2013年03月27日

木下惠介「わが恋せし乙女」

「肖像」に続いて井川邦子主演作品を見てみた。井川邦子は後年に比べると、ふっくらしていて健康的な美人でこの役にピッタリである。
同じ木下の「野菊の如き君なりき」と似た感じの、若き日の甘き悲しき失恋譚である。「野菊」の方はさらに二人とも若いのだが。
井川邦子と原保美が隣同士に腰掛けて、井川が飲み物をゴクゴクと飲み干して、それが口からこぼれてほいを伝って落ちるところなど、生々しくて若さとある種のエロティシズムを感じる。
それにしても、主役の原保美が柳葉敏郎と感じがよく似ていて驚く。
基本的に若き日の甘酸っぱい恋の物語なのだが、木下演出は相変わらず堅実でスッキリ整理されていて、気持ちよく素直に物語りに入ってゆける。
私自身も若い頃は、映画に「芸術」を求めたりもしたが、今はそういうことにはほとんど興味がない。この映画に限らず、木下映画はどれも気持ちよく観る事が出来る。
井川邦子の恋人役の安部徹が印象的。戦争で足を負傷して普通に歩行できない体になってしまったという設定で、心がきれいで立派で尊敬できる人間という感じがよくでている。
山の中で、若者を集めてヴァイオリンを無伴奏で弾くシーンもよい。
私はまだ木下映画を多く観ていないのだけれども、その中でも「二人で歩いた幾春秋」が一番印象に残っている。すごく地味な題材の映画なのだけれども、その堅実で地に足がついたリアリズムが素直に心に染入ってきた。
その中で、若き日の倍賞千恵子が、佐田と高峰の息子の恋人役で登場するのだが、その優しい心の女性も、この安部徹同様にさりげないのだがとても存在感があった。木下映画では、こういう自然な感じであれながら不思議と訴えかけるところのある人間が登場する。
安部徹が原保美と二人で山で語り合うシーンで、自分の負傷した足を「こんな足でも、かわいくてかわいくて仕方がない。生きているのは素晴らしいなぁ。」と言うところもよかった。素直にこういう部分も受け入れる事が出来るのだ。
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2013年03月16日

木下惠介「肖像」

スカパーの衛星劇場で木下惠介生誕百周年を記念して、木下映画が放映されている。
この「肖像」は1948年の作品で井川邦子主演。
井川邦子が最初に登場するシーンが、いかにも気が強くて我が儘な女らしくておかしい。私はこの人を同じ木下の「カルメン故郷に帰る」や「二十四の瞳」くらいでしか知らず、こんな役もするのは知らなかった。全編を通じて難しい役を熱演している。
ちなみに、この人の「カルメン」での感じがとてもよくて顔も好きで、ちょっとこの映画にも出ている三宅邦子に似ているかなと思った。しかし、この映画ではもう少しふっくらしていてかなり感じが違うし、三宅との二人のシーンも最後の方であるのだが、やはり全然似てなかった。
映画自体は、菅井一郎演じる純粋な魂の画家に、井川が肖像画を描いてもらう事で、真の自己に目覚めるというストーリー。この映画の脚本は黒澤明が担当している。理想主義的で、少し甘いくらいある種メルヘンティックなところがあるのは、黒澤の「醜聞」とも通じ合うものがあると感じた。
菅井をはじめとする善意の画家一家は、多少現実離れしているのだが、木下の演出が巧みで不自然さを感じない。やはり大変な監督である。
例えば、井川が偽のお嬢さんを演じるのに堪えきれなくなって、もう肖像画なんかやめよう言いに行こうとしたら、菅井が商業的な絵本を書かされることに激昂して編集者と衝突して仕事をなくすのを見て、井川が気を取り直して着物をきる。それを全て見ていた小沢栄太郎がポツリと「おめぇも優しいところがあるんだな。」と言い、井川が「そんなんじゃないわ。」と返す演出などは実にうまい。
小沢栄太郎と藤原釜足が悪徳不動産屋ながら、根は善人という役柄を巧妙に演じている。
全体にストーリー自体は冷静に考えるとすこし現実とはかけ離れて無理があるのだけれども、木下の演出や役者の巧さによって、どんどん映画の世界に引きずり込まれてゆく。
最後の方で、井川が酔って自ら妾であることを三宅に告白し肖像画を破ろうとするところで、三宅が「もしあたしがあなたなら、この肖像画をこわすよりも、自分自身にナイフを突き刺すわ。」と言う。そして井川も身を立て直す事を決意するのだが、この辺は黒澤らしい脚本である。たとえば「酔いどれ天使」で彼はヤクザを徹底的に否定していた。
ただ、個人的にはこのように妾という存在をただ単純に否定してしまうのは少々違和感を感じる。
そして、井川邦子が同じ妾の境遇の友達の三浦光子と語り合うシーンが何度も挿入されるが、そこには妾という存在を簡単に否定しない視点がきちんと示されている。
勿論、黒澤がそういう脚本を書いたのだろうが、むしろこの二人の妾に対する優しい視線は木下の演出から感じられる。多分、脚本の黒澤と演出の木下の間には、微妙な世界観の齟齬があって、それがこの二人の妾のシーンによく出ているのではないかと感じた。
とにかく、木下演出と魅力的な役者陣のおかげで、私などは最初の方からすっかりハマッて最後まで見続けてしまった。映画の力である。
これからも、まだまだ木下映画をたくさん見たいと思った。実はスカパーを録画だけしてあって、ほとんどまだ観ていないのだ。
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島津保次郎「婚約三羽烏」

小津映画と言えば原節子だけれども、私は三宅邦子がかなり好きである。個人的にタイプ
なのである。
三宅邦子も原節子同様に小津映画の常連、小津ガールだった。
原節子はあまりにも美しすぎて、ちょっと日常的な女性の範疇を超えてしまっていて、あまり女性として愛すという感じにはならない。今年のお正月に「東京物語」のデジタルリマスターを観たのだが見事に復元されていて、原節子の美しさに陶然としてしてしまったのだった。
一方の三宅邦子の方は、もう少し「人間」らしい。とはいっても、あの時代の女優さんに特有の美しさがある。スッキリした顔立ちの華やかな美人で、ドイツ系の顔の女優だったとどこかで紹介されていた。
しかし、性格的にはアッサリした感じで女性特有の感情的な部分をあまり感じさせない。そういうところが小津映画にはピッタリで、だから小津もお気に入りだったのかもしれない。
「麦秋」でも「東京物語」でも、原節子の「お義姉さん」で、その役柄が実にシックリきていた。「麦秋」のラストで美女二人が海岸で語り合い、歩くシーンはとても素晴らしい。

