2011年02月07日

成瀬巳喜男「芝居道」メモ

戦時中の映画。映画中の芝居の演目に戦争ものが出てきて 「歌行燈」よりも戦争を感じさせる。長谷川一夫が苦労して芸の道をきわめる話。山田五十鈴が恋人で「鶴八鶴次郎」と似ているが二人の深いからみはなく、ストーリー自体も単純で成瀬らしい傑作とはいいがたい。
ただ、キャストは面白くて、古川ロッパが大阪人らしい雰囲気を出しているし。娘役の明るい人のいい花井蘭子も印象的だし、ロッパの敵役の志村喬もいい味出しているし、進藤英太郎も相変らずいい声だ。
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2011年02月06日

成瀬巳喜男「歌行燈」感想

戦時中の映画。成瀬映画としては、ちょっと異色な感じなのだけれども、どんどん引き込まれた。文句なく面白い。
泉鏡花の原作で、その独特な世界を映像化しているので当然普段の成瀬的な世界とはちと異なる。
花柳章太郎が宗山が謡うのを絶妙の間合いで合いの手を入れてリズムを崩してうたえなくさせるというのも、活劇調で、面白いと思うかつくりものめいているか感じ方が分かれるところかもしれないが、私などは素直に物語に入り込んで堪能した。そういう話だと思ってしまえばいいのだ。
花柳章太郎が店先で歌って糊口をしのいでいるが、その土地を縄張りにしている男に商売の邪魔だと怒鳴りつけられるが、花柳が歌に聞きほれてしまって、おまえちょっと待ってくれと男の方から和解を申し出るシーン。ちょっと通俗な時代劇的なのだけれども、成瀬の映像の撮り方や演出がうまいので、いいシーンだなと素直に感動できる。
成瀬らしいユーモアも随所に織り込まれている。花柳の父親と叔父の二人は終始一貫漫才コンビだ。また、花柳の目の前に自殺に追い込んだ宗山の幽霊が出てきて急にB級ホラーのようになったと思ったら、それが夢で明るい海辺だったというオチ。あるいは花柳が盲目のあんまに強くもまれて痛いのに、やはり盲目だった宗山のことを考えて、もっとやってくれとヤケ気味に言うシーンなども完全なギャグだ。
そういう、ちょっとほろっとさせたり笑わせたりする名シーン続きの映画なのだが、花柳章太郎と山田五十鈴が森の中で、舞のレッスンをする場面が夢幻的で美しい。溝口の「雨月物語」のようなところもあるが、成瀬的な個性の繊細な映像になっている。映画の内容に関係なく純粋に素晴らしいい場面だ。
山田五十鈴が最後の場面でも舞う。彼女は芸達者で、みごとなのだけれども、何しろ厳しい芸の世界の能がベースなので、さすがに大変だったのではないだろうか。
とにかく、泉鏡花の世界にどっぷり浸って映画的な興奮に身を浸しきった。私がみた成瀬映画の中でも一番好きかもしれない。
戦時中の映画なので、成瀬も余計な政治的の要素のない鏡花の世界で遊んだというところもあるのかもしれない。黒澤が「一番美しく」で戦争中の現実の女性たちを描きながら体制へのひそかな反抗をみせたり、溝口が普段は社会の最底辺の女性を描くある種反体制的な映画をとっていながら「元禄忠臣蔵」で日本的な道徳を賛美するような大真面目な映画をつくったりしてそれぞれの個性があって興味深い。成瀬が非現実的な物語の世界に向かったのも「らしい」気もする。どちらにしても、戦争が映画監督の内面に甚大な影響を及ぼしたのは間違いなく、とても興味深いテーマである。
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成瀬巳喜男「夫婦」メモ

1953年。上原謙と原節子が夫婦を演じた「めし」や「山の音」と同系列の作品だが、ここでは奥さん役が杉葉子。彼女は今述べたに作品にも出ていて、独特な存在感を発揮していた。ちよっと不思議な女優で、ものすごいベビーフェイスもできそうだし、とんでもないヒールも似合いそうだ。「山の音」などは善女なのか悪女なのか、よく分からない変った役で面白かった。
ここでは、倦怠期を迎えてはいるが、基本時には明るくてかわいい奥さん役である。多分、こういう味は原節子には出せないだろう。原節子は、日本的な男に頼って甘える女性というのが全然似合わないのだな、とこの「夫婦」を見てふと思った。
三国連太郎が若くてビックリする。また、役柄がコミカルな図々しい若い男なのである。三国が杉に何も言わずに視線を送り、杉も黙ってその意味を了解するシーンは成瀬映画の典型だ。
上原に、妻が好きなんだろといわれ。そうです、でもそれは純粋な憧れなんです、とか大の男の三国がいうところはなんだかバカバカしい。現実にはありえないのだけれども、そういう設定のコメディなのだ。
上原謙は天下の二枚目だけれども、成瀬映画では煮えきれないじれったい夫という役が多い。私もそんなに昔の映画を見ているわけではないので成瀬映画のイメージそのままだ。「残菊」でも情けない男役だったし。そういえば、小津の「宗方姉妹」でもはっきりしない優柔不断な男だった。そういうキャラクターなのか。それでも、どの映画でもそんなに悪い男ではないという印象を残す。不思議な役者だ。
そんなはっきりしない上原が、杉が妊娠した時だけは、きっぱりとおろせと主張するという無理な脚本だ。映画が進むと、夫婦の和解のための伏線だと分かる。全体に脚本は結構テキトーだ。
但し、その夫婦で子供をおろしにいくラストは風が吹きすさぶ成瀬らしい美しいシーンである。
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2011年02月05日

