2011年01月28日

溝口健二「祇園の姉妹」メモ



1936年の作品。一部のフィルムが失われているために、最後はやや唐突に終わるのだが、山田五十鈴の演じる芸者「おもちゃ」が、「芸妓なんて、こんなもん、なかったらええんや」と叫ぶのが切実だしラストでもおかしくないと思わせる。
当時、山田五十鈴は19歳くらいである。美しいのもそうなのだが、あまりにも上手いのに驚かされずにはいられない。闊達な演技、女性の魔性と魅力。まさに天才少女である。
同年の「浪華悲歌」同様、全く古さを感じさせない。それどころか、後期の溝口の大作郡よりも、より自由に率直につくっているので本当に「溝口らしい」映画とは、こういうものだったのではないだろうかと思ってしまうのだ。
古い映画なので、山田五十鈴以外の役者はサッパリ分からないのだが、声だけで進藤英太郎だと分かるのは流石である。ダメになった問屋のオヤジ役の志賀迺家辨慶という人も実にいいアジを出している。
山田五十鈴の、男の騙しっぷり、あしらいっぷりが見事すぎる。ラストシーンのように芸妓という存在のつらさ、悲しさを切々と描いた名品なのだけれども、むしろそういう世界に対する懐かしさのようなものを感じさせずにはいられない映画でもある。男と女が、駆け引きして騙しあい、愛し合い、憎しみ合う世界の懐かしさ。そして、溝口は、山田五十鈴に芸妓という存在の悲しさを語らせ、その社会的意味もある程度は認識しながらも、そういう世界を愛し、そういう世界を生き、描かずにはいられにない人だったのだろう。
この「祇園の姉妹」や「浪華悲歌」は本当に溝口らしくて素晴らしすぎて言葉を失う。
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2011年01月27日

小津安二郎 「宗方姉妹」雑感



何と言っても山村聡と田中絹代と夫婦喧嘩・・を通り越して対決するシーンがすごすぎる。山村が狂ったように田中の顔をひっぱたき、田中が微動もせずにそれを受け入れる。
このシーンに限らず、二人を描き出す小津の演出力は見事だ。「東京暮色」で、小津に悲劇は向かないなどと書いたばかりだけれど、舌の根のかわかないうちに前言撤回しないといけない。いや、本質的にコメディの方があうとは今だに思うのだけれど、少なくともちゃんと悲劇を演出する能力があることだけは確かだ。
だとすると、「東京暮色」が、あんなにうまくいっていない(と私は感じる)のは、なぜかしら。役者と脚本のせいなのかなぁ。この「宗方姉妹」がうまくいっている要因は、間違いなく山村聡と田中絹代が素晴らしい役者だということだし。東京暮色」は、撮り方をちょっとひねっているのが関係しているのかもしれない。この「宗方姉妹」は余計な小細工せずに、そのまま二人を撮っている。
さて、二人の名演はさておいて、この脚本に描かれている二人について感じたこと。大佛次郎の原作で、それをどの程度忠実に再現しているのかは知らない。が、私は田中絹代の演じている節子という女に全然共感できない。山村聰の演じる夫、三村亮助に献身的に尽くす妻である。しかし、昔に上原謙の演じる田代宏と、お互いに好意をもちあっていて、それを日記に書いていたのを三村に読まれてしまう。無論、それは昔の話だし、二人の間には何もないのだが、現在も二人は好意を胸にしまったまま会って、節子は田代の援助を受けようとする。それを三村は知って、嫉妬に苦しんで怒る。これは、当然ではないか。だって、二人は好意をもちあっているのに、それを知らぬ振りをして、夫には忠義を尽くす立派な妻であり続けようとしているのだから。
三村は、仕事もなく精神的にもダメ男なのだけれども、もしそうでなくとも怒ったり苛立ったりするが自然だろう。そして、実は精神的な裏切りをしておきながら、平然と私はちゃんとした妻でございますという顔をしている節子に、「おまえのそういうところが我慢できないんだ」と逆上して何度も殴りつけてしまう三村の気持も、痛いほどよくわかってしまうのだ。(あっ、あんなに女の人を殴りつけていいというわけじゃないです・・。)
節子という女は、表面的な好意や態度では立派な妻だけれども、実は全然三村のことを愛していないし、むしろそういう「立派な妻」としての自分を愛しているのだと言わざるをえない。むしろ、田代が好きだといって、三村の元を去ってくれた方が、三村にとってはまだマシだろう。表面上は立派な妻であり続けながら、精神的には三村を苦しめ続けるのだから。
ついでに言うと、田代という男も田代という男だ。本当は、節子が今でも好きなくせに、それを表には出さずに節子を財政援助しようとする。節子も田代も、自分たちでは全然意識していないが、善人ぶった恐ろしく残酷な人たちなのである。
だから、私は三村がどんなにダメ男でも、すっかり同情して見てしまったのである。だからというわけでもないが、ここでの山村聡の演技は本当に素晴らしいと思う。酒に溺れて苦しみのた打ち回るみじめな姿が、何ともやりきれないのだ。
小津は、勿論私が書いたような見方、演出をしているのではない。節子は、真面目な夫に尽くそうとする女で、何も悪い事をしていない。だから、田中絹代は夫に何を言われても毅然としていられるのだが、私がいま書いたような見方からすると、そういう田中=節子の自分の悪を自覚していない態度が実に空恐ろしくて、見事な演技だと感じる。小津の演出意図とは全く違うところで、私は田中の演じるある種の古い女の姿の恐ろしさに震撼させられるのだ。
上原謙の演じる田代もそうだ。小津は彼を、優柔不断だけれどもいい男として描いているのかもしれない。しかし、例えば、田代と
節子が一緒になろうと決意した夜に、三村が酔って「仕事が出来た」(多分でまかせ)といいに来た際に、田代は何の邪気もない笑顔で「おめでとう」と言うのだ。これも田代には何の悪気もないのだろうが残酷すぎる。せめて、節子をなぐったことを怒り、三村を責めて、修羅場になってもいいから、物事をはっきりさせてやるのが、人間的な行為ではないだろうか。しかし、上品な田代は決してそういうことをしない。私は上原謙の笑顔にゾッとして感心するのだが、勿論それは小津の演出意図とは関係ないことだ。
さらに、三村が急死した後も、節子は三村が気になるといって田代と一緒になることを拒む。そして、田代も無理に説得せずに「いつまでも待つ」とまた笑顔でいう。これも私には全然美談には思えない。そういう、おまえたちの偽善のせいで、どれだけ三村が苦しんだのか、まだ分からないのかと、三村にかわって逆上しそうになるのである。
というわけで、私は脚本には全然共感できなかったのだが、作品としての迫真性にはすっかり圧倒されたわけである。
冒頭には、小津のサイレント時代の大主役の斎藤達雄が登場したりする。そして、高峰秀子が新時代を象徴する若い娘として登場する。もっとも、私に言わせれば、姉の節子に同情している時点で、節子と考え方は違っても、「旧時代」だけれども。本当の「新時代」なら、三村に同情しないといけないはずだ。
高峰は、舌をペロッと出したり、声色を使ったりして大奮闘である。やはり、高峰の存在感はすごいものがある。いきなり、ストッキングを直すために、スカートを自分でめくりあげて美脚を披露する場面があったりして、小津映画なのでドキッとしたりする。
京都の風景が、ふんだんに使われていて美しい映画でもある。内容とは対照的に。
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小津安二郎 「お茶漬の味」雑感



