味深いエピソードがのっていた。色々問題の指摘されるウィキだけれども、手っ取り早くこうした情報が得られるのは、やはりすごいことではある。
あと、仮装パーティのシーンで、シマ馬に仮装した警官が出てくるが、あの声というのは次作以降レギュラーとして登場するケイト−のような気がして仕方ないのだが、どうだろう。結局着ぐるみを着たまま終わるのだが、あの存在感はすごい。
とにかくコメディの古典的名作。一度は見る価値のある作品だと思う。


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2007年09月28日

ベルイマン大いに語る

ベルイマンの検索していてこんなの見つけた。

ベルイマン大いに語る

ベルイマンの言う通り、ウェルズは過大評価されていると思う。「市民ケーン」も、底の浅い映画だと思う。でも、だからこそ、「フェイク」だけは秀作だと思う。というのは、ウェルズ自身も、彼の映画も全てフェイクだからだ。
ってなことを言うのは、私がベルイマン・フリークだからに違いない。ウェルズが好きな人間からすれば、ベルイマンなんて、深刻ぶったクソ映画に過ぎないと感じるだろう。多分、どっちも正しいのだ。
ゴタールについては、どうだろうか?批評家のために撮っているとか、似非っぽいというのは判る気はする。それでもゴダールの提出するイメージの強度だけは、少なくとも私には本物に思える。勿論ゴダールのことなど、全然理解できていないのだが。
総じて、やはり、ベルイマンというのは、古いタイプの頑固な作家なのだろう。そういうところが大好きなのだから始末におえない。
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2007年08月03日

溝口健二 お遊さま

谷崎潤一郎の原作である。男女の愛というテーマは溝口のお得意とするところだ。しかし、溝口的な人間肯定、立川談志家元風に言うと「業の肯定」とは、どうもそぐわない世界である。悪口言うと、下手すりゃ、昼ドラとか、トレンディドラマの「問題作」とかで使われそうな通俗味がある。溝口には、もっと力強してぬけぬけとした人間肯定のほうがあっていると思う。
ただ、ひとつハッとするシーンが。男が病で倒れた田中絹代の寝姿を見て欲情するが、懸命にこらえて、田中から離れて後ろ向きに座る。田中が目を覚まして、じっとなんともいえない視線を男に向ける。まるで、自分を襲うのを待っていたのに、なぜしないのかという目で。映画的光景だ。もっとも、その後のストーリーを考えると、私の勝手読みなのかもしれないが。
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2007年07月31日

溝口健二 祇園囃子

ベテラン舞妓の木暮実千代が、若尾文子を育て上げる物語である。まあ、二人ともいいわ。木暮の色っぽいこと、などという歳に自分もなったのだね。
しかし、なんといっても若尾の初々しさ、かわいらしさったらない。若き日のブリジット・バルドーにも負けない。この映画は、1953年、「赤線地帯」は1956年である。赤線地帯では、男を手玉に取る娼婦役だった。たった三年しか違わないのに、若尾は見事に対極的な役を演じきっている。何もセリフを言わなくても、完全にでているオーラが違う。
溝口の追い込むような演出とカメラの魔術ではあるのだろう。例えそうだとしても、やはり女優というのは素晴らしくも恐ろしい生き物だと感じる。
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溝口健二 噂の女

祇園と現代を両方描こうとしている。現代の部分については、あまり溝口の栄誉になる出来とはいえそうもない。だいたい、田中絹代が、祇園の女将で、なおかつ親子ほど年の違う若い男を愛して激しく執着する役というのは、やはりミスキャストだと思う。
但し、祇園の世界の方についてはやっぱり見事だ。
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2007年07月28日

溝口健二 浪花悲歌(なにわエレジー)