この「婚約三羽烏」(1937)にも三宅邦子が佐野周二の恋人役で登場する。この作品は軽い洒落た恋愛コメディで、冒頭の二人のからみも大変おかしい。
佐野周二が不機嫌そのものの様子で二回の部屋から窓外を眺めている、部屋には三宅邦子の笑顔の踊り子のポスターが貼ってある。
すると、「ちょいと、まだそんなところで考え込んでいるの?」と女性の明るい声が聞こえてくる。三宅邦子が明るい顔で登場。三宅は当時二十歳ちょい超えくらいだが、大人っぽい。
佐野周二が失業状態で、三宅邦子が別れ話をしにきたのだが、男の方はウジウジしていして女の方はアッサリしたものである。
二人の会話がまた面白い。
三宅が最後の食事を佐野につくって二人で食べるのだが、佐野が「キリストの最後の晩餐みたいだ」とか「キミは原告だしボクは被告の立場だし」とか、グチグチこぼすのだが、三宅の方はは平然としたものである。友達がスターになったり、貯金して株をしたりと言い、佐野が「キミはボクがいるために貯金も出来ないといいたいんだね。」と言うと、三宅がすかさず「そうなの。」と即答。ひどいものである。
佐野が怒って席を立ち、今度こそ就職すると宣言するが、三宅は「今まで何度も待ちましたからねぇ。」といって一人で平気でご飯を食べ続ける。
そして、佐野はそのまま出かけようとするが、もじもじと戻ってくると三宅がすかさず「電車賃ですか?」。佐野が「いやお腹がすいてね」と誤魔化すと、三宅がご飯を手で指して「召し上がれ。」と返す。結局佐野は嬉しそうに電車賃を借りた上に、もう一度座ってご飯まで食べるのだった。
観ていてお腹がいたい。なんとも明るい男女の別れ話である。実によく出来たコメディで、三宅邦子のアッサリした感じがよくきいていた。佐野もこううい優柔不断な感じの男をさせるとよく似合う。
映画全体も、上原謙、佐野周二、佐分利信の三人をめぐる軽快な恋愛コメディである。
三人が入社試験を受ける際には、斉藤達雄も登場して、河村黎吉が女性客の演技をするところなども古き良き時代のコメディである。
高峰三枝子の良家のお嬢さん役もハマッてして、彼女の住む豪邸で見事な庭のシーンで、上原謙がホルンを彼女に吹いて聞かせて途中からホルンから映画の効果音で合奏にきりかえるところなど、なかなか洒落ていた。
当時の最新のファッショやジャズや風俗も今観ると新鮮で、色々な意味で大層「モダン」な映画である。
いかにも古い良い映画を見たなぁと感じさせられる。
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2012年10月22日

成瀬巳喜男「夜ごとの夢」

WOWOWの黒澤全作品一挙放送が終った。大変愉しかったし、黒澤映画について様々な再発見もあった。
最後に書いた「夢」のレビューで書いたように、黒澤というのはある種のリアルな夢を見つづけた夢見人であって、それは単なる空想やイマジネーションではなく、現実以上にリアルな別世界を彼は常に瞥見していたのだと思う。それは、モノクロ時代の名作群から一般には不評だった後期のカラー作品まで一貫している。
黒澤は大変意識的で現代的な作家であった一方で、その本質においては理屈抜きのある種の現実以上に現実的でリアルな世界とほとんど本能的なつながりを常に持ち続けていたある種のシャーマンであって、それが彼の創造する映像に有無を言わせぬ説得力を与え続けていたのだと思う。
とは言っても、私自身の個人的な資質から言うと黒澤映画は少々疲れる。本音の部分で言うと、私が本当に好きなのは小津や成瀬の方だ。いや、この二人も全く異なる個性の持ち主なのだが・・。
成瀬巳喜男映画については、一時期集中的に書き続けたことがある。ただ、彼のつくった映画の数は大変多く、結局途中で投げ出してしまった。また、残念ながら私は全作品を見ているわけではないのだが、かつてスカパーでまとめて放映された際に録画しておいたビデオを引っ張り出して見ている。続きを少しやってみようと思う。

この「夜ごとの夢」は成瀬のサイレント時代の代表作とも言われる。
主演は栗島すみ子。
サイレント映画時代の代表的な女優だそうである。成瀬作品では後年の「流れる」に登場して山田五十鈴を支えているようで最後に見事な裏切りを見せる重要な役をやっていた。すごい存在感だった。
ここでは、健気に生きる酒場の女給役。そして、この頃から成瀬映画の中の女性はとても美しい。ここでの栗島すみ子も大変魅力的である。成瀬というの女性に対してある種の極限的な理想主義者であって、恐らく現実の女性よりもイディア的な女性を終世描き続けた。ここでの栗島もそう。
そしてその女性像は、当時の大人しいおしとやかな女性とは程遠く、大変生命力があって逞しくて男というダメな生きものより一段上の存在なのだ。成瀬映画が最も日本的で伝統的保守的な映画のようでいて、実は最もラジカルで現代的なのは、そういう女性の描き方に尽きると思う。それは多分成瀬の理屈ではなく、ほとんど本能的な女性の本質に対する洞察によるのだと思う。
そして、そういう女性観は多分現代、この2012年という時代にあってようやく現実のものとなり誰もが納得出来るものになりつつあるのではないだろうか。成瀬はあくまで個人的な女性の趣味で映画を撮り続けたが、やっとそれが普遍性を持ちつつある。今こそ成瀬映画は見られるべきだ。
そして、その対極となる男性像を斎藤達雄が演じている。小津のサイレントでも欠かせない役者だが、ここでは徹底的なダメ男だ。これも成瀬映画の永遠の定番だった。
斉藤は結局現実的には何の役にも立たず、自暴自棄になって強盗を働き自殺する。
それに対して栗島はラストで実に成瀬映画的な反応を見せる。斉藤の死に悲しみにくれるのではなく、現実から逃避したことに対して「意気地なし、卑怯者」となじるのだ。そして交通事故で負傷した息子に対して、もっと逞しい男になってくれと言う。
これは、まさしく成瀬映画で何度も何度も形を変えて現れ続けた女と男の姿に他ならない。現実的な生命力があって美しくて魅力的な女と、とことんダメな男。それがこの映画で端的に表現されている。