1952年の作品。1951年の「麦秋」の次の作品であり、基本的に似たようなコメディタッチの映画である。
「麦秋」では、原節子の結婚をめぐって、兄と妹、両親と娘の関係が中心になるが、この作品では木暮実千代と佐分利信の夫婦の物語である。
小暮が小津作品では珍しいが、夫に対して腹を立てるシーンの迫力などみると、やはりはまり役である。小津も、そういう効果を狙ったのだろう。どんな男だって、木暮実千代にあんな剣幕でどやしつけられたらビビります。
といっても、夫婦の深刻な問題ではなく、ものの食べ方などちょっとした感覚の違いによる夫婦喧嘩、といてうよりは小暮が一人で怒っているのである。そして、最後は和解する。仲直りした木暮実千代が、ノロケ話をしまくって、淡島千景と上原葉子を辟易させるシーンはなかなか笑えるのである。
でも、「麦秋」と「お茶漬の味」のどちらをとるかというと、やはり「麦秋」になってしまう。冷静に考えるとコメディとしてのレベルは同程度のような気もするのだが。木暮実千代も素晴らしい女優だけれど、やはり小津映画には原節子が似合うということなのかなぁ。
それと、夫婦関係よりも血のつながりの関係がテーマとして小津に合うというのもあるのかもしれない。どちらも、基本はコメディなのだけれども、軽い話の中に深い奥行きをもたらすテーマとして、小津の場合は、他人同士の夫婦の関係よりも、もっと理屈抜きの原始的な血縁関係が向いている。小津映画は、さりげないどうでもいい話のようでいて、ひょっと人間の本能の根源の姿を垣間見させるところがあって、だから親子の本能的な関係が適しているといったら強引過ぎるか。
若き日の鶴田浩二が出ているのも珍しいが、ちょっと加瀬大周と似ていたりする。
笠智衆がパチンコ屋のオヤジで登場するが、その奥さん役で望月優子がチラッと登場する。この時期の映画を見ていると、同じ顔ぶれがいろいろな形ででてきて面白い。
小暮の女友達の、黒田高子役の上原葉子(小桜葉子)が、健康的な美人で、妙に人をひきつける存在感がある。私は知らなかったのだが、上原謙夫人で加山雄三のおっかさんだそうである。結構若い感じて、近い時期に黒澤映画に出ていた加山雄三との年齢関係がよくわからなかったのだが、ウィキペディアを読むと、19歳の時に加山を生んでいるそうだ。
そして、美容体操の元祖でもあるそうだ。小暮が佐分利に旅行先から電話して、「高子が病気なの」とウソをつくシーンで、その背後で当の上原葉子が元気一杯に伸びをして笑わせるのだが、その動きに妙にキレがあって納得させられたのであった。
それと、鶴田浩二がバーで飲んでいると、女給が画面に入ってきて佐分利信を「いらっしやい」と迎えるシーンがあるが、その女給が、北原三枝だそうである。石原裕次郎の奥さん、石原まき子である。
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2011年01月26日

成瀬巳喜男「女が階段を上る時」メモ



1960年の作品。モノクロ。
高峰秀子が銀座のママを演じて、そこを行きかう人間模様を高峰を中心にして描いた作品。成瀬映画は、この60年辺りからは現代ものになってきて、それまでの芸術的な成瀬映画とは別ものだと割り切って見たほうがいいのかもしれない。とにかく、オールスターキャストで、それぞれの役者の個性を楽しめる作品てせある。
バーのホステスでは団令子の甘えた、ちゃっかりした女性ぶり。ある種の怪演ぶりだ。ウィキを見たら「椿三十郎」にも出ていたらしい。そうだっけ。
女の世界で、バーのホステスが多数出てくるが、成瀬映画なのに、なぜか男性陣が印象に残る映画だ。まぁ、全員が高峰秀子を狙って争うという設定なので自然とそうなるか。
小沢栄太郎の堂に入った悪漢ぶり、いつまでたっても女性が大好きなおじいさんがハマっている中村鴈治郎、そして仲代達矢は、ここでも若くて鋭角的でギラギラしているのだ。
しかし、加東大介にはすっかり私まで騙された。高峰の亡夫が、太っていて人間がいいという丁寧なネタフリつきで、してやられた。そして、加東大介も、すっかり自分でも勘違いしてなりきっているのだ。そうだよな、成瀬映画でそんなハッピーエンドのわけがない。
森雅之と高峰秀子が愛し合うシーンは、当然「浮雲」を連想してしまう。そのせいなのか、この二人の場合、なぜか演技でなく本当に愛しあっているのではないかという雰囲気が画面からにじみ出る。要するに二人とも偉大な役者だったということなのだけろうが、やはり相性のよさのようなものもあったのではないかと思う。
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成瀬巳喜男 「乱れ雲」メモ



成瀬の遺作。
司葉子は相変わらず、かわいくて美しい。相手役は加山雄三。加山雄三は黒澤の「椿三十郎」や「赤ひげ」では本当に素晴らしかった。しかし、こうしてすっかり「加山雄三」になった加山雄三は、正直私には濃すぎる。成瀬映画でいうと森雅之画懐かしくなる。なぜか、私はあの時代の映画や俳優が好きなのだ。勿論、個人的な趣味の問題に過ぎないけれど。
ストーリーは、ある女性が自分の夫を自動車事故で、過失とはいえ死亡させた男と憎みあいながら、いつしか惹かれあい、ついには愛しあうようになるという物語である。こう書くとちょっとメロドラマ的だ。但し、結末は道徳的である。きちんと描けているとは思うけれど、何となく物足りなさも感じる。「浮雲」の非道徳的な突き放した完全に男と女だけの世界が懐恋しくなる。時代的に、もうそういう映画を撮るのが不可能だったのだろうか。
加山と司がタクシーにっのて旅館に向かう際に、踏み切りで待つシーンが、ちょっと印象的。何も会話は交わされず、加山と司の表情、タクシー・ドライバーのミラー越しの目、踏み切りの前で止まる車が映し出される。映画的な緊迫感をかもし出すシーンだ。但し、その後、過去を思い出させる自動車事故の現場のシーンになって、それが説明的で少しガッカリするのだけれど。
音楽は、武満徹。この晩年の成瀬の映像とうまくあっているかは微妙だと感じた。
成瀬の場合、やはりカラーよりもモノクロがいいと感じる。例えば、小津などはカラーでの独特な色彩のこだわりと感受性がある。しかし、成瀬の場合は、白黒テレビがカラーテレビに変っただけという感じだ。また、役者や時代背景も、少し前の時代のほうがしっくりする。成瀬は、日本映画の黄金期の人だったのだと思う。そして、この「乱れ雲」よりも、ずっと世代的には後の人間の私も、なぜだか、この時代には違和感を覚えて、それ以前の時代が恋しいのだ。どうしてなのだろう。
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2011年01月25日

小津安二郎「東京暮色」雑感



妊娠した有馬稲子から逃げ回っていた卑劣な情けない男が、ラーメン屋で有馬と出くわして、ビンタを何発もくらう。そして、有馬は去り、男が一人ラーメン屋に残されて泣く。深刻なシーンなのだけれども、なんだか笑ってしまった。まるでコメディのようなのだ。名匠小津の残した珍シーンにあげたくなってしまう。その男の役者は、お世辞にも見事な演技とはいえなくて、役者がどうかというのもあるけれども、全般に小津の演出にも問題があるように思える。
有馬稲子が、山田五十鈴に「お母さんなんか、嫌いよっ」と言い捨てるシーン、原節子がやはり山田五十鈴に、妹が死んだのは「あなたのせいです」と責めるシーン。なんだか唐突で、どうもうまく「悲劇」になっていないように感じるのだ。原は、黒澤映画でも分かるとおりにデモーニッシュな側面も持つ、なんでも出来る俳優で、こうした「悲劇」にも十分適応できる役者のはずなので、やはり演出の問題なのだという気がする。
小津は成瀬の「浮雲」を見ていたく感銘をうけたらしいが、自分もそういうのを撮りたいと思ったのだろうか。「浮雲」が1955年、本作品は1957年である。単に作品としての失敗ということではなく、小津という作家や人間の本質を考える上でも、この作品は興味深いと思う。
「麦秋」やカラーの作品の多くは「コメディ」である。小津の名作はたいていそうだ。小津にそういうのが合うのは間違いない。ただ、「東京物語」はどうか。あれは、勿論コメディではない。しかし、トラジディでもない。老夫婦の悲しいが美しい無常の物語である。短調の音楽なのだけれども、激しく嘆き悲しむ音楽ではなく、切々と悲しい美しいメロディだ。
本作品でも、現実の激しいトラジディの場面ではうまくいっていないが、悲しい場面では見事な演出ぶりだ。例えば、山田五十鈴と中村伸郎が北国に電車で向かう際に、山田が娘の原が見送りに来ていないかと、何度も何度も車窓の外をみやり、中村が「きやしないよ」とか、さりげなく言うシーン。素晴らしいと思う。こういう、現実の激しい悲劇ではない、もの悲しいシーンは小津はむしろ得意なのだ。
小津には、やはり生々しい現実と直に向き合うというより、そこからある程度距離を置いてそれをみつめる態度が本質的にあったのではないだろうか。それは、映画制作だけでなく、多分小津という人間の本質に関わる部分なのかもしれない。
もっとも、小津は中後期の名作郡だけでなく、実は色々なタイプの映画を撮っている。小津没後何周年かの特集でNHKのBSがサイレントを含めてほとんど全ての作品を放映された際に私も全部見て、小津の本質が後期の「小津らしい」作品だけでは判断できないと思った。ただ、私は忘れっぽくて、それらの作品をよくは覚えてないので何とも言えないのだけれども。録画に残しておけばよかった。小津映画なら全ての作品を見ようと思えばいつでも見られると思っていたのだが、現在は必ずしもそういう状況ではない。
この作品は笠智衆と原節子の父娘が見られる貴重な作品なのに、両者のよさがほとんど出ていないのが本当に惜しいと思う。もっとも、私などは原節子を見ているだけでもいいのだけれども。有馬稲子も熱演していて立派だが、例えば最近見た成瀬の「晩菊」で脇役で現代風の娘をやっている方が、はるかに魅力的なのだ。
ただ、先ほども書いたが山田五十鈴と中村伸郎の男女は大変よい。山田が、子供を早いうちに捨てて、どこかやはり細やかな心配りが足りないが、しかし基本的に愛情は豊かな女という雰囲気を見事に出している。そして、それをさりげなく支える中村伸郎も素晴らしい。後期のコメディ調の作品でも、「東京物語」の杉村の夫でも、本作でも、中村は決して重い演技ではなく、軽いさりげない粋な演技でありながら、その役どころに求められるものを過不足なく表現していると思う。そして、常に何をやっても一種の品格,矜持のようなものを失わない。本当に素晴らしい役者だ。
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2011年01月24日