恥ずかしながら、初めてみたのだが、すごい映画だ。いきなり自分の中で溝口ナンバーワンになってしまった。
関西弁が、実に効果的だ。コメディ的部分で無類の効果をあげているとともに、妙にイキである。そう、少なくとも「標準語」などより関西弁のほうがよほど美しい言葉なのだ。溝口流に関西弁精髄を引き出すことに成功しているといったところか。
何しろ昔の映画なので、誰がでているかが分かりにくいのだが、クレジットを見ると志村喬がちょい役の刑事で出ていたりする。
しかし、なんといっても若き日の山田五十鈴だ。最初は、父親のために自分を犠牲にする、けなげな若い娘の物語なのかと思って観ていた。見ている人間に完全にそのように思わせる山田の演技だ。ところが、最後の、警察から父親とともに家に帰ったところでの、山田の派手な服を着たまま平気な様子でタバコをふかすシーン。衝撃的である。きわめて映画的なシーンだ。
ほんとうに「女」としての変わりっぷりがすごい。ある意味映画としてのストーリーとしては破綻しているともいえる。しかし、そんなことがどうでもよくなるような、山田のタバコをふかす姿のインパクトだ。
しかし、最後の場面で、橋の上に立ってもの思いにふける。もしかして身投げするのかなと思う。そうなれば「悲歌」として映画は完結だ。ところが、とぼけた医者が出てきると、「私は不良少女ちゅう立派な病気」なのだと、ふっきれたような明るい顔でいう。そして、山田が颯爽と歩くシーンで映画は終わる。
溝口らしい人間肯定といえる。しかし、後期の完成度の高い芸術映画より、はるかに自由で力強く感じる。多分、余計なことを考えずに本当に自分の好きなように撮った映画なのだろう。
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溝口健二 赤線地帯

ドリフの「もしもこんな娼館があったら」といったところか。なんせ、娼婦が、京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子なのだ。こんなの本当にあったら行ってみたいよ、とかいうのは、まあともかくとして。
例によって、溝口らしい、厳しい現実直視と、ユーモアと不思議な明るさと、根底にある人間肯定の映画である。仏教的な「慈悲」といってもよい。何者かを選んで愛して奪うのでなく、美しいものも醜いものも、高貴なものも卑小なものも、全部ひっくるめて許す視線。
黛敏郎の音楽だけは、どんなものかと思うが。
しかし、若尾文子の、ヴェニスの商人シャイロックぶり、悪女ぶりはお見事。あのきれいな顔してやるから、恐ろしいし、おかしいし、説得力ある。京マチ子のアプレゲール(古っ)もよい。父親との深刻な修羅場の後なのに、一言「とんでもないメロドラマやは」もよい。三益が息子に捨てられて、頭がおかしくなって歌いだするシーンも、おかしくも悲しい。なぜか懐かしい安らぎの社会の底辺の市井世界、しかしながらそれは現実のように見えて現実とは関係ない映画ならではの創造世界だ。
溝口的な人間肯定というのは、西欧ではありえない、日本的、というよりは東洋的心のありようなのだと感じる。
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2007年07月27日

溝口健二 西鶴一代女

素直にいい映画だなあ、と思う。溝口の一本は、といわれれば、やっぱり「雨月物語」を出してしまう。本来の溝口らしい作品ではないと分かっていても、あの妖気にはあてられるので。溝口のことなどたぶん本当には分からない外人がほめた映画を是認するのも癪だけど、やっぱりあれはすごいとは思う。
雨月同様、田中絹代が主演だ。NHKのドキュメンタリーによると、これは田中が女優として美しく撮られるのを放棄した意欲作だそうだ。年老いて遊女に落ちぶれ、客に「化け猫」と呼ばれるシーンでは、本当に醜くメイクして溝口にほめられたとか。確かに、完全に女優を捨てている。「ハリウッドに口付けを」で、シャーリー・マクレーンも似たようなことをしていて、やっぱりちょっと感動してしまった。
贋金作りが、金を握り締めて寝ころんで独白するシーン、捕まりかけても、贋金を岡っ引きに渡そうとするシーン。妙に印象に残る。
御所に仕える女が、身分違いの男を愛したために、遊女まで落ちぶれていくという「女の一生」物語である。悲惨な物語なのだが、徹底した無常感に、ある意味心地よくなってしまうという映画だ。そう、溝口も無常がよく分かっている世代の作家だった。などというのは、明らかに最近再びはまっている小林秀雄の影響で、今時小林気取りかよとつっこまれそうだが。
私は、映画については「とってもいい客」だと思う。この映画も、自分でもビックリするくらい素直に見て、素直に感動してしまった。
「それでいいと思う」、ってなんのCMだったっけ。
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2007年07月19日