成瀬的な「視線」の演出もこの頃からだ。例えば、旅から帰ってきた栗島すみ子が乗り合いの船に乗ると、一般の乗客が栗島のいかにも水商売らしい様子に対して白い目で見つめる。栗島がその視線を敏感に感じ取って、目を伏せる。何もセリフはないのだが、映像だけで全てが分かる。
そして、酒場の女給として働く栗島の様子が何とも言えず健気だ。坂本武演じる船長に金の恩気で関係を迫られるが、それほうまくいなして毅然と断る様子。女の洗練と強さを同時に感じさせる。
それに対して斉藤はただオロオロするだけで、こんな商売などやめてくれと言うのだが、栗島は「これくらいの出入りがこわくてこんな商売がゃっていられるか」と言い切る。ここでも、現実的で生命力のある女とひたすらダメな男の対比がある。
映像としては、二人の子供が、斉藤が草野球に興じる間に土管の上に座るシーンが素晴らしい。広々とした青空が背後にひろがる。そして、子供は斉藤の破れた靴をキャラメル菓子であてがう。何とも微笑ましい。
交通事故にあった後の子供の映し方も巧み。頭に包帯を巻いた子供がかわいそうで本当に天使のようだ。
そして、斉藤が自殺した知らせを聞いた栗島が、走り続けるシーンも素晴らしい。そこに彼女の心の動揺や不安があますところなく表現されている。
そういえば成瀬の後年の「乱れる」のラストもこれと似ていた。加山雄三が自殺して高峰秀子が、同じように山道を走り続ける。あのラストは余りに唐突だったので違和感があったが、同じシチュエーションでもサイレントだとこの突然と描写の省略が大層効果的だ。そう思うと「乱れる」のラストもなかなかだったのかと思う。
と同時に成瀬は本当はサイレントとか戦前の風俗が本当はあっていた人間だという気もしてしまう。実際、私が見た限りでは、一般的に名作とされる戦後の成瀬作品よりも、戦前や戦中の成瀬映画の方が何十倍も素晴らしいのだ。
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2012年09月27日

黒澤明「夢」



古い話だが黒澤明が亡くなった頃、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」では淀川長治が解説をしていて、毎週のように「さよなら、さよなら」とやっていた。(ちなみに、アレは「さいなら、さいなら」と聞こえたが本人はちゃんと「さよなら」と言っていると弁明していた。)
その日曜洋画劇場で、黒澤明追悼をやった際に放映していたのが確かこの「夢」だった。
どういう基準で選ばれたのか、淀川自身が選んだのかは不明だ。ただ、とにかくモノクロ時代の名作群でもなく、カンヌで賞をもらった「影武者」でもなく、それほど評価されているわけでもないこれが選ばれた。
黒澤映画はどれも長いのでテレビ向きではなくて放送できないものが多かったのかもしれないが、私は何となく勝手にこれを選んだ淀川の映画に対する鑑賞眼、見識のようなものを感じたのである。
淀川は大変映画の趣味の高い人で、多分本音では現代映画よりサイレント時代の世界の名作が好きだったような気がする。私も淀川推薦のサイレントを次々に観て勉強したクチだ。
そして、この「夢」の独特な映像美が淀川の眼鏡にかなったのではないただろうか。黒澤の映像作家としての質の高さを、この映画を選択する事で主張したかったのではないか、私は当時もボンヤリとそんな事を考えていた。勿論、実際の事全く分からず私の勝手な妄想に過ぎないのだが。
その淀川が黒澤と対談した際に、「影武者」で仲代達矢が見る夢の色彩が面白いというと、黒澤が「ぼくはね、すごい強烈な色の夢ばかり見るんですよ」と答えている。
これを読んで私はハッとした。いや、ほとんど頓悟に近いショックを受けた。
黒澤のカラー作品の色彩感覚というのは実に独特である。「でですかでん」から、この「夢」を経て「まあだだよ」に至るまで。
私は黒澤のような大家に対して今まで言うのを遠慮していたのだが、ハッキリ言って黒澤の色彩センスは決して趣味が良くない。現実にある色よりも何かどぎつくて色が強すぎるのだ。
普通の日本人の繊細な感覚からいうと、本当に品の良い美しさとはいいかねるところがある。
二人の対談で話題になった「影武者」の夢にしても、かなり毒々しい色彩に彩られていた。淀川はそれを面白いというが、正直に言うと私は色彩センスがないと思った。
しかし、それは恐らく黒澤の夢に出てくる色彩そのまま(あるいはそれを再現したもの)なのだろう。つまり、黒澤が頭で選んだ色ではなく、黒澤自身のほとんど生理的な感覚による色彩なのである。
私は、そういう色彩センスに不満を持ちつつも、「どですかでん」の不思議な原色強調など黒澤後期の不思議な現実感に惹かれてきた。それを、今まで書いてきた記事でも何度も「リアルな夢」と呼んでいる。なぜか分からないけれども、心のひだにひっかかってくる映像の色彩と感覚なのだ。
その理由が今となっては分かる。それは、黒澤の本当に正直で個人的なイマジネーション、色をそのまま絵にしているからだ。だから、不思議な説得力が映像にある。
そう考えると、次々に黒澤のカラー映像が頭に浮かぶ。「どですかでん」の乞食父子の空想する家のシーンも、妙に色が強すぎる。「八月の狂詩曲」で、原爆のピカの目を遠景の山に重ねて映像化しているところでも色が不自然だが妙にリアルだ。「まあだだよ」のラストで内田百閧フ少年時代の夢に出で来るあの妙な色彩の雲もそうだ。
いや、私が記事で酷評してしまった「影武者」と「乱」にしてもそうだ。「影武者」冒頭の三人のシーンの変な色彩と雰囲気、最初の方に出で来る不自然な夕焼け、そして夢の色彩。「乱」の白が燃えるシーンの非現実的などぎつさ、戦いに倒れた人間を描写するどぎつい色の使い方、ラストの鶴丸を遠景で映し出す美しいが不自然なところのある色彩。
私は、この二つを時代劇として捉えていたので、それにはあの黒澤の変な色彩感覚があわずに気にいらなかった。でも、あれが黒澤の生来的な感覚によるものだと考えると納得できる。
それらは、多分全部黒澤の夢に出で来る個人的な色彩なのだろう。そして、それらの映像の色彩感やリアルさは、現実にはないのだが現実以上にリアルなのである。
黒澤の映画作家としてのイマジネーションの秘密、本質はここらへんにあそうな気がする。つまり、彼は現実上に切実でリアルな想像の世界を本当に「観て」いた。空想するのではなく、実際にあるように夢などで体感していた。その感覚が全て映画に注ぎ込まれている。だから、我々はこれだけ黒澤の映像に動かされる。
黒澤は、恐らく(誤解を招きかねない表現だが)霊視者だったのであり、我々に見えない何かが、まるで現実のように「見えて」いた。そして、この映画の「赤富士」が予言的で驚かされるのも、恐らく単なる偶然の一致ではない。
そして、この「夢」は、なにしろ最初から夢と宣言してしまっているのだ。だから、現実とは違った色彩や感覚であっても構わない、どころかそれが求められる。
この「夢」の映像にしても、昔から私の評価は両義的だった。不思議な美しさとリアルさはあるのだが、本当に趣味のよい美しさでは決してない。でも、映像に説得力があるので許してしまう。そういうことも、今述べた事を考えると全て解決する。これは、黒澤の夢のまま色彩だし、この世の現実以上に切実な或る現実の物語なのである。