成瀬巳喜男「晩菊」雑記



杉村春子の金貸しのオバサン、婆さんがはまりすぎ。本当に憎たらしくて素晴らしい。ただ、上原謙の前だけだと、「女」になりかけるのだけれど、杉村だと自立心が強烈過ぎてちょっと似合わない。例えば、同じく出ている沢村貞子なら、そういう一面はうまくやりそうだが、それだと金貸しとしては物足りなくなってしまうか。とにかく難しい役だが、偉大な役者の杉村がやりきっている。上原との出会いの期待と幻滅のシーンは、内心のモノローグの手法も使っていて珍しい。幻滅におわる過程の描き方は、成瀬らしくて見事だ。
1954年の作品。沢村貞子もなかなか美しく撮れている。1960年の小津の「秋日和」だと、もう結構なオバサンに見えるのに、こちらだとまだ色気のようなものもある。役の違いもあるが、どうも小津より成瀬の方が女性を美しく映すような気がして仕方ない。
有馬稲子が、現代風の娘をやっている。演出なのだろう、ラーメンを少し品なくすすらされたりしているのだが、とてもかわいい感じだ。小津の「彼岸花」では品のいいお嬢さんだったが、こっちの方がよほどいいと思う。もっとも、趣味の問題で、小津のように上品な感じの美しさで女性を撮ってくれた方が好きだという人もいるのかもしれない。「東京暮色」ではどんな感じだったかよく思い出せないので、また見てみよう。
しかし、この映画では、芸者あがりの、細川ちか子と望月優子が、とてもいいと思った。細川は人がよくておっとりしていてどこか上品な女、望月は元気で明るくて庶民的な女。それぞれ、現代的な息子と娘をかかえていて、その最底辺の生活を受け入れて諦念を抱きながらも、しっかり生きている感じがとてもよい。それぞれの子供との関係も、問題を抱えながらあたたかく描かれている。
細川が酔って、どんな人生を過ごそうとも、所詮は一場の夢だと語る部分は印象的だ。望月の方は、若い娘のマネをしてモンロー・ウォークをしてふざける場面がいい。
杉村のかつての心中相手も登場したりするが、何か起こりそうで特に何も事件は起きない。あくまで、日常の暮らしと登場人物の心持を淡々と描いて、しみじみとさせる佳品である。
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2011年01月23日

成瀬巳喜男 「女の座」雑記

原節子出演の成瀬映画が見たくて、ビデオを探したらスカパーで成瀬映画を録画しておいたのをたくさん発見して少しずつ見ている。
この 「女の座」は1962年の作品。モノクロで撮られている。
女がやたら多い現代家族の物語で、成瀬作品らしくオールスターの色々な女優のそれぞれの女性らしさが楽しめる。
司葉子が、相変わらず日本のオードリー・ヘップバーン的雰囲気をかもし出している。1960年の小津の「秋日和」にも原の娘役で出ていてその2年後だが、比較してもやはり女性を美しく撮るのが成瀬はうまいと思う。変わり者で貧乏だが人間がよくてハンサムな夏木陽介といいところの息子で金持ちだがあまり感じがよくない男のどちらかを選ぶことになり、見ている人間は当然夏木との純愛を期待するが、司葉子はあっさりと金持ちの息子の方を選ぶ。なんとなく成瀬的である。
草笛光子が、独身の気ままでプライドが高くて我儘な女性を演じているのが強烈な印象を残す。宝田明に一目ぼれして、宝田のアパートで、自分から告白、プロポーズするシーン。大真面目なのだが、部屋の外で、アパート管理人の娘が盗み聞きしていて、部屋から出てきた草笛をニヤニヤみつめて「オールドミスっいすごいわね。」という。なんとも意地悪な成瀬の演出で、こういうところも成瀬的だ。
そして、宝田が好きな高峰秀子に猛烈に嫉妬して、高峰が本当は単なるワルの女たらしの宝田の本性を見抜いて、草笛などに関わらないように説得するのを誤解して、こっそり会うなんてと、高峰のほっぺたを張り飛ばす。これまた成瀬的だ。
それでも、高峰は黙ってじっと耐える。「流れる」の田中絹代同様、ここでの高峰秀子はめちゃくちゃイメージアップのいい役だ。
宝田明は、とんでもない詐欺師の女たらしなのだが、高峰秀子のことだけは本当に真面目に好きになったようだ。そして、宝田も真面目に高峰に告白する。高峰も未亡人なで一応は自由の身だ。ロマンティックな映画ならば、ダメな男とそれをささえる優しい女という展開になってもおかしくない。しかし、高峰の反応はきわめて現実的だ。はっきり、「迷惑だ」と断り、さらに「あなたは自分の不幸を売り物にしているのよ」と辛辣極まりないセリフをはく。悪役の宝田が気の毒になるくらいだ。というのも、実に成瀬的ではないか。
といった具合に、成瀬的なさめた視点で、個性派の役者たちの人間模様をユーモラスに、あるいは少し真面目に描き出した作品である。しかし、脚本は高峰の高校生の息子が急に電車に飛び込んで自殺したりして、なおかつその葬儀をコミカルに描いたり高峰の真面目な愁嘆を描いたりよくわからい映画である。作品としての完成度は高くないのかもしれない。
ところで、ラスト近くで、笠智衆と杉村春子と高峰秀子が、老後に一軒家で静かに暮らそうと他人の家を物色してのぞきこむと、その家の男と顔を合わすシーンがあるが、チラッと映ったのが前田吟のような気がするのだけれど違うだろうか。
とにかく、辛辣で現実主義的な成瀬的視点にニヤニヤしてしまう映画である。
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2011年01月22日

