2012年09月11日

黒澤明「酔いどれ天使」



三船敏郎の記念すべき黒澤デビュー作。この作品から、以降「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」と三船敏郎と志村喬のコンビが中心に映画がつくられ続ける。
どの作品でも三船のギラギラした存在感がすごいのだが、一方志村がどの作品でも全く異なるキャラクターの役を完璧にこなしている。今改めてみると、むしろ志村が常に影の主役であって、それを三船がひきたてているようにも見える。
ここでの志村は、飲んだくれで口が悪いが患者思いで腕もよく心根も優しい医師の役。髭をはやしてギロッとした目で乱暴な口をきく様子が実にはまっていて、完全に役の人間になりきっている。「醜聞」のダメ人間ぶりとは全く別のキャラクターだが、どちらも完璧。志村は、表面的に演じるのではなく役の人生をそのまま生きるタイプの素晴らしい役者だった。
この頃の黒澤は、映像の作り方にも色々実験的な工夫を凝らしている。最初の方に何度も挿入される夜にギターを弾く男の映像が無気味で岡田の導入の巧みな伏線になっている。
但し、三船が夢を見て海で棺桶をあけると死んだ三船が出てきてもう一人の三船を追うシーンは、ちょっとやりすぎで笑ってしまう。何となく黒澤らしいが、監督の若さも感じさせるところだ。
笠置シヅ子が酒場で歌う貴重なシーンもある。エネルギーが小さい体から強烈に放射されていて奔放なキャラクターで、これが当時の人気の理由だったのだろうか。今の歌手とは全く違う独特の雰囲気が新鮮だった。
木暮実千代がヤクザの女の酷薄なところを見せている。やはり存在感はすごいが、役としてはあまり見所はなく、その後も黒澤映画とは縁がなかった。
中北千枝子が、もとヤクザの女の役だがキャラクターにはあまりあっていないが、予定していた女優が病気で急遽変更になったそうで何となく肯けた。
志村の医師仲間で進藤英太郎が出ているのも珍しい。清水将夫の親分は配役を見ないと分からなかった。黒澤映画では本当に様々な役をこなしている。
ウィキペディアのキャストだと出てないのだが、三船の子分の男前の方は、「野良犬」や「青い山脈」にも出ていた生方功だろうか。妙に印象に残る顔の役者である。
この映画は、志村と三船の交流場面が実にいい一方で、ヤクザの世界の描写はやはり殺伐としている。特に三船の末路はあんまりだが、黒澤はヤクザが大嫌いで、なおかつ戦後の混乱状態でこういう投げやりな生き方を若者がしないようにメッセージをしたかったらしい。真面目に結核と向き合う女学生の久我美子が実は勇者だという描き方をしているが、さすがにちょっと教訓的過ぎる感じがする。しかし、こういうストレートなメッセージを送るのも黒澤らしいところだ。
ラストで志村と千石規子が泥沼のほとりで話し合うシーンは大変映画的。特に千石規子というのは本当に不思議な存在感のある役者だ。
ここでは三船に惚れてヤクザから足をあらわせようとする役だ。その雰囲気は、例えばフェリーニの「カビリア」の夜のジュリエッタ・マシーナとかタルコフスキーにセリフもなく現れる宗教的な女のようだ。日本的な市井の聖女のようなところがあって、このラストの千石規子が映画に深い余韻を残していると思う。「静かなる決闘」でも大変よかった。
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2012年09月10日

黒澤明「赤ひげ」



そう簡単に見られる映画ではないので、今回きちんと通してみるのは多分三度目だろうか。毎回見終えた後には、少しグッタリしながら心地よい疲労感に包まれる。これだけ「濃い」映画もまずないだろう。
私は多分10年ごとくらいの周期で観て、毎回感動してしまったのだが、毎回目から放出される液体の量が放物線状に増加する一方だ。まぁ、単に年をとって涙腺がゆるくなっただけなのかもしれないが。
しかし、最近黒澤映画が本当に素直にいいと思えるようになってきた。この「赤ひげ」は、そのヒューマニズムが強烈すぎて、若い時にはちょっと照れながらも心打たれるといった感じだった。
今はただ素晴らしいと思うだけ。いや、この「赤ひげ」だけでなく、黒澤明は初期から晩年に至るまで実に「まとも」な人だったと思う。黒澤映画は「大人」(あくまでカッコつきの)には、少々照れくさかったりするところがあるのだが、今観ると実にまっとうな素直な感性、考え方の持ち主の映画である。
実は当たり前のことを当たり前に言うのは大人になるほど難しくなる。黒澤映画からは、その遺作の「まあだだよ」に至るまで、少年の澄み切った目が感じられる。
しかし、実は大人でいながら子供の心で居続けることは難しい。黒澤も映画制作を続けながら、様々な体験、人の裏切りを体験したようだ。本人は、「乱」の一文字秀虎は自分だと言っていたそうである。そしてオリジナルの脚本では次々に裏切る者たちが具体的に誰なのかが見る人が見れば分かったそうだ。
しかし、黒澤は最後まで子供のような素直なものの見方をし続けた。具体名は挙げないが、世界や日本の映画監督でつくる作品は本当に素晴らしいが、政治的な考え方や人格はサイテーという人はたくさんいる。それはそれでいい、映画作家にとって残した映画が全てだから。
ただ、黒澤の場合、映画でかなり率直に語ろうとしている事が実に普通でまともで正しい―誤解を受けそうな言葉だが―と思う。一見単純な正義感や思想に基づいているようで、黒澤の場合はあくまで自身の肉体的な感覚に根ざしていて、決して理屈とか理想ではなかったような気がする。
例えば、「生きものの記録」にしても、あれも単なる反核メッセージではなく、黒澤のほとんど生理的レベルでの感覚だから映像にとてつもない迫力があり説得力を生んでいる。決して薄っぺらな理屈ではない。
子供は実は全然純真でも素直でもない。敏感な彼らほど、大人の世界の掟や論理を感じ取っている。だから、その暴力性は大人のような飾りがないのでむしろ時として激しくなってしまう。
子供は大人の世界をこわいくらい反映している。そして、そうした子供が実際に大人になると、その暴力性をもっともらしい理屈で正当化して生きるうえでは仕方ない事としてわりきるようになる。立派な大人の誕生である。現在の世界で当たり前のように起きているのは、そういうことだ。
だから、子供の目をずっと持ち続けるのではなく、むしろ大人には一度死んで子供の目を持つ努力が必要だ。大人の論理、世界観、硬直した感性を全て疑って。勿論、それは言うは易く行なうは難い。私もその一人だ。
しかし黒澤はそういうことが出来ていた、というよりは、そうせざるを得ない生理的レベルの感覚を持ち主だったのだと思う。
「生きものの記録」のラストの中村伸郎扮する医者の言うように、狂った世界では正常な人間が狂っているように見える。しかし、稀にそういう正気を保たずにはいられない人間が現れる。あの映画の三船が演じた老人もそういう人間だし、黒澤明自身もそういう人だったのだろう。
この赤ひげも「黒澤流の泥臭いヒューマニズム」の映画などではない。ごくごく、まっとうで普通な感覚の、そしてとびっきり素晴らしい映画ということだだ。「それだけだっ。」」もし、赤ひげのように言うならば。
佐藤勝のテーマ音楽は、どことなくベートーヴェン第九の歓喜の歌のテーマのような雰囲気がある。荘重でいて生の喜びに満ちていて。この映画は、黒澤の「第九」とも言えるだろう。黒澤映画のそれまでのあらゆる要素が詰め込まれていて、スケールも大きく内容も濃密。そして、白黒映画も三船主演もこれで終わり。最後の交響曲である。

赤ひげと加山雄三の出会いのシーンからして素晴らしい。三船がものすごい目で加山を睨みつける。あくまでその器量を計るように。加山は一瞬ひるむが、鋭く視線を返す。赤ひげは、多分見どこがあると思ったのだろう。そして、偉そうに陰口を叩いていた江原達怡は、こわがってコソコソしている。そういったことが、言葉の説明なしにきちんと伝わってくる見事な演出。
ここでの加山雄三は本当に素晴らしい。この役柄は、一本気で単純なようでいて、なかなか人間の器の大きさがないとこなせない。「椿三十郎」同様、黒澤映画の加山は本当によかった。
香川京子の狂女。こういう役は珍しいが、本当にすごい女優である。加藤の前にあらわれた瞬間、目がとろんとしていて、どこかおかしいのがすぐ分かる。完全にオーラまでなりきっている。そして、加山をかんざしで刺そうとする際の目のこわさと言ったらないが、これはキャッチライトの効果だそうである。それにしても、この香川の目や表情も本当におっかなくて素晴らしい。
六助の藤原釜足は、配役を見るまで分からなかった。セリフもなくて、ただ喘ぐだけの難しい役だ。
根岸明美が長セリフで身の上を語るところも印象的。
「10分近い長い台詞を本番1回でOKにした。しかし本人はそのラッシュのフィルムを見ている最中に撮影中のことを思い出して感極まり、試写室を飛び出してしまった。以来、映画本編を未だ一度も見ていないという。」
ウィキペディアより)
「生きものの記録」でも存在感がすごかった。この人は、プロポーションが素晴らしくて肉体派女優と見られることも多かったそうだが、このシーンでの完全に「入ってしまっている」感じといい、すごく感受性の鋭い役者だったという気がする。
佐八の山崎努とおなかの桑野みゆきのエピソード。山崎努は「天国と地獄」とは対照的な役で、これが黒澤の得意のパターンだ。そして、桑野みゆきは小津の「彼岸花」や「秋日和」では、まったく無邪気な若い娘の役だった。というわけで、ここでも偶然かもしれないが全く小津映画とは違うタイプの役である。
この二人のエピソードは、療養所外のロケが使えているので、二人の逢引の雪野原、再会の坂道、火事のシーンなどの情景が見事。こういう外の撮り方もちゃんと集大成として繰り入れている。
勿論、黒澤に欠かせない名俳優も贅沢な形で登場する。赤ひげにイヤミをいう商人に志村喬、長屋の人のいいオヤジで東野英治郎、酔ってわめく三井弘次もよかった、療養所の患者で左卜全と渡辺篤、家老で西村晃などなど。
おとよの二木てるみのエピソードでは、娼家の女主人で杉村春子が登場する。相変わらず達者で見事。本来憎たらしい役なのだが、改めてみると結構おかしい。
おとよを連れ戻しに療養所にやってきて、「まぁ、先生なんてお礼を言っていいかけ」とか言ってゴマをすって、断られると怒る啖呵の見事な事。本当にうまい。そして、おかしい。実は三船に結構ひどいことを言われている。笑える。
そして、療養所の女房たちが杉村の頭を大根でなぐるところは腹をかかえる。この映画随一のコメディシーンだ。
杉村も「わが青春に悔いなし」では重要な役をしていたが、黒澤映画にはあまり縁がなかった。やはり総決算の映画に特別に登場した感じである。
そして、赤ひげの娼家街での決闘シーンは医者として設定が無理だが、「第九交響曲」なので、どうしても三船に「用心棒」や「椿三十郎」をやらせたかったのだから仕方ない。
おとよに赤ひげが薬をやろうとして三度はねのけられて、やっと四度目に飲む有名なシーン。これは何度見てもつい泣けてしまう。そしてよく見ると、二木てるみが実にうまい。
そして、長次の頭師佳孝。あの顔と喋り方。完全に反則である。こういうのを天才子役という。そうとしか言い様がない。黒澤映画には、この後「どですかでん」などに出演し続けるが、「夢」で日本兵の亡霊の役をしていたたのも忘れがたい。
そして、ラストでは登の父で笠智衆、登の母で田中絹代が登場する。
「黒澤は、自身の先輩である小津安二郎監督作品の看板役者であった笠と、溝口健二作品に多数出演した田中を自らの映画に出演させる事により、2人の日本映画の巨匠監督への敬意を込めたと語っている」
(同ウィキペディア)
全くもって念には念をいれた「第九」だ。
そして、ラストで加山に「ふんっ」と言い捨てて後姿で去っていくところは、「用心棒」や「椿三十郎」だ。さすがに肩をゆすりはしないが。
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2012年09月08日