1、日照り雨

黒澤得意の「雨」のシーンで始まる。森の中の狐の嫁入りの行列の様式感は能である。それがいいのだが、同時にここからして黒澤独特の変でリアルな色彩感覚である。
倍賞美津子のこわそうな母親の感じがとてもいい。そして、語ともが森に再び森に向かう際の花畑と虹の、少しどきつい色彩。これが黒澤の色だ。現実とは違う現実の色。

2、桃畑

いきなり部屋が紫や赤に彩色されていて「夢」であることを暗示している。ここでの色彩感も黒澤流の不自然なリアルさ。
そして桃畑の人形の化身たちの色も強烈で美しくも気味が悪い。

3、雪あらし

「乱」でも素晴らしい演技をみせていた原田美枝子が雪女で登場する。両方とも何ともすごい役である。恐ろしくも美しい。黒澤映画で存分に魅力を発揮できる女優は少ないけれども、原節子、山田五十鈴、根岸明美 、上原美佐、そしてこの原田美枝子といったあたりが素晴らしかった。
どの女優も普通の「女」というよりは、強烈な生命感を有する女たちである。黒澤の女性の好みなのだろうか。

4、トンネル

いきなり登場する野犬に彩色されている赤がどぎつい。これが黒澤の色で、凶暴な犬のオーラの色である。
野口一等兵として頭師佳孝が登場する。亡霊で白塗りされているので、クレジットを見ないと分からないのだが。「赤ひげ」の天才子役が、ここでも実に巧みな演技をみせてくれている。
そして、彼同様に自分の死を認め認識できていない日本兵たち。戦争を知らない私でもこのイメージは強烈で切ない。寺尾聰が、必死に死を悟らせようとするところは素直に心を打たれる。
ちなみに、このトンネルのシーンでは黒澤映画史上最長の十数分のワンシーン長回しをしている。

5、鴉

この映画のエピソードはどれもいいのだが、これだけはどうだろう。
ゴッホの有名な吊橋をセットでつくってしまっている。そして、ゴッホ役のマーティン・スコセッシの大根ぶりにまずビックリ仰天する。ゴッホの描き方も、あまりに通俗的過ぎる。
そしてしゃにむに働く機関車のようにというと、何とそのまま機関車のイメージ映像が挿入される。
さらに、ついにはゴッホの名画の中を寺尾聰が歩き出すのだ。バックにはアシュケナージを真似して演奏したというショパンの「雨だれ」。
最後は「烏のいる風景」の烏をコンピューター合成で本当に飛ばしてしまう。
なんという通俗だろう。これは何かのシャレなのだろうかと言いたくなる。
でも、このどぎつい色彩感は確かに黒澤のものだ。こんなつまらないエピソードより、黒澤がゴッホのあの色彩に何を感じていたのかが知りたくなるところだ。

6、赤冨士

このエピソードは311の後でかなり話題になった。富士山の近くにある東海地区の原子力発電所が次々に爆発するという設定である。
逃げ惑う人々と、爆発で無気味な赤色に染まる富士、このどぎつい色彩感が黒澤の個性である。
人間は、放射能物質に色彩をつけるという発明をする。原発技術者役の井川比佐志が冷静に次々に説明する。
「あの赤いのはプルトニウム239、あれを吸い込むと2000分の1グラムでも癌になる、黄色いのはストロンチウム90、あれが体内に入ると骨髄にたまり白血病になる、紫色のはセシウム137、生殖腺に集まり遺伝子が突然変異を起こす。つまりどんな子供が生まれるか分からない。」
この映画は1980年に公開なのだ。どれだけの人が、当時こういう元素を知っていただろう。こんなにこれらの元素が現在有名になると予測できただろう。
井川が苦しんで死ぬのはゴメンだと自殺しようとするのを見て赤ん坊の母親役の根岸季衣が叫ぶ。
「そりゃあ、大人は十分生きたんだから死んだっていいよ。でも。この子たちはまだいくらも生きちゃいないんだよ。
でもね、原発は安全だ、危険などは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対にミスはおかさないから、問題はないってぬかした奴ら、許せない。あいつら、みなに縛り首にしなきゃ、死んだって死にきれないよ。」
黒澤は専門家に聞いて、もし本当にこのような事故が発生したら中国まで逃げないと安全ではないと知って、これをつくったそうである。
これも、恐らく黒澤が実際に観た夢なのだろう。そして、こういう鮮やかな色彩で。
「生きものの記録」の原爆恐怖症の老人は、まさしく黒澤自身だ。それは理屈のレベルではないのだ、原爆への恐怖や原発への不安は、実に当たり前でまっとうな感覚である。
しかし、黒澤のようなリアルなイマジネーションがない人間は理屈で自分を無理に納得させてしまう。実に不幸な事だ。

7、鬼哭

原発事故、あるいは原子爆弾戦争後の世界である。死の灰で染色体の異常を起こした、巨大で気味の悪いタンポポが咲き誇っている。そのどぎつい色彩が黒澤的である。
その世界に住むのはもはや人間ではない。本当に角のはえた鬼である。
いかりや長介の演技は本当に見事である。後期黒澤では、こういう見事な素人と本当にダメな素人や新人の差が激しい。「まあだだよ」の所ジョージも自然でよかった。いかりやも所もコメディアンなのは偶然なのだろうか。
鬼は、角の数が違い角の多い鬼ほど、昔の世界で威張っていた人間たちである。角の多いほど強い。お互いに食い合って命をつないでいる。
しかし、鬼たちは決して死ぬ事ができない。そして、夕方になると角が痛んで激しい苦しみにのたうち回る。鬼たちが苦しんでのたうちまわる映像は地獄絵図である。
311の原発事故の後にも、相変わらず角のたくさんはえた鬼たちが権力を握って威張り散らしている。それが、現代の最大のコメディだ。
しかもその鬼たちは自分たちの頭に角が生えている事にも全く気づいてないし、角が痛む事もなくのうのうと生き続けている。

8、水車のある村

一転して美しい桃源郷である。水と水車が美しい。
笠智衆の老人が素晴らしい。彼の口を借りて、黒澤が現代文明批判をしている。黒澤らしく当たり前のことを当たり前に言っている。
しかし、そんなことよりも大事なのはこのエピソードの陽気なイメージと素朴な生命肯定である。
死は本来めでたいものだと言った上で笠智衆が言う。
「あんた、生きるのが苦しいとかつらいとか言うけれど、それは人間の気取りでね、正直生きてるのはいいもんだよ。とても、おもしろい。」
死んだ婆さんは私の昔の恋人だったといって、「男はつらいよ」でおなじみの御前様のハッハッハッ笑いも披露している。
その葬式の行列のところの躍動感が素晴らしい。「隠し砦の三悪人」の火祭り並みの活気である。しかも見事なカラーがついている。
笠智衆も赤の衣装に着替え、行列も黒澤らしい鮮やかな彩りに満ちている。しかし、ここでの色は決して不自然ではない。
黒沢にとっては、夢の中での色彩はどぎつくて不自然だったが、この現実の世界のそのままの色彩こそ、本当に美しいものだったのかもしれない。
最後は川の水の流れを静かに映し出して映画はおわる。ここでの水は、まるでタルコフスキー映画の水のように澄みきっている。
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2012年09月26日