成瀬巳喜男「流れる」感想



昨日「浮雲」について書いたのだか、読み返すとうまく言いたいことが言えていない。暗くて救いのない映画だけれども、それを徹底的に突き放す成瀬演出が効果をあげ、森と高峰の迫真の演技もあり、圧倒的な感銘を残す作品になっていると言いたかっただけだ。成瀬的日本的な感覚について、つべこべ言っているのはあくまで付け足しである。
それと大切なことを言い忘れた。高峰秀子が昨年末に亡くなって、すぐ「浮雲」を見たいと思ったのだが、手元になくてやっとみれたというわけである。
さて、その高峰もでている「流れる」。「浮雲」のような強烈さはないけれども、成瀬らしい傑作ということでは、むしろこちらをあげる人が多いのではないだろうか。
花街の人間模様をきめ細かく優しく、そして時には残酷に描いた成瀬らしい作品である。当然女性が中心の映画で、男性は宮口精二が、田舎者の粗野なオヤジを好演、怪演している以外は、本当に脇で加東大介や中村伸郎が顔見せ程度に出てくるくらいだ。
そしてオールスターキャストの女性陣がみな素晴らしい。溝口健二の「赤線地帯」もオールスターキャストで遊郭を描いて、とても面白い映画で、溝口特有のアクの強さが魅力的だったが、こちらはあくまで成瀬的で自然で繊細な描き方だ。二人の巨匠の個性がよく出ている。
それにしてもどの女優も魅力的だ。
田中絹代は苦労人でしっかりもので礼儀正しくて慎ましくて優しくて、これでは全く天使ではないか。いつも、なんだか忙しそうにキビキビ働きまわっているのだ。演出上ノンビリした動きをすることをこの映画では許されていない。
山田五十鈴は、年増だが十分に美しくて、芸が確かで、性格も大らかで優しいが、本質的には芸者向きではない。零落していく芸者屋の主人公にふさわしい。ラスト近くで、売り払われるのも知らずに三味線を優雅に弾くシーンが泣ける。
その山田を親身になって世話をする栗島すみ子。大御所がこの映画のために復帰したらしいが、その貫禄と品格がすごくて、表現は悪いがいかにも女ボスという感じだ。そして、最後にずっと親身に世話をしていた山田五十鈴たちを追い出して小料理屋を開こうという田中に打ち明けるシーンがすごい。それをサラッと言ってのけるのだ。成瀬的な世界という感じがする。そして、田中絹代はさの小料理屋にスカウトされてしまうのだが、丁寧にしかしキッパリ断りをいれる。世話になっている山田五十鈴への筋を通したのだが、この映画での田中絹代はイメージアップしすぎである。また、そういう役が何の違和感もなく似合うのだ。
高峰秀子は、花柳界になじめない生真面目ですこし気が強い娘役。でも、母親の山田五十鈴をこよなく愛している。「浮雲」よりも、この役の方が似合っているような気がする。というか「浮雲」の世界は誰がやっても難しいし、本来は高峰秀子に似合わない役なのかもしれないが、本当になりきってぃた。森もそうで多分本来のキャラクターちとは異なる役で、二人とも大したものなのである。
中北千枝子は、山田五十鈴の妹で、だらしない怠け者の役。これも、はまっている。娘が中村伸郎の医師に注射をされる際に、自分の子供なのに抑えないで目をつぶってしまうだらしなさ。こういう演出もうまい。そして、ここでも田中絹代が娘を優しく説得し寄り添って寝てしっかりおさえるのだ。もう、かっこよすぎである。
そういえば、栗島すみ子が田中絹代に大金を預けるシーンで、もしかして金が盗まれて田中絹代が大変な事になるのではないかと心配になった。普通、そう考えますよね。でも、何事もなくしっかり山田五十鈴に渡す。ここら辺も、多分ちょっとした肩透かしを狙った演出なのではないだろうか。
岡田茉莉子は若くて元気な芸者役でこれもはまっている。
そして、杉村春子が特に後半に大活躍。酔って夜中に岡田茉莉子と踊って、それを子供の娘が澄んだ目でみつめるところなど、何となく切ないいいシーンだ。こういう、ちょっとした繊細な演出が成瀬は本当にうまい。
そして、男に捨てられて酔って山田五十鈴に給金のことで絡み、高峰秀子に「男を知っていることがどうして自慢になるの」と叱責されて、「女に男が要らないだって」と酔って笑いながら捨て台詞するところは掛け値なしに名シーンだ。杉村春子以外には無理だろうと思う。
ダラダラと内容の説明を続けてしまったが、そういう細かいさりげない名シーンの連続なのである。そして、根底には没落する花街へのあたたかい視線と無常感が漂っていて、何ともいい映画だ。
女性を描かせたら他の追随を許さないとされる成瀬の本領が発揮された名品である。こうして書いていると、成瀬映画の女というのは、男性がこうあってほしいという理想の女だという気もする。私も男なのでそれはよく分かる。もっとも、女性が成瀬映画を見てどう思うかは別なのではないかとも思った。すごく女性らしい女性たちだけれど゜も、現実の女性とは違うのかもしれない。でも、そういう男性が勝手に思い描く女性というのは、幻想かもしれないが、きわめてリアルな存在である。きっと映画とは、そういうものだろう。


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2011年01月21日

成瀬巳喜男「浮雲」感想



成瀬の最高傑作とされる映画である。だが、私は始めて見たときに正直好きになれなかった。男女の世界を描いた名品だという。決してそういう世界は嫌いではないのだけれど、監督の目がなんと言うか日本的に冷酷なのだ。この作品のウィキペディアをみると、「ゆき子と富岡は何度も衝突しその度によりを戻すが、成瀬はその別れられない理由については「身体の相性が良かったから」といった類の発言をしている。」そうである。
例えば私が好きなベルイマン映画でも男と女の地獄のような世界を描いていて、その過酷さは成瀬よりひどいくらいだけれども、根底には救いを求める視線のようなものがあって、あるいは現実と理想の緊張関係があって、その映画に深みをもたらしている。
溝口健二も過酷な現実を描いているようで、そういう現実を超えていこうと何か、憧れのようなものを感じる。この成瀬映画には、そういう甘さはないと思う。
この「浮雲」の男女の世界は、救いのない男女の世界が、そのままありのまま投げだされて観る者の目の前に晒される。それが日本的な独特な感性といえるのかもしれないが・・。ラストで二人の愛が確認されるけれども、そういうストーリーとは関係なく監督の目が鬼なのだ。
この映画を見た小津安二郎が「私には撮れない」といって褒めたという話があるが、まさしくそうだろう。絶対に撮れない。人間は自分と正反対のものに憧れるのだ。
但し、そういう作品に対する好き嫌いを超えて、強烈で圧倒的な印象を与える作品であることは間違いない。小津の感想も、とにかく作品の力に圧倒された人間の率直な言葉だ。
そして、今回改めて作品の内容を承知した上である程度冷静に見たが、要するに高峰秀子と森雅之が素晴らしいのだ。特に森は、他の映画の作品と違って、冷酷でだらしなくて卑劣だが女には魅力のある男という存在に深いところでなりきっている。高峰もそうだ。
映画は、どんなに現実をありのままに描いているようでも決して現実ではない。成瀬はある種自然主義的リアリズムの冷たい視線で男女の世界を描き出すが、その救いのない男女を二人は、救いのないままの形で、なおかつ映画的な神話創造作業を行いながら行っている。ここでの二人は、現実でありそうでいて、全く現実にはありえない男女なのである。
不思議なことがおこっている。成瀬の視線は冷たく突き放しているが、結果的には男女のメルヘンになっている。最後に林芙美子“花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき”と字幕が流れるが、救いのない現実をそのまま描くことで「花」になっている。映画の魔法だ。
勿論、成瀬もこの字幕を最後にもってくるくらいだから、悲惨な現実を描きながらそれが映画的な美しい創造になることをちゃんと理解し計算して映画を撮っているのだろう。彼は小説家ではなく映画作家なのだから。だから、私が最初に書いた成瀬の視線の冷たさなど本当はどうでもいいことなのかもしれない。とにかく見事な映画なのだから。
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2011年01月20日

原節子主演、今井正監督「青い山脈」



原節子は、女学生とバスケットボールをするシーンで登場する。理想に燃える女性教師役がはまりすぎだ。ちょっと、雰囲気が宝塚的でもある。杉葉子と踊るシーンとか。
1949年の作品だが、現在の、というよりは古きよき時代のテレビ・ドラマのようだ。理屈ぬきに楽しいし、どのキャラクターも分かりやすく性格づけられている。メガネ娘のおしゃまな若山セツ子。おっとこ前な池部良。伸びやかな女子高生、杉葉子。大らかな大物で正義感の強い龍崎一郎。意地悪女子高生の山本和子。人のいいとぼけた伊豆肇。いい味出してる真面目で純朴な藤原釜足等々。
一応は町の因習的な道徳と民主的な自由な思想の対立というテーマだけれども、深刻にならずに予定調和の「テレビ・ドラマ」として楽しめる。杉葉子に意地悪する山本和子にも、最後にはちゃんと和解の場面が用意されているのだ。
原の出演した、小津、成瀬、黒澤といった正真正銘の「映画監督」の作品を見続けた後では、軽く感じられるけれども、日本の「テレビドラマ」というのも独特のスタイルと伝統をもった素晴らしい世界である。両者に差別はないし、どちらも深く楽しもうと思えばいくらでも深く楽しめる。この「青い山脈」は、日本独特のテレビドラマ(映画でもいいが)の先鞭となった作品だと感じた。理屈っぽくいうとそうなるが、とにかく見ていて楽しくて、すっかりいい気分になったのである。
それと、何と言っても芸者の梅太郎を演じる木暮実千代が絶品である。実に女性らしくて色っぽい。沼田医師と一緒に自転車に乗ってきわどいジョークをいうシーン、初めて原節子を見てライバルに感心するシーン、酔っ払って威勢良くグチるシーン、理事会での悪役教師を震え上がらせるシーン、どれも素晴らしい。この映画は、なんとなくテレビドラマ的なところがあって、場合によっては原節子の登場シーンでもそうなりがちだが、木暮実千代が出てくると見事に「映画」になるように感じた。その出来のよさは原節子を、ちょっとくっているくらいである。溝口の「祇園囃子」でも本当によかったが。
この作品の役割がはまりすぎることでも分かるように、原節子は全然本来伝統的な日本女性のタイプではない。役ということでなく、原の場合はスクリーンに映るだけで、完全に存在として「個」の姿になるのだ。それは、男性の俳優でもそんなにないことだろう。小津や成瀬の映画の中の女性らしい姿のイメージが強すぎるけれども、本来欧米の映画の中で自分をしっかり主張する役割が似合う人だったような気がする。そういう映画は、当時の日本にはなかったけれども。だから、原のキャラクターの本質を一番よく見抜いて生かしたのは、黒澤明の、ある種異常な二本だったのかもしれない。
この「青い山脈」は、そういう役としてはピッタリだけど、こういう原の特質を深く掘り下げて描く「映画」が残っていないのは、少し残念な気もする。
ちなみに、ラストで丘に座って微笑む原節子は、これは文句なしにめっちゃきれいです。
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2011年01月19日

