2011年01月05日

小津安二郎「東京物語」雑感



先日、TSUTAYAで中古の小津安二郎ボックスをみつけて衝動買いした。収録されているのは、どれも何度も見たことがある名作なのだが、好きな時にすぐ引っ張り出して観ることが出来るのはありがたい。正月にまとめて何本もみて懐かしかった。

付録特典DVRに、ヴィム・ヴェンダースのインタビューが入っている。小津映画の美意識について語るのかと思いきや、小津映画の家族について熱く語っている。小津映画に登場する家族は美しく、ある種家族の理想形だとか何とか。正直、本気かよと思った。日本人が小津映画の家族を観る目はもっとクールだろう。ある時代にはそういう家族もあったけど、基本時には美化したフィクションであり、小津も何かテーマが必要なので家族の物語をもってきただけで、それを描き出す小津の美意識、様式観があくまで肝なのではないかと。
しかし、ヴェンダースの熱弁を聞いていて、確かに小津映画の「家族」というのは確かにありえないがそうあるべき家族の姿を描き出しているのかもしれないと思い始めた。日本の家族だって、現実は勿論あんなに超俗的な美しいものじゃない。しかし、現実の家族の醜さを描き出すという手法などくだらないとも思う。現実の家族の真実が、放っておいてもにきついものなのにわざわざそれを映画にするまでもあるまい。だから、ありえない普通の家族を描き出すのがよろしいという小津の達観した視点。
そもそも、小津自身が終生自分の家族を持たなかった人だった。だから、小津映画の家族というのは小津自身にとっても憧れの存在なのだろう。ヴェンダースのような外国人がどう思っているのかは知らないが、あれは一種の家族の昇化した理念形なのであって、現実にはないが本来そうあるべきイディアなのだ。だから、小津の通俗的な部分を一切排した芸術的な思考が、その題材に合致するのだ。けっして、小津には現実の歴史ものなど撮れないだろう。

だいたい、小津安二郎の「普通の」家族に登場する俳優が全然普通じゃない。そもそも、原節子や笠智衆が出てくるのだ。この「東京物語」の原節子は彼女の代表作といってもよいある典型的な姿を表現している。心優しくて清らかで美しいごく普通の娘。そして、原節子は見事にそれに成りきっているわけだが、勿論原節子は全然「普通の」存在じゃない。だいたい外見やスタイルからして日本人離れしている。同時代の西欧古典映画に登場してもそんなに違和感はないだろう。原節子は本来日本かなんかに生まれるはずじゃなかったのに、小津や成瀬や黒澤など黄金期の日本映画に出演するために、間違えてあるいは敢えて日本に生まれてきた存在のように思える。
原節子のこの「東京物語」の役と一番対照的なのは、黒澤明の「白痴」におけるナターシャだろう。原節子は、あの難しい役を見事に演じきっている。心に憎悪と悲しみとと愛を抱え込む「普通」とは対極のこの人物を黒澤が徹底的な表現主義的な手法で演出しているのだが、それに原は過剰な演技で見事に応えている。原節子自身も内部に異常な過剰な何かを抱えている存在だったはずである。だからこそ、「東京物語」の紀子のような普通そのものの存在になりきれるのだ。小津にも同じことが言える。「東京物語」は全く普通ではない人達がつくった普通な家族の物語なのである。

脇役では、例えば小津映画の常連の三宅邦子なども印象的だ。「麦秋」でも「東京物語」でも原節子の義姉役として登場するのだが、やはり彼女もどこか日本人離れしたところのある役者である。やはり古典のドイツ映画にでも出てきそうな容貌と雰囲気を湛えていて、個人的に小津ガールズの中でも好きな女優だ。特に「麦秋」ラスト近くでの原節子と二人の海岸のシーンは―敢えてこの表現を使うが―エロティックですらある。小津映画に常に起こることだが、日常的なシーンにふと侵入する得体の知れないものがでている。そして、そういうものを表現するには、原節子や三宅邦子がごくごく普通の家族の一員として生活していなければ「ならない」のだ。小津映画の必然性である。

改めて「東京物語」をみると本当に美しい映画だ。そもそも、私は「東京物語」をそんなに買っていなかった。むしろ、モノクロ時代では「麦秋」の方がはるかに好きだった。ああいうコメディタッチが小津の本領で、悟り済ましたような「東京物語」は小津本来のものではないと。例えば「東京暮色」はトラジディを描こうとして失敗している作品で、結果的には最大のコメディのよゆうに仕上がってしまっている。小津に悲劇は似合わない。しかし、「東京物語」を改めてみてその美しさに素直に感嘆してしまった。それは、この作品が悲劇だからではないからだろう。
実はこの作品は、笠智衆と東山千栄子の老夫婦が東京で居場所がなくて放浪する物語である。その一種の切なさと無常感が小津独特の美意識の映像と実によくマッチしているのだ。家族の物語というよりは、二人の老夫婦が世界から外れた場所で意味なく漂う物語なのである。基本的に小津にはコメディが似合うという考え方に変りはないのだが、偶然テーマが小津的な感性にピッタリと合致したとでもいうか。「東京物語」は、よく思われているように小津の典型的な家族の物語なのではなく、例外的な非家族の物語なのである。そして、笠智衆と東山千栄子の姿は、世間からどこか寂しく離れた位置にある小津安二郎の姿そのままなのだろう。だから、この物語はむここまでリアルで切実なのだ。笠智衆が物干しで佇む姿や二人が公園で座っているシーンの寂しさと美しさ。

しかし、小津映画ついては各シーンの構図美について語らないと仕方ないだろう。そして、それが一番文章化するのが難しい部分だ。言い出したらきりがない。映画を観るしかない。私が改めて感嘆したのは、例えば、東山千栄子が死んで笠智衆が朝の海の前に立つところに後姿の原節子が駆け寄っていくシーン、笠智衆と東山千栄子が電気の消えた二階の部屋で静かに佇むシーン。
そして、前述したテーマとの関連で、笠智衆と東山千栄子が絡むシーンは、全て例外なく詩的で美しい。
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2009年08月27日

映画カメラマン・宮川一夫・没後10年世界がみとめた映像の技(NHK)

NHKのBSで宮川一夫の特集番組を見た。
黒澤明の「羅生門」は、鮮烈な映像美が忘れがたいが、あれは照明に何枚も鏡を用いた手法によるそうだ。今では当たり前だが、それを宮川が始め、「森の中に初めてカメラが入った」と言われたそうである。
溝口は、宮川のことを信頼して、ほとんどカメラを覗かずに一任したという。だから「雨月物語」などは、映像自体は本当に宮川がつくりだしたものである。但し、宮川は溝口が場面や演出の意図を徹底的にこだわって言うのを良く聞いて、それをカメラに忠実に活かそうとしたとのこと。
若尾文子が面白い証言をしていた。「赤線地帯」の時に、若尾の演技に溝口は全く満足できず、若尾一人のために他の大女優たちを待たせて撮影が全然進まず、若尾は押入れに閉じこもって死にたいと思いつめたりしたそうである。そんな時、宮川が助け船を出して。若尾にメイクを変えてみようと言って、眉を男のように太くして目も凄くきつい感じにしたそうである。若尾は自分の顔でないように思ったが、それで溝口の演出意図に思い当たったという。あの映画では若尾は男を手玉に取る「かわいい顔をしたしっかり者の悪女」なのだが、完成したフィルムを観ると本当に見事になりきっている。そんな苦労があったのが全然分からないくらいに。私自身、他にも大女優たちが出ている中で、若尾の演技にいたく感心したのである。
「お遊さま」について、シャル・ウィ・ダンスののカメラマンが指摘していたが、主人公は結婚する乙羽信子でなく田中絹代に思いを寄せるのだが、最初のシーンで女性達が田中など4人を含めて歩いてくるのを主人公が遠くから見続けるシーンで、カメラは田中の顔だけが映り乙羽の顔が全く映らないように他の女性の影になるようにし続ける。確かにそうだ。かなり入念な準備と技術が必要だそうで、それは完全に宮川のカメラ技術によるものである。主人公の気持ちを、端的にカメラで表現している。そのように、宮川は溝口の意図を察知して完全主義の作品を共犯して作り上げたのだろう。
小津とは「浮草」のみ組んだ。小津も宮川も「赤」にこだわりがあり、あらゆる場面のアクセサリーに赤が使われている。宮川は子供時代に、金魚鉢に墨を流しこんで、黒と金魚の赤のコントラストに強烈な印象を受けた原体験があるそうで、市川崑の作品で赤と黒の表現を追及したという。
ところで「浮草」は小津らしくない映画である。キャストや大映作品であるせいなのかと思っていたが、宮川カメラであることも関係しているのかもしれない。小津といえばひたすらローアングルだが、宮川はやや俯瞰から撮るのが得意だった。(何でも女優は少し上から取ったほうが、あごの線がくっきりして綺麗に映るとか。宮川は女優たちに美しく撮ってもらえる事で信頼されていたそうである。)「浮草」では、小津映画ではほとんど例外的といってもよい俯瞰ショットがある。勿論、宮川の主張なのだが、小津も宮川も二人とも偉大な芸術家だが、やはり絵に対する感性に本質的に合致しない部分があったのかもしれない。「浮草」は後期小津では個人的にはそんなに好きな作品ではないが、再び観たくなってしまった。
宮川は若い頃に、水墨画を学んだことがあり、それが特に溝口作品にいかされていると言う。「雨月物語」の船のシーンの美しさが象徴的なのだろが、やはり宮川が本当にピッタリあったのは溝口ということになるのだろう。そして、海外で溝口の評価が異常に高い理由も、宮川の白黒の映像美によるものが大きいのだろうと再認識した番組であった。
ちなみに篠田正浩の瀬戸内少年野球団も宮川カメラである。かなり昔にこの映画は見たが、カメラは全く意識しなかった。今日この後BSで録画しておいて観るつもりである。楽しみだ。
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2009年08月25日