黒澤明「影武者」



今回WOWOWで黒澤全作品を改めて見て、黒澤明の映画もその人間も本当に素晴らしいと思った。だから、もう黒澤映画の悪口など言いたくはない。
でも、「乱」の時に書いたように、この「影武者」と「乱」だけは、やはり黒澤の名誉になるものとはどうしても思えないのだ。
いや、別に理屈で評価しているのではなくて、少なくとも私は退屈して現実に眠りそうになってしまった。
演出方法で、かつての黒澤流の過激な表現主義が失われて、妙に重々しい古典的な演出になっている。私はモノクロ時代のなりふりかまわない黒澤演出を愛してやまないので、こういう妙に取り澄ました演出が残念だ。高級大河ドラマ風とでもいうか。
映像自体についても、美しい事は美しいのだが、本当の黒澤の個性と言うよりは「きれい」な映像にとどまっていると思う。
でも、後期のカラーでは「どですかでん」「デルス・ウザーラ」「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」は好きだ。それらには黒澤らしい個性があるから。黒澤には、彼固有の独特なイマジネーションがあって、それがきちんと映像化されていた。
ところが、「影武者」や「乱」の映像の「美しさ」は、表面的にはきれいだけれどもそれだけなのだ。観るものの心に訴えかけてこない。
黒澤はもともと画家志望だった。そして後期のカラー作品では、画家としての表現を目指していたところが明らかに伺える。しかし、この「影武者」では画家が小奇麗な絵を描ことしすぎているのではないだろうか。黒澤は勿論偉大な映像作家だけれども、珍しくその悪いところが、「影武者」や「乱」では出てしまっていると思う。。
彼の他の後期のカラー作品も、決して画家の絵としても超一流ではないかもしれないけれど、そんなことより黒澤独特の感性、夢見る能力はちゃんと表現されている。だから、それらの作品を私は愛している。個人としての固有な資質の何かが映像として存分に表現されていれば、それは見るもののを動かし心に訴えかけてくるから。
ところが、この「影武者」では普遍的で古典的な美や完成度を目指しているので、それがかえって映像に心に訴える力がないように少なくとも私は感じる。
最後の戦場の馬などのスローモーションも、作者が劇的な効果を狙っていることを観るものはどうしても感じてしまう。そして、それがモノクロ時代の黒澤のような有無をいわせない説得力がないので、感動を強いられているような気がしてしまうのだ。
この「影武者」と「乱」で黒澤はあまりにも「立派で美しい」映画をつくろうとしすぎてしまったのではないだろうか。
何も考えずに見ている観衆も、そういうことには実はたいへん敏感である。よく見せようと力むほど、見る人間の心は離れていってしまう。
モノクロ時代の黒澤は、もう無我夢中でよく見せようなどと言う事など全く考えずに無心で映画を撮っていた。だから、あれだけの説得力を映画が生む。「白痴」などは、夢中で作りすぎて、不評だったり理解されなかったが、私はあれが黒澤の最高傑作だと信じている。あのなりふりかまわないテンションの高さと忘我がたまらなく好きなのだ。
後期の他のカラーでも、少し黒澤の自我を感じさせるにしても、基本的には無心に好きに映画をつくっている。だから、私はそれらの映画も好きだ。
「乱」ではそれでも黒澤らしい活気が感じられる場面も多々あったけれど、この「影武者」にはそういう部分も残念ながら欠けているように感じてしまう。
この映画は、公開当時から日本人の評者には評価されなかった。凄く良く分かる。それは理屈ではなく、この映画から受ける率直な感想だと思う。
「大系 黒澤明」第三巻の「影武者」の章には、松本清張が当時書いた「影武者批判」も収録されている。松本らしく、具体的な史実
に即して言っているのだけれど、基本的には映画をみて退屈だと思った印象が根底、基本にあるように思えた。それを具体的に説明しようとして色々書いているが、多分素直な感覚がまずあったのだと思う。松本は元々黒澤映画の大ファンだと断った上で批判している。
私は天邪鬼なので、今回はなんとか「影武者」のいいところを見つけようと思ってみていたが、結局眠たくなってしまった。
しかし、「大系 黒澤明」の中で、黒澤と対談した淀川長治はこの映画を擁護している。淀川は「さよなら」のおじさんとして有名だが、無論映画に対する鑑賞眼は本物だ。「影武者」の悪口ばかり書いていて後味が悪いので、淀川に敬意を表して最後にその発言を要約して紹介しておこう。こういうプロの見方もあるということで。
・長篠の合戦で馬が倒れていくところはよかった。あの馬がしつこくしつこく倒れるところに戦争の哀れさを感じた。
・影武者の見る夢に、黒澤らしい色を感じた。グレーじゃなくて強烈な色で。あの色は面白かった。
・勝頼と部下が二人で喋っているシーンがよかった。セットがいいと思っていると、その向こうの窓をパッと開ける、すると雪が降っている。こういうのが映画であって、なぜこういうところを褒めないのか。
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2012年09月25日