タルコフスキー  惑星ソラリス

昨日も夜更かしして、約三時間のこの映画を見てしまった。もういい加減にしないといけない。
これはタルコフスキーの中では、わりとはっきりしたストーリーがあるので、一般には一番のお勧めである。但し、こうやって遺作からさかのぼって観てくると、やはり画の深みとかは後期の作品のほうがよりすごいとは思う。もっとも、タルコフスキーで相対的に比較しての話であって、一般と比べれば、これも突出して素晴らしいが。
一日本人としては、未来の道路に首都高の映像が使われていることにふれずにはいられない。確かに首都高というのは異常な道路だ。あの狭くて曲線の多い道路を、多数の車がビュンビュン飛ばしている。特に夜走ったりしていると、別の世界に迷い込んだ錯覚を覚えることすらある。今でもそうなのだから、昔ならなおさらだろう。タルコフスキーもさぞ驚いたと思う。
主人見の意識の物質化の妻のハリーが出てくる。はっきりいって本物の人間よりも、はるかに人間的である。いじらしくて仕方がない。見いてる人間も、全員彼女に恋してしまうだろう。
小林秀雄の有名すぎる言葉。
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分のことにせよ、他人のことにせよ、分かったためしがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。そこにいくと死んでしまった人間というものは大したものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。」
ハリーを見ていると、まさしくそのように感じる。もっとも、ハリーは死んだ人間ではなく、生きても死んでもいない中間的存在なのだが。生きている人間の意識の物質化という絶妙な設定で、タルコフスキーは本当の人間の姿を描きたかったのだろう。現代という時代においては、そういう本当の人間の姿があまりに忘れ去られすぎている。画面上のハリーに恋しながら、そんなことを思った。
最後のシーンにも、タルコフスキーらしいトリックがほどこされている。父親に、変な液体が降りかかるので変だとは思うが、やっぱり最後の俯瞰のシーンでは驚いてしまう。
映画のラストとしては、あれでいいのだろう。しかし、何より大切なのは、主人公が実際に地球に帰還して、同じ行為をすることだ。多分したのだろう。その場合、惑星ソラリスの海でのようには「美しく」はいかないだろう。鼻水を流したり、取り乱したりして、さぞみっともないことだろう。しかし、生きている人間というのは、そもそもそういうものなのだ。ソラリスで人間の本当の姿を再認識することも重要だが、それ以上に大切なのは、もう一度現実に戻ってくることだ。
先ほど紹介した小林秀雄の名言に坂口安吾が「教祖の文学」でかみついた。「死んだ人間よりも、どんになみっともなくても生きいてる人間のほうが余程大切だ」と。その通りである。
私もそろそろタルコフスキーの世界から現実世界煮に帰還しようと思う。
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2007年07月18日