映画 ニュールンベルグ裁判



NHKのBSで録画しておいたのを見た。設定はナチに協力したドイツの裁判官など司法関係者をアメリカから選ばれた裁判官が裁くというもの。実際のニュルンベルグ裁判全体を描いているわけでもないし、またそのままの事実とももかなり違うだろう。ニュルンベルグ裁判には、色々批判もあるし、それは戦争国際裁判の性格上やむをえないことである。そういう部分は基本的に描かれておらず、基本的にこの映画は事実にある程度基づいた完全なフィクションと受け取るべきだろう。しかし。題名が堂々と「ニュルンベルグ裁判」となっててしまっているので、そう割り切れない部分があるのだが。
勿論テーマは政治的な問題なのだが、そもそも映画の製作の仕方からして正確に論じるのは無理だ。ナチに協力したが法律家として人格者の評判の高い人間をバート・ランカスターが演じているのだが、やはり現実にはこんな人はいないと思わせてしまう。他も豪華キャストで、歴史上の現実の人間としてのリアルさより、マレーネ・ディートリッヒやモンゴメリー・クリフトという名前の実在感が上回ってしまっている。なおかつ人物描写にも映画特有の人物の単純化が行われていて、要するに現実の歴史を語る映画としての役割は最初から求めるのは、そもそも無理だと思う。
テーマとしては、ナチのような異常な政権下で、司法関係者はどうあるべきか、国民はどう処するべきか、戦勝国側は戦後ドイツに対してどう振舞うべきかといった事が取り上げられているが、残念ながら深いところまでつきつめて考えているとはいえない。名優たちの素晴らしい演技が見れるし、ストーリー的にも飽きさせないし面白く見られるのだが、やはり歴史上の問題を映画が描く限界を感じずにはいられなかった。一応、ナチやその協力者に対する一面的過ぎる図式化や戦勝国側の美化をしていないし、公平であろうと努力しているのはよく分かるのだが。
結局、マレーネ・ディートリッヒの気品と美しさを楽しむといった映画なのだと思う。それでも私としては十分である。
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2009年07月28日

原節子のナスターシャ・フィリポヴナーーードストエフスキーと黒澤明の「白痴」



突然列車の中でうめき声が響き渡る。乗客が一斉に何事かと身構える。森雅之演じるムイシュキン公爵が、悪夢にうなされて目を覚ましたのだ。三船敏郎によるロゴージンが話しかける。そういういかにも映画的なシーンで、黒澤明の「白痴」は始まる。
最近ドストエフスキーの「白痴」を新潮文庫、木村浩訳で読んだ。小林秀雄のドストエフスキー評論を読んで興味がわいたのである。今までこの名作をちゃんと読んだことがなかっのだ。ちなみに黒澤の映画は既に見ていた。
ドストエフスキー自身によると、この小説の狙いは「根本の考えは、無条件に美しい人間を表現しようというところにある。」確かにムイシュキンは美しい人物だ。この作品に対して、小林秀雄も批評しているが、それはこの小説に対する通俗的な解釈を徹底的に拒否しようとする姿勢に貫かれている。ムイシュキンは、単に倫理的な善良性を託された人物ではないと。「作者の描き語ったのは善良性ではない純粋性である。」ムイシュキンは、純粋な人間ではあるが、底知れぬ暗部を内部に抱え込んでいる不気味な人間であり、単なる無知による善人でなく、人間の深い即知れぬ深淵をムイシュキンを通じてドストエフスキーは表現しているのだと。単に理想の善良な人格を見ているだけでは、何も読んだことにはならないと。
一方、黒澤明の「白痴」で森雅之の演じる亀田=ムイシュキンは、もっと分かりやすく「善良」な人間である。黒澤流のヒューマニズムに徹底的に貫かれた作品であり、原節子による那須妙子=ナスターシャも狂ったような激しい攻撃性を発揮しながらも、実は心の優しい人間として描かれている。それは、黒澤の通俗性のなせるわざなのだろうか?
多分そうではない。文学作品の「白痴の正確で深い解釈として、小林秀雄の読みは実に的確である。言語表現として成立した作品としては、当然映像化を拒否する複雑な部分を内包しており、小林の読みは、ひたすらそういう部分を抉り出そうとしているようでもある。
しかし、当たり前だが、文学と映画は全く異質な表現手段である。文学的な深い心理の機微や思想を、映像で表現するのは不可能である。映像化に当たって、多くのものを捨て去る必要がある。実際、黒澤の「白痴」は、文学的見地からすれば、通俗化され希薄化したドストエフスキーに過ぎないかもしれない。そんなことは分かりきったことだ。しかし、大切なのは、それにもかかわらず、黒澤の映画が過剰な何かを明らかに表現していることである。それは、言葉ではない具象的な生々しいイメージが喚起するものに他ならない。文学的なものを大胆に捨象してしまっているかわりに、ほとんど暴力的なまでに突き刺さってくるイメージの力に圧倒されるのである。黒澤の行為は、ドストエフスキーの文学性の否定であると同時に、その精神的本質をちゃんと把握した再創造行為である。表現しているものは、原作とは全く異なるにもかかわらず、明らかに両者は深いところでつながっている。
何より圧倒的なのは、原節子のナスターシャである。ナスターシャは、原作においてほとんど狂気の人間として描かれている。先述したように、黒澤の演出は、彼女にも人間らしさを設定していて甘いのだが、原節子の演技は、黒沢の演出意図を,軽々と乗り越えて、あるいは踏みにじって、原作のイメージに完全に忠実という印象を受ける。原の演技には、映画的な甘さが全く無いのだ。演技しているというよりは、ナスターシャそのものに完全になりきっている。
最初に、那須妙子=原節子の写真が肖像画として映画にでて来るのだが、その原の「目」は尋常ではない。本当に恐ろしい。亀田欽司=亀田欽司は、すぐに彼女の底知れぬ苦悩を一目で直感して見抜く。その後登場する原節子の目の恐ろしさ、迫力は
言葉では表現しがたいくらい凄まじいものである。心底自分に絶望し、自暴自棄になった人間の狂気が、それ以上ありえないような形で原節子によって形象化されているのだ。
原節子と言えば、小津安二郎の「東京物語」での、優しい娘のイメージが定番である。この「白痴」での演技は、その対極である。なぜ、同じ役者が、これだけ違う役柄を完璧に演じ分けることができるのだろうかというくらいに。そして、恐らくそのどちらのイメージも偽りではない。「東京物語」の心の美しい娘も、「白痴」の狂気の女も、どちらも極端すぎて現実的な存在ではない。原節子というのは、おそらく我々が考えている以上に、凄い役者だったのだろう。彼女の中には、ドストエフスキーのムイシュキンに小林秀雄がよみとったような、人間の心の底に垣間見える深淵が潜んでいる。単原はなる「善良」とか「狂気」と言った一面性では言い尽くせない何物かを表現する幅の広さのある得体の知れな役者なのだ。この「白痴」を見ていて、そういう妄想にとらわれずにはいられなかった。ドストエフスキーの文学による言語表現と、黒澤による映像によるイメージ表現が全く異質なものでありながら、本質的なところで表現しえない得体の知れないものを表現することを指向していると点でつなかっている。そして、原節子の過剰な演技が、黒澤の意図さえ超えて、そういう何かを表現していると思う。
この映画について、語りだしたらキリが無い。原節子だけでなく、森も三船も本当に素晴らしい。ラストのシーンで、小説でムイシュキンがナスターシャを殺害したロゴージンの頭やほっぺたを子供に対する様になでる恐ろしいシーンがあるのだが、その場面でのイメージは、最高の成功例の一つだろう。
また、ドストエフスキーの名文句「女が女を理解した。」という激しく憎みあう原節子=ナスターシャと久我美子=アグラーヤが対決するシーンも、ドストエフスキーの小説のイメージ再創造に成功していると思う。ここでの、原節子は、本当に身の毛がよだつほど恐ろしいのである。
千秋実によるガーニャの癖のある小心者の卑劣さも見事だ。さらにもうひとつ、キャスティングとして、黒澤のユーモアのセンスを感じるのは、レーベジェフに左左卜全を起用していることだろう。レーベジェフは、原作では道化的ながら性格上で重要な役割りなのだが、それは黒澤は左卜全によって、純粋な笑いに変換して見せた。これも、一種の見事な再創造行為と言えるのだろうか?
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2009年03月20日

新藤兼人「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」



溝口健二の映画、人間についての膨大な証言をあつめたドキュメンタリー風フィルム。とにかく、徹底的に調査取材を行っている。インタビューに登場するのも、田中絹代、山田五十鈴、京マチ子、木暮実千代、若尾文子、香川京子、入江たか子、浦辺粂子といった女優たち。さらに、進藤英太郎、小沢栄太郎、宮川一夫、依田義賢、永田雅一、川口松太郎という具合である。彼らがし実際に話すのを見ることが出来るだけで、もう十分なくらいだ。
私はこれを見て、溝口作品を全て見たくなったのである。
溝口は、人間的には人格円満というタイプではなく、良いところもあれば欠点もあるというタイプだったようである。新藤は、基本的には溝口のそういう人間味を温かく見守り肯定しようという立場である。そもそも溝口映画というのが゛、弱い欠点だらけの人間に対して深いところで優しい目を注いでいるという種類の映画だった。
但し、現実問題として、迷惑をこうむった人間も多い。例えば、入江たか子は「楊貴妃」に撮影途中で降ろされていて、この映画の中でも入江本人がその経緯について語っている。女優にとって、途中で降ろされるというのは致命的なことである。映画を撮ることに夢中になるとそういうことも平気でしてしまう人だった。また、その楊貴妃に出ることになった京マチ子も、あまりに厳しい演出のためもう溝口映画には出たくないと思ったと証言している。若尾文子も「赤線地帯」の時に色々言われてついには「顔が悪い」とまで言われたそうである。大監督だと思って皆我慢していたのだろうが、女優たちが当時のことを思い出したのか、柔らかい口調ながら憤懣を語っているのが面白い。
溝口自身の生涯についても、追っている。若い時に売春婦に情痴騒ぎで切りつけられたこともあるそうで、その他にももやはり色々「女性を愛した」人のようである。そうでなければ、ああいう男女の関係の描き方をするのは不可能だろう。
とにかく、撮影に対する熱心さと集中力は凄かったようである。俳優たちの証言からも、彼らをギリギリまで追い込む演習方法が伝わってくる。また、集中がそがれるのが厭で、現場に尿瓶を持ち込んで決して撮影場から離れなかったそうである。
田中絹代が「雨月物語」の、あの森雅之とのラストシーンについて語っている。難しいシーンだが、森も田中も会心の演技をして、田中もクタクタ、森も普段はタバコも吸わないのに、その時ばかりは極度の緊張から開放されたのか、タバコを要求した。そして、火をつけようとしたがうまくいかなかったのだが、溝口がすかさず駆け寄って、ライターを差し出したそうである。普段は役者には絶対そんなことをしないのに。しかも、その表情というのが、今まで見たことがないような、いとも満足という表情だったという。本当に命がけで良い映画をとることだけ考えていた溝口と、それに応えた森や田中という名優たちの雰囲気が伝わってくる話である。
このドキュメンタリー映画を見ていると、結局溝口は映画をつくることだけ考えて生きた人間であること、人間的には色々欠点もあったが、そういうものが全て映画をつくるために収斂された人生だったと、自然に納得する。とても優れた作品だと思う。
ちなみに、溝口は田中絹代のことをリアルで恋していたらしい。決して実際に告白するようなことはなかったが。周りのスタッフは、皆気がついていたらしい。新藤は田中にそのことについて聞いている。その場面では、新藤もどうしても言いたかったのか、かなり執拗に田中に迫っている。しかし、田中の基本的な答えは単純明快である。監督としては心から尊敬していたが、一個人としては愛する対象ではなかったと。
こんなフィルムのでまで、田中に振られているのが溝口らしいともいえるだろう。
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2009年03月17日