成瀬巳喜男「鶴八鶴次郎」感想

長谷川一夫と山田五十鈴のコンビなのだけれども、山田五十鈴が素晴らしすぎる。なんと当時21歳。気が強くて、頭の回転が早くて、苦労人でしっかりしていて、でも女性らしい繊細さがあって、優しいところもあって美しい。そういう女性を完璧に演じていて、長谷川一夫が単なる引き立て役に見えてしまうくらいだ。溝口の「祇園の姉妹」や「浪花悲歌」でもね19歳とは思えない舌を巻く演技をしていたが。こんな天才少女で、女性としての魅力も十分で、こうしてスクリーンごしに今見ていても、惚れかかってしまうやろ。当時のファンの騒ぎようは大変だったのではなぃだろうか。
何度も繰り返される芸をめぐる喧嘩のシーンの二人の丁々発止のやりとりが本当に見事だ。本当に芸に真剣そのものの二人のひたむきさと、その底に流れる二人の男女が惹かれあう感情がないまぜになって、真実があって美しくて、なおかつコミカルである。
脇をかためる、藤原釜足、大川平八郎、三島雅夫といった役者も、とてもいい。特に藤原釜足は当たり役ではないかしら。
但し、女のことを思って男が身を引くラストはどうだろう。美談だけれども物足りない。この成瀬映画では、長谷川一夫が零落してドサまわりをして苦労して、結婚している山田五十鈴とコンビ結成して成功するというストーリーだ。しかし、もし溝口だったら、山田五十鈴が結婚しても芸の道と長谷川一夫が忘れられずに、夫を捨ててスキャンダルで芸の表の世界から追放されて、二人で零落しながら芸を続けて身を滅ぼすというような映画をとったのではないだろうか。でも、そんな映画を成瀬はとりそうにないけれども。
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成瀬巳喜男「女人哀愁」感想

1937年。古い映画だが、成瀬映画特有の流麗なカメラワークはこの頃からで、入江たか子が子供に宿題を聞かれるのだが、何度も邪魔が入ってしまう一連のシーンは見事だし、成瀬らしいユーモアがある。
私はこの時代の成瀬映画の雰囲気が好きだ。成瀬にこの時代があっているのだろう。ただ、入江たか子が嫁入り先の家で文金高島田の和服姿の芸者のようあ姿で普通に家事をしているのにはさすがに驚く。
入江たか子が、ものすごく大人しくて従順な旧式の女性を演じて、家柄のいい家に嫁入りして、我儘で冷たい旦那の家族に女中のようにこき使われる。しかし、実は入江たか子はしっかりした考えの持ち主で、最後にブチキレるという話。最後に、ひどい家族たちに颯爽とものいいしてへこませるシーンで観るものは胸がすく思いのする仕組みだ。急に自分勝手な妹は恋人の愛に気づき入江に素直に従い、言われ放題だった夫も理路整然と言い負かし、卑怯な儀父母は黙って逃げてゆく。水戸黄門が最後に証文を出すような快感のある映画である。
冷静に考えると、そんなに賢い女がそれまでの境遇に黙って耐えているわけがないのだけれど、この際、そういう細かいことはいわないでおこう。成瀬は、昔風に周りに従順にしたがって耐え抜いていながら、実は男よりも聡明な女性を描きたかったのだろう。成瀬映画の女は皆魅力的だけれども、このつくりものめいた映画でもわかるように、実は現実にいそうな女ではない。成瀬が、そうあって欲しいという女性を理想的に表現しているのだ。ある意味、男の勝手なおしつけなのだが、それが成瀬映画の面白いところだ。そして、成瀬はたいてい男が女に打ち負かされること、男よりも女が優れていることを望んでいる。

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成瀬巳喜男「杏っ子」メモ

1958年。映像は、「山の音」と似た感じの深々とした美しいモノクロである。そういえば両方とも山村聰が出ている。
室生犀星の原作で、確かにあの時代の小説の臭いがプンプンして今観るとちょっと違和感覚えるところもある。
漆山亮吉(木村功)が屈折したダメ男を好演している。成瀬は本当にダメ男(と立派な女)を描くのが好きだ。表面的には木村がどうしようもなくて、物分りのいい有名小説家の平山平四郎(山村聰)とその娘でダメ夫に耐える平山杏子(香川京子)を好意的に描いているようでそうでもない。
亮吉は才能もないのに小説を書く事に固執していて、自分を全く認めない平四郎や杏子を逆恨みする。事実関係としては、亮吉が明らかにダメで、平山父娘には何の非もない。
しかし、平四郎は小説家らしく理解があって物分りがいいが、実は亮吉をはっきり見下している。杏子も夫を支えようとしながら、亮吉を全然尊敬してはいない。どこかで、立派な「父」とダメな「夫」を比べている。
つまり、平四郎は立派な人間だが、残酷で鈍感なところがあり、杏子もファザコン気味で、意識的には優しいが父親以外の男をどこかで見下しているのだ。そういうのを亮吉は敏感に感じ取って、苛立ち自暴自棄になるのだ。そういう意味では、どんな善人を演じてもなりきれないところがある山村聰と、美しくて優しそうだがどこか澄ましていて冷たいところのある香川京子は的確なキャストなのかもしれない。
木村功が酔って平山家の庭をぶちこわし、平四郎が一瞬憤怒の表情をみせながらも、結局優しい建前的な言葉を木村にかけるシーンが、この映画を象徴している。木村がどうしようもなくて、平四郎がよく出来た人なのだけれど、実は平四郎の方がいやらしかったりする。そして、夜の庭の美しい映像。
映像の美しさに反して、そういう人間の微妙ないやらしい心理がにじみ出てくる成瀬らしい映画だとは思う。原作のせいもあるのだろうが、個人的にみていてあんまり楽しい映画ではなかった。
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2011年02月04日