黒澤明「天国と地獄」



最近は、映画を観るに当たってウィキペデイァで配役を確認するのが常になっている。便利になったものだ。つい見逃してしまうような端役についてもすぐ分かる。
この「天国と地獄」については、配役だけでなく、映画にまつわるエピソードも詳細に記されていて大変参考になるが、あまり書く事もなくなって困る。
黒澤は、当時の誘拐罪に対する罪の軽さに憤慨してこの映画をつくったが、公開後に誘拐事件が多発して国会でも問題になったそうである。
それくらい列車から現金を落とすエピソードなど、トリックなど実に細部にわたるまで精緻につくられている。黒澤の特質の、知的な細部のこだわりがよく出た映画である。そして、見れば分かる映画で余計な感想など述べる余地がない。
芸術としてというより上質な娯楽映画に徹していて、黒澤映画の評価の上で損をしていると思う。しかし、本当にディテールまで練りに練られていて完璧で見事だ。
この前に「用心棒」と「椿三十郎」という対になる作品を撮っているが、これはキャストや作品の雰囲気で3年前の「悪い奴ほどよく眠る」とツインになる作品である。
なんと言っても列車の誘拐金受け渡しのシーンが印象的だが、もし撮影に失敗すると2000万かかったり、邪魔になった家の二階を取り払ったりしたそうだ。お金の事ばかり言うのもなんだが、あの尋常ならない映像の緊迫感と、やはり無関係ではないのだろう。
ここでの仲代達矢は実に渋くてかっこいい。黒澤映画の中の仲代の役の中でも個人的には一番好きだ。日本伝統のテレビ刑事ドラマの先駆けとでも言うべきキャラクターの役作りに成功している。黒澤はこの役をヘンリー・フォンダをイメージして創ったと聞いて、仲代は生え際を後退させるべく毎朝剃刀で額を剃っていたそうである。デニーロみたいですごいですね。
三橋達也が、冷酷で計算高い男を演じきっていて、「悪い奴ほど」の正義漢とは対照的な役である。黒澤得意のパターンで、山崎努もそうで、ここでの役とは全く違うキャラクターの役を「赤ひげ」では割り当てられていた。
ちなみに、三橋が急に誘拐金を払うことを主張して買収されたのを三船にすぐ見透かされるシーンはおかしい。
運転手役の佐田豊は、人のよい気弱なキャラクターが実にはまり役だった。
前半部分が誘拐事件の緊迫感あふれる描写で、後半は犯人を追う警察の様子になっている。
そして、その刑事ドラマ的部分が実に精緻で魅力的なのである。
警察の捜査会議の様子で、どうのように分担して捜査するかが克明に描写される。ここら辺も多分十分に実際の捜査のやり方などを十分に下調べした上でつくっているのだろう。
仲代達矢以外にも、石山健二郎、木村功、加藤武といったキャラの強い俳優を使っていて楽しく、この辺もテレビ刑事ドラマの原点である。
また、捜査会議では名古屋章がでていたりする。上司では志村喬、藤田進を使っている豪華さ。せっかくこの二人がいるのに、「では説明は戸倉警部(仲代達矢)に」、と言わせていて勿体ない限り。
そして、単なる誘拐劇でなく、山崎努という屈折した複雑な人物を導入してその心理を描こうとするのも実に黒澤らしい。こういう基本的には娯楽作でも、どうしても人間的な深みを持たせようとする。映画の完成度を考えれば弱点になりかねないが、黒澤のこういうところが好きである。
山崎はラストの熱演も勿論見事だったが、麻薬街のシーンでサングラスをかけ、それが光に反射して目のように無気味に輝き続ける演出も実に印象的だった。
山崎が三船に話しかけて煙草の火をもらうシーンで、街中にさりげなく立っているはずの三船の有無をいわせない存在感にちょっと笑ってしまった。
そして、山崎が花を買いに行くシーンで、刑事組がお互いの顔を見合わせて「あいにく、花を買いに行くような面は一人もいません。」には爆笑。さらに、「母の日かな今日は」のとぼけたセリフ。場面が緊迫しているだけに腹を抱えた。
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2012年09月07日

黒澤明「乱」



今回WOWOWで黒澤全作品が一挙放映されているのでいい機会だと思って全部観ている。但し、この「乱」や「影武者」はもともとそんなに感動した作品ではない。一般的な評価通りでつまらないけれども、白黒時代の名作群のあの有無をいわせない説得力に欠けていると言わざるをえない。
それは理屈のレベルの話ではなくて、映像から素直に受ける印象である。この映画にしてもリア王の翻案がうまくいってないとか、庶民が登場しないとか、その種の退屈な批判のことではない。
例えば「蜘蛛巣城」のマクベスの翻案だって基本的には結構テキトーだ。でも、そんなこととは関係なく映画に文句なく巻き込まれて最後まで充足した時間を過ごせる。「乱」や「影武者」では、残念ながらそういう体験をすることが出来ない。
なぜか。
様々な要素があげられるだろう。黒澤自体の創作力が衰えたこと。白黒時代のスピード感や過剰な生命感―ほとんど映画の体裁など気にしないような表現主義―がなくなり、妙に取り澄ました古典主義的な演出方法にかわっていること。かつての黒澤組の三船から名脇役にいたるまで完璧だった役者陣が失われて、玉石混交の役者あるいは下手な素人をつかっていること。等々。
しかし、それらの説明だけではどうもしっくりこない。
黒澤映画の全盛時代の白黒映画の有するあの普遍的な説得力はどこから生まれるのか。我々現代人や、あるいは少し前の時代の人間が、「過去」の時代の黒澤映画になぜ、これほどまでに刺激されて深い感銘を受けるのか。
逆説的だが、それらの黒澤映画名作群とそれを生んだ時代がピッタリとマッチしているからなのだと思う。
本当の映画のリアリティを生むためには目に見えない時代の空気を深く吸ってそれに素直に従う事が必要なのだと思う。それは理屈抜きの深層レベルのことであって、全く違う時代の全く違う感性の人間が見ても、それはハッキリ感じられる。どんなに純粋に優秀な映画をつくっても、それが時代の空気とずれていると、観る人間は敏感にそれをかぎつけてしまう。
結局、「乱」や「影武者」に起きているのは、そういう事のような気がする。そして、実はそれは黒澤だけではなく全くタイプの異なる成瀬巳喜男の晩年映画にも起きていたことだと思う。
黒澤や成瀬や小津や溝口の日本映画の名作群は、あの時代につくられるしかなかった。小津だけはいいタイミング、ほとんどギリギリのタイミングで死ぬ事が出来た。
彼らと全く同質の映画を現代でつくれる作家がもし現れても、それはとてつもなく退屈な作品になるだけだろう。
とは言っても、それは一般論で、最近見直して例えば「どですかでん」の素晴らしさに感動したばかりだし、「夢」もすごい映画だし、「八月の狂詩曲」も大変気になるフィルムだ。それらについては、個別にまた書いてみたい。

この「乱」でも素晴らしい部分は勿論たくさんある。特に、原田美枝子は素晴らしい。誤解を招く言い方だが、「乱」がすこしずれている中で「女」だけは普遍的な生命力を放っている。
「蜘蛛巣城」の山田五十鈴(本当に素晴らしかった)の現代版だが、もっと過激である。
特に根津甚八に刃をつきつけて凄むシーンは圧巻である。
根津を厳しく尋問して、「たわいもない」と捨てゼリフをはき、つばを吐いて、根津を嘲笑してこわーい笑い方をして、夫が殺されたことも何とも思わないとぬかし、そした最後は色仕掛けで痴女風に根津の首元を激しく舐める。
本当によくここまでやった。ブラヴォーである。そして根津甚八のやられっぷりの見事な事も褒めねばなるまい。
それと、役柄自体もおいしいのだが、井川比佐志も本当に見事だ。他の役者が必死に演じても、どこか生ぬるさを感じさせるのに、井川だけは「かつての」黒澤映画の三船など名俳優クラスに生命力が充溢している。この映画の中であれだけ出来ているのは奇跡に近い。
特に無敵の原田美枝子の元に狐の首を持ってきて、ぬけぬけと嘲弄するシーンは圧巻。この映画では、この二人の俳優が明らかに図抜けている。この二人を主役にして映画を撮るべきであった。
有名な金をかけた城が炎上して仲代達矢がフラフラと現れてくるシーンも確かに美しい。でも、それだけの事だ。例えば、タルコフスキーの「鏡」で小屋が燃えたり「サクリファイス」で家が燃えて爆発するあの精神的な深さには遠く及ばない。
また、あの武満徹をわざわざ使っておきながら
音楽が印象に残らない。黒澤と武満は大変もめたそうだが、黒澤が明らかに悪い意味で独裁者になって武満の自由な創造力をそいだという印象は否めない。武満だとNHKテレビドラマの「夢千代日記」の方がどれだけ素晴らしいか分からない。
そして、ピーターはせめて坂東玉三郎あたりにやらせることは出来なかったものだろうか。
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2012年09月05日