溝口健二「新平家物語」



晩年の溝口は。「楊貴妃」といい、この作品といい、本来彼には合わない作品を撮らされていた。巨匠になったので、大作、力作をということなのだろうが、そういうのが溝口の性に合わないのはやや不幸だった。
映画が、尻切れトンボな終わり方をすると思ったら、これはシリーズ第一作で、別の監督で第二、゛第三作が撮られて、一応完結しているらしい。
とはいえ、映画自体はとても面白い。テーマが溝口的な男女の愛の世界でないことと関係なく、やはり溝口的に徹底して色々なものを追い込んで作り上げた形跡がありありで、とてつもない勢いがあるので、すっかり見入ってしまうのである。
市川雷蔵の平清盛も存在感は抜群だし、大矢市次郎の平忠盛も渋い。比叡山延暦寺の僧兵たちの圧倒的な数と迫力。清盛と僧兵たちの対決シーンは、やはり息を呑んでしまう。溝口には歴史者の大作を生き生きと撮る能力も十分あることを証明していると思う。溝口映画では、常に気になる存在の進藤英太郎は清盛を支えるしたたかだが人間味もある商人の伴卜役。彼がとんでもない悪役でないと、ちょっとホッとしてしまう。
宮川一夫のカメラは素晴らしく、特に屋外の情景にはほれぼれするくらい美しいシーンがいくつもある。
清盛と久我美子の妻時子の愛は、青春らしい爽やかなもので、溝口らしいものではない。むしろ、この映画で一番溝口らしさが出ているのは、清盛が忠盛の実子ではなく、白川上皇の隠し子であり、木暮実千代 が演じる清盛の母、泰子が白拍子時代にもうけた子で、それを清盛が知るあたりの心理ドラマである。そして、清盛と母との愛憎劇。
木暮実千代は「祇園囃子」では、健気な芸者役だったが、ここでは憎憎しいくらいの、男を愛することだけ考えている我儘な女性になりきっている。その存在感とか、まあなんですわ、現代風に言うならば熟女の濃厚な色気はものすごい。しかし、溝口は決してそういう女性を決して侮蔑したり否定するのではなく、そういう性の女性の業を肯定する、どころか愛してやまないところが感じられる。
白拍子のウィキペディアより。
白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾静御前など貴紳に愛された白拍子も多い。

遊女でありながら芸術的な感覚が洗練され、通常の家族の母にはおさまりえない女性。間違いなく溝口はそういう女性が好みだろう。そして、木暮実千代は、そういう女性の魅力や我儘や性格の弱さや性的牽引力や高貴さと卑俗さの同居といった矛盾する要素を完全に表現しきっている。
この映画で、個人的にもっとも素晴らしいと思うのは彼女だ。木暮実千代による白拍子が主役の映画を作って欲しかったくらいである。
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2009年03月15日

溝口健二「楊貴妃」



正直言って、見る前はあまり期待していなかった。溝口に中国の歴史ものですか、有名になったから名作狙いで一発当てようという魂胆丸見えじゃないですか。溝口の場合、明らかに自分には合わないテーマの作品も結構撮っているので、またそうなのかと思い込んでしまっていた。カメラも宮川一夫ではないし、溝口初のカラー作品でもある。
しかし、全くいい意味で裏切られた。溝口は、玄宗皇帝と楊貴妃の愛の物語を、歴史的史実など完全に無視して、溝口流の男と女の物語に仕立てあげてしまった。素晴らしい天才の力技である。溝口は歴史交渉にもうるさくて、ある女優に厚い歴史の本を渡して、これを読んでおきなさいと言ったとかいうエピソードも残っている。しかし、そういうこだわりがありながら、結局は無視してしまって、自分好みの物語を作ってしまう天才の独断に乾杯。舞台は中国の宮廷だが、ほとんど日本の遊郭の話としてもおかしくない。そもそも、誰も溝口映画に歴史的考証の厳密や精緻など求めていないのだ。もっと他のものを求めている。そして、溝口はそういう期待に見事に応えてくれている。
この映画はそれほど高い評価を受けているわけではないようだ。Amazonのリンクをはろうとしても、単独品がなく全集しかなかったくらいである。しかし、個人的には、とても気に入った。楊貴妃のも物語ではなく、「近松物語」のように見てしまえばよろしい。細かいことなど、一切気にせずに。
森雅之の玄宗皇帝からして、あまりに聖人に性格設定しすぎているだろう。だが、そんなことは気にしないでよい。彼が楊貴妃を愛するという必然性だけ観る者に納得させられるならば。京マチコの楊貴妃が、とても美しくても全然楊貴妃のイメージでなくても一向に構わない。玄宗皇帝を慕う必然性だけ納得させられるならば。溝口が描くのは、男や女の個人としての物語ではなく、あくまで男女の対の物語である。男と女が愛し合った場合に現出する異様でいてしかしリアルな確固たる世界。他者からは伺いしれないが羨望し共感せずにはいられない特別な世界に対する無邪気なまでの徹底的な肯定が根底にある。
長安の町に二人でお忍びで出かけるシーンが素晴らしい。 森雅之が、街の団子か食べる際には、まるで生まれてそれを食べるかのように食べている。そして、京マチ子の楊貴妃が街中で踊る場面の見事なこと。彼女は、たぶん運動神経抜群ですごく敏捷なところがある。
そんなのは歴史的にはありえない、大岡越前が町にお忍びするんじゃあるまいし、という野暮な突っ込みは不要である。二人が、お忍びで町の祭りを心から楽しんで、二人の世界にすっかり浸っている感じがありありと出ていることが何より肝心なのだ。
京マチ子の楊貴妃というのは、もともとのイメージからするとミスキャストなのかもしれないが、そんなことがどうでも良くなるくらい、この映画の中での彼女は活き活きしている、・・ようにフィルムの中では見える。森雅之と同じように観る者は恐らく京マチコに恋してしまううのだ。楊貴妃に対してではなく。
歴史的背景など一切関係なく、森雅之と京マチ子の愛に無邪気に溺れきってしまうこと。この映画を観る者に唯一求められているのは、それだけである。そういう観方をすれば、紛うことなき純然たる溝口作品の姿をしている。
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2009年03月14日

溝口健二「名刀美女丸」



溝口が戦時中に「生活のために作った」映画であり、欠損部分もある。テーマも、親の敵を娘が討つために、そのための日本刀を伝統精神により花柳章太郎の刀工が必死に作るという話。テーマからして溝口に合っているとはいえないし、溝口信奉者でもほめるのはちょっとためらうという映画である。はっきりいって失敗作。
特に、刀を刀工が必死に作ろうとして、精魂尽き果てて倒れそうになるところに、娘役の山田五十鈴,が生霊のように画面に現れて手伝うシーンには、完全に笑ってしまう。C級映画に、時々とんでもないのがあるが、ほとんどそういうレベルである。
山田五十鈴,の出演作では「浪華悲歌」が素晴らしかっただけに残念だが、彼女の若い時というのは確かに素晴らしい。私などは、かなり年齢がいってからの彼女しか知らなかったのでとても新鮮ではある。
冒頭のシーンで、山田と父親が、剣道の稽古をするシーンは良い。面をつけたままの山田のものすごい気合の声、父親が遠慮しないで打ってきなさいといい、実際に思い切り面を入れてしまい父親がクラクラして、心配した山田が面を取るというあたりは、溝口らしさの片鱗を感じる。また、ラストで仇討ちを遂げたシーンで、刀工の花柳章太郎が「一生この刀をあなたの元に置いてください」というと、山田が「あなたも一緒にずっと置いておきたいです」と照れたように言うあたりも、溝口らしい。本当にほめることが出来るのは、それくらいなのだ。
溝口がこういう駄作も平気で作ってしまう監督だったというのも、らしいといえばらしい。よく言われるように、実生活では決して人格円満というタイプではなかったし、完璧な人間でもなかったようなので。
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2009年03月13日

溝口健二「近松物語」



溝口らしい作品ということで、文句のつけようがないだろう。特にどうこう言うべきこともない、見れば分かるという作品である。
長谷川一夫も香川京子も、役者というレベルを軽くこえた存在としてフィルムのなかにおさまっている。役者として演技する作為的な姿勢を捨て去るのではなく、反対に過剰なくらいに役者としての表現を行うことで、逆説的に役者が演じる臭みとかいやらしさというものが完全になくなってしまっている。それが溝口の演出方法である。
船で心中しようとして、茂平が死ぬ前にかねてからおさんにいだいていた思いを告白すると、おさんは怒ったような顔をする。茂平が謝ると、それを聞いたらもう死ねない、生きていたいといって、茂平に体ごとすがりつく。とっておきの名シーンである。ストレートで全く余計な要素のない男女の愛のシーンなのだが、勿論現実ではこういうわけにはいかない。しかし、男女が愛し合うというのはこういうことだという幻想に見る者は完全にとらえられてしまい、それが現実よりも現実らしいのである。我々が生きている現実は、実は本物の現実ではなく、かろうじて映画で誇張して表現することで、なんとか感知することが出来るのだ。
というように妄想が起きるくらい、溝口の撮り方は圧倒的である。二人の名シーンは他にもいくらでもある。
進藤英太郎が、相変わらず徹底した悪役を演じきっている。とんでもない奴なのだが、どこか憎めない男なのだ。実際、最後はもっと悪賢い奴に足元をすくわれる。溝口の場合、本当に悪を憎むというよりは、人間的な弱さや業の肯定というのが根底にあり、そのために進藤英太郎という役者、人間が必要だし、またピッタリなのである。溝口映画において、田中絹代よりも重要な役者なのかもしれない。
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2009年03月07日