成瀬巳喜男「妻よ薔薇のやうに」感想

主役の千葉早智子がとても魅力的。成瀬は女性をきれいに撮る監督だけれども、これもその特徴がよく出た作品だと思う。
千葉がいきなりモダンな洋装で登場するのだが、この時代の洋装には不思議なかっこよさがある。小津の作品の原節子もそうだけれども。しかし、千葉は普段は和服姿である。こちらもよく似合ってきまっている。
そして、役柄上も千葉の演じる君子は、洋装と和装を両方こなすように、伝統的な女性と新時代の両方の境界線にいる女性である。正妻の悦子は、独立心もあり自分の世界をもっていてマイペースだ。和服を着ているが一応は新時代タイプだ。一方、父親の俊作が一緒に逃げたお雪は、男に献身的に尽くして優しい古い伝統的なタイプの女性である。
君子の目を通じて二人が客観的に比較される。実母も勿論普通に愛しているが、お雪のけなげな姿と父親との仲のよさをみて、冷静に父親は彼女がいたほうが幸福かもしれないと考える。
おじさん役の藤原釜足は、「世間」を象徴する存在で、当然そうは考えない。正妻のもとに戻るのが当り前で、妾とさっさと別れるよう強く主張する。ところが、君子は実の娘であるにもかかわらず、とても冷静で客観的な判断をくだすのだ。
俊作は、世間的な落伍者でダメ男なのだが、人間味とやさしさはある。そして俊作が娘の君子に対して「自分はおかあさんが苦手なんだよ」という言葉が全てを説明している。成瀬も、優しいお雪の姿を好意的に、冷淡で心を開かない悦子を否定的に描いている。
それに対して、娘の君子は、母親的な独立心や現代性を持ちながら、お雪的な女性的な優しさも兼ね備えている。両者を止揚する現代性と伝統性を兼ね備える理想的な女性像を成瀬は描きたかったのだろう。君子が、洋装も和服も両方見事に着こなすのはその象徴だろう。
成瀬が描きだした数多い魅力的な女性の中でも、ここでの千葉早智子は素晴らしい。話の深刻な内容に関わらず、とても楽天的な希望に満ちた雰囲気をもつ映画だ。
そして、君子の恋人は、ちょっと頼りないが現代風のよい男だ。父親と、それにはない新時代の要素を兼ね備えている。この二人が結婚して、倦怠期を迎えると「驟雨」の佐野周二と原節子の夫婦になってもおかしくない。
それにしても、成瀬はこの時代にみごとにはまっている。成瀬の場合、映画の出来不出来に関係なく時代を遡れば遡るほど、時代に適合しているので、どの映画も見ていてとても心地よいのだ。
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2011年02月03日

溝口健二「元禄忠臣蔵」雑記



なんせ、溝口の忠臣蔵なのだから楽しみにして観た。冒頭はいきなり松の廊下である。このシーンはいい、溝口らしい長まわしで、刃傷沙汰の騒乱ぶりが迫力満点で伝わってくる。
が、その後意外に退屈だ。これは、ものすごく硬派で真面目で格調高い忠臣蔵なのだ。討ち入りのシーンもない。溝口は、例によってのめりこんで忠臣蔵を徹底的に調べて史実通りにしっかり再現しようとしたのだろう。それは溝口らしい良さだとは思う。でも、忠臣蔵という話は真面目にやったって面白くもなんともないのだ。
なにより大石蔵之介役の4代目河原崎長十郎がよくない。私は昔の役者を全然知らないし、多分大石をやるくらいだからエライ役者なのだろうが、率直な感想を思いきって述べてしまうと、この人、悪代官面なのだ。(あーあ、いっちゃった、ごめんなさい)さらに、いちいちかっこつけていて、言うこととなすことウザいのだ(あくまで個人的な感想に過ぎません、ごめんなさい、ごめんなさい)。溝口がこういう大石蔵之介にしたのも、当然従来のイメージ(と言っても当時のイメージもよくは知らないけどさ)を新しく塗り替えて、通俗的でない蔵之介にしたかったのかもしれない。でも、何度もいうけど通俗的でない忠臣蔵なんでほとんど自己矛盾に近いのだ。少なくとも私はそう思う。
例えば、蔵之介が世間を韜晦するために、芸者遊びをしてしこたま酔っ払う有名なシーンがあるじゃないですか。いいシーンですわな。あれは、もう蔵之介が大義を忘れ果てたくらいにバカ騒ぎするのがいいんじゃないですか。それが実は・・ということで。ところが、ここの蔵之介は全然はじけてないのだ。役者がそもそも全然そういうキャラじゃない。忠臣蔵に必須の通俗要素をそぎ落としたら意味ない。もし史実に忠実に格調高くやりたいなら、他のもっとシリアスな題材をやればいいのだ。
あと、音楽が深井史郎で、いきなり西欧風の管弦楽が忠臣蔵の冒頭で流れるのもちょっと変っている。現・NHK交響楽団の演奏で、指揮は何と山田和男(山田一雄)なんでちょっとビックリする。
この映画は、新藤兼人が建築監督を担当していて、「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」の中でも証言している。何でも冒頭の松の廊下のセットは当時を忠実に再現したそうだ。そういうこだわれはすごいと。ただ新藤は、全然この忠臣蔵を買ってなくて、そもそも溝口には大掛かりな歴史ものは似合わないという考え方のようだ。「楊貴妃」とか「新平家物語」とか。そして、溝口の本領は男女の世界、特に社会底辺の女性をリアルに描き出すことにあると。その点については私も、また多分誰もそれほど異論はないのではないだろむうか。但し、私は明らかに失敗作の「楊貴妃」とか好きだけれどね。歴史ドラマが、結局は森雅之と京マチ子の男女ドラマになっちゃっていて。歴史ものでも溝口らしさが出ていれば私は好きなのだけれど、この忠臣蔵はさすがにちょっと擁護するのは苦しい。
でも、この映画でもやはり女性が出てくるシーンはなぜかちょっと活気が出ていい。瑤泉院に蔵之介が討ち入りをを言わずに別れに行くシーンの女性二人の落胆ぶり、怒りっぷり。翌日、討ち入りを遂げたことを文書を読み上げるシーンの興奮ぶり。とても溝口的である。
さらに、おみのの高峰三枝子が、恋人と会わせてくれと懇願するシーン。急に映像が活き活きして「溝口映画」になる。全編こんな調子で撮って欲しかったと、私などは思う。
おみのが蔵之介に「女心がお分かりではありませぬ」とか何とか言うのだが、これってこの映画の的確な蔵之介批判、というよりは溝口忠臣蔵の退屈さに対する、もっともな批判のように私などは聞こえてしまうのだ。
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2011年02月02日