黒澤明「虎の尾を踏む男達」



大戦末期に撮られた作品。当然、検閲も意識しないといけないし、予算等の制約もあっただろう。
一言で言えば、歌舞伎の「勧進帳」を映画化した作品。基本的には大河内傳次郎などが重厚な古典らしい演技をするが、映画化に当たって工夫もこらされている。
喜劇王エノケン、榎本健一が原作にはない要素として、茶々を入れる。また、音楽が画面とは合わないミュージカル風な現代的な音楽をつけている。
つまり、検閲されにくい歌舞伎のネタを題材に、そこに遊び心を入れて、ささやかな抵抗をしようとしたといった感じだろうか。
この後の戦後の黒澤は、この映画とは対照的な過激な表現主義というべき路線を突っ走って圧倒的な傑作を次々に生み出した。
ただ、黒澤本人は元来「古典的」な様式観、あるいはその種の教養に裏付けれされた人物だったようで、特に黒澤後期の作品では、そうした要素が色濃く現れてくる。語弊のある言い方があるかもしれないが、本来の性質が年を取って表に出てきたように。
ジャズのジョー・ザビヌルが初期はアダレイ・ブラザーズと黒人のブルース的な感覚の曲やプレイを白人なのにしていたが、ウェザー・リポートを経て晩年は西洋音楽の教養に根ざしたような音楽をやるようになったのと同様。そして、ザビヌルの場合、晩年の音楽は結構退屈だったりした。
この映画を見た感想をごくごく正直に言うと、やはり―ほぼ一時間の短い映画であるにもかかわらず―退屈してしまった。
今述べたような要素は頭では理解できるのだが、ごく普通の現代人の感覚で見るとやはり時代を感じさせてしまうのだ。黒澤の他の長い映画が、全く退屈させずに一気に見せるのとは対照的である。
冒頭の景色の撮り方からして―その後もずっと―、静的な古典的な構図で、そういう意味では黒澤映画としては珍しく貴重なのかもしれない。
また、エノケンもが見られるのも貴重だが、我々は名前でしか知らないので、この映画だけ見てもその面白さがそんなには分からない。キャラクターの強烈さは理解できるのだが。
しかし、例えば現代に置き換えると、例えば間寛平が「勧進帳」の大真面目な芝居に紛れ込んで茶化しているのとも考えられる。そう思うと中々面白いアイディアなのかもしれない。古典的な撮り方も、そう考えるとかなり知的なひねった高度なパロディと捉える事も出来る。
といっても、映画はそういう理窟よりも見た素直な印象が全てだ。やはり、戦時中の検閲が黒澤ほどの反抗心の強烈な作家の創造力さへ抑圧してしまったという印象は否めない。
但し、黒澤自身はこの作品にも結構自信をもっていたようで、戦後に(形式的に残っていた検閲官に酷評されて)、くだらない奴にくだらないと言われるのは、この作品がくだらなくない証拠だと息巻いたそうである(作品のウィキペディアより。)
戦後に次々に撮った奔放な作品群のイメージと違って、実は黒澤は知的に計算して映画をつくるタイプである。
それが、恐らく他の同時期の日本の巨匠も、小津や成瀬や溝口と一番違う点で、それらの作家たちには自分たちが表現しようとするものから無意識に逃れ出る得体の知れないものがあった。その点が彼らの魅力だし、色々映画について語りたく部分でもある。
しかし、黒澤の場合は、表面上の過激さとは裏腹に、映画制作の姿勢は実に意識的で「知的」である。
例えば、昨日感想を書いた「椿三十郎」にしても、その脚本の精緻な構成に舌をまく。ほとんど現代ハリウッド映画にも近い感覚なのでる。
だから、この「虎の尾を踏む男達」の冒頭に述べたきわめて高度な知性的なパロディの姿勢も、実は結構黒澤的なのかもしれない。
ただし、例えば「蜘蛛巣城」のあの大胆なシェークスピアのマクベス翻案と比べると、いかにも平面的で物足りなく感じてしまうのも事実だ。
しかし、それは戦時中の様々な制約を考えると、言っても仕方ないような気がする。
ちなみに、エノケンが何度も義経一行の下にあらわれて、同行を願うシーンは、「七人の侍」で、三船敏郎の菊千代が志村喬一行に何度もつかむ名場面を連想させる。当然、このアイディアが下敷きになっているのだろう。

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2012年09月04日

黒澤明「椿三十郎」



言うまでもなく傑作痛快時代劇。見れば分かる。説明の必要もない。個人的には対になる「用心棒」よりも好きだ。「用心棒」は話自体が殺伐としすぎているが、こちらは随所に上質なユーモアが散りばめられていて楽しい。
まず、オープニングからして素晴らしい。若武者たちが円形に座って話し合つて盛り上がるあの雰囲気の描写が大変映画的。そして、暗闇から三船の椿三十郎がぬっと登場するかっこよさ。何という完璧な演出だろう。
100分弱の映画で完璧なストーリーを盛り込む脚本にも舌を巻く。黒澤自身も脚本を書いているようだが、どの程度関わっているのだろうか。
黒沢映画には、ルーカスやコッポラというハリウッド系の監督が反応しているが、こういう脚本の精緻な巧みさもその要因になっているのだろう。
三船敏郎の役でも、これは大層魅力的である。三船はどの役もごくごく自然に、まるで素のミフネのままなようだが、実は繊細に各役を演じ分けている。キャラクターが強烈すぎるので、どうしてもミフネが表に出るのだが。
ビリー・ホリディが、どんなスタンダード・ナンバーを歌っても、ビリー色に染めてしまうが、実は各歌曲の精髄の本質を見事に表現しているのとも似ている。
加山雄三は、「赤ひげ」と共に、まだ「加山雄三」になりきっていない加山雄三で若者の素直さ、爽やかさが直截的に表現できていて素晴らしい。
こいそ役の樋口年子、「隠し砦の三悪人」でオーディションで登場したが、ここではセリフを結構セリフを喋っている。
奥方役で、入江たか子が登場するが、例えば黒沢だと「一番美しく」から約二十年経過している訳だが若き日の典型的な美女と比べて、そのあまりの変わりようにちょっとショックを受ける。女優という仕事の難しいところだ。
団令子は、おっとりとしたお嬢さん役。「赤ひげ」でも清純な役で、同じ役者に対極の役をやらせたがる黒澤にしては珍しい。成瀬や小津では、変わった女を怪演したいいキャラクターなのに。
三船が、入江の踏み台になるシーンもおかしい。ミフネの顔のしかめ方。入江が本当に重たそうなだけに・・。
志村喬が脇の悪役で、しかも脇の脇。ちょっと寂しい。現代の感覚だとまだ当時全然若いと思うのだが。
なんと言っても、この映画で一番おいしいのは小林桂樹である。入江の人柄にうたれて逃げ出すのを自分から断念し、押入れの中で本当の事実を知り、ついには若武者たちの幼稚さに耐えられず、押入れから飛び出してきて人生の先輩の意見を決然と述べてから押入れに戻るおかしさ、そしてうまく計略が行って押入れから出てきて新たな仲間たちと喜んでから我に返るシーンは実に出来のいいコメディである。
そもそも、黒澤がこの作品の元になる脚本では、小林桂樹などが主役候補だったらしい。
入江と団が合図のつばきを赤にするか白にするかをのんびり話し合うところで、三船がイライラしてのの字を書くところも抜群におかしい。
城代家老の伊藤雄之助は、言われないと分からないくらい馬面メイクだ。確かに顔は長いけれど。「生きる」の無頼派作家とは全く違うタイプの役で、黒澤が好むパターンだ。
ラストの、三船と仲代達矢の決闘シーン、最初観たときはショックを受けた。あの血の吹き出し方。最近は、あれはジュースだと思って見るようにしている。そうでないと、今でもちょっとこわいくらいのシーンなので。

それと、この映画のセリフのセンスが秀逸である。現代だと「天空の城ラピュタ」の名セリフが話題になったりするが、全くそれにも劣らないと思う。以下、それらを幾つか紹介して終わりにしよう。

「するとニヤニヤ笑って、おいっ、オレがその汚職の黒幕かもしれないぞ。お前たちは、このオレを少しうすのろと思って案山子がわりに担ぎだすつもりらしいが、人は見かけによらないよ。あぶないあぶない。一番悪い奴はとんでもないところにいる。あぶない、あぶない。」

「盗み聞きって言う奴は、いいもんだぜ。岡目八目、話している奴より話の本筋がよくわかる。」

「なかなか聞き分けがいいな。いいこだ。」

「こうなったら死ぬも生きるも我々九人。」「十人だっ。てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねぇや。」

「ちぇっ、こう金魚のウンコみたくつながってこられちゃ始末がわりぃな。」

「いい侍だ。ふっ、おめぇたちより頼もしいぜ。」

「おめぇ、丑年の生まれか?何かというとつっかかるが。」

「なんだ、その面ぁ。刀振り回してぇんだろうが、御免だぜ。間抜けな味方の刀は敵の刀よりあぶねぇ。けつ斬られちゃ、かなわねぇからなっ。」

「あなたは、ちょっとギラギラしすぎていますね。抜き身みたいに。あなたは鞘のない刀みたいな人。よ−く斬れます。でも、本当にいい刀は鞘に入っているものですよ。」

「あの奥方のなさることはマッタク天衣無縫だな。」「ちぇっ、少し足りねえのさ。」

「しかし、アイツ何をやりだすか分からんっ。化けもんだぜ、ありゃあ。」

「それはねぇ、誰かもおっしゃったようですが、あの人の変なクセです。あの人は褒めたい時でも悪口しか言えない人なんですよっ。」「それみろ・・。」

「わからねぇのか。こいつら助けるのよ。」

「はっ、のどかなもんだっ。この調子じゃ、城代の居所を見つけるころにゃあ、おらぁ白髪の七十郎だぜ、おいっ。」

(流れてきた椿を見て入江)「まぁ、きれいだこと。」

「ざまぁみやがれ。うまくひっかかりやがった。椿の合図は赤も白もねぇんだ。」

「おまえらが謝ることないよ。わしに人望がなかったのがいかんのだ。どうもなぁ、わしのこの間延びした馬面にも困ったもんだ。昔の事だが、わしが馬に乗ったのを見て誰かこんな事言いおったよ。乗った人より馬は丸顔。」

「こいつはオレにソックリだ。抜き身だ。こいつもオレも鞘入ってない刀だ。でもなっ、あの奥方の言ったとおり、本当にいい刀は鞘に入っている。おいっ、おめぇたちも大人しく鞘にはいってろよ。」