溝口健二「武蔵野夫人」



田中絹代演じる武蔵野夫人が、家の名誉のためにわが身を犠牲にして自ら死を選ぶという溝口らしからぬテーマである。大岡昇平の有名な小説が原作で、映画化にあたっては福田恒存が脚本を書いたという。
しかし、そういうテーマとは関係なく、この映画の見所はやはり溝口が描き出す男と女の世界である。田中絹代-秋山道子と彼女よりはるかに若い片山明彦-宮地勉は、ひそかに思いを寄せ合っている。道子は、それを道徳上の観点から必死に抑える。
ある時、部屋で二人きりになって、ソファでお互いの横に座るのだが、勉の手が道子の体に意図せずに触れる。道子はピクッと反応するが何事もなかったように振舞おうとする、それが何度も繰り返され、道子は席を立つと画面奥の窓のところへ歩いていく。勉の表情は若い情熱と情欲を湛えている。いきなり外に雨が降る。道子は「もっと降ればいいのに」という。
雨の降り方もかなり不自然だし、こう文章にすると滑稽に感じるかもしれないが、映像では仮構でありながら現実よりも現実らしい男と女の風景が完璧に描きだされているのだ。理屈抜きの映像の力なのである。こういうのを撮らしたら、本当に溝口の右に出る人はいないだろう。
森雅之も山村聡も、本当に見事としか言いようがない。森は、田中に全く愛情を持っていない夫を性格俳優的なアクの強さで演じきっているし、山村は道楽家で内面性に欠ける事業家に成りきっている。例えば、山村が成瀬の「山の音」で演じた、息子の嫁の原節子を優しくいたわる役とは対極のキャラクターである。おかしいくらい別人に成りきっている。そういえば「山の音」の山村と原の抑圧されたエロティックな関係というのも、溝口とはまた違った成瀬の男と女の世界だった。
田中が自殺する覚悟を決めているのを映画を見ている人間が分かっている状況で、森が酔って家に帰ってくるシーンの撮り方も見事だ。見る者は、当然どういうシーンが出てくるのか予期できているのでハラハラする。森は泥酔していて、ガタガタとやかましく家の中を動き回る。家の中は静寂そのものである。色々な部屋に行くのだが、なかなか何も起こらない。そして、やっと田中の寝室に辿り着き・・。というのは、やはり映画でないと出来ない表現である。
森が人妻の轟夕起子に言い寄ろうとして、甘く見るんじゃないわよと、突き飛ばされて吹っ飛ぶシーンがおかしい。片山明彦もヤケになって、女性を押したおそうとして、安い女と思うんじゃないわよと、やはり吹っ飛ばされる。
溝口はそういうシーンが好きだったのではないだろうか。この映画のテーマなどよりも、そういうところがよほど溝口らしい。
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2009年03月01日

タルコフスキーの「サクリファイス」を再び観て



「鏡」をもう一度見てみたら、とてもよかったので「サクリファイス」も勢い込んで見直したのだが、見ていて当惑が広がっていった。最初見た時と同じで、やはり途中でかなり退屈してきたのだ。私には退屈といわれるタルコフスキー映画に熱中する能力があって、たとえば「ストーカー」などは、ほとんど身じろぎもしないで観終えた。あの映画だって相当長いので、サクリファイスの長さのせいだけでもないだろう。
なぜかを考えていたのだが、たぶん中間部の映像の質のせいではないかと思う。「サクリファイス」の冒頭シーンは文句なく素晴らしい。あの木を植えるシーンとオットーが自転車でこちらに走ってくる構図。光も色彩も全て完璧である。あのシーンだけでも、十分タルコフスキーの名誉といえる。
ただ、アレクサンドルの屋敷の中に入ると、映像の色彩がなんだか脱色された、どこか夢の中のような感じの絵が延々と続く。核戦争が起こったという状況にふさわしいし、あくまでそういう狙いで撮っているのかもしれないが、映像自体にこちらを捕まえておく強い力がないように感じてしまうのだ。もしかすると、それは私の感受性の欠如のせいであって、他の人は違う感じ方をするのかもしれないが。
「ストーカー」は、逆のパターンである。最初の日常世界のシーンは暗いモノクロが続く。それが、「ゾーン」の中に入るとカラーになる。効果的な使い方で、とにかくその圧倒的な映像の力にずっと引きまわされる快感に浸り続けることが出来る。サクリファイスでは逆の印象を受けてしまうのだ。
また、「鏡」のように登場人物が一切余計なことを喋らないというのとも、「サクリファイス」は、全く違うつくりの映画である。アレクサンドルは、草むらに座って現代文明批判をぶつ。ああいうシーンは、当然映画では危険を伴う。せっかくの映像美を人間のつまらない哲学的言辞が台無しにする可能性があるからだ。しかし、それでもタルコフスキーは、そういうことを登場人物に語らせたかったのだろう。「映像のポエジア」では、彼自身が現代文明に対する痛烈なノンを突きつけていたのだから。とはいえ、登場人物が全体に饒舌なのは、やはり映画として集中力求心力を弱めているという印象は否めない。
それと、主役のアレクサンドルを演じるエルランド・ヨセフソンのキャスティングの問題もあると思う。言うまでもなく、彼は素晴らしい役者である。タルコフスキーも、彼のことを心から信頼していたことが「サクリファイス・イン・ファイル」を観ても分かる。
彼の最高のはまり役は「ノスタルジア」のドメニコだろう。あの世捨て人の変わり者で、しかし非凡な人間というのがピッタリである。彼からは、なんと言うか人間が普通持っている他者への攻撃性というものを全く感じないのだ。それがドメニコ役では大変効果的なのだが、アレクサンドル役としては物足りない。今は隠者のような生活をしているが、もともとは有名な俳優で、恐らくもともとはとても美しくて魅力的だった女性とも恋愛結婚をしている。アレクサンドルは、単なる隠者的聖者ではなく、もともとは人間的で社会との積極的に関わる能力を持ちながら、なおかつ心の中にはとてつもない闇をかかえているというタイプの人物設定なのではないかと思う。タルコフスキー自身が、恐らくそういう人物だったのではないだろうか。それが、ヨセフソンだと、あまりに内面性の高貴ばかりが目について、外に対して放射する力が不足していると感じるのだ。勿論、彼には何の責任もないのだけれど、私には、アレクサンドル役には、内面性と外向性の両面が必要で、それがこの映画を成立させる上でとても大切なポイントだったような気がしてならない。
タルコフスキーは、本来アレクサンドル役としては、「ストーカー」で作家を演じていたアナトリー・ソロニーツィンを考えていたそうである。「ストーカー」での彼は本当に素晴らしいし、彼ならアレクサンドルの二つの矛盾する面を十分表現できたような気がしてならない。言っても仕方ないことだが。
しかし、最初見た時もそうだったが、私は途中からこの映画の見方を全く変えたら楽しめた。アレクサンドルが、オットーに、魔女のマリアと寝れば世界を救えるといわれるというシーンあたりで、なんだかおかしくなってきたのだ。そのあと、自転車でこけるシーン、マリアと寝るシーン、火事のシーンなども、深刻でありながら、何かおかしい狂言のようなものとして見終えたのだった。そもそも、アレクサンドルは日本びいきで、尺八の音楽が何度も流れたり、家に火をつける際に変な和服のようなものを着こむのも、日本人からすれば、ちょっとおかしく感じるだろう。
勿論、そんなのはくだらない見方だし、間違いに決まっている。しかし、どうもこの映画はタルコフスキー的に詩的に力を凝縮していく映画、一番よい例は「鏡」、とは違って、なんと言うか、拡散していく劇という印象を受ける。あまり真面目に力を入れてみると、私でなくても退屈してしまうのではないだろうか。だから、あれを一種の「狂言」としてみるのは決して間違っていないと勝手に考えている。勿論、ごく私的な見方だが。
とはいえ、やはり最後の家事のシーンからラストはやはり圧倒的である。最初のシーンと同じで、映像が生き返る。勿論、タルコフスキーは意図的に映像を一変させている。登場人物もそうで、医師は突然自己主張をしだすし、婦人もパニック時に見せた人間らしさを失い、いつもの支配欲の強い女に戻ってしまう、娘も勝手気ままに行動する。要するに、あの火事のシーンでは、全てが核戦争の異常事態から、完全に日常に戻っているのだ。アレクサンドル一人を除いては。あるいは、魔女で世界を救ったのかもしれないマリアを除いては。火事のシーンではそのマリアが効果的だ。自転車に乗って走るところもとてもよい。あのシーンで、全てが日常に戻り、アレクサンドルも単に頭がおかしくなっただけかもしれないと観る者が思いかねない中で、マリアだけはただの女中なのか魔女なのかよく分からせないまま、自転車を猛烈な勢いでこぐのだ。
そして、子供が植えた木の下に寝そべって、カメラが上に移動していくラストシーンはまさしく完璧である。あのシーンを見れば、わたしのつまらない不平不満も雲散霧消するという仕組みである。
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2009年02月28日