木下恵介「楢山節考」感想



いきなり黒衣が登場して口上を述べる。「楢山節考」という「伝説」についての物語だと。そして、浄瑠璃の音楽と語りが流れて、画面上で舞台のように幕が開けられる。実景ではなくセットで演じられ、画面上で舞台転換も見せる。つまり、実話ではなくてあくまで劇、物語だという印象を与えるのだ。この物語の内容がショッキングなものなので、ひういう演出をした木下のセンスは素晴らしいと思う。
但し、ラストの部分で突然実写になり、駅名の「姥捨て」が映し出される。つまり、これは実際の話だったのかもしれないとと暗示されるのだ。そのショックと観後感がたまらない。こういった木下の演出の計算は実に巧みだと思う。
そして、セットが人工感を強調した鮮やかな色彩をほどこされていて、とても美しい。照明も舞台のようにスポットをあてたりする。浄瑠璃の音楽も効果的。話の内容のどうしようもない悲惨さとの対照をここでも緻密に設計している。
田中絹代が素晴らしい。気丈夫で気高くて優しい老女になりきっている。自分で歯を折るシーンがあるが、その為に実際に何本か抜歯して撮影に臨んだそうである。溝口の「西鶴一代女」でも、わざと醜く見えるような化粧をほどこしていたが、大変なプロ根性であり、この時代の映画はどれもとてつもなく「マジ」でつくられていた。田中といえば溝口だけれども、この木下作品での田中も実に格調が高く凛としていて見事だ。「カルメン」の笠智衆や「二十四の瞳」の高峰秀子もそうだが、その役者の本質的な良さを素直にそのまま生かすのが、木下はうまいと思う。
望月優子も素晴らしい。大らかな心の優しさ明るさと悲しさのようなものがよく出ていて、非現実的な役なのだけれども、望月が本当にそういう女性のように思えてしまう。
キャストを見るまで気がつかなかったが、又やんは宮口精二、その倅は伊藤雄之助である。見直したら確かにそうだ。
それにしても、
楢山の雪の中の田中絹代の壮絶な美しさはなんなのだろう。「楢山節考」が伝説であれ実話であれ、みる人間の心の奥深いところに働きかけてくる。
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溝口健二「残菊物語」メモ



1939年。菊之助(花柳章太郎)とお菊(森赫子)による純愛、悲愛劇。
これを観る前に新藤兼人の「ある映画監督の生涯」でみて、二人でスイカを食べるシーンが何とも印象的だった。男女の甘美な感じがよく出ていて溝口的である。それを、お得意のワンシーンワンカットでやるので、役者も集中力を高めてやらざるを得ず、本当に好きあっているような感じが出るのだろう。そもそも、二人が最初に登場するシーンで、道を歩きながらお菊が菊の助に芸の意見をさりげなくする長回しのシーンからしてよい。溝口的な極度な過激さはないけれども、気持ちよく見られる恋愛ものだ。
他にも、迫力あるワンシーンワンカットの連続である。菊之助がお徳を探して、鉄道をずっと探し回るシーンなどは、その特性がよくでた、とても映画的なシーンだ。
そう言えば森赫子は新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」にも出ていた。サングラス姿が印象的だった。
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成瀬巳喜男「放浪記」メモ



高峰秀子が田舎くさい野暮ったい娘という感じで、かなり役をつくって演技しているのが印象的。顔の表情のつくり方が面白い。
後期の成瀬映画で最高のヒールの草笛光子も登場。高慢ちきで生意気で気が強い女をやりきっていて素晴らしい。高峰秀子と和解して珍しいと思うのだが、結局高峰の顔を思いきりひっぱたく。「女の座」とこれと高峰は二回も叩かれて災難だ。
林芙美子の原作で、この映画についてはストーリーが面白い。ただ、この時期の巨匠たちの映画は、当時の文学を原作にしたものだと時代を感じさせることがjjある。成瀬の「浮雲」は素晴らしい映画だが、ストーリに違和感を覚えるのは林の原作も関係しているのかもしれない。溝口の「お遊びさま」も、映像や役者はいいのだが、谷崎の原作に違和感を感じる。小津の「宗方姉妹」は大仏の原作だが、全然脚本に共感できない。むしろ、小津と野田オリジナルの、どうでもいいような家族劇が古くならないから不思議だ。
あの時代の日本映画は全然古さを感じさせないし普遍的な輝きを今も放っていると思うのだが、当時の文学に感じる「時代」のことを考えると、当時の日本映画は実は奇跡なのかもしれない。
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2011年02月01日