ラストで「用心棒」同様、三船はお得意の肩をゆするポーズをして後姿で去ってゆく。実は「赤ひげ」でもそうなのだ。


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2012年09月03日

黒澤明「隠し砦の三悪人」



大好きな黒澤作品。何といっても、上原美佐の雪姫である。理窟抜きの存在感、凛々しさ、健康的な色気、心の美しさ、はかなさ。と役者と役柄を混交して述べてしまったが、この上原雪姫は演技のレベルなど軽く超えて役柄と本人が一体化してしまっているのである。
そもそも、この上原美佐は、素人だったところを東宝社員の目にとまり、黒澤が上原の「気品と野生の二つの要素がかもしだす異様な雰囲気」を評価してデビューに至ったそうである。(上原のウィキペディアによる。)
三船敏郎も、オーディションに来ていたところをその異常な迫力にうたれた黒澤の要望で補欠合格した経緯があってよく似ている。二人とも理窟抜きの尋常ではない迫力あるオーラの持ち主で、こういう役者が黒澤の好みなのだろう。
上原はこの後数年して「自分には才能がない」として(あるいは家庭の事情とも言われる)、あっさり引退してしまう。従ってかえってこの上原雪姫が一期一会のスクリーン上の奇跡として我々の記憶に残る事になった。
上原は、山の中では現代風に言うと短パン姿で通して、三好栄子言うところの「猛々しい」姫であるにしても、いくらなんでも世継ぎの姫にこんな格好をさせるのは時代考証以前に無理な設定である。でも、黒澤はこういう野性的な姫を創造したくて、ぬけぬけとこういう格好をさせた。我々は「黒澤えらい」と叫ばずにはいられない。
雪姫のシーンはもう全部印象的だ。山の上に遠望で屹立する姿の凛々しさ、三船をなじった後で少女のように大泣きする泣きっぷりのよさ、三船のおしにするという計略を見抜いた際の何ともいえない笑顔、三船が関所で大暴れするところを見つめる笑顔、最後の番で歌うシーン、姫に戻って三船の男ぶりを褒めて三船が照れるシーン等々。語りだしたらキリがない。
マルセ太郎のように「スクリーンのないブログ映画館」と題して、逐一語ってもいいのだが、読者諸賢に迷惑だと思うのでやめておこう。
しかし、その中でも忘れがたいのは、火祭りのシーンだ。土俗的なエネルギーの発露の画面全体が圧倒的で素晴らしいのだが、その中で上原美佐雪姫が踊る姿は本当に女王の気品と凛々しさが現れていた。三船なども一緒に映っているわけだが、上原一人に目が釘付けになるのである。
全体の上原の鋭いまなざしが特に印象に残る。しかし、結局あのちょっと上滑りする様な喋り方、身体全体から醸し出すオーラの説得力が文句なしである。この上原を見て「演技になっていない、うまくない」とか言うのはバカげている。こういう狭義の「演技」など軽く超越している存在こそ本来映画が夢見るものであるはずだ。
三船も、ここでは上原に負けずに露出の多い衣装で肉体美を誇示している。相変わらず文句のつけようがない。ちなみに、馬に乗って敵兵を追いかけるシーンではスタントを使ってないそうである。改めてみるとすごいスピードである。一体どんな肉体能力の持ち主だったのだろう。
三船のライバル役の藤田進も素晴らしい出来だ。「姿三四郎」「わが青春に悔なし」など初期黒澤で主役(級)をはり、その後も脇役でも常連だがこの時期では最も印象的な役だ。
この人は、大らかな人柄と、引き込まれるような人の良さのようなものが人間本質の部分で自然に表出されてくるところが魅力だ。三船との決闘で負けを潔く認めるところ、味方を裏切る前に歌いだすところ、雪姫の言葉に嬉しそうにうなずくところ、雪姫が鎧姿の三船を褒めて三船が照れたところに呵呵大笑するところ、どれも本当に平家物語に登場する武将のようだ。そういう時代離れした不思議に人間の大きさを感じさせる役者である。「裏切りごめん」の決め台詞が何とも爽快である。
娘役の樋口年子も印象的。本作にあたってオーディションで抜擢されたらしい。それだけに、小細工なしの体当たり的な演技が新鮮である。
そう言えばこの娘を買った上田吉二郎のアクの強さもさすがだった。雪姫の寝姿にムラムラとした二人を石をもって脅すシーンは何ともおかしい。その際、藤原釜足よりも千秋実
の方がスケベオヤジっぽさがでていて素晴らしかった。どうでもいいことだが。
また、敵中に犠牲となって飛び込むシーン、捕えられて「私が姫です、姫です」と叫ぶシーン。いや、別に演技しているのではないのだが、こういう無私の奉公ぶりにどうも我々日本人は弱い気がする。いいことかどうかは分からないが・・。
ちなみに、この樋口年子は「椿三十郎」にもチラッと登場する。
そして、千秋実と藤原釜足のでこぼこコンビについては今更何も言うべき事はないだろう。この時期の日本映画を支えた名脇役二人が思う存分やりきっている。素人系の役者が多い映画だが、―ある意味黒澤映画の三船というのもいい意味で永遠の素人だったような気がする―、この二人は紛うことなき玄人の役者である。
この二人の元に夜に野宿しているところに三船が訪れるシーンが何ともおかしくて好きだ。
千秋「おいっ」。三船が凄い目をして振り返る。千秋ひるんで小声で「こんばんはっ。」藤原何をやっているんだと、「おいっ。」三船がやはり凄い目をして振り返る。藤原とぼけて、「山は冷えるなぁ」。
こんな完璧なコントは中々作ろうと思ってもつくれるものではない。
この作品を元にルーカスが「スター・ウォーズ」をつくったのは有名な話だが、冒頭の佐藤勝の音楽も、ジョン・ウィリアムスのあのテーマと似ていなくもない。そこまで参考にしたのかと今回思った。
そして、「隠し砦の三悪人」というタイトルだけれども、三人とも実は全然悪人ではないというタイトルオチの映画でもある。
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2012年09月02日

黒澤明「素晴らしき日曜日」



黒澤初期のなかなか可憐な佳作である。黒澤にしては、あまりにも重くなりすぎたりはしていない。
ウィキペディアによると、当時東宝争議のせいで藤田進、原節子などが退社していて、新人を起用したそうである。
中北千枝子は個性の強い脇役として黒澤、成瀬、小津映画にも頻繁に登場しているが、ここでは若き日の初々しい主役。ふっくらして健康的でかわいらしい。いかにも性格が良さそうで、この映画の設定にピッタリである。
沼崎勲も、なかなか個性のある役者さんだが、この後37歳で急逝したそうである。
戦後間もない東京を舞台に、二人の日曜のデートがテンポよく綴られていき、どのシーンも印象に残る。特に子供たちと沼崎が野球をするシーンは、当時の子供たちがアップなどて映し出されるが、皆かわいらしくて時代を感じさせる。
こんな小品でも、ダンスホールのシーンでは支配人に清水将夫、与太者に渡辺篤、中北が道を聞く相手に菅井一郎などがチョイ役で登場している。
浮浪児役の水谷史朗という子役の顔つきやその醸し出す雰囲気が何とも印象的で忘れがたい。当時は、本当にこんな子もいたのだろうか。
後半に二人が沼崎の部屋で喧嘩するシーンは、怒って去ったいった中北が忘れて置いていったバッグについているアクセサリーの小動物が効果的で、長い間があって中北が戻ってきて意を決して服を脱ごうとして、それを動揺して見守る沼崎、泣き出してしまう中北の二人をバックから映し続けてるところはなかなかよかった。
そして、音楽堂で沼崎が一人でエア指揮をしようとする場面。当然、中北がカメラに向けて観客に話しかけて、拍手を求める。ゴダールの「勝手にしやがれ」でもジャン・ポール・ベルモントが一瞬カメラに話す有名なシーンがあったが、ここでは中北は滔々とカメラに向かって語り続けるのである。
WOWOWの解説によると、日本ではこの演出はあまり受け入れられなかったが、この映画をフランスで上映した際には、観客から熱い拍手がわきおこって黒澤は感動したそうである。
そして、このシーンは本当に十分に時間と間を使って長い。まるで、タルコフスキーの「ノスタルジア」で主人公がろうそくの火をつけたまま池を横切ろうとするところのようだ。
恐らく、一般的な現代人からすると、かなりこの部分の演出は悠長、冗長に感じるのではないだろうか。また、中北がカメラに向かって熱く語りかけるのも、ちょっと照れくさい。多分普通の日本人はそうだ。フランス人じゃないんだから。私もどちらかというとそういう感じ方だ。
しかしながら、この屋外演奏堂のシーンに、このように大掛かりで長い映画のコーダを持ってこようとしたのが実に黒澤らしいような気がする。
映画の性質からすると、もっと軽く終わらせた方が首尾一貫しているのかもしれないが、いい意味でも悪い意味でもこれが黒澤映画なのだ。
そして、私も実はちょっと照れながらもこのシーンが好きなのである。
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2012年09月01日

黒澤明「生きものの記録」



名作「七人の侍」の次に撮られた作品。全く客が入らなかったそうである。それもよく分かる。これを当時の客に理解しろといっても無理だ。311の福島原発事故を経た我々が再発見して驚く映画なのだから。
黒澤には、多分理屈を超えたほとんど肉体レベルの直感能力があって、この作品や「夢」や「八月の狂詩曲」に、ようやく我々が追いついて瞠目させられるのである。
主人公は、水爆恐怖症にとりつかれた老人だ。当時35歳の三船敏郎が見事な老け役を演じきっている。
老人は原爆に対する恐怖に取りつかれて、地方に核シェルターをつくろうとしたり、ブラジル移住を考える。その強引さが家族には迷惑そのもので、家庭裁判所に家族が訴えて老人に準禁治産者の認定を求める。
老人の家族に象徴される一般、世間の立場からすると、老人は完全に神経質すぎて妄想に
取りつかれた「狂気」の存在である。しかし、当時も報道などにより水爆に対する恐怖は程度の差はあれ、誰の心の底にもひそんでいた。
とはいっても、「普通」の人間の立場からすれば、それぞれの生活もあり、恐怖しても仕方ないという諦念もあり、「現実的」に考えれば、水爆など恐れても仕方ないという事になる。その為だけにブラジルに移住するなどとんでもない話だ。それは、現在の我々にもよく理解できる「普通の」感覚である。
ところが、家庭裁判所の調停員は老人の話をよく聞くにつれ、その不思議な説得力に考えさせられるようになる。特に志村喬の演じる歯科医の調停員は、むしろ三船の感覚に、深く考えさせられ、いつしか密かな共感も覚え始める。
結局、老人はその「世間」との軋轢の結果、本物の「狂気」に陥って精神病院に収監される。
そういう映画なのだが、今見ると黒澤のメッセージはあまりにも明確である。世間の「常識」が実は非常識な現実逃避であって、老人の過敏すぎる「狂気」が実はまっとうで正常な「正気」なのだと。
言うまでもなく、これは現在の我々にとって切実な問題である。現実に対する素朴で素直な「恐怖」は誰にでもある。しかし、それが「現実主義」の「大人」の理論と「常識」にょって打ち消されいく。いつの間にかウヤムヤになって、悩んでも仕方ないやと開きなおってしまう。この映画が本質的に訴えかけてくるのは、素朴で素直な心、直感的なは正常な把握能力と、それをもっともらしい理論で冷笑的に糊塗して否定しようとする浅はかな現実主義や「理性」の対立なのである。
この映画は、音楽の早坂文雄が、水爆に関する新聞記事を見て「こんな時代じゃ、安心して暮らせないね」とつぶやいたのがキッカケになったそうである。そして、この映画の撮影中に亡くなった早坂文雄の遺作になり、冒頭のクレジットでは、「遺作」とわざわざ書かれている。映画のラストは黒く何も映らない画面のバックで早坂文雄の音楽が流れて終る。