タルコフスキー ストーカー

最近毎日タルコフスキーの映画を見ている。はっきりいって、こんなことをする時は精神状態はあまりよろしくない。完全に現実とは別の世界に浸りたいという気持ちになっているわけだから。日常の仕事にもあまり気持ちが入っていない。まあ、たまにはいいか。
ストーカーといっても、勿論現代日本のストーカーとはまったく関係ない。
何しろ三時間近い映画だ。場合によっては、二日に分けてみてもいいやと思って見出したのだが、完全に画面に目が釘付けになり、最後まで夢中になって見終えた。こんなに面白い映画だったっけ。
モノクロ部分とカラー部分のチェンジがこれだけ効果的な映画は他にあるだろうか。「ベルリン天使の詩」とかもいいけけど、あれ以上だ。
妙に印象に残るのは、ラスト近くのストーカーの書棚。質素この上ない部屋の中には完全に場違いなすごい本の山。あれがストーカーの「精神」なのだ。
最後のあたりのシーン、結構タルコフスキーは観る者の心を、いいように操るね。子供の脚が写る。見るものは「もしや」と思う。そして子供が歩いているような画、但し上半身だけ。興奮しかけたら、父親が肩車してらあ。「なんだよーー。」、完全にタルコフスキーの思うがままだ。
と思って安心しかけたら、あのラスト。カラーになったので、変だとは思うが、でもあれには驚くよねえ。また、画が美しいというかなんというか、すごいこと。完全に降参である。
昨日、あまりタルコフスキーについては、言葉でタルコフスキー的精神主義について、つべこべ語るべきではないとか書いた。舌の根の乾かないうちになんだが、このストーカーは、どうしても語りたくなってしまう映画なのだ。別に誰に迷惑かけるわけでもないので、語ってしまおう。
ストーカーと作家と科学者のトリオ。一見タルコフスキーは、ストーカーに肩入れしているようにも取れる。しかし、勿論違う。作家も科学者もストーカーも、タルコフスキに属する一部分である。自分に属しながらも対立する三者に討論させているのだ。おそらく、タルコフスキーの中で一番強い部分を占めているのは「作家」の部分だろう。勿論、タルコフスキー個人の問題と捉えなくてもいい。宗教的精神、人文的精神、科学的精神の対話ととってもよい。
「ゾーン」は、そこを通る者の心の反映である。内部の心の外部への反映というのは、「惑星ソラリス」でもあったタルコフスキー的反復主題である。タルコフスキー映画は、外部の世界は「私」の心が決めるという「観念論」「唯識的世界観」の流れの一派である。
また「ゾーン」の旅は、フリーメーソン流試練の場とも言える。メーソン会員だったモーツアルトが「魔笛」で一部ばらしたような。そういえば、ベルイマンが撮った「魔笛」の映像。あれは、ベルイマンにはピッタリの素材である。
「ゾーン」の長い旅を終えて「部屋」の前に到着する。その部屋に入れば、自分の望みが何でもかなう。あそこでの「作家」の発言がきわめて重要だ。
「『部屋』に入った人間の望む幸福は『意識的』なものではなく『無意識』の願いである。だから、自分の隠れた心の望みが噴出する。本当の意味では幸福にはなれない。だから自分は『部屋』に入らない。」
ストーカーは、そんなことはないといって必死に反論するが、作家は部屋に入って首をつったストーカーの例をとって反論する。そのストーカーは、大金持ちになったのだが、しばらくして首をつったのだ。
現代人の心の本質的特徴は「意識」と「無意識」の激しい乖離である。意識的にはどんなに立派であろうとしていても、無意識の部分は荒んでいて弱点だらけだ。多くの人間がその事実から目をそむけているが、真剣に自己認識をしようと努力した人間ほど、そのことに気づいて絶望する。
「ゾーン」の「トンネル」は、人間の本性をあらわにする恐ろしい存在だ。ダメな人間は押しつぶされて破壊されてしまう。この「作家」は、外見上はどうしようもないヤツだが、心の底から自分に絶望している。だから、トンネルの通過を許された。
無意識の弱点を知悉した「作家」が「部屋」にはいるのを拒否するのは当然だ。自分の「望み」がまったく高邁なものではないことを厳しく自覚しているから。「部屋」に入ってしまったら、普段押しこめている「無意識」の恐ろしい欲望が噴出するだろうから。
これが恐らくタルコフスキーの考えていることで、それを「作家」に代弁させたのだ。タルコフスキー自身、激しい懐疑にさいなまれながら、ストーカー=宗教者にあこがれる人間だったのだと思う。そういう緊張があるから、タルコフスキーの映画はお気楽な「宗教映画」に堕さないのだ。
では、タルコフスキーは「懐疑」で終わった人か?
あのラストが、それへの反駁と答え、というよりは彼の「希望」なのだろう。
純粋な心をもつストーカー=宗教者の、足のない娘が特別な能力を持つ。もし「無意識」が汚されてさえなければ「部屋」に入れば、人間は本当に幸福になれるのだ。
あのラストは、彼の懐疑主義精神が、かろうじて託す宗教的信仰告白、希望なのだ。恐らくタルコフスキー自身には、実際に「部屋」にはいることが不可能なのだと知りつつも。
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2007年07月17日