黒澤明「デルス・ウザーラ」



夜中にソ連の探検隊が焚き火をしていると、遠くで物音が聞こえる。何事かと緊張して身構える兵隊たち。
すると、「人間だ、撃つな!」という声が聞こえて、暗闇の中からデルス・ウザーラが現れてきて真っ直ぐ歩いてきて焚き火の側に座る。
という感じで、デルス・ウザーラが登場するのだが、その風雪に耐えた実に味のある顔、醸し出す穏やかで澄んだオーラに、いきなり魅了される観ているものはデルスのことがたちまち好きになる。
このマクシム・ムンズクの演じるデルス・ウザーラが本当に役なのか本人なのか分からないくらいピタリとはまっている。このデルスが画面に映っているだけで幸せという映画だ。
当然、日本の映画では三船などの俳優が役をも演じていてそれを程度の差はあっても意識するわけだが、 それがこの映画ではない。当初、黒澤はデルスを三船にやらせる予定だったそうだが、この場合はしなくて良かったと思う。それくらい、このマクシム・ムンズクは素晴らしい。
このマクシム・ムンズクという人、実際にデルスのような生活も経験したことがあり、当時は無名な俳優をしていた。当初はソ連の有名俳優も候補に上がったが、黒澤の眼鏡にかなわず結局無名な彼が抜擢された。役者としてというよりは、あの外見と雰囲気が誰しもデルスにピッタリだと思ったのだ。
但し、本人は役者としてかなり大袈裟な演技をするくせがついていたらしい。だから、黒澤はそういう演技を一切しないで自然にやるようなに何度何度も説明したそうである。地のマクシムが求められ、そして出来上がった映像には自然なマクシム=デルスが見事に映っている。
アルセーニエフのユーリー・ソローミンも大変感じのいい役者で、彼とデルスの友情をとても素直に受け止める事が出来る。第一部の、「デルス」「カピタン」と呼びあうところは素朴きわまる演出だけれども、観ていてついグッときてしまう。第二部の二人の再会のシーンもそうだ。
ロシアの大自然の中でのロケで、本当に環境が苛酷でさすがの黒澤も自然条件に応じて撮影の仕方を適応させたそうである。日本のように、望む天気を待ったりしていたら本当に危険だったという。さすがの黒澤もロシアの自然には勝てなかった。
それとこの映画にはアップがないが、それについては「アップは35ミリだったらおかしくないけど、70ミリのアップなんて、気持悪いよ、おかしいよ。」と述べている。
第一部では、デルスと隊長が遭難するシーンが圧巻である。あの二人が必死に草を刈るシーンはなんと十日間もかけて撮影したそうだ。そして、二人とも疲労困憊してひっくりかえるのでカメラを回したという。ソ連の俳優も黒澤演出の洗礼を受けたというわけである。しかし、そのせいで出来上がった映像は本当に迫力満点である。
そして、吹雪についてもそれを待てないので飛行機で飛ばしたそうである。ここでもデルスと隊長はヒドイ目にあわされている。どんなに頑張っても5分が限度だったとか。
デルスが川で流されて木につかまるシーンは、スタントを使おうとしたら、マクシム・ムンズクが自分でと言い張ってやったそうである。当時でもかなり高齢なのだがもやはり役者自身がちょっとデルス的なある人間で、それであれだけリアルな感じを出せたのだろう。
屋外ロケの部分はどれも本当に素晴らしいが、最後の町のシーンとデルスの死に方は映画の締めとしては残念な感じである。これは原作の小説の通りに忠実に構成したのだろうか。ただ、デルスには自然の中で(例えば誰かの命を救って自分を犠牲にする)といった死なせ方をさせてあげたかった。
「どですかでん」が興行的にこけて、その5年後にソ連の資金を借りてつくった映画だけれども、この映画は普通に素晴らしい。大規模なロケを統率する黒澤の力は、やはりすごいし、映像のもつ力も役者の魅力も十分。ソ連製というだけであって、立派な黒澤映画である。
この映画などを観ていると、黒澤がこの頃に好きなように映画をつくれなかったのは日本内の映画界をとりまく状況が問題だったのであって、実はまだまだこの頃の黒澤は創作力に溢れていたような気もする。
デルス・ウザーラは、いかにも黒澤的な登場人物だ。心がキレイで純粋な人間。様々なバリエーションで現れながら、黒澤映画を一貫するテーマである。
そして、ここでは自然と離れていない人間、動物や自然を人間と同等の「いきもの」と考えている人間がテーマである。難しいテーマだけれども、デルスが大変魅力的なので、素直にその問題を受け入れる事が出来る。
デルスは素朴な人間で、文明的な知識はないが、自然や人間自体に対する深い智慧や洞察がある。それもきわめて具体的な形で。
この黒澤の問題提起自体が大変素朴なのだが、現代を生きる我々はその問題点の重要性にハッと気づかされる。
黒澤映画は常にそうだ、あまりに当たり前のことを当たり前に主張している。その素朴さを決してバカにして笑えないことに、ようやく我々は理屈ではなく身をもって気づかされつつある、あるいは気づかずにはいられない時代を生きている。

(文中で紹介したエピソードについては、「大系 黒澤明」第三巻のデルス・ウザーラの部分を参照しました。)
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2012年09月24日

黒澤明「羅生門」



やはり、この映画の最大の功労者はカメラだと思う。今回久しぶりに他の黒澤作品と共にまとめて、この「羅生門」を観たのだが、ちょっとこの作品だけ同じ監督の作品とは思えないくらい、画面の様式感とか深さとか格調の高さが抜きん出ている。
羅生門の見事な雨のシーンから始まり、志村喬や三船が森の中を移動するシーンのあの撮り方、次々に変わるカメラ位置の巧みさ、検非違使庁の場面の構図などなど・・。
勿論、カメラは宮川一夫。「大系 黒澤明」
を読むと、ヴェネチアで金賞を獲った際に宮川のカメラが大変褒められたそうである。そして、黒澤もその事を大変喜んでいる。
また、黒澤は宮川を大変タフなカメラマンだとも述べている。普通のカメラマンは黒澤自身のタフネスに参ってしまうが、全然負けずに最初から乗りに乗って撮影したそうである。
宮川がどの程度までカメラを任されたのかは本を読んでも分からなかったが、映画を観た感じからすると多分宮川の思うように存分に撮ったような気がする。
ところが、こんな素晴らしい映像を宮川が創ったのに、「用心棒」では宮川がいるにもかかわらず、黒澤はマルチカム方式で二台のカメラで同時に撮らせて、しかも斉藤孝雄の撮った映像の方を多く用いている。
いかにも黒澤らしいのだけれども、カメラを完全に宮口に任せた溝口健二の方が賢明だった。この「羅生門」を観て、また溝口映画が観たくなってしまった。
NHKのBSで、宮川一夫の特集番組をした際にも、この「羅生門」を取り上げていた。森の中のシーンでは、鏡を使う事であの独特な光の輝きの感じを出したそうである。普通の光を利用したのとは一味違う幻想感が何ともいえない。
宮川は、森の中は黒(影)、検非違使庁は白、羅生門は鼠(ハーフトーン)と分けて描こうとしたそうである。
京マチ子の告白場面では、早坂文雄のボレロの音楽が使われている。黒澤これを大変気に入っていたそうで確かに印象的。当時はボレロというだけで剽窃と書いた雑誌もあったとのこと。ボレロのリズムを使っているが、勿論音楽は早坂のオリジナルである。

多襄丸の三船敏郎は、いかにもはまり役である。しかし、この映画は各人の告白によってキャラクターをそれぞれ変えて演じて見せる事が要求されるが、三船はどれも完璧に演じ分けている。地のキャラクターが強すぎるので何をしてもミフネになってしまうのだが、実は実に的確に知的に役を演じわける役者で、この作品でもそういう三船の巧さがよく出ている。
金沢武弘の森雅之。この次の「白痴」での役といい大変な難役である。さすがに達者なところを見せていて、特に京マチ子の告白のところでの「軽蔑の目つき」はすごくて忘れがたい。
真砂の京マチ子。これもまた大変な熱演で役柄に実にあっている。特に、志村の告白の場面で、泣きじゃくっているところから急に笑い出すあのこわさ。「乱」の原田美枝子の笑いと双璧のすごさである。
ちなみに、この役は元々原節子を予定していたという。それもちょっと観てみたかった。そういえば、「白痴」での原節子の笑い方も相当なものだった。黒澤は女優にこういうのをやらせるのが好きだったのだろうか。
志村喬と千秋実、二人ともいつものようにうまい。ただ思うのだが、木こりの方が千秋、坊さんの方を志村にした方が、もっとピッタリ来たのではないだろうか。特に木こりは結局刀を盗んだりして卑怯なところがあって、千秋向きで志村には合わないところがある。敢えて逆にした黒澤の意図を知りたいところである。
そして、上田吉二郎の悪漢への徹しぶりも見事だった。