タルコフスキーの「鏡」を再び観て




タルコフスキーの「映像のポエジア」を読んで、もう一度観たくなった。彼の映画についての考え方を知った上で観るというのは邪道なのだけれど、まあそういう細かいことは気にしないで。
やはり最初に観たときは、たとえタルコフスキーといえども無意識に「ストーリー」を期待してしまうので、「難解」と感じた。しかし、最初から「ストーリー」など拒否している映画と思えば、こんなに美しい映画もない。音楽を聴くように映画を観ればよいのだ。とはいっても、音楽と違って具体的な映像が目の前に確実にある。タルコフスキーの表現を借りれば、フィルムに「刻印された時間」である。その具体的な映像が、濃密な具体性を保持し続けたまま、具体性以外の何かを暗示し、具体性から飛翔しようとしながら、観念に離脱してしまわず、ギリギリの具体性を保っている。具体的な映像でありながら、同時にそうではない何者かを表現している。両者は対立して争っているのでなく、全く異質のものが同時に自然な形でフィルムに収まっているのだ。タルコフスキーの映画とは、つまるところ、そういうものなのだと思う。
この映画には、ドキュメンタリーフィルムが随所に挿入される。「映像のポエジア」で、戦争中に兵隊たちが集団で水の中を歩くシーンについてふれていた。
あの映像を撮った人間は、明らかに特別な感受性と芸術的センスをもつ人間だと。タルコフスキーは、膨大なドキュメンタリーフィルムを観て、ほとんどが駄目なものの中から砂金を探すように素晴らしいものを見つけ出して、この映画に使った。何も映画のために計算して作り上げるものだけが芸術映画ではない。現実の出来事をそのままうまく映されれば、それは最上の映画なのである。タルコフスキーはリュミエール兄弟の撮った車かな何かがこちらに走ってくるだけの短いフィルムにもそういう意義を見出している。だから、ドキュメンタリーフィルムの部分は、この映画に対する「挿入部分」なのではない。きわめて私的な記憶が執拗に映し出されるこの映画で、公的歴史を記録したドキュメンタリーフィルムは、全く同等の地位を与えられている。私的な記憶と歴史の記憶の深いところでの一致。
例えば、冒頭でドモリの少年を、目の力の強い少し魔女的なところのある中年女性が催眠療法で直そうとするフィルムが流れる。あれは、そもそも多分何かのドキュメンタリーフィルムなのか。タルコフスキーがモノクロで撮ったのかよく分からない。別にどちらでもよいのである。その映像は、タルコフスキーの母の記憶の私的物語へと、何の違和感もなくつながっていく。
タルコフスキーがこの映画を撮ろうとした際に、いつもコンビを組んでいるカメラマンに、そのような私的な映画を撮るのには賛成できないとして、仕事を断られたそうである。しかし、この映画はきわめて私的な映画であると同時に、普遍的な映画である。人の記憶というものは、本来それぞれごく私的なものである。共通にすくい上げられた普遍的な歴史的記憶は、観念的には意味を持っても、各個人にとっては決してリアルな生々しい意味を持ちえない。タルコフスキーがしようとしているのは、徹底的に個人的な主観的な記憶のイメージに沈み込んでいくことで、その基層に他の全ての人間とのつながりを見出そうとすることなのだと思う。だから、戦争を記録したドキュメンタリーフィルムも、脈絡なく挿入されても、なんら違和感がない。各個人個人の私的な記憶と、人類全体の記憶は間違いなくつながっている。人類全体の巨大な記憶の基層は、結局各個人にしか分からない生々しいイメージでしかありえない。そういう生きたものとしてしか、人間の記憶はありえないのだ。それを、タルコフスキーは、理屈ではなく、きわめて具体的な映像をフィルムに残すことで証明することに成功していると思う。
仕事を断ったカメラマンは、この「鏡」を見て素晴らしい映画だとほめたそうである。
「映像のポエジア」について私が書いた記事から一部再掲する。
タルコフスキーの求めるイメージとは、決して単純で一律的なものでない。「鏡」で使った、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ねずの木の前の若い婦人の肖像」を例示している。この絵からは、好感とも不快ともいえない、魅力的であると同味に悪魔的なイメージが同時に相互作用しながら矛盾なく同居している。(「モナリザ」にも言えることだ)そういうイメージの全体性をタルコフスキーは求めるというのだ。また、「鏡」の主演女優のマルガリータ・テーレホワにも、そういう性質あることを強調するために、この絵を使ったという。
テーレホワは、この映画では一切「演技」をしていない。この映画の中に、そのまま存在している。かといって、彼女の素のままをタルコフスキーはそのまま映しているわけではない。彼の主張するように矛盾するイメージの宙吊りな結合としてのイメージを明らかに創り出そうとしている。テーレホワは、実に様々な表情を見せる。生活に疲れたすこし冷たそうな母、意外に心の優しい女。我儘な女、繊細な女、気の強い女、傷つきやすい女、知的な女、官能的な女。様々なシーンで色々なイメージを与えるが、常にどこか謎めいているイメージ。そもそも、テーレホワ自身にそういう性質があるのかもしれない。しかし、それは基本的にタルコフスキーが望むイメージ、それは彼の女性に対する極私的な理想イメージとも関わりながら、男性にとって普遍的な意味を持つ女性のイメージとつながっているはずである。テーレホワは、決して一貫した役作りなどせず、その場その場でありのままの新鮮な形で存在している。タルコフスキーが、俳優に求めているのは、そういうことであり、彼女は立派に合格していると思う。
最後のシーンで、夫に息子が欲しいか娘が欲しいかといわれて、彼女はなんともいえない笑顔を見せる。映画のそこまでの部分では見せなかった種類の笑顔に目を奪われるが、しかし単なる明るい笑顔ではなく、何か別の意味も含んでいるような不思議な笑顔。
私は、はじめてこの映画を観た時に、ふざけてテーレホワが個人的にタイプだとか書いた。しかし、そういう馬鹿な私は、自分の軽薄な意識以外に、確かに彼女からそれ以上のものを感じ取っていたのだと、今自信を持って言える。
「映像のポエジア」を読めば、間違いなくタルコフスキー映画に対する理解は深まる。しかし、そうでなくても、ただ彼の映画をぼんやり眺めているだけでも、観るものの心の一番深いところに知らず知らずのうちに喰い込んできている。タルコフスキーの映画とは、そういうものである。そして、この「鏡」は、もっとも深いところに訴えかける力の強い作品だと思う。
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2009年02月18日

「チャンス」のNGシーン

映画チャンスは、ピーター・セラーズ演じるチャンスがイエス。キリストのように水上を歩くシーンで終わるという仙人映画である。しかし、続きがある。セラーズが何度もNGを出してしまったシーンが、映画の最後におまけのようについている。今時のテレビのドラマNGシーン集みたいなものだ。
監督のハル・アシュビーがどういう人物だったかは知らないが、彼の有名な「さらば冬のかもめ」や「帰郷」とは、かなり毛色の違う映画である。ああいう終わり方をすることへの抵抗やテレがあって、NGシーンを付け足して現実に戻しておきたかったのかどうかは知らないが。
チャンスが生まれて初めて屋敷の外に出た時、何も本当に知らないので、黒人不良少年の群れに「庭師の仕事はないか」と聞いて、散々毒づかれる。少年達は自分たちの敵の差し金だと思い込んで「奴に伝え解け」とすごむのだが、チャンスはそれを覚えていて、大富豪の家にいた黒人医師にそれを伝えようとする。そして、ベッドに横たわりながら、次のようなセリフを言う。大真面目な顔をして。セラーズはその状況がおかしくて吹いてしまい、もう止まらなくなってしまったというわけだ。ある種の拷問ともいえる。なるべく忠実な?私訳とともに、以下にあげておこう。

Now get this honkie
You go tell Raffaello
that I ain’t taking no jive from western union messenger
you tell that ass hole
if he gets something to tell me,
get his ass down here himself
then he said
that I would get my white ass out there quick,or cut it.


てめえ、いいか、この白豚野郎。
ラファエロの野郎にこういっとけや。
ガキの使いを受ける気はねえってな。
あのケツの穴野郎にこういえ。
用があるなら、てめえののケツをここまでもってこいってな。
そして彼は私にこう言いました。
おめえもその白いケツの穴をすぐどかして消えうせねえとケツの穴を切り刻んでやるぜ。
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2009年02月14日

「チャンス」 ピーター・セラーズ、ハル・アシュビー監督

(思い切りネタバレで書いています。)



ベッドである男が目覚める。いかにも上品で知性的な初老の紳士である。男は、おもむろにテレビをつける。シューベルトの未完成が流れる。男はチャンネルを変える。子供向きのアニメが映る。男は無表情ながらテレビを見つめ続ける。何か変だ・・。
男は実は知的障害を持っており、屋敷に庭師として住み続けていたが、主人が死んで屋敷から追い出される。男は生まれてはじめて屋敷の外にでる。
庭師チャンスは、「空っぽ」の人間である。それが、勘違いに勘違いを重ねられて、財界の大物のキングメーカーに気に入られ、大統領とも会い、その演説でも紹介され、テレビにも出演し、最後は大統領候補に担ぎ出されそうになる・・。
セラーズは、この映画の原作を読み、どうしても主役として映画を撮りたがり、その念願がかなった作品である。空っぽの器には何でも満たすことが可能だ。俗な人間のエゴなど一切存在しない。チャンスは静謐で気品にあふれる人物に「見える」。それが誤解の誤解を重ねて持ち上げられていく。そもそもセラーズ自身がそのような人物であった。固定的な自分の自己を持たない、フィルムの中の架空の息柄を生きることだけが本当に生きるという種類の人間だった。全くといって自己を持たない男が、フィルムの上で自己を持たない男を完璧に演じきる。いや、演じるのではなく、そのまま生きる。セラーズの遺言フィルム。

誰もがチャンスを非凡な人物と思い込む中で、重病のキングメーカーのランドの家に住みこむ医師のアレンビーだけが、チャンスの正体に気付く。リチャード・ダイサートが演じているが良い役者だ。フリッツ・ラングの「飾り窓の女」のエドワード・G・ロビンソンとちょっと雰囲気が似ている。ランドか死んだ時に、アレンビーはチャンスに尋ねる。――キミは、本当にただの庭師なのだね。と。チャンスは素直に肯定する。アレンビーはつぶやく。
―I understand.
しかし、もう一度、自分に問うように再びつぶやく。
―I understand?
ランドは、チャンスが屋敷に来てから一時的に元気を取り戻していた。チャンスは確かに静謐で暖かい人柄で、周りにいるあらゆる人間の心を穏やかにする。ランドは、チャンスと会ってから死ぬことがこわくなくなったという。そして、チャンスに見守られて心穏やかに静かに息を引き取る。
アレンビー医師は、一人だけ現実を見詰めている重要な役どころなのだが、その現実主義者の彼が疑問形で「私は本当に理解したのだろうか?」と自分に問う。この映画のテーマである。

チャンスはテレビを見ることだけが楽しみである。Watch TV.
ランド婦人のエヴァ(シャーリー・マクレーン)に言い寄られても、チャンスはテレビを見ることを優先する。エヴァは、チャンスの意志の強さと勘違いして、ますます尊敬するようになる。
映画では、アメリカの多種多彩なテレビ場面が効果的に使われている。画面上に何が起ころうと、静かに画面を見続け、全てを受け入れるチャンス。テレビだけではない、生の現実に対してもチャンスはただwatchし続ける。どんな騒ぎにも巻き込まれずに、静かに見つめ続けて受け入れる。
そうした姿勢が周囲のとんでもない誤解の過大評価を呼び、大統領候補にまでなるのだが、チャンスはそんなにことにはおかまいなしである。
仮にその勘違いに気付いたとしても、ドクター・アレンビーに習って、誰もが自分にこう問わざるを得ない。
―I understand?
実際誤解ではなかった。ラストシーンで、突然チャンスが、イエス・キリストのように水の上を歩く。そのシーンに合わせて、大統領が演説の声がかぶせられる。
――Life is a state of mind.
よくこんな映画をつくったものだ。