タルコフスキー ノスタルジア

基本的には、映画を映画館ではなく家でビデオで見ることのほうが圧倒的に多い。このノスタルジアは、映画館でしかもロードショー、といってもタルコフスキーなので確か一箇所だったか、で観た。
パンフに、武満徹と蓮実重彦の対談がのっていた。以前「タルコフスキーは音楽だ」と書いて、自分の意見だと錯覚していたが、そもそも多分武満がそういう意味のことを言っていたのを今思い出した。このノスタルジア、一番個人的には好きな「音楽」である。内向的すぎず、テーマやストーリーにもとらわれすぎず、本当に深々とした透明で静謐な音楽だ。
さすがに蓮実は、カメラや技術のことを抜け目なく述べていた。冒頭の、車が左から走ってきて右に見切れて、また画面に入ってくるシーン。アンドレイが旅立とうとして、建物の間を歩いてくるシーン。焼身自殺をして銅像から転げ落ちる部分のとり方。最後のあの忘れがたいシーンの雪の降らし方。まあ、私は全くそういうところに気づかない人なので勉強にはなる。
タルコフスキーを見て、精神主義的に語ったりするのは退屈だ。そういう見方をしたら、本当につまらない映画だとは思う。かといってタルコフスキー的テーマをすっかり捨象して、単に純粋に映画として評価するというのにも違和感を覚える。蓮実が高く評価するくらいだから、そういう見方にも耐えうるレベルの映画なのだろう。しかし、言葉で安っぽく語るのをストイックに我慢しつつも、イメージとしてはタルコフスキーの精神主義的テーマを真っ向から素直に受け入れたいなどと考える。「映画作品」として鑑賞するのを断固避けたいフィルムなのだ。少なくても個人的にはそうである。
とにかく、このノスタルジアはイメージの質がシンプルかつ明快である。単に外部のものを写したのではない、心の奥底に確固として存在するイメージの純粋な原型を、外側に映像としてフィルムに定着することに成功している。妙な連想だが、好きな「ゴダールのリア王」とか「ゴダールのマリア」にも、そういうイメージのゆるぎない確かさがあると思う。全く、撮り方もテーマも感受性も違う監督なのだが。ゴダールについて語るのは到底私には無理だが、この二本だけは個人的には完全に「分かって」しまったのだ。
酔っ払って水の中に立って語ったり、寝そべるあたりのシーンが一番好きだ。あの水の輝きとか、少女の配置とか、酒のコップと燃えかけの本、全てが完璧である。
とか書いていると自分の言葉もあまりの貧しさにヘドが出る。もうやめよう。
それにしても、あの女優の圧倒的な存在感と造形性。あんな「いーーい女」、志ん生を真似るなら、何もそんなに力むこたぁないんですが、誘っているのを断っちゃうなんてね、なんていうのは、どうでもいいことで、タルコフスキーらしからぬ話題ですが。
この映画は、わざわざビデオを買ってまでして改めて見たのだが、表紙にのっているこの女優が池のほとりか何かに座っている写真も、なぜか忘れがたかった。あれはカットされたシーンか何かだったのだろうか。
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2007年07月15日