黒澤明「わが青春に悔なし」雑談




マルセ太郎という変った芸人がいて、オラウータンの物真似で有名だったが、裏芸として黒澤明映画の一人再現芝居をやっていた。「生きる」とかを。黒澤の現代物って、表現主義過剰みたいなところがあるじゃないですか。時代ものの、例えば「羅生門」とかだと、それが実に効果的だけれど、現代物だとパロディの対象としても成立してしまう。あまりに真剣で真面目すぎるものは、笑いを誘ってしまうのだ。マルセ太郎の芸は、その辺をうまくついたもなかなかのものだった。
さて、この黒澤映画も、そういうところがある。冒頭の若者のシーンとか、ちょっと引いて照れくさくなる。原節子が川を渡れないところに、二人の男が手をさしのべて、野毛がずかきずかと進み出て川に踏み込み原を抱きかかえて渡らせてしまう。そして、それを複雑な表情で見やる糸川。青春である。マルセ太郎がうまく演じそうなところだ。
原節子も若い。1946年公開だ。そして、屋敷で「展覧会の絵」をピアノで大袈裟な身振りで弾くシーン。黒澤の現代ものというのは、ちょっと時代を感じさせることもある。正直言って。
テーマも政治なのだけれど、こういうのは難しい。どうしても、正義の側とそうでない方を、単純に対比してしまいがちだ。ここでは、野毛と糸川が対照的な政治的な立場、処世術の存在として描かれている。そして、勿論、野毛とそれを支える原が演じる幸枝を好意的に描いていて、別にイヤじゃないけれど、こういう単純な政治的割りきり方をそのまま受け入れる気にはちょっとならない。「生きる」でも、そういう単純な善と悪の対比がされているが、あの話は基本的にフィクションなので気にならないが、こういう政治的問題を真正面から取り上げている作品では、単純な善悪の対比には、どこかしらモヤモヤしたものが残る。
しかし、この映画で大切なのは、そういうことじゃない。あくまで、原節子が農婦になって働き戦うシーンの映画的リアリティが全てだ。あれは、もう文句ない。原節子が、もう原始人みたいなメイクで、ガムシャラに働く迫力。原は、眼光も鋭くて「白痴」でもさそうだったが、黒澤的な過剰な表現主義に全く負けない稀有な女優なのだ。
そして、野毛の実家にはられた「スパイ」の落書きとか、原を見つめる子供たちや百姓の表情の撮り方、あの大袈裟な撮り方と表現が、あまりに過激すぎて現実離れしているために、かえってリアルな説得力を生むのだ。
そして、野毛の母親役の杉村春子が、原と田植えを終えた際に、ものすごい笑い声をあげる。あの、原始的な生命力に満ちた笑いは、忘れようにも忘れられない。杉村も、やはり普通じゃない役者だ。
黒澤映画には、そういうあまりに熱狂没頭しすぎる迫力があって、それは冷静にひいてみると笑いの対象にもなりかねない。しかし、この映画の後半の農村のシーンが典型的だが、あまりに気違いじみた迫力に否応なしに観る人間は納得して巻き込まれ、素直に感動してしまうのだ。もはや、知的な批判精神が停止するところまで、黒澤はとことんやってくれる。
マルセ太郎は、例えば「生きる」をバカにしてパロディにしていたのではない。そうじゃない。黒澤の過激な演出が好きで好きで、それに完全につかまってしてゃられながら、同時に笑っているのだ。
私も、この映画の後半では、完全にしてやられてそういう体験をした。そして、もはや杉村春子のように原初的な笑い声を発するしかないのだ。
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2011年01月18日

成瀬巳喜男「めし」感想



1951年の作品で原節子31歳。原は流石に売れっ子で一年に何本もの映画に出演しているが、この年はこの映画以外に、小津の「麦秋」、黒澤の「白痴」にも出ている。三人の巨匠の映画に出ていて、特に黒澤の「白痴」は役作りが難しそうで、大変だったのではないだろうか。でも、どれも結果的には見事な出来栄えである。
この「めし」では、生活と家事に追われる主婦という役だ。もっとも、もともとお嬢さんだったのが、結婚してそうなったという設定なので、別に原には無理な役ではない。労働に追われる役ということでは、黒澤の「わが青春に悔いなし」という極端な例も経験済みだし。それにしても、出演した黒澤映画で二本とも随分原は無茶をさせられたものだ。
上原謙とは「山の音」とこの作品で夫婦役。この作品は、端役がなかなか面白い。大泉滉がダメなボンボンをしている。後に小津の「あはよう」でモダンボーイ的な役割で登場して、やはりこの二人の監督は関係が深い。浦辺粂子が近所のオバチャンだったり、山村聡と長岡輝子がほんのチョイ役で出ていたり、進藤英太郎が存在感抜群の声を聞かしていたりする。
そして、原節子の家族が、ひたすら優しい母親の杉村春子(なんとなくイメージ的に不気味だ)と杉葉子と小林桂樹。小林が、甘ったれた島崎雪子を叱り飛ばして正論を吐くシーンがあるが、何となく小林にイラッとしてしまうのはどうしてただろう。その他のどの端役もなぜか全員妙に印象に残る映画だ。
甘えた我儘な娘を島崎雪子が演じているのだが、やはりめっちゃきれいだ。美しさでは原にも負けないところもあると思うが、役者としての深さとか品とか存在感だと原に比べるべくもない。だから、原に共感して島崎にいらだって自然にみてしまう。
原は猛烈な勢いで掃除をする躍動感が印象に残ったりするが、ストーリー自体が平板で大きな波乱もなくハッピーエンドで終わるので、原らしい特別な強烈な個性を感じる場面は意外に少ないかもしれない。でも、黒澤映画や小津映画のキャラの立ちかたと異なり、自然に美しい原節子を撮ってくれているのがありがたい気もする。
ところで、ネットで成瀬について検索すると、なぜか抽象的な理論的な分析をしているサイトが結構多く目に付いた。他の大家よりも。私はあんまりそういう映画論には興味がないのだけれど、全然抽象的でない成瀬映画に対してそういう批評をしたくなるのはなぜなのだろうか。
ただ、わりと成瀬映画を具体的に論じているサイトで、成瀬の映画の特徴として「目線の芸」があるというのはなるほどと思った。登場人物の目線の変化をカメラが追う手法。例えば、昨日書いた「驟雨」の冒頭のシーンなど確かにそうだ。そして、成瀬映画には「振り向く」シーンがやたら多いと。
こういったことは本物の成瀬マニアなら常識なのかもしれないが、素人の私でも気づいたのはあるぞ。役者の表情なり何なりを映して、サッと暗転させる手法。切れる直前のシーンがすごく印象にとどまると共に、細やかな余韻が残る。あくまで成瀬映画の印象が柔かくて繊細なのは、そういった技法の集成のためなのだろう。
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2011年01月17日