ここでの三船敏郎は見事だ。黒澤映画の三船は常にそのまま三船だ。そのありのままの存在感に誰もが圧倒される。しかし、この映画では―老け役という事もあり―「演技」する三船敏郎の能力の高さを見せている。
脇では、徹底的な「世間」の「常識」の役割のヒールを担う清水将夫が見事だ。三船と血のつながりのない冷酷な立場である。「椿三十郎」など黒澤映画では欠かす事の出来ない名悪役だ。
次男役の千秋実も相変わらずいい味を出している。一番老人に楯突く役なのだが、同時に何度も三船に怒られたり殴られたりして、そういうところが実に千秋らしいいい味を出している。
長男役の佐田豊は頼りない感じがピッタリで、黒澤映画では「天国と地獄」の誘拐された子供の親の運転手役が何とも印象的だった。
妾の父親役の上田吉二郎も何とも印象的で、特に妾宅で三船に水爆記事をみせて、脅したりイヤミを言うシーンは映画的だった。
ところで、男たちが基本的には三船と対立するのに、女性陣がむしろ三船に共感、理解を示しているのが興味深い。
妻役の三好栄子は最初から基本的に三船の味方だ。妾の根岸明美が自宅に来た際に、次女の青山京子に「お母さんはあなた方のことなんか本当は気にしていないのよ。子供たちの手前で嫌がっているフリをしているだけなのよ」と言われて「何を言っているんだろうね、この子は」と笑いながらいって否定しないシーンは何とも味があった。
その青山京子も、工場の家事のシーンで、三船をなじる清水将夫を、逆にバッサリ斬るシーンは爽快である。
妾の根岸明美の存在感もすごい。父親役の上田吉二郎という曲者に全く負けていない。そして、独裁者の三船に対してさえ、言いたいことをズバリという。黒澤映画では、他にも「赤ひげ」や「どですかでん」でもチョイ役ながらとても印象に残った。黒澤ガールの中でも個人的にはすごく気になる女優である。
そして、やはり黒澤映画常連の千石規子。ここではセリフは少ないのだが、沈黙のうちに三船に理解を示して、家族の愚かさを冷静に見つめているという難しい役を見事にこなしている。今回改めて見てそのことに気づいた。
どちらにしろ、三船のような存在に「男」が無理解で「女」がむしろ直感的な理解を示しているのが何とも興味深いところである。

ラストの精神病院のシーンで精神科医として名優、中村伸郎が登場する。彼に黒澤が言わせているセリフがこの映画の結論であると共に、この異常な現代を生きる我々全てに突き刺さってくる。本当にその通りなのだ。
私は、この患者を見るたびにひどく憂鬱になって困るんですよ。こんなことは初めてです。狂人というものは、そりゃあ、皆憂鬱な存在には違いありませんが、しかしこの患者を見ていると、何だかその、正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです・・。狂っているのはあの患者なのか、こんな時勢に正気でいられる我々がおかしいのか・・。
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2012年08月31日

黒澤明「生きる」



マルセ太郎という個性的で一度見たら忘れられない風貌の芸人がいて、本物の猿よりも猿らしいと評された形態模写などをしていた。
彼がまた得意にしていたのは「スクリーンのない映画館」という一人芝居で映画を再演する芸。この「生きる」もレパートリーの一つだった。
残念ながら私は映画全体を演じたバージョンを見ていないのだが、ある時(はるか昔で記憶もおぼろだが)その一部を演じると共に「生きる」を語ったテレビ番組を見たことがある。
その中でマルセが言っていたのは、「生きる」は大真面目なヒューマニズムの感動映画であると同時に、コミカルな側面も持ち合わせるといったようなこと。
例えば、志村喬が、息子の幼い頃を思い出して、「みつお、みつお」と言いながら階段に向かうと、息子に突き放されてうなだれるシーン。あれも、大真面目なシーンなのだが、同時に何ともおかしい。
そんなような事を多分マルセは語っていた。なんで、こんな思いで話から始めたのかというと、このマルセの「生きる」評が妙に黒澤映画の本質を突いているような気がするからだ。
黒澤映画は常に大真面目である。それを表現主義的に過剰な演出でやりきる。それが黒澤映画の素晴らしさなのだが、同時に醒めた目の持ち主にはついていけないところもあるかもしれない。むしろ、笑ってしまう。ネタやパロディの材料になりかねない。
「生きる」もそうした相反する二つの見方が可能な典型的な黒澤映画である。本当に生きるとは何かを問う映画であると共に、その過激で過剰な演出がフト笑いを誘う。
私はそれが黒澤映画の最大の美点なのではないかと最近は考えている。例えば、いかにも日本映画的な小津や成瀬(個人的にはこの二人が自分には一番しっくりくる)の方は、実に繊細で洗練されていて、黒澤映画のように、(作者が意図しない形での)お笑い解釈をほどこす余地はない。
しかし、黒澤映画の生命過剰な表現主義的演出と、そこから意図せずに導き出される健康的な笑いが私には愛しく感じられる。
この「生きる」は、超真面目な映画であるのだけれども、同時にそのディテール部分を笑ってみる事が出来るのだ。それは多分黒澤の意図も超えていて、現実とも虚ともつかないある一つのメルヘンなのである。
例えば、志村喬の動きが邪魔な極道者にすごまれるシーンがある。加東大介が、志村に「おい、おっさんでしゃばらない方がいいぜ」と凄むが志村は言う事をきかない。加藤が志村のむらぐらをつかんで「このやろう」といって加藤が反転すると、そのほうには生々しい切り傷がありカメラがそれを映し出す。
真面目なシーンなのだが、その説明的な演出にちょっと笑ってしまうのだ。あくまで感動しながらだ。
そして、加藤が「てめえ、命がおしくねぇのか」と脅すと、自分の死を覚悟している志村は完全に無防備な笑顔でにこっと笑うのだ。加藤が気味悪がってひるむ。こういったシーンの志村のほとんど演技を超えている演技は本当に素晴らしいと思う。
そして、ヤクザの親分の、貫禄十分で本当にこわい(という設定の)宮口精二が登場して、おっかない目で志村を睨みつけるのだが、志村はここでも赤ん坊のような澄み切った何の邪心もないという目で真っ直ぐに見つめ返す。それをカメラがアップで捉える。宮口が気合負けして目をそらす。
こういったところは、本当に感動的であると同時におかしいのだ。
これは官僚機構の硬直性を批判するといった浅いレベルの映画では断じてない。自分の死を意識する事で、完全に自己に対するこだわりや執着をすてて、ありのままの生命の姿に気づいてしまった人間の物語である。そして、そういう人間には今で見えていなった世界の美しさに気づき、完璧に現在という瞬間を生きはじめる。
公園地の惨状に気づいた志村がめかるみに直進してゆくシーン、できあがりつつある公園
をまるで自分の子供のように見つめる志村の目、夕焼けの美しさに呆然とする志村、こういったところはもう笑いの入り込む余地もない。
そして、あの雪の夜で志村がブランコに乗りながらゴンドラの歌を深々とした声で歌うシーンでは完全にやられてしまうのである。
そして、マルセ太郎も、この映画のおかしさも感受しながら同時に実は完全に「生きる」にやられている一人なのだと思う。
マルセが「生きる」のあのゴンドラの歌のシーンを一人芝居している動画を見つけて見たら、本物の映画以上に、真面目に過剰に真剣に表現主義的に、一切の笑いもなく演じきっていた。
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2012年08月28日

黒澤明「悪い奴ほどよく眠る」



現在WOWOWで、黒澤明全作品一挙放送という企画が行われている。
「七人の侍」から始まったのだが、放送予定をチェックしてラストに「夢」を持ってきたことを知った。
勿論、私は黒澤映画をほとんど見ていたし好きでもあったのだが、日本映画ではどちらかというと小津あるいは成瀬の方が性にあっていた。黒澤をちょっと軽く見るようなところもある。
しかし、311の後に「夢」や「生きものの記録」や「八月の狂詩曲」を見てその預言性にすっかり驚いたのである。
いや、別に政治的な意味で黒澤を持ち上げたいのではない。そうではなく、そんな生易しい話ではなく、黒澤にはほとんど動物的な直感というものが働いて、それが一貫して黒澤映画の底流を流れているように感じた。
例えば、「生きる」や「どですかでん」を改めてみてその深い人間洞察に改めてビックリした。人間といってもその社会性を含めた人間に対する直截的で直感的な理解能力。それが実にまっとうで正しいと今となって改めて感じる。
但し、黒澤映画はこのようなブログで語りにくい。というのは、黒澤映画は見れば分かるから。圧倒的な感銘を受けながら、もう何も言うことがなくなってしまう。ほとんどありきたりな誰でも思うような感想しか出てこない。
多分、それも黒澤映画の偉大さの証拠だろう。余計な言葉による批評を禁止する力がある。それでも、何となく感想を語りたくなってしまったので、雑談を少しやってみようと思う。

さて、「悪い奴ほどよく眠る」。本当にこれも良く出来た作品で、どんどん作品にひっぱりこまれる。だが、あの救いも何もないラストがたまらなかった。なんであんなラストに。
でも、こうして冷静に見直すとこれでいいのかもしれない。黒澤の社会感覚が、安易なハッピーエンドを禁じたのではないだろうか。現代社会でも相変わらず延々と続いている社会の暴力性と闇に対する認識がそうさせたのではないだろうか。
そして、今回見て三船敏郎と香川京子の美しいラブストーリーになっていることにも気づいた。基本的には社会ドラマなので、つい付随的な、―場合によってはょっては甘い―要素として見逃されがちかもしれない。しかしか、この二人の愛の物語を私は素直にすばらしいと思ったし、黒澤らしいとも感じた。
香川京子が倒れたところに三船敏郎が三橋達也を文字通り押しのけて救いにいくシーンは通俗的かもしれないが、やはりいいなと思う。
それと、藤原釜足も大変重要な役割だと思う。かれ自身も過酷な社会システムの犠牲者である。しかし、三船とは違ってそれを憎みきれない善人である。
三船や加藤武はそんな甘いことを言わずに社会システムに戦いをいどむわけだが、私見を述べると藤原釜足的なフツーの人間に対する黒澤の暖かい目を勝手に感じる。しかし、藤原の善意が結局三船を殺すことになるというシニカルな目も黒澤は持ち合わせているのだが。
というわけで、社会派ドラマではあるのだが、単なる正義と悪の戦いに修練せず、黒澤らしいヒューマニズムが根底には流れている。そして、そのヒューマニズムは意外に通俗的ではなく深いところに届いていると思う。
以下は映画のディテールに対する雑感。