溝口健二「夜の女たち」



これは実に溝口らしい凄い映画だ。田中絹代が街娼にまで身をやつす役なのだが、その迫力が半端ではない。「西鶴一代女」でも田中はやはり街娼で、それもやりきっていたが、こちらは設定が現代で生々しく勢いが尋常ではない。
溝口のワンカットワンシーンが、いつもにも増して効果的である。角田富江が町の不良のなぐさみものにされ、それだけで角田が純情そのものの雰囲気なので見ていて痛々しいのだが、角田が男にすがるところに、不良の女達がおそいかかって身包みはがして追い出すシーンなど、映画だと分かっていてもゾッとしてしまう迫力だ。田中絹代が、警察の施設から塀を越えて逃げ出すシーンの緊迫感。
田中が、普通の未亡人から街娼に落ちぶれて、初めて画面に登場するシーンの変わり身の凄さ。完全に「夜の女」になりきっていて笑ってしまうくらいだ。警察で婦人記者が街娼の女性の地位について正義漢ぶって熱弁を振るうところに、田中が「オバチャン、何言うてんねん」とか何とか啖呵をきるシーンも溝口的だ。溝口はそういう女性の生態を知り尽くしていながら、外部からきれいごとをいうのではなく、その内部のありのままを描くことで問題提起する。いや、問題提起するというよりは、そういう世界の悲惨さをよく理解しながら、そのまま突き放して描いて、とことん愛す立場とでもいうか。
何といっても、ラストのシーンが素晴らしい。すっかり自暴自棄になった角田富江に対して、田中絹代が自分の体験から心の叫びをして、街娼という身分の悲しさを叫ぶ。婦人記者の主張との対照。
さらに、それに納得した角田を田中が連れ出そうとするところに、足抜けようとする田中に対して街娼仲間が集団リンチをする迫力、それにいたたまれなくなって田中を救う街娼達、角田が田中にかけより二人でやっとの思いでその場を去り、そこに残される街娼達が動物のようにうずくまる。そして、カメラが上方へパンアップすると、聖母マリアの絵が映し出される。地獄絵図を見守るマリア。
これは溝口が撮ったシーンでも、最も壮絶で美しいシーンの一つではないだろうか。ベルイマンの「処女の泉」のような極限的な演出である。しかし、世界広しといえども、こんなものを撮れるのは溝口だけなのかもしれない。
ちょっと特殊な作品だが、名作とされる「雨月物語」や「西鶴一代女」にも負けない傑作だと個人的には思う。
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木下恵介「二十四の瞳」感想



この時代には、小津、溝口、黒澤、成瀬といった強烈きわまりない個性の監督が芸術的な映画を制作して競い合っていた。全員一癖も二癖もあるが、その中で木下には彼らのようなアクの強さはないが自然な大人の風格のようなものがある。この作品も題材は、芸術的というよりは通俗と取られかねないが、全然通俗になっていない。
小豆島の美しい自然が全篇にわたって流れるが、普通の撮り方なのだが、とても明晰な感じのする映像である。人物も、妙な小細工をしないが、しかしきちんとした意図のもとにしっかり撮られている。きちんとした意志の力で貫かれた古典的な透明感のある映像だ。
人物の描き方も、それぞれの個性に曖昧なところがなく、明確でありながらきめ細やかである。高峰秀子や笠智衆も、その個性が自然にいきていると思う。彼らが他の巨匠たちの映画に出たとは、また違う魅力がある。
反戦の考えが盛り込まれているのだが、それも妙に理屈っぽくなったり、逆に感情に流されていない。高峰の口を通じて、ごくごく常識的な普通の考え方が伝えられている。あっさり、そういう問題を明快に処理していて、つべこべいわないので説得力がある。
島の生活の苦しさも、淡々と、しかし着実に描かれていて胸を打つ。特に、まっちゃんはかわいくてかわいそうでたまらない。最後に、同窓会では井川邦子として、すっかり別嬪さんになって現れるので、ちょっとホッとするのだ(笑)。
戦争という時代背景もあり、とにかく次々に簡単に人が死んでいく映画である。映画をも見続けて、その流れを追っていくと、自然に世や人の無常を感じられる仕組みだ。時々挿入される、文字語りも効果的である。
ごくごく普通のようで、実は大変強靭な映画だと思う。
木下恵介はジャズで言うと、デューク・エリントンのような存在なのかもしれない。大人な音楽でエキセントリックなところはないが、実に深くて高度ない楽的な理論・技術の裏づけがある。小津、溝口、黒澤、成瀬といった巨匠達と比べても、それに負けないか、あるいは実は一段上の芸術家なのではないかと思わせるようなところがある。
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成瀬巳喜男「娘・妻・母」雑記



1960年。「秋日和」と同年公開の映画で、ここにも原節子が出ているのだけれども、さすがに少し歳をとった感じがしてしまう。成瀬は原節子のことを実にきれいに撮っているのだけれども、これは役柄の設定なのか、初期のカラーがうまくいってないのか、髪型や衣装のせいなのか、「秋日和」の方がいい。さらに、翌年の1961年の小津の「小早川家の秋」では、さらに逆に若返った感じがする。原は、この撮影当時40少し前だと思うので、微妙な年齢なのだが、現代ならもっと若い感じで映せたのではないかと、原ファンとしてはグチグチ嘆いてしまうのだ。
とはいえ、やはり美しいことは美しい。仲代達矢との、ちょっとしたキスシーンもある。私はタモリが吉永小百合ファンなのと同じタイプの原節子ファンなので、正直いらないシーンなのだけれども。
映画は、成瀬が後期によく撮ったホームドラマである。それを豪華オールスター・キャストでやっている。原節子と高峰秀子が共演している貴重な作品だが、あまり二人が深く絡むシーンはない。森雅之と高峰秀子が夫婦だったり、上原謙がチョイ役だったり、とにかくすごいメンバーだが、その中で団令子が、やはり独特の存在感を発揮している。
原節子は、いくら歳をとってもお嬢さんタイプの女性という役で原節子の従来のイメージ通り。ただ仲代達矢と大人の淡いロマンスもするというのが今までにはな役だ。しかし、母親を邪魔にする子供達の中にあって、一人だけ真面目に母親を守ろうとして、それは従来の原節子的である。
成瀬が時代に応じて、原に新しいタイプの役をさせようたというところもあるのかもしれない。原が普通に大人の男女の恋をすることが意外になかったので。そういう原などみたくないというファンもいるだろうし、私もそういうところがあったりするのだが、原はそういう役も本来十分こなせる役者だったような気もする。でも、それはむしろ日本的な男女の恋ではなく、フランス映画のような成熟した個の男と個の女の恋があさわしいと思う。勿論、そんな映画を当時日本に撮る監督はいなかった。ありえない妄想だが、カトリーヌ・ドヌーブのような原節子がちょっと見たかったではないか。
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2011年01月31日