共演のシャーリー・マクレーンが著書「アウト・オン・ア・リム」の中でピーター・セラーズについて書いている。彼女が自身の神秘体験について率直に書いた本で、アメリカでは300万部のベストセラーになった。
セラーズは心臓に持病を抱えていて、この映画の撮影当時もペースメーカーをつけていた。セラーズはマクリーンに対して、自らの臨死体験を告白したという。
心臓の発作で病院に担ぎ込まれたとき、そういう自分自身を上方から見つめていた。医師が心臓に手荒なマッサージなどして蘇生させようとする様子を逐一見つめていたのだという。セラーズは、そのとき真上に信じられないくらい明るく美しい白い光を見る。一本の腕が光から出てきてセラーズはすがりつこうとしたら、その瞬間に心臓が蘇生した。上からの手が「時はまだ至っていない。戻って生を全うせよ。」と言ったそうである。
そして、セラーズはこの世に戻ってきた。
私には、マクレーンのような神秘主義の考えはないし、このセラーズの臨死体験が「本当」かどうかも知らないが。とにかく、そう本人が言ったということである。
さらにマクレーンの本から引用して終わりにする。これも、本当かどうかはともかくとして、セラーズがなぜあのように全ての役柄に成りきれたのかの一つの「説明」にはなると思う。
ピーターは演技のことや、役柄について話をし続け、自分が今までにやった役柄を、自分は前から知っているように感じていたということを話した。自分がその人物そのものであったという彼の気持ちは、非常に具体的で明確なものであるらしかった。
最初、私は、それが何のことだかわからなかったが、話を聞いているうちに、自分が演じた人物はいつか前世で自分がその者だったという話をしているのだということがわかった。
「まあ、あなたは前世を憶えていて、その時の経験や、感情を思い出しているということなの?」
と私は当然のことのように、話の調子を合わせた。
「だから、演技がお上手なのね。きつと、あなたの前世の記憶は普通の役者よりずっといいのよ。」
彼の目は、やっと誰か話のわかってもらえる人に会ったという喜びに輝いた。
「こんなこと、他の人にはなかなかわかってもらえないのですよ。人にこんな話をしたら、私が気違いだと思われるでしょう。」
「わかるわ。私もそのようなことは誰にも話しませんもの。でも、おそらくこういうことを信じている人はたくさんいるのではないかしら。」
彼は少しホッとしたようだった。



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2009年02月13日

博士の異常な愛情−ピーター・セラーズ、スタンリー・キューブリック監督



キューブリックは、非現実的なコメディを、とことん美しい映像で撮ろうとしたのだろう。冒頭の核弾頭を積んだ米空軍機の映し方の見事なこと。そして、バックに流れる優美な音楽。悪夢のような馬鹿げた現実を夢のように美しい映像で包むアイロニーである。改めて、白黒のコントラスト設定、陰影の精緻さにうっとりした。
映画「ピーター・セラーズの愛し方」によると、キューブリックはこの映画の三役以外に、爆撃機のパイロットまでやらそうとしたそうである。セラーズは、ストレスに襲われて大爆発してしまったらしい。
結局は3役にとどまったのだが、そのどれについても、とてつもなく完成度が高い。オーラまで完全に違う。少し人がよくて気弱なイギリス将校、知的で毅然として品格のあるアメリカ大統領、そしてナチ出身のドイツのマッド・サイエンティスト。セラーズは、一人何役もするのはお手の物だったが、ここまで各キャラクターが昇華された形で完成されているのも珍しい。これなら三役で精一杯だったろうと納得できる。
もう少し「ゆるい」映画では、とんでもない数の役を演じている。たとえば、「マダムグルニエのパリ解放作戦」では、無責任なイギリス軍人、フランス軍の老大将。ヒトラー、ゲシュタポの親衛隊長、日本の皇太子!、アメリカ大統領とやり放題だった。セラーズの変化作としては、多分あれが最高なのではないかと思う。
この映画では、電話の一人会話シーンが、存分に生かされている。イギリス将校が、破壊された基地からアメリカ大統領に公衆電話をかけようとするシーンは腹を抱える。その際、基地の電話をまず使おうとして、受話器に線が全くついていないのは、ちょっとクルーゾー警部的である。「ピーター・セラーズの愛し方」によると、「ピンクの豹」の初登場シーンで回った地球儀に手を突いてこけたのはセラーズのアドリブだったらしい。このシーンも多分そうなのではないかという気がする。
電話シーンで白眉は、アメリカ大統領がロシア書記長と一人電話する場面である。本当にセラーズはうますぎる。電話先のロシアの酔っ払った男が目に浮かぶようである。
他にも、空軍大将の女性秘書がベッドルームで一人電話するシーンとか、大統領本部室で、海軍大将がその愛人の秘書と一人電話するところなど、とことん電話をうまく使っている。空軍大将のジョージ・スコットも、大変な怪演ぶりである。
それにしても、「ドクター・ストレンジラブ」の狂気はすごい。完全にピーター・セラーズの痕跡はなく、狂った科学者になりきっている。目からして完全に狂っている。最後のシーンでは。後ろに立っているロシア大使役が完全に笑ってしまっている。普通なら撮り直しだろうが、あまりに出来が良いので、キューブリックも目をつぶって使ったのだろう。
セラーズの完全に役に成りきる狂気と、キューブリックの全てに完璧を求める狂気が、幸福な結婚をとげた稀有な作品である。


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2009年02月06日

タルコフスキー著「サクリファイス」(鴻 英良 訳)

タルコフスキーは、この小説を「ノスタルジア」の翌年に執筆したのだという。さかのぼってソ連時代に「ストーカー」に続く映画作品として構想していたそうである。
映画「サクリファイス」は様々に解釈できる作品である。私自身見たときに、これはきわめて高度な狂言なのではないかという、とても勝手な解釈をしたのだが、どうもタルコフスキーの意図は、もっと素直で直接的だったようである。私のような解釈は、タルコフスキーが最も嫌うタイプのものかもしれない。
そもそも、タルコフスキーが「映像のポエジア」で繰り返し言っているのは、映画に対して何か背後に隠されている象徴的な意味を探るべきではないということだ。また、そのように仕組まれた映画は、映画本来の表現に反すると。映像そのものが訴えかけてくるものを、見る人間が直覚的に感じ取り象徴的に解釈しないような、時間の強度をフィルムに定着している作品こそ、本当の映画だと。
例えば、タルコフスキー映画に頻繁に出現する水や雨は何の象徴かと、よく聞かれたそうだ。それに対して、タルコフスキーは、水は水、雨は雨なのだと答えている。あえて言えば、少年時代にロシアで実際に接した雨や水であって、そういう直接的な体験に裏付けられたものであって、決して何か象徴的な意味を装填しようとする意志は一切ないという。
あるいは、「ストーカー」の「ゾーン」やトンネルについても同様である。何か隠された意味などなく、ゾーンはゾーン、トンネルはトンネルである。
もしかすると、カフカの小説についても同じことが言えるのかもしれない。「城」は官僚機構の象徴なのではなく、単なる城かもしれないのだ。そんなつまらない象徴的解釈などより、カフカの文章が喚起する生々しいイメージの直接的な力がよほど大切なのである。カフカは言葉という象徴をまとわずにはいられない道具を使って、様々な象徴解釈が可能なように書きながら、一番象徴とは遠いところまで言葉を導いたのかもしれない。というのは、今思いつきで書いたのだが。
タルコフスキーの「サクリファイス」も、余計な象徴的解釈は必要とせず、そのまま受け取るべきなのだろう。私がわざわざこの小説を読んだのは、まさしくあの映画の象徴的解釈が知りたくてである。しかし、本書を読んでも、そのような期待は裏切られるだろう。情報自体としては、ほとんど映画に与えられる以上のものはない。勿論。映画には描かれていない部分もあるが、それは何か解釈のヒントになるものではない。
むしろ、「映像のポエジア」で、タルコフスキーは「サクリファイス」の解釈について語っている。あの映画は様々な解釈が出来るように作られている。例えば、信仰に興味がある人間は、アレクサンドルの祈りに映画の中心テーマを読み取るだろうし、超自然的な現象に興味がある人間は魔女マリアとのシーンが中心的な出来事になる。(サクリファイス制作の頃、タルコフスキーは、ルドルフ・シュタイナーに深い関心を持っていたという。)
さらに、映画の全ては主人公の心の病が生み出した幻想で、実際には何も起きていないと考える人もいるだろう、と。
こうした反応はどれも映画が示している現実と本質的にはなんの関係もない。
と、タルコフスキーは言い切っている。フィルム上に展開される、現実がそのままの意味を持つのであって、そこに何らかの隠しテーマが存在するというわけではないと。映画という表現に対する深い自身と誇りが言わせる言葉である。映画で起きていることを、もっと直截的に全て感じ取ることを、観客は期待されているのである。厳しい見方を求められているともいえるし、映画を見るという体験は結局そういうこととも言える。小説を読むのとは全く違うわけだから。
私自身も、基本的には「何も起こっていない」というタルコフスキーが一番嫌いそうな解釈をしていたわけである。かなりタルコフスキーを「素直に」見るタイプの私でもそうなのだ。しかし、無理やり自己弁護するならば、そもそも極端に真剣なものというのは、究極的には笑いを誘うものである。私は、アレクサンドルがマリアの家に自転車で向かう途中でこけるシーンで噴き出してしまって、以降全てがおかしくなってしまったわけだが、狂言というのは、そもそも真面目なものに笑いを見出そうということである(かどうかはよく知らないが)。タルコフスキーの映画のイメージや現実の流れを完璧に細心に受け止めながら、なおかつ笑うというのは(その笑いは、意味解釈による笑いでもなく、まして嘲笑的な笑いではなく、笑いそのものの本源に近い笑いである)、それほど、タルコフスキーの映画の見方としては間違ってはいないのではないだろうか。
閑話休題。
とはいっても、勿論タルコフスキーが映画をつくるにあたって考えていたことは存在する。それは映画タイトルが示している。「サクリファイス」(犠牲の精神)
である。それで十分だろうと。
「映像のポエジア」の終章で、タルコフスキーは、やや信仰告白気味に苛烈な現代文明批判を繰り広げている。現代の物質文明が人間の精神性を著しく阻害してしまったこと。社会と個人が激しく対立し、個人が社会という組織に従属することを余儀なくされている。また、個人は他人に対して何かを要求することこそあれ、他人に対して何かを与え譲ろうとはしない。その際必要なのは、自己犠牲、他人に尽くそうとする精神である。まさしく「サクリファイス」である。
さらに自由というのは、本来勝手な自己主張ではなく、自分が他者と関係することを認識しつつ、深くつらい内的精神的作業を経ながら、苦労して勝ち取るものだ。それはお気楽な幸福の状態とは全く異なる、苦悩を通過して得ることができる状態であって。自己主張の自由とは正反対の状態だろう。そのような自由は、何か特別な人間だけの特権ではなく、あらゆる人間が平等に可能性を有しており、なおかつ各個人が内的困苦を経なければ獲得できない状態である。現代においては、そういうことをしようとする人間がほとんどいないだけである。
そして、そのような自由を表現し、人々にインスピレーションを与えるものこそが芸術に他ならない。タルコフスキーにとっては、「映画」が、それをもっとも純粋に表現できる手段だった。
「映像のポエジア」の最後の部分。
最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう。実際人類は芸術的イメージ以外はなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである。
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2009年02月04日