タルコフスキー 鏡

タルコフスキーは、作品数が極端に少ないので、昔一通り全て観た。最近シネフィルイマジカで一挙放映したのを録画しといたのを改めて観たりしている。
鏡、一番不思議な作品だ。もっとも批評や分析を拒否している。深層意識に訴えかける力のもっとも強い映画だ、今回改めてそう思った。小屋の燃えるシーン、あそこの火はもう普通の火じゃない。物質の火ではない四大とかの類だ。スリラー映画を見ているようでもある。すこし怖い。原爆のシーンもああいう挿入のされ方をされると、本当にいけないものだったのだと心の底から実感できる。
しかし、マリア役の女優、私はムチャクチャタイプなのだ、ってタルコフスキーを書いてこんな締め方かよ。
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2007年07月10日

タルコフスキー・ファイル・イン・サクリファイス

昔、サクリファイス本編を見る前に、このドキュメンタリー映画を見た。えらく興奮して、その期待が高すぎて、サクリファイスは、タルコフスキーの他作と比べてそれほど印象に残らなかった。今回改めてサクリファイスを見てとても面白かったので、このドキュメンタリーも見直してみたら・・、やっぱりえらく興奮してしまった。

タルコフスキーが映画について語っている。あまりに素朴で精神的で直接的過ぎる。理論とさへもいえない。しかしタルコフスキーの魅力とは、つまるところ現代的な洗練とは程遠いところだ。ベルイマンにだって、もっと演出家としての冷静さもあるし、娯楽的作品だってある。アンゲロプロスだって、政治的アイロニー、現実との関わりも大きいし、「インテリ」だ。しかし、タルコフスキーの場合、ほとんど現実は無視されている。「別の世界」にしか興味がない。ソ連時代にも彼が生きることができた理由でもある。

フィルムに時間を完璧な形で定着する、そのフィルムにこそ、現実ではゴタゴタしたした頼りない人間が本当に生きる姿の真実がある。自信満々に語る。まるで小林秀雄の「生きてる人間なんてどうしようもないものだな」だ。タルコフスキー以外の人間が言ったら多分笑われるだろう。しかし、彼の映画がこの発言をしっかり裏づけしてしまっているのだ。

装飾、その他の細部のディテールに徹底的にこだわる人だったらしい。サクリファイスでも、さくらの枝の色が気に入らず、撤去させた場面が写されている。エネルギッシュなやせたヒゲの男が、全てにかかわり自分で決めようと戦い、奔走している姿が映っている。

映画の「コンセプト」を考えるのはそう難しくはないそうだ。それを、フィルムに定着させる作業のほうが大変だと。常に妥協が生まれる危険があるのだと。ヒッチコックも、似たようなタイプの作家だったらしい。完全に頭の中に画は出来上がっていて、あとはそれを現実に撮る退屈に作業だけ。無論そうでないタイプの作家にも優れたのはいくらでもいるだろう。しかし、私が好きなタイプはタルコフスキーのようなタイプだ。元からは自分の中で強固なイメージが出来上がっている人間の映画。

役者にも、技術的な演技は求めない。サクリファイスでも、アレクサンドリアの妻が、核戦争勃発に錯乱するシーンがある。すごい迫力で、誰でも忘れられないだろう。全く技術的な演出などしていない。そういう状態に役者を追い込むために、下手な指導などつけない。追い込まれた役者は、ああいうすごい演技とはいえない演技をする羽目になる。

前回、サクリファイスは「狂言」ではないかと書いた。このドキュメンタリーを見ると、どう考えても違う。タルコフスキーは大真面目なのだ。あまりに真面目で真剣なものは、えてしておかしみを誘うものである。たとえば、黒澤の「生きる」、あれも極端に真剣な映画なのだが、それをコメディとして観ることが可能だということを、マルセ太郎が一人芝居で証明していた。「狂言」というのは、タルコフスキーの意図からすればはっきり間違いだが、そういう観方も可能なのだと強弁しておこう。