冒頭の結婚式のシーンは本当に見事。説明のために必要だったという側面もあるのかもしれないが、あの集団の場の雰囲気の描き方というのは映画以外では不可能だと思う。現実の集団の場の雰囲気を、あくまで映画的な文法で再現、再創造している。

藤原釜足が本当にいい味を出している。火口に身投げしようとするところ、二人の上司のバーのテープを聞くところのリアクション、西村晃が本当に死んだと思うところの驚き様。実におかしい。
黄門様の西村晃の狂気にいたる演技も見事。
志村喬は、監禁されて食事を断たれるシーンが(この映画では例外的に)抜群におかしいコミカルな部分。志村喬が、こんなに喜劇俳優の側面を見せたのも珍しい。そういう音楽もついている。
香川京子は、黒澤映画では「赤ひげ」の色情狂の狂女が本当に見事だった。本当に存在までなりきっていて、普段そういう役がないだけに女優としての実力に感嘆した。黒澤の演出もあるのだろうが。そして、ここでは香川本来の清純派を、やはりなりきって見事に演じている。
記者グループでは、三井弘次がアクの強いキャラクターをいかして存在感を発揮していた。「天国と地獄」でも、やはり印象的な記者だった。
警察検事グループには、藤田進、笠智衆、宮口精二という豪華メンバー。さらに、顧問弁護士役で中村伸郎、殺し屋で田中邦衛。本当にもったいないくらいで、ヒッチコック映画のヒッチコックのようだ。
しかし、何と言っても森雅之がすごい。香川京子同様、黒澤映画では「白痴」とは全く対照的な悪役、しかも老け役なのだが、その存在感がやはり並大抵ではない。
特に悪人でありながら、家でバーベキューをした際の親バカな善人ぶりの見事なこと・・。
しかし、本映画の白眉シーンは娘の香川京子を裏切って騙して三船のありかを聞くシーン。
森雅之がふと、鏡の中の自分をみる。最低の鬼畜の自分の顔を確認して、自分でも一瞬ぞっとする。しかし、それでも娘を騙して三船を殺す。素晴らしく映画的なシーンである。
そして、ラストの電話にむかって、一人喋りして、深々と頭を下げる場面。なんという名演技。そして、これまた実に映画的。黒澤はこれを撮りたくて、こういう悲惨な結末にしたのかとさへ思ってしまう。
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2011年02月14日

成瀬巳喜男「妻として女として」感想

これは美しくて素晴らしくて生命力があって悲しい生き物=女ととことん情けなくて優柔不断で卑劣な生き物=男、という成瀬方程式の極北、白眉の傑作だ。1961年。
個人的には1960年代の成瀬映画はあんまりのめりこめず、戦前戦中の成瀬映画を愛してやまない人間だ。しかし、これは成瀬的な男女の、というより女男の関係が徹底的に描かれていて背筋が寒くなるくらい壮絶だ。
いきなり退屈な感じの平和な家庭のシーンで始まって、60年代の成瀬ホームドラマなのかなと思ってしまうが、とんでもなくてこれはあくまで嵐の前の静けさだ。
森雅之が高峰秀子からの贈り物をみる姿を、正妻の淡島千景がみつめるその「視線」だけで、まだ説明されてないのに観る者は三人の関係性を瞬時に理解する。
そして大学教授の森雅之が妾の高峰秀子と旅行していめところを自分の学生にみられるシーンから、典型的な成瀬的男女関係ドラマがはじまる。森雅之はすっかりうろたえてしまってしまって心ここにあらず。それに高島が苛立ち、どうしてそう世間の目を気にするのかと怒る。徹底的に小心で情けない男と、度胸がすわった女。森の情けない男になりきる演技は、どれりだけ絶賛してもし足りない。そして、列車の中でも森は高島と離れて座っている。人目を忍ぶために。高島が森の方を情けなさそうに見つめる「視線」の表現。ここまでくると森が情けなさすぎて笑ってしまう。
他に登場する男たちも皆見事にダメで情けない。十朱久雄は女たちに集団で糾弾されてしまうし、あの中村伸郎までもがいやらしいオヤジだ。小津映画では、あれだけ粋で気品がある中村も、成瀬にかかると単なる勝手なスケベオヤジだ。成瀬は女性を美しく撮る天才だけれども、同時に男を情けなく撮る天才でもある。
森に高島が別れ話をするシーンでは、障子を閉めて暗くするなど、この映画では随所に明暗を巧みに使って成瀬らしくきめ細かに撮っている。しかし、そんなことも忘れるくらいどんどんストーリーにひきこまれる。
とにかく淡島千景が「強い女」で、その存在感に圧倒される。正直、おっかないです。第一回目の淡路と高島の正面対決は、淡路の圧勝である。高島は、少し人がよくて気が弱い設定なので、淡路にピシッとやられてしまう。冷静に考えると、淡路の主張も「世間的」にはもっともなのだが、そういう性格付けの魔術で、観るものは淡路=ヒール、高島=ベビーフェイスと思わされ、妾の高島につい同情してしまう。
そもそも、どんな人間に対しても底では辛辣な観察眼を失わない成瀬も、「妾」「芸者」といった弱い立場の女に対しては優しい見方をする。それは、戦前の「妻よ薔薇のやうに」や「噂の娘」の頃から変わらない。
高島が酔って、妾の悲しさを母の飯田蝶子にこぼすシーンは美しい。ちょっと前の例えば「流れる」で芸者たちが悲しい女の身をなげくのと似通ったところがある。成瀬は時代を意識して作品をつくる監督で、それが私などは60年代の成瀬がイマイチ好きになれない原因なのだけれども、成瀬的なテーマや感覚はどの時代にも通底していて変らない。
高島が、大沢健三郎に自分の息子だと打ち明けるあたりのシーンは、映画だとわかっていてもハラハラする。まだ言わない前にジェットコースターで息子に自然に抱きつくシーンなど巧みな演出だ。そして、基本的には人のいい高島がなかなかいえないところに、きつい感じの役柄の淡路恵子を登場させて言わせるのは卑怯だ。もうハラハラしてみていて、「やめろー」といいたくなる(笑)。すっかり映画の虜だ。人のいい高島はそれを止めようとするという設定で、ここも巧みな演出だ。
そして、正妻vs愛人・妾の最終対決。これは戦争だ。なんという恐ろしい女の戦い。見ていてこわいのだけれど興奮せずにはいられない(笑)。やはり先攻するのは淡島千景だ。やはり凄い迫力と説得力。しかし、ついに高島秀子も反撃する。淡島のことを「人の不幸を自分の幸福にする女」とまでいう。おっかない。ここまで来ると笑ってしまいそうになくらいだ。しかし、ここではもうどちらが悪役でどちらが善役ということではなく、二人ともギリギリの女としての真実を語っているように感じる。二人とも正しいと思う。
そして、二人の矛先はついに森雅之に向かう。淡島と高島画正面から対峙していたのが、二人が同時に森に視線を向ける。この瞬間こそ、この映画のハイライトだろう。成瀬的な視線の芸の極北・白眉である。
そして、その二つの真剣な鋭い視線を向けられた男、森は何を言うのか。それが何もいわないのだ。ここにきてまで。なんという男に対する成瀬のサディズムだろう。女が自分をさらけ出して真実を語ったのにもかかわらず、男は何もいわずに立ち尽くすだけである。その視線も女に向けられずに下を向いたままなのだ。
さらに、森は「子供の意見を聞こう」などと言い出す。何の罪もない子供に判断させるとは、ビックリだ。ということで、娘の星由里子と息子が入ってくる。ここでも主張するのは「女」の星で息子は黙っている。星は、二人の女をなじるが、それよりも父親を「卑劣」と言い切る。その言葉だけが耳に残る。もっともだ。それ以外ない。
前半はヒールっぽかった淡島も、最後のシーンでは夫と別れることを決意して、自分のやったことを間違いだったかもしれないとまで言う。女の正しさを最後まで成瀬は描ききる。一方、森は大学のキャンパスを悄然として歩くだけだ。
星はさっそく家を飛び出して自立する。ここでも女は生命力があって立派な存在だ。そこへ息子の大沢健三郎がやってくる。まだ若いのだから仕方ないが、彼はそのまままだ家にいる。一応彼も自分の人生を生きるという明るい方向性で映画はおわるのだが、正直彼が将来森雅之にならないかが心配だ。いや、きっとそうなってしまうのに違いない。
こうして、とことん女を素晴らしい生き物として描き、男をトコトンダメな生き物として貶める成瀬映画を見ていて思う。これは、果たして女性賛美なのだろうかと。実は、女性を褒め称えるというよりは、そういう女性であって欲しいという男の願望が成瀬映画には隠されていると思う。どの映画をみても、私はそのことを感じる。徹底的に男がマゾヒズム的に卑下されるが、実はマゾヒズムというのは自己犠牲ではなく自己中心的な態度だ。そういう女に囲まれて生きていたいという男の勝手な願望が根底にあって、成瀬映画は実は女性賛美どころか、下手すると究極の女性差別の危険をはらんでいると思う。これは、成瀬批判ではない、そういう極限の女性像をぬけぬけと表現しているのが成瀬映画の偉大さなのだ。但し、それはあくまで男性目線であって、成瀬映画は女性映画ではなく、とことん「男」の映画なのだと思う。女性は成瀬映画をみてどう感じるのだろうか。
とにかく、この作品は60年代では最高傑作で、成瀬映画の中でもベストの何本かに入る作品だと私は感じた。
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成瀬巳喜男 「秀子の車掌さん」感想