この映画は、とにかくその映像美と名優たち見事な演技を見れば十分である。この映画のメッセージは、それに比べればどうでもいいことだと思う。しかし、やはり気にはなるので最後に簡単に書いておこう。
原作は芥川龍之介の「藪の中」を下敷きにしている。登場人物三人の告白は、それにある程度忠実だ。そして、芥川はどれが本当なのかは決めないまま小説を終らせている。各人の見方の相対性を宙吊りにしたままなのが、ある意味この小説のポイントなのだ。
ところが、黒澤は木こりの志村の証言を創作して映画に追加する事で「真実」を提示してしまっている。ある意味では、原作の良さと特徴を台無しにしているのだ。
しかし、黒澤の創作部分はなかなか見事だ。三者の告白は、それぞれ自分に都合のいいように、自分を美化するように嘘が混じっている。
ところが、木こりの告白では、三者とももはや余裕がなくなって人間本来の姿をさらけ出している。森も、こんな妻などいらないと卑劣なセリフをはき、京も開き直って笑って男二人をなじるが、いざ二人が戦いだすと我に返っておびえきっている。(この辺りの京の描き方は実に見事だ。)三船も森を倒すのに余裕などなく必死だ。森は、倒される際に「死にたくない」とわめき、京は夫が殺されておびえて叫び、三船も動揺して動けなくなってしまう。
つまり、黒澤が言いたかったのは、三人の美化した自分勝手な嘘とは異なり、真相は実に人間らしい醜いが真実に満ちたものだったということである。
しかし、黒澤はそういう人間の醜さを否定するのではなく、そういう人間のありのままの姿を尊いと考えていたような気がする。「どですかでん」の、最底辺の庶民の描き方もそういうものだった。
最後に、きこりが赤ん坊をひきとって、「善意」を示す。これも黒澤らしい。ただ、正直に言うと映画の構成としては、そこまでの流れからいうと唐突で強引なラストのように思えてしまった。
しかし、黒澤がこの映画で言いたかったのも、人間のありのままの姿を直視しながら、その純粋さや善意を信じると言う事である。だから、黒澤の中ではこのラストも自然だったのだろう。
ただ、今述べたように黒澤の書いた木こりの告白だけでも、十分に黒澤らしい人間観は伝わる(理解できるものには理解できる)と思うので、個人的にはもう少しさりげないラストにして欲しかったという気はする。
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2012年09月23日

黒澤明「用心棒」



黒澤自身、娯楽作をつくることに徹底したと述べている作品。当時の映画ではチャンバラ的だった殺陣をリアルにしたり、ディテールの設定にこだわったり、特に当時観たらさぞかし画期的だっただろう。
個人的には、この「用心棒」よりも「椿三十郎」の方が好きである。そのユーモアとか人物設定とかセリフのセンスが楽しいので。
この「用心棒」の方は、かなり設定が殺伐としていて、登場人物もやたら多い。現在は刺激の多い映画ならいくらでもあるので、むしろ黒澤映画には、そういう現代映画にないものを望んでしまう。
あくまで個人的な感想だけれども、名作とされる本作に私はあまり惹かれないのである。
カメラは宮川一夫だが、マルチカム方式で実際は斉藤孝雄の撮った映像の方がたくさん使われているそうである。天下の宮川に対してすごい扱いだと思うが、黒澤はそういうのも平気で競争させて、とにかく最高のものを求めた。
脚本にしても、当時は何人かでそれぞれ独立して書いて、その中から黒澤が一番いいと思ったものを選んでいたそうである。この時期の黒澤映画の、異常なくらいのバイタリティはそういうところに起因するのだろう。
黒澤映画のオールスター・キャストなのだけれども、登場人物が多すぎる事もあって深く印象に残る役者がそんなにいない。
そんな中、山田五十鈴のとんでもない女ぶりはさすがに見事である。「蜘蛛巣城」「どん底」、そしてこれと黒澤映画では徹底的に悪女をやりきった。
藤田進が、三船以外に安く雇われた用心棒の役で登場する。そして、両組の戦いの際にサッさと逃げ出してしまうのだが、三船の方を見てニッコリと笑うところが何とも印象的だった。「続姿三四郎」でも多用されていた、藤田独特の憎めない笑顔の応用編である。
東野英治郎の酒屋の頑固だが人のいいオヤジは、さすがにハマリ役だった。
羅生門綱五郎が、三船敏郎を殴ったりぶん投げたりする。ジャイアント馬場とそっくりだが別人である。しかし、映画の中でも、三船にアイアン・クローをしたり、のどわなげをしたりしているのでなおさら勘違いしやすい。実際プロレスラーの経験もあったそうである。ウィキペディアを観ると死亡年のところが「生死不明」となっていて、ちょっと驚く。
勿論、この映画での仲代達矢のあの何ともいえないイヤらしくて魅力のあるキャラクターも忘れがたい。 実に役を緻密に計算した上で役になりきっていることは誰しも認めるところだろう。
「大系 黒澤明」によると、仲代達矢は実は「七人の侍」にチョイ役で出演している。
画面の下手から上手へただ歩いて過ぎるだけの5秒くらいの役で、勿論セリフなどない。例の、百姓たちが侍を探すシーンだろう。
ところが、ただ歩くだけなのに黒澤は何度も何度もダメといってやり直させた。
朝からはじめてOKが出たのは、昼休みをはさんで午後三時だったという。しかも、実際のフィルムではカットされていて上半身が一瞬映っただけでクレジットもされなかった。
当時は腹も立ち屈辱も味わったが、仲代は後年理解したそうである。刀を腰にさしている時は、腰で歩かなければいけない。それができていなかったと。仲代は「無名塾」の新人に「三年で歩けるようになればいい。」と述べたそうである。
この「用心棒」で仲代が抜擢された際に、仲代は自分のことなどすっかり忘れているだろうと思ったら、黒澤が「あのときの仲代を覚えていたから使ったんだ」といい、仲代は大変感激したという。
勿論、我々素人は素直に映画を見て遠慮せずに好き勝手な事を言えばいいと思うけれども、こんな話を聞くと演技や映画を撮る事の凄さ、大変さを感じずにはいられない。
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2012年09月22日