タルコフスキー著「映像のポエジア」

タルコフスキーが二十年近く、折にふれて書いたり、インタビューを受けた内容を、場合によっては加筆訂正を加えて一冊の本にまとめたもの。
彼の映画に対する考え方でポイント、肝になっているのは、本の副題にもなっている「刻印された時間」である。映画は、言葉を使う文学と違って事実そのままをフィルムに定着する。「それ独自の事実のフォルムと表示のなかに刻み込まれた時間」が映画という表現方法の特徴である。それが、他のどんな種類の芸術とも異なる映画の特異な性質であり可能性である。そして、タルコフスキーは徹底してその映画の性質を純化追及しようとする。
従って、タルコフスキーにとって、余計なものを付け加えた映画はどんなに一見高級なものであろうと、批判の対象になる。フィルムに定着するためには、対象を、なるべくありのままにしかし最高に研ぎ澄まされた感性で「観察」する必要がある。「自然主義的な事実の固定だけではまったく不十分なのである。映画における映画的映像は、「観察」のかなたに、対象にたいする独自の感覚を提示する。」のである。例えば、エイゼンシュタインの「イワン雷帝」などは、映像に象徴としての意味を込めてしまって、直接的な観察から逸脱しているので否定される。一方、初期の「戦艦ポチョムキン」は、そうした生々しい「観察」がある映画として高く評価する。
他にも、色々多角的にタルコフスキーは映画を論じているが、要するに映画にのみ可能な表現方法から余計なものをそぎとったストイックな追求というのが、基本線である。文学的、あるいは演劇的な要素を、安易に映画に導入しようとすると、タルコフスキーは過敏なくらいに反応して拒絶する。
ある種の映画理論において「モンタージュ(編集)」が特権的な位置を占めることも拒否される。またも、エイゼンシュタインが例に引かれているが、監督のモンタージュにこめられた象徴的な意味の体系を、見る者が読解するように強いられるような映画は、映画の本質に反する。なぜなら、映画の特質とは、直接的な観察によるイメージをフィルムに定着することにあり、そのイメージの持つ力のみが、本当に見る人間の心を動かすことが出来るからだ。モンタージュによる意味の解読行為や操作は、知的遊びに過ぎず映画の本質からは逸脱している。したがって、タルコフスキーにとっては、「モンタージュはショットのなかの時間の圧力を考慮して断片を結合する手段なのだ。」ということになる。あくまで、フィルムに刻印された時間の強度が主役であって、モンタージュはそれらをつなぐ技術であり、決して中心的な創造行為にはなりえないということである。
このタルコフスキーの考え方に、理論的に反論することは可能だし、また必ずしも映画に対する唯一の考え方ではないかもしれないが、少なくともタルコフスキーの映画がこういう理念のもとに撮られていることだけは、彼の映画を見た者ならば、納得せずにはいられないだろう。タルコフスキーは難解と言われるが、それは知的な難解さというものとは一切関係ない。むしろ、虚心坦懐に映像を見つめれば、誰でもその人の教養程度などには関係なく、直覚的に何かを感じることが出来る映像なのである。本当は、タルコフスキーは、全然難解ではない。人々が、習慣的で通俗な映像を見させられるのに慣れきっていて、タルコフスキーの映像に刻印された時間の強度に慣れていないだけである。
じっさい、「鏡」という、彼の映画の中でも無、もっとも難解といわれる映画に対しても、ロシアの一般人が、タルコフスキーに手紙を書いてきて、その理解程度が深くて、タルコフスキーは驚き、映画をつくる勇気を与えられたそうである。一方、当局からは、難解な芸術映画のレッテルをはられていた。また、
批評家たちの高級ながら中身のない理論的評価に反発しているのも、いかにもタルコフスキーらしい。彼は、ああいう映画を作りながら、決して知的エリートを相手にしようとは思っていなかった。むしろ。一般人の中で、彼の映画に直覚的に反応する「精神的エリート」を期待し想定したようである。彼は、決して社会や庶民から遊離する映画作家ではなかった。むしろ、その逆なのである。
実際、この本には、そういうロシア大衆の、驚くべき洞察力の証拠の手紙が多数上げられている。一つだけ、一部引用してみよう。
「あなたに手紙を書いているのは、年金生活を送っている老人です。職業としては、芸術ともっとも遠く離れたところにいる人間ですが、映画には興味を持っています。(私はラジオ技師なのです。)
あなたの映画に、私は強いショックを受けました。あなたの天分は大人と子供の感覚の世界を洞察することであり、私たちをとりまく世界の美の感覚を呼び起こすことです。あなたが示すのはこの世界の偽りの価値ではなく真の価値です。あなたの天才はひとつひとつのものに演技をさせ、絵のひとつひとつの細部を象徴に変え、最小限の表現手段でもって哲学的な普遍性を手にしています。ひとつひとつのショットを詩と音楽で満たすのです。こうしたすべての特質は、あなたに、あなたの表現様式にのみ、固有なものなのです。」
例えば、芸術において絶望的な状況にある現代日本でも、どこかの高校で、むりやりタルコフスキーの映画を生徒全員に見させたら、きっと驚くべき反応が起きるはずだ。タルコフスキーの映画とは、そういう映画である。

既に、この記事は長くなってしまっている。しかし、語りたい事はまだまだ尽きない。以下、取りとめのない雑談を断片的に続けさせていただく。

タルコフスキーの求めるイメージとは、決して単純で一律的なものでない。「鏡」で使った、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ねずの木の前の若い婦人の肖像」を例示している。この絵からは、好感とも不快ともいえない、魅力的であると同味に悪魔的なイメージが同時に相互作用しながら矛盾なく同居している。(「モナリザ」にも言えることだ)そういうイメージの全体性をタルコフスキーは求めるというのだ。また、「鏡」の主演女優のマルガリータ・テーレホワにも、そういう性質あることを強調するために、この絵を使ったという。
それは、とてもよく分かる。あの鏡の女優というのは、なんとも不思議な魅力がある。精神的なところと官能的なところ、真面目なところと不真面目なところ、快活な明るいところと憂鬱室なところ、そのどちらとも取れる性格を内包しているように感じさせる女優である。というよりは、タルコフスキーがそういう側面を引き出すように、演技させ、撮っている。はじめ見たとき、なんとも魅力的な女優だと単純に思ったのだが、この部分を読んで、どういうことか理解できたような気がした。

「鏡」に対して、あのような個人的な映画をとることに、かなり批判があったそうである。それについて、タルコフスキーはこういう答え方をしている。本当に真実のイメージとは、個人に固有のものである。しかし、それは個に閉じこもるということではない、徹底的に個にこだわることが普遍につながるのだ。社会で公約出来るイメージなど、本当の力を持ちえない。私的なイメージを追及するのは、社会全体とつながるためなのだ。
かなり勝手な要約の仕方をしてしまったので、ちょっとタルコフスキーの言いたいこととは違うかもしれないが。例えば、小林秀雄の批評の姿勢とは、そういうものなのだと思う。

俳優に対して、「演劇」のように計算して役を組み立てる事を求めなかった。むしろ、そういう作為的な行為を徹底して排除するように求めた。タルコフスキー的映画観からすれば、当然ともいえる。「最終的には、俳優は、演ずることが不可能な心理状況におかれなければならない。」という。
そういうことが出来る俳優として、すぐ頭に浮かぶのは「ノスタルジア」のドメニコや「サクリファイス」のアレクサンドル役のE・ヨセフソンである。一方。タルコフスキーによれば、一番演劇的演技にこだわってのは、「惑星ソラリス」の主演男優との事。それはよく分かる。彼は確かにタルコフスキーの映画に向いていないと、最初に観た時から思った。本当にそう思ったのだ、映像とはおそろしいものである。

この本では、単なる映画論だけでなく、タルコフスキーのほとんど信仰告白とも言える部分が出で来る。あまりに率直なので、すこし戸惑いつつも共感し、動かさずには居られない。例えば、「アンドレイ・ルブリョフ」と関連して。
「もっとも激しく血を流しているその時代の腫瘍に触れ、自分自身の中にある腫瘍を除去することなくして、芸術家は時代の精神的理想を表現することはできないということだ。高次の精神的活動のために、冷酷な「低次の」真実を完全に自覚して、それを克服することにこそ、芸術の使命がある。芸術は、本質的にほとんど宗教的であり、高い精神的な義務にたいする神聖な自覚を求めるものだ。」
これぞ、タルコフスキー。

いくつか引用を続ける。
「芸術家が創造の自由について語っているとき、なんのことを言っているのか、私にはほとんど理解できないのだ。そのような自由がなにを意味するのか理解できないのである。私は逆に、創造の道に踏み込んだときから、われわれは果てしない必然性の鎖につながれ、自分自身の課題と、芸術家としての天命に束縛されているように思えるのだ。」
本当に自己を見つめ、本気で創造行為をしようとした男の言葉である。