高峰秀子の成瀬映画デビュー作。当時17歳くらい。1941年の作品。
高峰秀子が実家近くでバスを止めて、田んぼの中を走って家へ向かうシーンが素晴らしい。成瀬映画ではこういう自然の中の移動シーンのつなぎや組み立てで感心することが多い。「まごころ」「 妻よ薔薇のやうに」など。それにしても当時の自然がとても美しく感じられる。
藤原鶏太(戦時中で当局から藤原釜足に文句をつけられて改名中)の珍しい主役映画でもある。やはり、さりげないとぼけた感じでいい味出している。高峰に「小説家(夏川大二郎)はフランス映画の「にんじん」に似ていると言うが、私はごぼうだと思う」といわれたりしている。勿論役のバス運転手として言われるのだが、藤原釜足本人が言われているようでおかしい。
高峰秀子が初々しい。但し、年齢のわりにはやはり堂々としてうまいのだけれども。個人的には、「浮雲」以降の「女優」高峰よりも、この作品や木下恵介の「カルメン故郷に帰る」のようなタイプの高峰が好きだ。
夏川大二郎も原作の井伏鱒二とおぼしき作家のマジメな役のようでいて、バスガイドの声色で延々とバスガイド原稿を読んだり、うるさい蝉を追っ払おうとして水をかけて下を通る夫人にかかってしまって恐縮したり、なかなかのコメディアンぶりである。
それと社長役の勝見庸太郎がすごい役者で怪演していて笑わせる。やたらとラムネと氷が好きで。ラムネをあける音の爽快感がたまらないとか、ちょっと洒落た台詞をいうが、これは井伏鱒二原作の通りなのかしら。
非常に牧歌的なコメディだけれりども、バスから映す風景の映画的な感覚、各キャラクターのうまく練られた個性があって完成度は高い作品だ。軽い小品だけれどもレベルは決して低くない。いや、高い。
それと、そもそも私は個人的にこの時期の成瀬作品が、どれもこれも好きで仕方ないのだ。
しかし、コメディとは言ってもラストのオチは素直でない成瀬らしいセンスで素晴らしいし、何も知らずに最初で最後のバスガイドを嬉しそうにする高峰と藤原の姿で終わるのも、映画らしくうまく完結していると思う。

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2011年02月13日

成瀬巳喜男「夜の流れ」感想

1960年。成瀬巳喜男監督と川島雄三監督の合同監督。リアリズムの成瀬と実験的な川島の共同作業で、成瀬が古い世代の側と料亭の場面等、川島が若い世代の側と芸者屋等動きの多い部分を撮影したと検索すると共通して書かれている。そんな感じもするが、どんな二人の分担の可能性があるか、あくまで仮説の話として列挙してみよう。

1.成瀬が中心監督で、山田五十鈴、司葉子、三橋達也の三角関係ドラマ(以下山田五十鈴エピソードと略)、草笛光子、宝田明、北村和夫の三角関係(以下草笛光子エピソードと略)の二つの中心ドラマは成瀬が撮り、他の断片的な芸者エピソードを川島が撮った。

2.二人が対等な立場で、成瀬が山田五十鈴エピソードと料亭の静かな場面を、川島が草笛光子エピソードと芸者が元気に活躍する場面を撮った。

3.二人は対等だが、実は観客を騙していて、成瀬が草笛光子エピソードを、川島が山田五十鈴エピソードを撮った。そして小エピソードも実は二人の個性の逆のシーンを撮っている。

4、川島が中心監督で、山田五十鈴エピソード、草笛光子エピソードなど中心部分を全部撮って、ベテラン成瀬は自分が好きな場面だけを一分撮ってサポートした。

5.二人できちんと撮りわけずに、常に二人が同じ場にいて、一応各シーンの責任者を決めるが二人が意見を出し合って文字通り共同作業した。

普通に考えると、多分2なのだろうと思う。但しもこういうのは疑い出すとキリがない。山田五十鈴が三橋達也に別れたくないと自分の後ろの障子を閉めて「女」を全開させて迫るシーンなど、成瀬らしいが、こんな露骨な撮りかたは成瀬はしないのではないかと。また、成瀬映画では、女の方がしっかりしていて男がダメという一般図式があって、ここでの山田的な男にすがる女というのは成瀬は実は好きではないのではないかと。
一方の、草笛光子エピソードの方は、動きもあって普通に考えれば川島だが、草笛=しっかりした女、北村=ダメ男というのは、実は成瀬好みのパターンだったりする。
だから、観客を騙して二つのエピソードを普通思うのとは逆の監督が撮っていたら面白いと思う。多分そうではないだろうが。
司葉子が三橋達也に対して男の卑劣さを厳しく指弾するシーンは、これはいかにも成瀬的だし、やはり成瀬が山田エピソードを撮ったのかなぁ。
冒頭のプールで、司葉子その他ほとんどの女優(草笛光子姉さんまで)が水着姿を披露しているのは、これは川島撮影なのだろうが、もし成瀬が撮ったのならおかしい。そういう勝手な想像をする楽しみがある。
市原悦子(「家政婦は見た」まで芸者役で出ているのだ)がガス自殺を図って、三益愛子が「するのなら、他のところでやっとくれ。迷惑だ」と言い放ち、そこに芸者が飛び込んできて犬か猫が巻き添えで死んでしまったのを嘆く辺りはなかなかいい。こういうのは成瀬好みのシーンだと思うのだが、実は川島かもしれなくて断言できなくて困る(笑)。
他に、若き日の岡田真澄が英語教師のコミカルなチョイ役で出ていたりして面白い。
正直、共同監督ということであまり期待しなっかたのだが、様々な要素が組み合わさっていて楽しい映画だった。共同監督が成功していると思う。成瀬の「流れる」の現代版のようで、数多く登場する芸者たちの豊かな個性も楽しい。
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2011年02月12日

成瀬巳喜男「噂の娘」感想

成瀬映画を見れば見るほど、その映画話法の巧みさと繊細な感覚に感心させられる。この作品も一時間弱で短いのだが、素晴らしい出来である。私は見た映画を忘れる特技があって、どの映画も一度見たはずだが初見のように新鮮に見られるのだ。1935年。
成瀬らしい「視線」の映像が頻繁に出で来る映画だ。特に主役の千葉早智子が印象的な目を何度も見せる。例えば、父親が酒に細工をしているのではないかと疑っていて、樽から酒を注ぐシーンで、千葉の不安そうななんとも言えない目の表情が映し出され、千葉の心情がみごとに表現されている。傾き行く酒屋、自分の縁談、父の妾の問題等、悩みの要素が多いので、千葉は随所で何も言わずに視線で心情を表現している。さらに、酒屋に警察が来た際の、近所の人たちの視線のオンパレード。
千葉が川を舟で下っている際に、はるか上に見上げた橋の上に小さく見合い相手の大川平八郎と妹の梅園龍子の姿を見てしまうシーンも印象的。見上げた先に二人がいるシーン俯瞰で千葉が上を見ているシーンが交差して対照され、見てしまったのと見られたショックが鮮やかに表現されている。
千葉早智子は、ここでは少し古いタイプの女を演じている。「妻よ薔薇のやうに」では、新時代寄りで旧時代にも理解を示す女性だったが、ここでは新時代の女は分かりやすく梅園龍子に分離して割り振られている。「乙女ごころ三人姉妹」では三女役だったが、ここでは図々しい新時代の雰囲気をよく出している。他の登場人物たちが諦念して現実受容しているのに、一人だけ現実と向き合い戦っている映画の中の異和点の役割も果たしている。
伊藤智子が妾ながら優しい女で、「妻よ薔薇のやうに」の九州の女と同種である。こういう女性に対する成瀬の視線は、珍しく優しいような気がする。
隠居の老人、御橋公も重要な役割だ。没落する家を内部にありながら客観的に見つめて、全てを力なくしかし取り乱すことなく受け入れる。息子が酒に細工しているのにもすぐ気がつくが、直接激しく叱咤したりはしない。息子が逮捕されても「これでよかった」と言う。破滅する家族をみつめる優しくも冷たい一つの視線である。
車代で「釣りはいらない」と言っておいてねやっぱり貰うといったり、優雅に三味線を弾いているところを梅園龍子のかけるジャズのレコードに邪魔されて困惑するなどコミカルな役割を果たしている。
最後の場面では、色々な問題がまとめて噴出するが、どれも解決しないまま、酒屋の主人が逮捕されて終わる。そういう滅びの音楽を描きたかったのだろうから、問題が解決される必要もなくこういう終わり方がふさわしいのだ。滅びゆく家族の中で、一人だけ現実と格闘しようとしていた梅園龍子も荷物を放り出すしかない。
そして、向かいの床屋の三島雅夫が、も酒屋の次は何になるかを残酷に推理しながら映画は終わる。形式間も見事で、小品ながら、映像の撮り方も、内容や人物の描き方も完成度の高い作品だと思う。
この年に成瀬は5本も撮っている。それでこれだけのものが出来るのだから大したものだ。
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2011年02月11日

成瀬巳喜男「まごころ」感想

これは、なんとも可憐で美しい映画だ。
1939年。とにかく、対照的な個性の二人の少女がかわいい。自分の母親が、かつて相手の子の父親と好きあっていたと聞かされ、泣き出すと、もうひとりもつられた泣き出す。二人とも同方向を向いて長椅子に離れて座る構図がよい。さらに、二人で、もしお互いの父親と母親が結婚していたら、二人の中間のような子が生まれただろうと「おかしいわね」と近距離で向かい合って言うかわいらしさ。
入江たか子かあさんが、優しくて美しい。原や高峰よりさらにひとつ時代が前の女優なのだが、そのちょっと古風な美しさがよい。入江かあさんと娘が食事をするところを、庭の木々越しに映すシーンはなんともメルヘンティックだ。
入江と娘が、川にまで向かう途中の映像のつなぎ方も、成瀬組らしくスムーズで見事。「妻よ薔薇のやうに」でも千葉が九州で父親やその息子と道中を歩く場面があったが、それもとても巧みだった。成瀬お得意のシーンである。それにしても、ここでの自然の美しさには息を呑む。映し方が上手なのか、やはり今とは異なる自然が残っていたのか。
川のシーンの広々とした開放感も心地よい。怪我をした娘を介抱するために、入江たか子と高田稔が再会するのだが、多くの余会話を交わさなくても、二人の動きや視線で二人の関係が全て伝わってくる成瀬演出。そして、それを黙って見つめる二人の娘たち。彼女たちも、恐らく我々同様に全てを理解するのだ。
母親を悲しませた娘が入江を励ますために一生懸命肩をたたいた後、。入江が何ともいえない目つきで娘をじっと見る。娘のけなげな気持を察しているのが分かるように。実に成瀬映画的である。
古きよき時代を、美しい自然や風景や当時の建物を存分に織り込み、人物の心情も成瀬らしく繊細に描き出した実にかわいらしい佳品である。
最後に、村瀬幸子が急に改心するのが普通のストーリーなら唐突だが、夫の召集令状という事実の重みがあるので不自然ではない。戦時映画だが、それもうまく用いていると思う。
この時期の成瀬映画はどれもこれも素晴らしいが、特に気持のいい観後感の残る作品である。
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2011年02月10日