成瀬巳喜男「春のめざめ」メモ

1947年の作品。久我美子が女子高校生を演じている。
思春期の男女高校生の、異性に対する意識や性の目覚めを描いた作品。さすがに時代を感じさせるテーマだけれども、高校生の描き方や、その時代の風景などが、なんとものどかで懐かしさのようなものを感じさせる。と言っても、私もその時代をよく知らないが。少なくとも、成瀬の現代ものを見た後だと、時代にはまっていると思う。
成瀬らしい映像もあり、特に嵐の晩の映し方は美しくて見事だ。成瀬の映画には雨が頻繁に登場するが、どのシーンもピッタリはまっている。
また、爽やかな青春ドラマなのに、女友達の中にに芸者の家族がいるのも成瀬らしい。
純真無垢な役柄の設定の久我美子が、両親に勉強で悩んでいると言ってウソの涙を流して、妹にそれを打ち明ける場面は、ちょっと意表をつく。成瀬らしくて面白い。また、妹に「お姉さんは大人なの」と言われて、不安定な感情が爆発して笑いころげるシーンも印象的だ。随所に成瀬的な演出の妙味を味わうことができる。
ただ、志村喬の父親に息子が「好きな娘が出来た」と打ち明け、志村も「よくいった」と褒めるシーンは、さすがに現在ではありえない。現代にそんな父子がいたら相当気持悪いはずなのだけれども、この時代だとそんなんに違和感はなかったのだろうか。さすがに、そんなことはないような気がするのだけれども。






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成瀬巳喜男「乱れる」メモ



「女の座」と設定や役者や雰囲気が似ていて姉妹編のような作品。なんだかテレビのホームドラマの大家族もののようだ。と思ったらテレビドラマがもとらしい。なるほど。
「女の座」でも変わり者のオールドミスを怪演していた草笛光子が、ここでもイヤな女をやっていて憎たらしくて素晴らしい。前半は、コメディタッチで加山雄三もうまくはまっている。後半は、加山と高峰秀子の純愛の様相を帯びる。加山に告白された際あたりで電話の会話のシーンで見せる高峰の女らしい表現はさすがに巧みである。「浮雲」のような世界が展開されるのかと、ちょっと期待してしまう。但し、真剣な愛のシーンになると、加山の方はちょっと繊細さに欠ける。そういう役の設定だけれども、こういう愛のドラマの高峰の相手役としては、すくし物足りなくて役不足のように感じてしまう。
そしてラストもあまりに唐突だ。全体に、脚本が粗い。コメディっぽいホームドラマのようだったり、少し練れてない愛情劇だったり。まだ、「女の座」の方が、コメディに徹していて面白いと思う。どちらにしても、成瀬が現代劇と取組んで苦戦しているように思えてしまう。どうしても古い時期の素晴らしい成瀬作品と比べてしまうと。
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2011年01月29日

小津安二郎「小早川家の秋」雑感



松竹の小津が唯一東宝で監督した作品。東宝のスターにまんべんなく総出演させているせいか、作品全体の凝集力、テーマの統一性はやや低いと感じる。他の小津の後期の名作郡と比べると、やや印象の薄い映画である。
いきなり冒頭から森繁久彌が登場するが、これが全然小津の様式感とマッチしていない。まるで、駅前シリーズや社長シリーズのキャラクターのまま演技している。余計な細かい動きや小細工が多すぎる。この映画を最初に見たときから、私はそう感じて、ちょっとイラッとしたのだ。
それが、今回ウィキペディアを読むと、森繁久彌は「小津をへこましてやろうという闘争心剥き出しだった」そうである。いやはや、そういうのって画面からハッキリ伝わるものなのですね。小津も、多分諦めて森の好きなようにやらせたんだろうなという感じの映像である。そんな森も原節子にキッパリ振られていいキミである。
中村鴈治郎が老いてなお妾役の浪花千栄子のところへ入り浸るのだが、その辺りの描き方は流石に見事だしいいと思う。その物語だけに専念して描いたいたらと思うのだが、なんせ他にも色々な話題が断片的に登場しすぎなのだ。
中村鴈治郎が孫とキャッチボール際の奇妙奇天烈な投球フォームが面白い。
団令子が浪花千栄子の娘役で登場する。最初に来て出てくるドレスがなんだかすごい。成瀬の「女が階段を上る時」では、中村鴈治郎を誘惑して銀座でバーを開いていたが、ここでもミンクのコートをねだったりしている。やはり強烈な個性の役者だ。
原節子と司葉子が、コンビのように何度か断片的に画面に登場する。小津的な不自然な同じ動きで。この二人が出てくるシーンは、独立したシーンとしては見ものなのだけれども、勿体無い使い方だ。司葉子の関西弁は、ちょっと下手くそかも
ちなみに、「浮草」に宮川カメラによって小津では唯一の俯瞰シーンがあると書いたが、実は原節子と司葉子を思いきり俯瞰で映しているシーンがあった。それと似た感じで思い出したけれど、「東京物語」の熱海で笠と東山が海岸で座るシーンも俯瞰だった。競輪のシーンが俯瞰になるのはこれは仕方ないけれど。探せば、もっとあるのかもしれない。
ラスト近くで笠智衆と望月優子が川で仕事をする夫婦で登場する。「お茶漬の味」でもそうで、望月にセリフもほとんどなかったが、ここでは重要な役割を果たしている。
その二人も登場するラストの中村鴈治郎の葬儀のシーンは、小津もかなり力を入れていて、かなり小津的な出来栄えになっている。但し、黛敏郎の音楽は、あまり小津には合わないと思う。「おはよう」でも担当していてあれはそれなりにキャラクターがあっていたが、やはり小津の音楽は斉藤高順で決まりだ。
原節子と司葉子が二人とも黒の喪服の着物の川辺のシーンはとてもいい。「麦秋」のラストの原節子と三宅邦子のシーンを何となく思い出してしまう。原は若い方の役から年長の方に変化するが。
それ以外にも煙突からの煙、黒の喪服で全員で橋を渡るシーン、笠と望月の会話、川辺の風景や烏など、このラストの映像詩を観るためだけでも価値があるかもしれない。
というわけで、ホームではない東宝でとったために色々な違和点もあるが、部分的にはみどころの多い作品である。