「私が、みずからのうちに理想への郷愁をかかえ持ち、理想への憧れを表現しようとする芸術の擁護者であることを強調したいためである。私は「人間」に「希望」と「信仰」を与える芸術の味方なのだ。芸術家の語る世界が絶望的であるほど、その世界と対置される理想は、おそらく強く感じられるに違いない。そうでなければ、生きることはまったく不可能である。」
ベルイマンの映画と関連して。こういう「絶望的な世界」を、きちんと語る芸術が、健在ではどれだけ絶滅状態にあることか。逆に、世界の真実から、目をそむけ、偽りの快楽や幸福を安易に提供するものばかりである。
ベルイマンとタルコフスキーは、映画作家としては似て非なる。しかし、二人とも、確かにそういう感覚を持ち合わせている人たちである。その事が一番大切なことであって、彼らの映画を「芸術」的に分析したり鑑賞することに、一体何の意味があるというのだろうか。

タルコフスキーに感化されて、素面ではいえないような言葉を、私もつぶやきだしたので、そろそろやめよう。
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2009年01月30日

映画「ピーター・セラーズの愛し方」



一応はピーター・セラーズの伝記映画である。どこまで本当かという問題は常にある、多分、大筋の事実では本当、ディテールの描き方はデタラメの創作なのではないだろうか。まあ、映画なんだからその辺はうるさくは言わないが、やはり、セラーズ・ファンとしては楽しく見られるという種類のフィルムではない。
でも、私はもっぱらセラーズの私生活について知りたかっただけなのだし。一応、大筋として多分事実に基づいていそうなことを、映画から推測して列挙してみよう。

かなりマザコン気味の人物で、かなり年齢がいくまで強烈な個性の母親の強い影響下にあった。
「美しい女性」が大好きで、四人の女性と次々に結婚。基本的に下半身には余り人格がなかった人らしい。
いつまでも大人に成りきれず、自分を抑制することが出来ず、ストレスがたまると大爆発して、家族等周囲に迷惑をかけることがあった。
映画の撮影現場でも、かなり主張が強かったらしい。クルーゾー役は、本人はあまり気に入っておらず、シリーズ監督のブレイク・エドワーズとは、対立関係にある場合も多く、常にゴタゴタしていたらしい。
自分の性格というものを持たない空っぽの容器のような人物で、だからあれだけ色々な役に完璧になりきれた。
「チャンス」だけは、自分でも、どうしても撮りたい演じたい映画だった。

正直言って、私は「チャンス」の庭師役の印象が強烈過ぎるので、もしかしたら私生活でも聖人のようなタイプだったのではないかと想像していたのだが、きわめて人間的だったようである。
要するに「空っぽの容器のような人間」ということなのだろう。固定した自己や自我を持たないので、どんな役にもなりきれる。しかし、大人としての人格をきちんと形成していないので、常に子供っぽい側面が残る。また、自身の欲求や感情にはとことん素直に従い、またそのスケールや強度が人並み外れて大きい人だった。だから、どんな役をやっても、あれだけ振幅の大きい強烈なイメージを人に与えることが可能なのだろう。母親との関係も、そういう大人に成りきらない、自我を固定化しないための必要条件であり、十分条件である。
というような心理分析は容易だが、そういう作業はむなしい。ただ、セラーズのあの役への成りきりの秘密、個人的資質というものはある程度理解できたような気はした。しかし、言うまでもなく、重要なのはセラーズが普段どんな人物だったかということではなく、セラーズがスクリーン上でどのように演じきり、どのように見えたかということだ。
ファンとしては、そういうセラーズを堪能するだけのことである。
ブレイク・エドワーズとの関係も興味深い。例えばマイルス・ディヴィスとテオ・マセロの関係のような、常に悪態をつき合いながら信頼しあっているような間柄とも似ている。ただ、違うのは、セラーズセラーがあまりクルーゾー役を気に入っていなかったらしいということだ。
セラーズが本当に演じたかったのは「チャンス」の庭師だった。あれは本当に素晴らしい。まさしく「空っぽの器」が「空っぽの人物」を演じきった稀有な例なので。
しかし、客観的にみてやはりクルーゾーも、それに劣らず素晴らしい役柄創出である。本人が嫌がっていようがなんだろうが、結果的にフィルムに定着された姿や他人の評価のほうが確かなのだ。もしあんな馬鹿げた役とセラーズが思っていたとしたら、それはやはり彼らしい子供っぽさの素直な表現である。馬鹿らしい役だろうが、それより重要なのはクルーゾーという世にも稀な個性の表現である。それを、対立関係にありながら共犯的に作り上げたエドワーズはやはりえらいのだ。
スタンリー・キューブリック(役)も登場する。彼は勿論映画監督としての格が違いすぎる。映画としての質だけで言うと、セラーズ作品では「博士の異常な愛情」が突出している。エドワーズもキューブリックと比べてしまったら、それは気の毒だ。でも、あのクルーゾーというのは、やはりセラーズを支えたエドワーズの見事な創造行為だったと思う。馬鹿馬鹿しいキャラクターなので、なかなかそういうことが見えにくいかもしれないが。
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2009年01月23日

ピンクパンサー4(ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンク・パンサー4 – Wikipedia

ピーター・セラーズの最後の出演作。一応セラーズ不在でシリーズはつくられ続けるが。
ドタバタコメディ、悪乗り路線の完成作である。完全にシリーズとして練れてきて、各キャラクターの個性が分かりやすく固まっている。
シリーズ中に役を変化して登場するグレアム・スタークは変装指南のボールズ教授役。「暗闇でドッキリ」で初登場したときとは別人のような、おふざけキャラに立派に成長した?
セラーズの変装も、もう恥ずかしさをかなぐり捨てて、馬鹿馬鹿しさを極限まで追求するに至っている。女装してキ印と間違えられ、名脇役フランソワには死んだと思われメチャクチャ言われ、ケイトーの経営する売春宿ではドタバタの大騒ぎなど、とにかく分かりやすい。見る側が期待するところを臆面なくやりきっている潔さがあるのだ。シリーズ中の典型的な作品として一般に安心しておすすめできる一本といえる。
ヒロイン役はダイアン・キャノン。ドタバタ喜劇にふさわしいキャラクターの女優で、体当たり演技で健康なお色気を惜しげなく振りまいている。個人的にちょっと勘違いしたのだが、「チャーリーズ・エンジェル」のファラ・フォーセット・メジャーズとも、ちょっと感じが似ている。
ハーバート・ロムのドレフュスも健在。彼の上役との会話シーンも、相変わらず実にうまい。クルーゾーか死んだとおもいこんで葬儀をするのだが、その弔辞をドレフュスが読めと上役に言われる。無論ドレフュスは必死に断る。クルーゾーのために精神病になったのだから当然だ。しかし、上役がとどめの言葉を言う。
「署長夫人がスピーチを書いたのだ」。と。
直後、ドレフュスの泣き出さんばかりの顔のアップが映し出される。弔辞を読む場面は、ピンクパンサーシリーズ史上、いやコメディ映画史上の名シーンである。クルーゾーを褒め称える内容のスピーチをドレフュスは、錯乱して泣きながら読む。それを人々は、ドレフュスが悲しんでいると解釈して泣くのだ。ここでのロムの演技は完璧である。字幕だけでは伝わらない、一語一語の発音の仕方、動作を堪能したいシーンである。
最後はセラーズとキャノンが語り合いながら夜道を歩いていく静かなシーンで終わる。ケイトーのバート・クウォークも今回は乱入しない。これがセラーズの最後の作品だと知っているかのように。
結局は、このピンクパンサーシリーズを支えているのは、ピーター・セラーズの役者、人間としての格の高さや気品なのだと思う。


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2009年01月22日

ピンクパンサー3(ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンク・パンサー3 – Wikipedia
ストーリー等はウィキペディアを参照されたい。というか色々よく知っている人が書いていて、あまり付け足すことがなくて困る。
そう、ドレフュス役のハーバート・ロムがオルガンを弾くシーンがあるが、それは彼自身が主演した「オペラ座の怪人」のセルフ・パロディなのである。テレビで見たことがあるが、実に本格的正統派の演技だった。もともと実力派の俳優なのである。そういう人が本気でやっているから、あれだけおかしいのだ。
本作は、クルーゾーとドレフュスの対決そのものがテーマになっていて、娯楽作に徹している。最後に直接対決する場面の、二人の笑いの演技、特にロムの笑いっぷりは見事だ。まさしくあの笑い声が、演出上使われている笑気ガスとなって我々観客に襲いかかり、一緒に笑い出さずにはいられないのだ。
このシリーズの場合、いろいろなシーンやキャストの焼き直しや使いまわしも見物の一つである。
例えば、いきなり冒頭からドレフュスが精神分析医と会話するシーンがあるが、あれもおきまりのパターンである。ある作品では分析中に激情に襲われて、分析医の首を絞めて殺してしまったりする。あのロムのやり取りのうまさ、味。笑いながら演技を堪能する。本当に達者な役者だ。
屋敷の使用人を集めて尋問するシーンは、「暗闇でドッキリ」の名シーンの焼き直しだ。ただ、本作はもっと過激に馬鹿らしくなっていて、グランドピアノを叩き壊すなど、やりたい放題である。基本的にシリーズが進むに従って無茶する度合いがエスカレートしていくという法則がある。
執事の気難しい男が、実は夜は女装して歌姫に変身するシーンも良い。実に見事な裏声なのだが、それを聞き入るセラーズの憤懣やる方ないという表情もよろしい。
ケイトーとの格闘シーンもますます派手になってくるが、おかしいのはクルーゾーがせむし男の変装をするのに対し、ケイトーが「オマエは誰だ」と気付かない(フリをする)わざとらしさ白々しさの見事なこと。
今回見ていて、以前には面白さに気づかなかったのは、最後のロシアのスパイとのベッドシーン。セラーズの、ベッドインまでのもたつきよう、画の作り方、音楽など、こんなに間抜けで面白かったっけ。
ウィキペディアでも触れている通り、グレアム・スタークが毎回別役で登場する。もともと「暗闇でドッキリ」で、クルーゾーの間抜けな部下として登場していて、どちらかというと抑制的な演技だった。が、回を重ねるに連れて、彼も役者としての本性をあらわして、セラーズ顔負けの羽目のはずし方である。
ちなみに、スタークのホテルボーイに対して、クルーゾーが名乗る偽名は「ギイ・ガドボワ」、ピンクパンサー2で登場した、アホプレイボーイの変装の名前である。なぜかクルーゾーのお気に入りなのだ。
というようなことを、シリーズマニアは楽しんでみることが出来るようになっている。
本作は、セラーズ以上に、ハーバート・ロムが主役と言ってもいい作品であった。


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