もっとも、タルコフスキーの場合、完全にイディアの世界のみに恋焦がれる作家ではない。他の作家とはまったく別のレベルではあるが「現実感覚」も存在する。サクリファイスでも、アレクサンドリアが、魔女のマリヤと寝ることで世界を救う、と思い込む。眠りから覚める。世界は平穏だ。しかし子供がいない。世界を救った罰に、同時存在する別空間に移されてしまったのだ。そう思もいこんで錯乱して、家に火をつける。マリヤも静かに見ている。怖いシーンである。
しかし、ラストで、ちゃんと子供が木の下にいらあ。オチはついている。タルコフスキーの、アイロニーというべきか、ユーモアというべきか。とにかく、単なる「夢見る人」ではないのだ。現実に対する態度も、別世界に対する態度も両義的なのだ。

なんと言ってもラストシーンが印象的だ。映画らしいラストだ。妙な連想だが、スピルバーグの「激突」や「続・激突」を思い出した。あれもラストらしいラストだ。現在のスピルバーグはともかく、かつての彼には確かに「イマジネーション」があった。題材がトラックが人を追い回す映画だろうがなんだろうが、そのイマジネーションの強度には疑う余地がない。

タルコフスキーはいう、「魂は永続的である。」言いきっちゃっている。だからその勢いに乗って、私もこう言ってしまおう。魂の永続を信じられない人間など、タルコフスキーの映画を見ても何の意味もないのだ。

なんて、言いきっちゃってよい訳ないし、私には何の信仰も一切ないのだが、とにかくタルコフスキーはそういう人で、タルコフスキーの映画はそういう映画なのだ。
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2007年07月06日

タルコフスキーのサクリファイス

今日は俗世間のことに関わりたくないといった気分だったので、サクリファイスを録画しといたのをずっと見ていた。
本当に好きな作家は、ベルイマン、アンゲロプロス、そしてタルコフスキーである。
でも150分はさすがに長い。別に息を呑む展開とかあるわけじゃないし、退屈してしまう。まあ、タルコフスキーは基本的に音楽だと思っているんだけどね。
ところが、途中のマリアが魔女だって言うくだりあたりから、なんだかおかしくなってきた。自転車で転ぶシーンではついに噴き出した。そのあとのマリアとのシーンとか、最後の火事の場面とか結構笑ってしまったよ。
この映画の正しい見方とか全然知らないけど、もしかして「狂言」なの?すごく高級な。
しかし、あの絵の深みだけはやっぱりね。冒頭の、木のシーンだけでもうお腹いっぱいである。臆面なくマタイを音楽に使うのも、タルコフスキーでなければたぶん滑稽だろう。
タルコフスキーは、いつもそうだけど、結構退屈したりしながら見るのだけど、あとに残る余韻やイメージの残像が強烈だ。見ている時よりも見たあとに思い出しているときが幸せだという種類の映画だ。
とにかく「狂言」という見方が許されるのなら、タルコフスキーのベストワンにおしたくなった。ほかに好きなのは、惑星ソラリスとかストーカー、これらは絶対に狂言とはいえない。そう考えると好きなノスタルジアにも結構狂言っぽい要素もあるよなあと思った。
posted by rukert | Comment(5) | TrackBack(0) | 映画

2007年07月02日

好きな映画100本

別に映画通とかじゃないし、みた絶対数もたいしたことないんだけど、とにかくこれだけ頑張ってみたんだぞという報告で。なるほど、一行コメントつけようとしたけど、ロクなこと書けないね。リストだけにしとこう。順番は適当です。