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黒澤明 「一番美しく」感想



戦時中につくられた映画。背景が気になるが、ウィキペディアによると、敗戦濃厚な戦争末期に撮られたそうである。当然、当局の戦意高揚の意図にそっているが、黒澤は「敵国」アメリカのスーザの曲を使うなど、ささやかな抵抗も示しているようだ。検閲で気がつかれなかったのだろう。あるインタビューでこれは「反戦映画ですよね?」の問いに、明言はしなかったものの、そういう「含み」もあった映画だと認めているそうである。黒澤が自作の中で「一番可愛い」といい、木下恵介は黒澤作品の中で一番好きな作品としてあげているとのこと。
当然、そういう政治的背景や検閲の問題は重要だけれども、そういう部分を全てカッコに入れて見た場合にも、なかなかの映画である。若い女性だけが大人数集合した独特の世界。男だけでは絶対に出ないものを巧みに映像で描写している。
とにかく、全員が一体となって協力しなければいけない状況下で、一人一人の女性が健気にふるまい、結束して目標に立ち向かう。そして全員明るくて活気に満ちている。「渡辺さん」という強烈な個性のリーダーがいて、彼女たちを優しく大きな包容力でつつみこむ寮母の水島徳子(入江たか子)がいる。そういうある種メルヘンティクなまでに、善意の人間性だけで成り立つ女性集団を黒澤は描き出している。黒澤らしいヒューマニズムだ。
たまたま、戦時中の女性たちが題材だが、黒澤はそういう人間を描こうとする監督だった。「赤ひげ」の強烈なヒューマニズムもそうだ。それは、恐らく現実世界にはありえないのだろうが、そういう美しい人間性の幻の世界に対する率直な憧れのようなものが黒澤にはある。むしろ、そういう理想主義的な部分は、当時の他の日本の映画監督にもなかったかもしれない。それを「甘さ」と解釈する向きもあるかもしれないが、私は黒澤のそういうところが好きである。
もっとも、この映画で彼女たちのモティベーションになっているのは「お国のため」という名目である。だから、冷徹に批判するならば、彼女たちの意図は純粋でけがれがないけれども、戦争に加担してしまっているという見方になりかねない。しかし、そんな見方は実にくだらない。戦争について、客観的な視座で捉える必要もあるが、それとは別に当時の人間の生身の立場にたって考える必要もある。むしろ、その方がよほど大切だ。そういう意味では彼女たちの姿は「一番美しい」のである。
先ほど紹介したインタビューとの関連で言うと、この映画は単純な「反戦映画」などではないと思う。黒澤がはっきりこたえずに「含み」もあると答えたのはね決して誤魔化したのではなく正確な答えだろう。なぜなら、黒澤は彼女たちの置かれた状況とそれに立ち向かう姿を心から愛して描いていて、それは皮肉でもなんでもないから。
恐らく「反戦」と解釈するのは、そういう状況に彼女たちを追い込んだ戦争に対するプロテストという意味だろう。しかし、黒沢はそんな単純な意図でこの映画を撮っているのではないような気がする。戦争に限らず、人間は自由に正しく行為できる状況では暮らしていない。それは、戦争中でも平和な今でも同じだ。そういう中で、人間がどう「美しく」生きられるかということを黒澤は考えているのではないだろうか。
これを知的な理解で一ひねりした「反戦映画」だと解釈されたりするのは、黒澤にとってはあんまりうれしいことではなかったような気がする。だから、黒澤のはっきりしない応えかたになるのだ。映画は、表面的な批評や浅い解釈をはるかに超えている。もし映画に価値があるとしたら、恐らくその点にしかない筈だ。
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2011年01月28日