成瀬巳喜男「驟雨」感想

amazonのリンクをはろうと思ったら見当たらない。この名作が・・、原節子が出ているのに。ちなみに、私はスカパーの映画チャンネルで放映した際に録画しておいたものを改めて見たのである。
1956年の作品。原節子36歳が、倦怠期の主婦を演じているのだが、十分若々しくて美しい。小津の「秋日和」で、佐分利信と中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が未亡人の原節子について「あの色気は・・。」と言い合うシーンがあるが、まさしくそんな感じだ。但し、この「驟雨」の方が全然よい。年齢的にも。
佐野周二と原節子の倦怠期気味の夫婦の日常を、さりげなくコメディタッチで描いた佳品である。この二人は、小津の「麦秋」で会社の上役と秘書の間柄だった。さこでは佐野は、明るく陽気な役柄だったが、ここではすこし神経質で弱いところのある男を好演している。
原節子のほうは、本当に普通の主婦である。まぁ、当然「美しい」という設定だが、気が強くも弱くもなく、外交的なところがあるかと思うと内向的なところもあり、夫に献身的に尽くすというわけでもなく言いたいことも言うが別に仲が悪いわけでもない。要するに、ごく普通の夫婦で、こう書いていて演じるのが結構難しいのではないかと思うが、原はここでもごく自然に役に成りきってしまっている。
そういえば:香川京子も原の姪の役で登場する。「東京物語」でも、二人は似たような関係を演じていて、本当に小津映画と成瀬映画は色々かぶっている。
ただ、成瀬映画の特徴で、女性もそれなりに女性らしい自己主張をするので、原節子の魅力がよくでている。「山の音」でも書いたが、原節子を美しく魅力的に撮る点では、個人的には小津より成瀬に軍配をあげたい。そして、ここでも、「山の音」とは全く違うキャラクターをも見られて楽しい。
香川京子が新婚の夫の無神経さをさかんにこぼすと、原は同情して佐野はニヤニヤしてきいている。男と女の感性の違いが出ていて面白いシーンだが、こういうのも小津的でない成瀬的な世界だ。
そういえば、小津映画では、親子関係が軸となる作品に名作が多い。こういう、基本的には他人同士の夫婦の関係は人間的過ぎて苦手だったのかもしれない。そして、成瀬はこういうゴタゴタした男女関係を描くのが得意中の得意なのだ。
ただし、本作品は名作「浮雲」のようにシリアスでなく、あくまで大人の趣味のいいコメディ調で、男女の微妙なズレを軽妙につきはなして描き出している。原節子が出演した成瀬作品では一番好きだ。
背後には、ピアノのメロディが効果的に使われている。ラストの夫婦で、佐野がオタオタしながら、原がしっかりして堂々と風船を打ち合うシーンが何とも印象的だ。そもそも、原はそういう女性上位?というか、男よりもよっぽどしっかりした女性が似合う役者でもあった。
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2011年01月16日

成瀬巳喜男 「山の音」感想



小津映画の原節子だけでは飽き足らずに、成瀬巳喜男作品に出演した「山の音」「驟雨」「めし」を観た。
第二の小津などと呼ばれた成瀬だけれども、こうして小津作品をまとめてみた後で鑑賞すると、随分と世界が違うと感じる。成瀬作品の女性は、とても生々しい。細やかな女性の感性を描き出すことでは、小津の比ではない。というよりは、小津映画は、どんなに現実的な女性が登場しても、どこか現実の女性とは違う昇華されたもの、能や狂言の人間の扱いと通ずるものがある。現実の女が描けてないという見方をする人もいるかもしれない。
成瀬作品の女性には皆現実の生々しい臭いがする。ほとんど現代のメロドラマのようなところもある。とはいえ、それも映画なので本質的には虚構であり、映画的創造だ。その点では、小津も成瀬も変わりない。ただ似たような題材や役者を扱うようにみえて、両者はむしろ対照的な個性である。
両方の映画に出てくる長岡輝子の扱い一つとってもそうだ。小津映画では、女中だったりとなりのうるさい奥さんだったりして、あまり活躍していないが。例えば、この「山の音」でも、成瀬的な女性の典型的パターンとして、よく喋り存在感を発揮して実に生き生きしている。それが、成瀬映画の女性の現実感にうまくマッチしているのだが、小津映画にこういうある種俗な女性が登場したら違和感があるだろう。
そういう意味で「原節子」という存在も、本来は小津映画的である。現実の人間というよりは、どこか神話的な存在で、あくまでスクリーン上の純粋なイメージとしてだけ存在しているところがある。そういう個性が小津映画の本質に適合しているのだ。
成瀬映画のどの三本でも、原節子はもっと現実的な役を演じている。そして、3本とも全く違うタイプの女性なのだが、原はどれも見事に成りきっている。原は、小津映画だけでなく、黒澤映画でも何でも、深いところで自然に役の本質になりきっている。それも表面的な技巧でなく、深いところで役の人間そのものに成りきるタイプだ。単に美しい女優ではなく、根っから役者なのだ。特に、成瀬映画の3本を見ていて、改めてそのことを感じた。
とはいえ、原節子の場合、どんな生々しい役を演じても、そこに一種の抽象化や昇華が入る。決して、現実の女性になりきるのでないのだ。それが、成瀬映画の役者としては微妙にそぐわないところでもある。成瀬映画の中心女優は、原節子ではない。やはり、小津映画に一番ピッタリくる存在だ。
しかしながら、今回成瀬映画をみて一番感じたのは、原節子がどの作品も例外なく美しく撮れているという事である。どの作品も、「麦秋」から「東京物語」とだいたい重なる時期の作品なのだが、原の女性としての美しさや魅力がよくてでている。それは、今まで述べてきた成瀬と小津の映画の特質とも関係するのだろう。小津作品の女性は、極端に言うと生身の人間というより美しい人形といったところがある。だから、小津作品では人間のシーンと自然のシーンがうまく調和して連続するところもあるのだと思う。一方、成瀬作品に登場するのはれっきとした人間の女である。だから、当然、原も美しくスクリーン上で映える。率直に言って、原を美しく撮ることでは、小津は成瀬の比ではないとまで感じた。
この「山の音」は、1954年の作品。小津の「東京物語」が1953年でその翌年。当時原節子34歳である。成瀬作品の多様な役の中では、一番原節子らしいキャラクターだ。夫の浮気に耐え忍びながらも、芯が強くて激しく反発し、義父義母に対しては優しく明るいよい娘。家の中でゴソゴソやっている鼠に対して、原が「ニャア」と言っておどかす珍しいシーンも。それも、なんとなく成瀬的である。
不倫している上原謙との夫婦関係が表のテーマだが、何と言ってもそれ以上に義父の山村聡との微妙な関係が印象に残る映画である。山村が義理の娘の原に対して優しい思いやりを示すのだが、それが明らかに思いやりの範囲を超えている。自分の妻の長岡輝子にも指摘されるが、山村聡は「女の気持ちなんか分からない」男のタイプだ。どちらかというと、鈍感でマメに女性に関わるようなタイプではない。だから、原に対する心遣いも、優しさとは微妙に異なる美しい娘に対する思いが混入してしまっている。そういう感じを、うまく映画の絵の力で表現している。原の方からも、基本的には義父の優しい心遣いに感謝しているだけだが、立派で男ぶりもよい義父に対する無意識の自然な感情をどうしても観ている人間は感じ取ってしまう。
原が鼻血を出した際に山村が介抱するシーンなど、そういう無意識な二人の感情が顕在化しているようでハッとする。また、山村が上原の浮気をとがめるために、家を飛び出して上原を必死に説得するシーンなども、父親の義理の娘に対する思いやりから完全に逸脱してそれ以上の感情を感じさせてしまう。その辺りの演出が成瀬は実にうまいのだ。
といっても、義父と娘の不義の愛といった通俗的なテーマに最後まで落ちこむ事はない。最後まで、二人は節度をもって接するし、そもそも二人とも自分ではその種の感情を全く意識していないのだ。それに気づいているのは、映画を観ているあなたや私だけであり、それがなんとも映画的なのである。
最後の山村と原の公園のシーンも美しく終わる。二人は思いやりを向け合う義父と娘として最後までその関係を保ち。映画を観ている人間だけが、底に流れるそれ以上のものものを感じ取り続けているので、なんともいえない余韻が残るのだ。