木下恵介「二人で歩いた幾春秋」感想



冒頭で山梨の山と雲の広大な風景が映し出されるのだが、これがとても美しい。木下の映像には明確な個性がある。曖昧なところのないギリシャ的端正とでもいうべきものがあり、なおかつ繊細な研ぎ澄まされた感受性が映像の端々にまで漲っている。
自然だけでなく役者の人間も、くっきりたした形で、なおかつ人間らしいやわらかさも失わずに画面に定着されている。それを、しかも作為的な技巧を感じさせずに、自然体で伸びやかにやってのけているのだ。大人の映画作家だと感じる。
この映画は、道路抗夫と小使いの貧しい夫婦が健気に働きながら生き、子供を育てていくというきわめて地味なテーマである。しかし、それを映像化する木下の力量は大変なもので「芸術的」である。他の日本映画の巨匠たちと比べると、大抵テーマが「芸術的」なものではないので、評価されにくいのだろうが、彼らに全く劣らない画を撮る人だったと、この地味な映画一つをみても感じる。
佐田啓二と高峰秀子の夫婦役の二人が、実に自然にいきいきとしている。二人とも大スターだけれども、本当に庶民の働く人間という感じがよく出ている。木下の演出が明確でしっかりしているのもあるだろうし、二人ともやはり大した役者なのだと思う。佐田啓二などは、小津映画などでは役者としてはどうなのだろうと感じることもあるけれども、この映画だととてもいい役者だと素直に思える。
感動する箇所も普通に「いい」場面だ。息子の入学式で二人とも粗末な服なのを息子がやって来て気にしないでいいからと二人を連れて行くところ。こういうところに素直に感動させてもらえる映画だ。
息子が大学を辞めるといって、佐田にあまり怒らないでと止めていた高峰が、佐田の説得にもかかわらず息子が辞めるということをきかなくて、高峰が息子を何度もひっぱたく場面。こういう普通のいいシーンを、通俗的にならずにきちんと撮ってみせてくれる映画で素晴らしい。
息子の恋人役で若き日の倍賞千恵子が登場するのだが、やはり並々ならぬ存在感で、既に「男はつらいよ」のさくらのような心の優しさを自然に感じさせる。
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2011年02月09日

小津安二郎「お早よう」雑記



後期の小津映画については、ほとんど感想を書いたがこれだけ忘れていた。
小津映画は、最初に後期の有名な格調高い名作群から見出して、この「お早う」も期待満点だったのだが初めて見た時には驚きましたよ。
だって、いきなり子供たちが額を押されておならをプゥーとする芸を競うんだもの。佐田啓二がこれを見て笑って言うように「バカだなぁ」である。小津は実は結構庶民的な軽喜劇も初期中期にたくさんとっているけれど、後期小津しか知らなかったんで何だこれと思いましたよ。しかも、力んでもらしてパンツを汚して杉村春子母さんに怒られたりして。さらに、町内会の集金をめぐって近所のオバチャン連中の噂話が続き・・。
という映画で、最後まで本当に軽いコメディで何も起こりはしない。
この映画は、何件かの住宅をセットでつくって撮影されている。だから、構図は狙いがしやすく安定しているし、小津らしい画面を楽しむことは出来る。住宅の間の道から丘を見上げる絵など、小津の得意とするところだ。「東京物語」でも東山が子供と遊ぶ印象的なシーンがあった。
カラーで、小津独特の手づくりの色彩感覚も楽しめる。近所のオバチャン連中の着ている着物もなかなか色彩などよく考えられている。
小津映画の名子役、レギュラーの島津雅彦も相変らず自然体でかわいらしい。「浮草」で、若尾あや子と舞台で踊って、おひねりをあわてて集める姿もかわいかった。また、劇団が解散して、それを察して突然泣き出すという難しい(笑)演技もさせられていたっけ。
品のいい奥様の三宅邦子に、杉村春子、高橋とよ、長岡輝子といった個性派の小津レギュラーが近所のオバチャンでからむ。長岡は、ここでも他の映画の家政婦役でも、なぜか必ず「冨沢さん」だ。
杉村の母親役の三好栄子がすごい迫力だ。押し売りの殿山泰司をおどしたりしている。
泉京子と大泉滉が、外部からの異質な闖入者の役割。大泉はすっかりオバタリアン妻の恐妻家になってしまうが、この頃は成瀬の「めし」にも出たりしていた。
コメディとしてもとくにどうということはない。改めて観ると子供が給食費の徴集をパントマイムでやり、久我美子がトンチンカンな反応をするのが面白いか。あと、学校の低学年の教室でしりとりをして、「つ」なのに、子供が「月光仮面」とか「赤胴鈴の助」とか、全然関係ないことを言って女教師が困惑するところがとぼけていて笑えるか。
そして、ラストは最後までパンツを汚し続ける子供を杉村がしかりつけ、そのパンツを洗濯して青空のもとに干す堂々たるシーンで映画は終わる。
わりと小津も後期はきどった映画が多かったので、こういうのもつくりたくなったのだろうか。


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2011年02月08日

成瀬巳喜男「 乙女ごゝろ三人姉妹」感想

これはとても素晴らしい映画だ。
1935年。成瀬初のトーキー作品。なるほど、そう言われると随所にサイレント的な演出映像が出てくる。
冒頭に当時の浅草の風景がかなり長いこと次々に映し出される。そして次女のお染(堤眞佐子)が下駄の鼻緒をきらせたところに、青山(大川平八郎)が通りかかり助けてやる。ここからして映像と二人の表情だけ見ていれば全て分かるし、そういうサイレントで台詞なしでいい撮り方が身体にしみついているようで面白い。
三女の千枝子(梅園竜子)はダンサーをしていて一人だけ洋装で登場する。「妻よ薔薇のやうに」の千葉早智子もそうだったが、それが何とも新鮮な感じで魅力的だ。近所の悪ガキどもをほうきで追い払うあたりも、サイレント・コメディダッチだ。それにしても、そういったところがなんとものどかで醇朴な時代背景を感じさせる。無論、生活は苦しいし今とは違うイヤなところも多々あったのだろうが、この時代の成瀬映画をみると、どれもほのぼのしてしまうところがある。そして、成瀬は戦後よりもこの時代によくマッチしているようにも思う。好き嫌いだけで言うと、私は戦後の1950年代の名作群よりも、戦前戦中の成瀬作品が好きだ。
長女のおれん(細川ちか子)は家をピアノ弾きの恋人と飛び出してしまっている。さすがに細川ちか子は貫禄十分で、他の役者が少し素人っぽいところがある中、堂々たるプロの女優という感じ。浅草の不良と女ながら一歩もひかずにつきあっているりも妙に納得してしまう(笑)。恋人のピアノ弾きだけは不良でなくマジメな男である。男が無理な肉体労働をして血を吐いて、細川が驚くシーンもサイレント的。むしろ台詞なんかない方がいいくらいだ。
しかし、この映画で最も強烈な印象を残すのは、次女のお染(堤眞佐子)だ。門づけをして、三味線で夜の町の酒場で歌ってお金を得るつらい仕事をしている。イヤな客に邪険にされたり意地悪されるのを耐えいてるが、母親も鬼のようでつめたい。しかし、心に全く穢れがなくて優しい女である。ちょっと、フェリーニの「カビリアの夜」を思い出してしまった。この堤眞佐子という女優は、決してきれいではないのだけれど、確かに人のよさがにじみ出ている。仲間の後輩のかけだしの女たちを優しくかばい、妹が母親に禁じられているのにひそかに恋人をつくっているのも優しく見守る。ちょっとした市井の聖女風なのだ。成瀬の巧みな演出もあって、観る者はこのお染がどんどん好きになってしまう。
お染が、町で着物姿で座ってあんこ餅か何かを食べているところを、通りかかる男がモデルのようにカメラでうつし、お染が素直に嬉しそうにポーズを取るシーンもなんともいじらしくて微笑ましい。すると、お染の破れた足袋が映って動揺するところもサイレント調だ。というか、このシーンは実際に台詞もない。
最後、妹の恋人が不良どもにゆすられるところに、お染が駆けつけてはつきりカメラには写されないが刺されてしまう。それを手配したのが不良と関係のある姉のおれんなのだが、それでもお染はおれんが恋人と地方にいくのを上野まで見送りに行く。二人が去り、お染が三味線を取り落としたところで映画は終わる。お染が大丈夫だったのか凄く気になる。しかし、このラストは「カビリアの夜」のラストでジュリエッタ・マシーナが泣き笑いしながら道を歩くシーンに負けないくらい美しいと思う。
1950年代の名作に全然ひけをとらない素晴らしい作品で、個人的には代表作の一つにあげてもいいくらいに感じた。総じてこの時代の成瀬映画には、戦後にない独特のよさがある。
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2011年02月07日

成瀬巳喜男「お国と五平」感想

1952年。お国(木暮実千代)と五平(大谷友右衛門)がお国の敵討ちの旅をするロードムービー。
木暮実千代が抜群に美しく撮れている。溝口の「祇園囃子」も色気があって素晴らしかったが、こちらは本当に女性らしく「美しい」という感じ。こんなことばかり書いていて恐縮だけれど、成瀬映画は女優の美しさだけでも十分観る価値があると思うのだ。その点、小津の「お茶漬の味」はあんまりよく撮れてない。小津は女性を撮るのは上手じゃないし、そもそも女性が少し苦手だったのではないかしら。
そう言えば、お国の母親役が三好栄子なのだが、彼女までが気品ある女性に撮れている。それこそ小津の「おはよう」や「東京暮色」ではとんでもないババアで、そういう役だし彼女の持ち味なのだろうが、そういう三好まできれいに撮ってしまうのは成瀬マジックだ。
これは、「歌行燈」と違って、いかにも成瀬らしい時代ものだ。ラスト近くまでは、二人の旅を淡々と映してほとんど事件らしい事件も起こらない。ただ、二人の男女の微妙な内面を描き出すのだ。
成瀬らしい美しい雨のシーンで、五平がお国の敵の友之丞(山村聡)の関係に疑いを持って逆上しかけ、それをお国が諌めるところなど、いかにも成瀬的だ。大谷友右衛門の純情なまっすぐな目と、それを言葉では諌めながら五平の想いをしっかりと感じ取るお国。
友之丞(山村聡)が登場して、俄然映画は緊迫する。それにしても、山村聡はこういう卑劣な感じの男を演じさせたら天下一品だ。本当に素晴らしい。小津の「宗方姉妹」も見事だったけれど。
友之丞が五平に討たれる場面で言うことは、いちいちもっともだ。死にたくはない、二人の忠義は二人が既に愛し合っている以上ウソだ、自分は二人の幸福を願うから命だけは助けてくれ、と。武士道からすると卑劣だけれども、現代的には友之丞は一応もっともなことを言っているのが、なんだか面白いところだ。しかし、最後が余計で、五平に斬られて死にかけているところで、友之丞はお国と関係があったといい残すのだ。なんと卑劣ないやな男、そしてそれをやりきる山村聡は名演としかいいようがない。



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