小津安二郎 「浮草」雑感



小津と宮川一夫NHKが唯一組んだ作品。BSで宮川一夫ドキュメンタリー番組でも、この映画のことを取り上げていた。
宮川は少年時代に、陽が射す縁側に置いてあった金魚鉢に薄墨を流し込んだ際にきらめいた金魚の色彩が忘れられなかったそうである。そういう原体験があり、赤へのこだわりがあり、同じく赤が好きな小津と出会う。この「浮草」では、ほとんどあらゆるシーンに赤が組み込まれている。何度も映って印象的なのは、杉村春子宅の庭に咲き誇る赤い花だろう。
また、小津映画には少ない激しい雨のシーンは宮川の影響ともいえる。中村鴈治郎と京マチ子が、激しい雨の中で向かいあう軒先で激しく言い合うシーン。確かに、美しい映画的な場面なのだけれども、なんとなく小津的ではない。静的形式感の小津映画に、溝口のドラマティックな要素が、宮川を通じてながしこまれたということなのだろうか。
さらに、若尾文子と川口浩が逢引するシーンで、川口の顔が暗く隠れるのも小津映画では珍しいそうである。確かに妙に暗示するような映し方などしない小津映画では珍しい。
全て私は、「浮草」を見返してから、宮川のドキュメンタリーをまた見てみたのだが、確かにこの二つのシーンとも、とても印象的であると同時に小津的でない違和感も感じたのだ。特に後期の小津は、常に静的な絶妙な均衡が画面を常に支配しているのだが、そこに宮川が亀裂をもたらして動的な緊張をもたらしているとでもいうか。この「浮草」は、後期小津には少し珍しい「ドラマ」なので、宮川カメラがあっていたのかもしれない。
きわめつけは、冒頭あたりで旅一座が、チラシを配るために町をねり歩くシーン。はっきり俯瞰カメラである。これは、ローアングルの小津映画ではほとんど唯一だそうである。さらに、笠智衆が楽屋を訪れるために道を歩いてくるシーンも俯瞰気味で珍しいとのこと。
それと、余計なことだが、宮川は女優を美しく映すことでも定評があり、それはやや上からのアングルであごの線がはっきりするからだという。私は、小津映画と成瀬映画を見ていて、どうも成瀬映画の方が女優がきれいに撮れていると感じていたのだが、小津のローアングルもそう感じる理由の一つなのかもしれない。
映画自体は素直にとてもよい。ラスト近くの中村鴈治郎、杉村春子、若尾文子、川口浩のシーンで不覚にも号泣してしまった。普通によく描けている。だいたい、後期小津で「泣く」映画など基本的にありえないのだが、後期にこういう作品が残っているのも、なんとなく嬉しい。
中村鴈治郎と杉村春子のからみなども、二人とも実にうまい。杉村も抑制気味の演技の中に全てを表現していて見事だ。後期小津のホームドラマではなくて、旅一座の人間の物語なので、役者も自由に演技したり表現したりする余地のある作品になったのかもしれない。
そして、京マチ子も若尾文子も普通に美しい。女優が「女優」であった古きよき時代である。
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木下惠介「カルメン故郷に帰る」感想



最近、昔見た古い映画―中には細かいところはすっかり忘れてしまったものも多い―を手当たり次第に見ているのだけれども、結果的に亡くなった高峰秀子の追悼のようになっている。私はどちらかというと原節子派なのだけれど、やはり日本映画に対する全般的な貢献や日本の女優らしさという点では高峰秀子の方よとるべきなのかもなのかもしれない。もっとも、二人は全然個性が異なるので比較しても無意味だけれども。
1951年の作品。国産初のカラー映画である。この年には、小津の「麦秋」、黒澤の「白痴」、成瀬の「めし」も生まれていて、とんでもない年である。まさしく、日本映画の黄金期だ。どうしてこの時代の映画は、どれもこれも例外なく素晴らしいのだろう、。
ほとんど、屋外ロケで浅間山が美しい。木下の人物の描き方も、全く曖昧にところがないがそれでいてキメ細かでもある。どの人物も、悪役を含めて気持ちよいのだ。
この映画から受ける感触に、どこかしら覚えがあると思ったら、ジョン・フォードの西部劇だ。広々とした山の光景、馬が働き、牛が放牧される。そして登場人物はみんな例外なく人の良さを残している。都会で働くカルメンを含めて、都会人ではなく、「西部劇」に登場する人たちのようだ。
笠智衆の校長がとてもよい。見事な一本背負いを披露して悪役の丸十を投げ飛ばしたりするのだが、その後に「教育者たるワシが、しかし後悔はせん」とか何とか言う、全てそんな調子で、のどかそのものなのだ。笠智衆の真面目で不器用で実直な個性がすごくいきている。
他の役者のキャラクターも分かりやすい。佐野周二の盲目で心が美しい村の音楽家、それを馬をつかって女手一人で働いて支える聡明で美しい妻の井川邦子。真面目で爽やかで純情な高校教師、佐田啓二。悪役の丸十もその手下もどこか憎めない。
カルメンの姉役の望月優子が、人懐っこくて人がよくて明るくて田舎の人のいいお母さん的でハマリ役である。成瀬の「晩菊」でも素晴らしかったが、この時代の個性的で魅力的な貴重なバイプレイヤーの一人である。
高峰秀子は、自分では芸術家と言っているが、実は都会でストリッパーをしている。と、ウィキペディア等、どこにもそう書かれているのだが、そういう設定なのだろうか。坂口安吾のエッセイなど読むと、あの時代にはレビューダンサーというのがいて、銀座などのダンスホールでセクシーな衣装で踊っていたそうだ。それは、一応いわゆるストリッパーとはちょっと違うと思うのだけれども。カルメンも友達も、自分たちの踊りを「芸術」と呼んでいるので、彼女たちの仕事は、東京のダンスホールの踊り手なのではないだろうか。よく分からないのだけれども。
とにかく、高峰秀子が伸びやかな健康美を惜しげなく披露して、浅間山をバックにダンス仲間の小林トシ子と踊るシーンは、なんとも不思議で美しくてよい。
田舎の人間たちも、彼女たちを尊敬するわけでもなく拒否するわけでもなく、憧れるわけでも見下すわけでもなく、彼女たちの存在と踊りを楽しんで逞しく受け入れてしまうのだ。日本の田舎は意外に排他的ではなくて、外国などの異質な文化を寛容に受容する。実際に東北の一部など。
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