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2011年01月14日

小津安二郎「秋刀魚の味」雑感



小津の遺作。笠智衆の演じる父親が年頃の娘を結婚させようとする設定は「晩春」のリメイクともいえる。そして、「彼岸花」「秋日和」の不良三人オヤジの、佐分利信、中村伸郎,北竜二のうち、佐分利に笠が代わるコメディ路線の継続。さらに、佐田啓二と「秋日和」で名演を見せた岡田茉莉子による新世代夫婦、東野英治郎と杉村春子の父娘と色々な要素が詰め込まれている欲張った作品。
そのせいか、作品全体としては統一感にやや欠け、「晩春」のような父娘関係の深い描写や「秋日和」の良質なコメディと比べると中途半端である。やはり不良オヤジ三人組には佐分利信が合っている。笠智衆だと真面目すぎるのだ。笠は小津映画を象徴する存在だが、そもそも時代が微妙に小津と齟齬をきたしはじめてきていたという気もする。小津は賢明に「現代的」なテーマの映画を撮ることを拒否し続けたが、この作品を見ているとそれも限界点に来ていると感じる。遺作になってよかったのりかもしれないとさえ思う。
原節子もこの後すぐ引退するが、それも賢明だったような気がする。原節子にピッタリくるのは小津のモノクロ作品である。小津に限らず、時代的に原節子のよさがいきる映画はもはや撮られなかったという気がするのだ。
岩下志麻の娘も、佐田啓二夫婦も役者としてよくやっている。しかし、その現代的な感覚が小津映画の本質と微妙にずれているのだ。小津映画に登場する、美しい家族像というのは小津の時代においてもある種の「幻想」だったのかもしれないが、それでも小津的な古典的な感性にかなうものだった。人間には明らかにその人間にあう時代とあわない次代がある。小津は自分に丁度あう次代を生きて映画を撮ることが出来た幸福な作家なのだと思う。
現代(その当時のだけれど)を描く場面が続くが、最後の方で中村伸郎と北竜二が碁を打っているところに笠智衆が来てそれを三宅邦子が迎えるシーンは、「あぁ、これは小津映画だ」となんだかホッとする。小津が小津らしい映画を撮り続けるためには、役者も限定して時代遅れと思える映画を撮るしかなかっただろう。だから、これが遺作としては丁度良かったのだ。多分。
映画の内容は当然に時代との相関性が問題になるが、映画の形式は時代とは無関係だ。小津独特の様式感は歳をとっても変化せず、むしろ洗練度を最後まで深めていたように思う。ローアングルの固定カメラで、ミリ単位で茶碗の位置などを調節したという伝説のある、絶妙の均衡を保った画面構図。廊下や部屋を縦横から映す完全に自分の個性と化している構図。風景をまるで音楽のように人間のシーンと自然に連続させてつなぐ様式感。さらに、カラーの色彩の絶妙に計算された配置も加わって、画面だけを純粋に見ているだけでも素晴らしい映画なのである。例えば、東野英治郎が夜に酔って笠と中村に付き添われて自分のラーメン屋に帰る際に、黄色っぽいドラム缶の群れが夜の街灯に浮かび上がる美しさ。
それと妙に小津的だと感じたシーン。岸田今日子がママをしているバーで笠智衆と加藤大介が酒を飲み、軍艦マーチにのって加藤が敬礼しながら踊るシーン。内容的には他愛もないシーンなのだが、加藤の動きや絵の構図がなんとも普通でない不思議な雰囲気を醸しだしている。こういうのは多分最初から狙って出来るのではなく、その場で撮ってみて何か計算できない「事件」のようなものが起きて映画的なシーンになるのではないだろうか。
そして、小津映画の本質は、恐らく何を撮るかではなく、それをどのように映画的な文法に則って撮り、結果的にフィルムに非日常的ではない特別なものがあらわれるということに尽きるのではないだろうか。それは、このようなバーのどうでもいいシーンでも「彼岸花」のごく普通なクラス会のシーンでも何でもよいのだ。
小津映画では、階段は映されない。しかし、ラスト近くで階段が効果的に画面に出てくる。小津は無意識にこれが遺作だと知っていたのだろう。
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2011年01月09日

小津安二郎「彼岸花」雑感



毎回最初に話題にしてきた原節子は出てこないが、とても好きな作品。1958年。原の代わりというわけではないが田中絹代が登場する。もともと小津映画には出ていたが、後期ではこの作品だけ。やはり田中の場合は溝口のイメージが強いが、こうして小津作品に出ても、作品の様式観を乱さずにきちんと対応して画面に収まっている。有名な俳優だからといってどの作家にも合うかとというとそんなことはなくて、例えばポール・ニューマンがヒッチコック映画に出た際の違和感などは相当なものがあった。
冒頭では、佐分利信、中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が、飲み屋の女将・高橋とよを品のないジョークでからかう定番の場面がある。これを小津も気に入ったのか、「秋日和」などで本格的に展開していくことになる。
例によって、父親とその娘の結婚をめぐる物語なのだが、親子の情愛というよりは、佐分利信が徹底的に頑固なものわかりの悪いオヤジ像をコミカルに熱演する、ちょっと変った作品である。例えば、娘の有馬稲子に対して、恋人の佐田啓二と「おまえ、まさか関係はあるのか」と、見境なく問いかけてしまって有馬にとことん軽蔑されてしまうシーンなど、かなりおかしい。すごく重厚な佐分利信がやるので、あかしみが増している。
他にもこの映画では、随所にくすぐりが巧妙にしこまれている。例えば、浪花千栄子lがお土産を佐分利家にもっていき、お手伝いの長岡輝子に渡して、「それ、むおうちにですよ、あなたにじゃありませんで」とか何とかいって、長岡が無表情に「はっ、わかっておりす」と返す絶妙なコント、田中絹代が佐分利信に色々言われて反撃する際に着物をきれたように放り出す迫力、高橋貞二がルナで飲んでいると来るはずのない佐分利がやってきて、あわてて店員でもないのに「いらっしゃい」とやるシーン等々。どれも、こうして文字化しても面白みが全然伝わらないだろうが、全てがきちんと統制され計算されつくした絶妙のコメディ、コントになっているのである。そういえば、ルナのシーンは若い時に初めて劇場で見たときにゲラゲラ声を出して笑ってしまったことを思い出した。
そして、原の代わりというわけではないのだろうが、山本冨士子がゲストで登場するのだが、これが大変美しくて華やかである。常に着物で登場するのだが、改めてみて実に派手ながら趣味が良い見事な着物で映えている。浪花千栄子と並んで早口でポンポン喋ると、顔が全然違うのに本当の親子のように見えてしまうから不思議だ。
全体に軽妙なコメディなのだけれども、勿論絵は小津らしいものだ。例えば、山者冨士子の東京での住まいのセットの美しさ。佐分利家もそうだが、今はもうほとんどないこういう和式の家に住みたいと思ってしまう。
こういう作品だと、笠智衆はどうしても脇役だが、見せ場もある。同級生とのクラス会で詩吟を披露するシーン。笠智衆らしく、不器用だが誠実な語りぶりが感動を誘う。そして、それに静かにじっとききいる友人たち。あの場面の設定やつくり方、撮り方は流石に見事で、単なるクラス会のシーンが何か神聖な場のように化してしまう。そして、中村伸郎が静かに歌い出して、皆で唱和する。ごくごく日常的な場面を映しながら、それがそのまま非日常的な特別な場として映像に定着されている、いかにも小津らしい素晴らしいシーンである。
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2011年01月08日

小津安二郎「秋日和」雑感



まずは、やはり原節子の話から。1960年の作品だから、当時40歳である。24歳という設定の娘の司葉子の母親役なので、老け役ということになる。しかし、DVDボックスのパンフレットに収録されている衣装合わせ打ち合わせでの私服の写真をみると、実はまだまだ若々しくて妖艶な感じである。敢えて、それを殺した化粧やら衣装やらで老け役に徹している、あるいは徹することを余儀なくされているのだと思う。正直、勿体ない。小津の映画あるいは時代背景だと、どうしても40というと母親か妻という設定になってしまうのだろうが、現代だったらまだまだ「女性」を演じられたはずである。勿論小津映画では無理だけれども。
とはいっても、演技という面では原節子は見事に夫に先立たれ、娘と二人で暮らす母親になりきっている。技術的なことではなくて、オーラまですっかり役柄になりきってしまっていて、原はやはり見事な役者だった。
娘の司葉子とトンカツ屋で食事して自宅に帰って会話する場面は、いかにも母娘二人だけで支えあっているとい雰囲気が出ている。何か切ない。昔見たときは全然そんなことは感じなかったのだが、年齢に応じて反応する場所も変ってくるものだ。
この辺りの作品まで来ると、小津の技術的はすっかり円熟してくる。特に冒頭の法事のシーンは実に深々とした素晴らしい絵だ。小津特有の風景のいくつもつないではさんで普通の場面につなぐスタイルも完成の域に達している。特にこの時期の映画に独特のカラーが、監督の色彩感覚を明快に反映させることを可能にして、この法事の一連のシーンは美しい音楽を聴いているかのようだ。まさに映像そのものが゛純粋に語りかけてくる。
ところが、映画の内容は別に高邁ではない。むしろ、佐分利信、中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が下ネタトークを繰り広げていたりするのだ。格調の高いことこの上ない映像の中で。もっとも、不良といってもたわいない会話で、むしろ大人の男が、すっかり子供に戻ってはしゃいでいる感覚で嫌味がなくて心地よいのだ。恐らく小津も最後までそういう人だったのではないだろうか。
そして、この時期の作品の陰の主役は、何と言っても中村伸郎だろう。ヤンチャで陽気で賑やかで子供のようで、でも品のある得がたいキャラクター。彼なしには後期小津映画は成立しなかっただろう。こういう映画だとどうしても真面目な笠智衆は脇役に回らざるを得ない。
しかし、何と言ってもこの心地よい大人のコメディの最大殊勲賞は岡田茉莉子だろう。不良中年オヤジ三人組に怒鳴り込むシーンは何度見ても笑ってしまう。ピンクパンサー4でハーバート・ロムがクルーゾーの弔辞を読むシーンと同じくらい笑えるし好きだ。改めて観ると、流石に中村や北の受け方も実にうまい。そして北竜二は寿司屋で原節子への永遠の愛を何度も誓わされる羽目になるというわけである。それにあきれ返って冷やかす佐分利と中村、完璧である。全てが節度をもって完璧にコントロールされて誤魔化しのないコメディ。時代とは関係なく、こうしたしっかりとした形式間をもつ笑いが現代ではっすかり失われてしまった。
ラスト近くで原節子と司葉子が旅行して、素晴らしい秋の日に茶屋で甘いものを食べるシーン。今回気づいたが、背景では、陽の光が屋内に当たってゆらめく効果が、冒頭の法事のシーンでも多用されていたのと形式的にきっちり対応している。そして、随所にはさまれる秋の山が、二人の心情と実にうまくマッチして連続した絵として構成されている。理屈ではなく、人間のシーンと自然のシーンがうまく調和しているのだ。これはやはり小津にしか出来なかったスタイルだろう。
武満徹が、タルコフスキーの映画を音楽だと言ったことがあったが、小津安二郎の映画もやはり完璧に構成され、なおかつ停滞することなくなめらかに流れていく音楽である。そして、「秋日和」は小津の作った最も美しい音楽の一つだったと思う。
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2011年01月07日