グリフィス「散りゆく花」

ヴィーネ「カリガリ博士」

ムルナウ「吸血鬼 ノスフェラトゥ」

シュトロハイム「愚かなる妻」

エイゼンシュタイン「戦艦ポチョムキン」

キートン「キートンの大列車強盗」

ラング「ドクトル・マブゼ」

ラング「メトロポリス」

ラング「M」

ベルイマン「鏡の中にあるごとく」

ベルイマン「夜の儀式」

ベルイマン「秋のソナタ」

ベルイマン「ある結婚の風景」

ベルイマン「夢の中の人生」

ヒッチコック「レベッカ」

ヒッチコック「ハリーの災難」

ヒッチコック「マーニー」

ロッセン「ハスラー」

キューブリック「現金に体をはれ」

キューブリック「博士の異常な愛情」

フェリーニ「カビリアの夜」

フェリーニ「道」

ヴィスコンティ「若者たちの全て」

ヴィスコンティ「ルートヴィッヒ」

コスタ=カブラス「Z」

コスタ=カブラス「告白」

コスタ=カブラス「戒厳令」

ゴダール「ゴダールのリア王」

ゴダール「ゴダールのマリア」

トリュフォー「暗くなるまでこの恋を」

ルルーシュ「男と女」

クレマン「雨の訪問者」

ブリエ「料理は冷たくして」

モリナロ「殺し屋とセールスマン」

ブニュエル「ブルジョワジーのひそかな愉しみ」

ワイダ「灰とダイヤモンド」

ワイダ「大理石の男」

カヴァレロヴィチ「尼僧ヨアンナ」

カヴァレロヴィチ「夜行列車」

キアロスタミ「桜桃の味」

リード「第三の男」

チャップリン「ライム・ライト」

チャップリン「独裁者」

「我輩はカモである」マルクスブラザーズ

キャプラ「ある夜の出来事」

キャプラ「我が家の楽園」

キャプラ「群集」

カザン「波止場」

クルーゾー「悪魔のような女」

リーン「アラビアのロレンス」

ウェルズ「フェイク」

タルコフスキー「惑星ソラリス」

タルコフスキー「ノスタルジア」

タルコフスキー「ストーカー」

アンゲロ゜フロス「シテール島への船出」

エイゼンシュタイン「イワン雷帝」

エリセ「ミツバチのささやき」

エリセ「エル・スール」

小津「麦秋」

小津「彼岸花」

小津「秋日和」

黒澤「白痴」

黒澤「椿三十郎」

黒澤「生きる」

黒澤「赤ひげ」

成瀬「驟雨」

成瀬「めし」

溝口「雨月物語」

木下「喜びも悲しみも幾年月」

「青い山脈」原節子

森田「の・ようなもの」

森田「ときめきに死す」

森田「キッチン」

寺山「田園に死す」

大島「戦場のメリークリスマス」

スピルバーク「激突!」

スピルバーグ「ジョーズ」

エドワーズ「ピンクパンサーシリーズ全作」Pセラーズ

「マダム・グルニエのパリ開放作戦」P・セラーズ

アシュビー「チャンス」P・セラーズ

アシュビー「帰還」

ミラー「愛すれど心哀しく」

ジェイソン「夜の大捜査線」

「ミッドナイトラン」デニーロ

「プリティウーマン」ジュリア・ロバーツ

「ミスター・アーサー」ライザ・ミネリ

ポランスキー「チャイナタウン」

ジャームッシュ「ストレンジャー・ザン・パラダイス」

「ハリウッドに口づけを」メリル・ストリーブ、シャーリー・マクレーン

デニス・ホッパー「イージー・ライダー」

スミス「ドグマ」

スタローン「ロッキー」

「メジャー・リーグ1」

カサベテス「グロリア」

「私がウォシャウスキー」キャサリーン・ターナー

リンク「ビヨンド・サイレンス」

フォアマン「アマデウス」

コーエン「ファーゴ」

男はつらいよ全48作


うーん、やっぱり一日でするのは無理だ。疲れた。忘れている映画もいっぱいあるだろうなあ。

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