小津安二郎「晩春」雑感



原節子の小津デビュー作。1949年の作品だから原節子は当時29歳である。他の小津作品を見ていて思うのは、小津と原節子があと5年早く出会っていたらということなのだが、こればかりは仕方ない。そして、笠智衆と原節子が実の父娘役をしている貴重な作品でもある。役柄の設定でも、原の若さでも小津の理想的で典型的な作品とも言える。
そして、同時期のモノクロ作品と比べても、やはりこの作品の原節子が一番美しいと感じた。それにしても原節子というのは一体なんなのだろう。全く同時代を経験していない私のような人間にとっても、やはりフィルムを見ていると完全に別格の存在であり続けている。早めに引退してその後世間に全く姿を現していないのも実に賢明である。
この作品ではファッションや髪型や化粧も、同時代の欧米の女優を連想させる感じのものである。その美しさや華に圧倒されるしかない。ただ、たんなる美しさだけではなくあの圧倒的な存在感は本当になんなのだろうか。と、懐かしく見ながらすっかりミーハーなファンになってしまった。要するに私も相応に歳をとったということだ。
そして、父親の笠智衆に三宅邦子との再婚話が持ち上がった際の、原節子の表情のこわさといったら。ひびります。能楽堂で三宅邦子を睨みつける顔、自宅で笠智衆に向ける冷たい視線。おっかないです。やはり黒澤明の「白痴」を思い出してしまうが、原節子はたんなるアイドル女優でなく内部に過剰な何かを持っていた人である。
杉村春子も笑わせてくれる。鎌倉で財布を拾って警察に届けるとか言いながら、警官が通りかかっても気がつかずに知らん振り。原節子の結婚相手の名前が熊太郎で「私は何て呼べばいいんだろう、熊太郎じゃ山賊みたいだし、熊さんじゃ八っあんみたいだし、熊ちゃんもどうかしら、だから私はクーちゃんと呼ぼうかと思っているの。」そして笠智衆が「くーちゃん?」と驚いたように反応するのが絶妙すぎて腹を抱える。さらに、「おまえ、財布を忘れずに届けておくんだぞ」と。結局届けていなかったのかよと。絶対そのまま忘れるだろと。この辺りは小津一流の見事なとぼけたコメディである。
原節子が、京都の旅行先で笠智衆に対して「お父さんとこのままずっといたいの」というシーンもすごい。あまりに艶かしくてドキっとする。小津の演出意図がどういうものか知らないが、あれは単なる父親に対する思慕の念を完全に超えてしまっている。それに対して笠智衆が夫婦の道について真面目に熱弁をふるって原も素直に納得するのだが、見ている人間はあの原の生々しさにとりつかれたままである。これも小津独特の日常に侵入する非日常の見事なシーンだと思う。原節子という特別な役者のせいなのか、小津の演出なのかは良く分からない。多分両方なのだろう。
そして原節子が花嫁姿で笠智衆に挨拶する定番の名シーン。杉村春子が、部屋を出る際にぐるりと能の様に回る名演技つきである。同じシーンが「秋刀魚の味」で笠智衆・父親、岩下志麻・娘で繰り返されるのだが、そこではきちんとした挨拶を笠智衆が「わかっている」といって省略させるのが粋だ。やはりあの挨拶はこの時代にしか合わないと感じる。そして、何と言っても原節子が綺麗過ぎるのだ。(こればっかりだ。
演出的には、最後のリンゴを取り落とすシーンとか、雑誌が転げるシーンとかは小津の若さや時代を少し感じさせる。後年の円熟した小津はこういうのはやらないだろう。
ただ、ラストに挿入される夜の海のシーンはやはり小津調だ。「東京物語」でも、笠智衆と東山千栄子が熱海にいく場面で、熱海の海が唐突に挿入されるのだが、あの感動は一体なんなのだろう。「秋日和」のラスト近くで原節子と司葉子の母子が旅行する際に秋の山がいきなり挿入されるのだが、若い時に私が初めて見たときに異常に興奮して感動したのを思い出した。日本的な感性で、家族の小ドラマと自然が対立することなく感応しているというり理屈っぽくなってしまう。言葉では表現不能な、それまでの人間ドラマと自然のシーンの必然的連続性、映画的言語の文法が小津映画には間違いなくあると思う。あれらはちょっとここで自然の光景を入れておこうとかいうことでは決してないのだ。
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2011年01月06日

小津安二郎「麦秋」雑感



コメディタッチの軽快な作品で、原節子が明るく屈託のない女性を演じている。真面目だったり耐え忍んでいたり屈折したり凛々しかったりする役柄でなく、こういうひたすら明るい原節子が見られる作品は意外に珍しいのではないだろうか。その姿を見ているだけでも幸せな気分になれる。1951年の作品だから、原節子31歳だ。ただ、映画の中の役柄では「28歳です」と若干サバを読んだりもしている。
「東京物語」のような作品の方が、芸術的に高く評価されやすいのかもしれないが、個人的には小津のモノクロ時代の一番の傑作にあげたい作品である。小津には本質的にこういう色調の映画の方がピッタリくるように感じる。ちょっと、フランク・キャプラの映画のような臭いもするホッとする作品である。
笠智衆が原節子の縁談を勧める為に、突然寝室の襖をを開けて三宅邦子を驚かせて、三宅がのけぞって驚くシーンなどは、ちょっとしたサイレントのコメディ・タッチだ。
個人的に一番好きな小津作品なので、たくさん言いたいことがあると思ったのだが、とくに取り立てて書きたいことも意外にない。見て楽しめばそれで十分という種類の傑作である。
ラスト近くで、家族の心配をよそにお茶漬けをすする原節子が妙に生々しい。
そして、原節子と三宅邦子が海岸の砂丘で語り合う美しいシーン。似たような衣装で似たような動きを見せる小津パターンの独特な様式感。そして、縁談問題の重苦しさから開放されて、広々とした海辺で晴れ晴れとして二人の女が語り合う。そして、原が砂丘から駆け下りていく後姿をカメラが追い、三宅もそれを追って駆け下りてゆく。さらに、海辺を靴を脱いで静かに満ち足りて歩いてゆく二人。本当に素晴らしいシーンである。
「東京物語」の笠智衆と東山千栄子が東京を彷徨うシーンと似たところがあり、ありふれた日常生活を送りれながら、そこから静かにだが確実にずれて生の本当の姿を垣間見させる瞬間が小津映画には、どの作品にも織り込まれている。そうした日常と非日常を大袈裟に対比させるのでなく、ちょっとだけ日常をずらせてみせることで魅力的に表現するのが小津映画なのである。
だから、題材にはドラマティックなものはいらない。日常的な家族の出来事で十分なのだ。しかし、他の表現主義的などんな映画よりも、小津の作品は非日常を鮮やかにフィルムに焼き付けている。
そもそも、映画とはそういうものではないだろうか。
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