黒澤明「七人の侍」



最近、「大系 黒澤明」全四巻を入手した。黒澤映画について本人関係者の発言をすべた集めた大変充実した資料本である。
私は映画本をほとんど読まない。先入観なしに映画を見ればそれで十分でその舞台裏を下手に知ってしまうとかえって自由に鑑賞できなくなると思うから。
しかし、今回黒澤映画をまとめて見て黒澤という人間に興味がわいたのである。この「七人の侍」についても、詳細な資料が載っている。
この映画は村の戦闘シーンは実に大掛かりで誰でも撮影が大変だったのが分かる。当時の時代劇の概念を根本的に変えた作品で、勿論今でも(むしろ今となっては)これだけ大変なものをつくるのは大変だろう。
それについても、「大系 黒澤明」に撮影スタッフの詳細な証言がある。本当に大変だったようである。と同時にこんな形で映画が撮れていた時代を羨ましく思う。
この映画の志村喬は本当に神様のようだ。彼が登場して、髪を剃って坊さんのふりをして子供を人質にとった男を倒す所のかっこいいこと。
この島田勘兵衛は難しい役で、侍としての位は高くないが技量や人間性では傑出している。普段は謙虚で普通な感じだが、ここというところでは威厳を示す。志村喬がそういう感じを完璧に表現しているのだが、黒澤はそういうキャラクターつくりに立ち居振る舞いから細かく指示を出したそうである。黒澤の演出と志村のそれを完全に自分のものとして消化する役者力の共同作業の結果なのだろう。
宮口精二の久蔵は当初三船敏郎の予定だったが、菊千代という役が新たに出来て宮口にわりふられたという。大変カッコいい役である。
最初の登場の仕方だと、ちょっとエゴイストで何かトラブルを起こしそうだ。特に勝四郎と志乃の逢引を目撃するシーンは、何か起こしそうでドキドキするのだが何も起こらず実は立派な人間であることが段々分かってくる。ちょっと意表をつく展開で面白かった。
個人的にはこの映画で一番好きなのは後半の戦闘シーンではなく、志村喬が登場して侍を集めてゆくところ。片山五郎兵衛の稲葉義男、七郎次の加東大介、林田平八の千秋実の登場の仕方、それぞれ実に巧みで魅力的である。
菊千代の三船敏郎は、当初予定になかったのを、侍たちと百姓をつなぐ役目がどうしても必要だということで新たに設定されたそうだ。言うまでもなく三船の魅力が最高に発揮された当たり役である。
三船らしい名演技の連続だが、火事のシーンで赤ん坊をかかえて「こいつはオレだっ、オレもこの通りだったんだ」というところは文句なしの名シーン、名演技である。
岡本勝四郎の木村功の純粋無垢ぶりも本当に印象的だった。志村に子供扱いされていたところを同行を許されたところの喜びようの表情、宮口が敵をやっつけて帰ってきたところに「あなたは素晴らしい人です」という時の目の輝きと表情は忘れられない。そして宮口の照れる様子。いかにも黒澤的な演出だった。
志乃の津島恵子は最近亡くなられたばかりた。大変いじらしくてかわいかった。この男くさい事この上ない映画に唯一登場する女性的要素である。
木村功との逢引の際に、二人で横たわって「侍のクセに意気地なし」というシーンは実によかった。あの構図は「野良犬」の犯人逮捕とちょっと似ている。両方とも木村功が出でいた。
もう一人、女優で例外的に大きくクレジットされるのが利吉の女房の島崎雪子。心から絶望している女を演じて本当に見事だった。成瀬巳喜男の「めし」では、わがままで甘えた娘をしていたが、まるで別人である。女優はすごいしこわい。
あの火事のシーンでは利吉の土屋嘉男がミスをしてNGになり、島崎は本当に命さへ危なかったそうである。黒澤もその素晴らしい演技とお詫びの意味をこめて大きくクレジットしたのかもしれない。
ちなみに、あの有名な「侍のテーマ」は、黒澤が音楽の早坂文雄の家に行き、早坂が用意した20通り以上の曲を次々にピアノで弾いたが、黒澤はどれも気に入らなかった。
途方にくれた早坂が、ゴミのようにほうっておいた楽譜を拾い上げてそれを弾いてみたら、黒澤が「これだっ」と叫んだそうである。
よく出来すぎたエピソードだけれども、ほんとんど狂気のような本気で映画制作にあたっていた黒澤を象徴する話だと思う。
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2012年09月21日

黒澤明「八月の狂詩曲」



この映画も一般的な評判はあまり高くない。私も昔は正直言って、この作品を含めて後期の黒澤のカラー作品にはピンとこないところがあった。でも、改めて今回見てみて驚くほどこの映画を素直に受け入れることができた。
長崎の原爆の問題にわりとストレートに取り組んだ問題である。また、そういう政治的意図以外にも、映画の語り方が少々教訓的だ。登場する子供たちも、どちらかというと「黒澤の年代の考える子供たち」であって、実際はかなり違うだろうと思ってしまう。口の悪い言い方をすると、お酒を飲むとやたら若者に説教をしたがるお爺さんの視点のようなものを感じてしまうのだ。全般に少し時代感覚とずれている。
しかしながら、そんなことを一々気にしないで映像だけに集中すると、これが驚くほど美しい。家の中やその外の自然、山の遠景、近所の滝、そして鉦おばあちゃんを始めとする家族たちのさりげない様子が、ごくごく普通に撮られているのだが、それがなぜか心に染みいってくる。
この前に黒澤は「夢」という映画を撮っているが、後期の黒澤の映像はどれも皆妙にリアルな夢のような性質があると思う。この作品もそうだし「まあだだよ」もそうだ。
後期の一部の黒澤作品には不思議な事が起こっていて、劇的なストーリー性ということでは全盛期のモノクロ映画に遠く及ばず退屈だったりするのだが、映像そのものを何の先入観もなしに純粋に見つめていると、むしろその画の力はパワーアップして深さを増していると思う。
黒澤は映画作家だが、その劇的創作力が次第に衰えて行く一方で、映像そのものへの職人的なセンスは年齢と共に明らかに成熟している。
その事を今回WOWOWで全黒澤作品をまとめて見て感じた事だ。そして、そういう映像自体の持つ力というのは、言葉で説明するのが大変難しい。
滝のところに子供で言って海蛇が出るところや、おばあさんが二人で黙って家の中で座っているところや、ピカの目の山の向こうのイメージなど、どれもさりげないのだけれど、も不思議に心の奥深いところをくすぐる。どちらかというと、見た後の余韻として何かが残るのだ。まさしく、リアルな夢のようなのである。
そして、ラストの皆が大嵐の中を走るシーンは文句なく素晴らしい。ほとんど、老人虐待のようなすごい撮影なのだが、何か意味があるのではなくてイメージ自体が語る説得力がある。アリのシーンにしてもそうだ。
そして、「野ばら」という映像とは対照的な
音楽を使う黒澤得意の「対位法」もここではうまく行っていると思う。時には「野良犬」などでは、わざとらしく感じたのだが、映像に具体的な意味やストーリーがないので、自然に受け入れる事が出来るのだ。
主役の村瀬幸子は自然で大変良い出来だし、リチャード・ギアも役のキャラクターとしてき意外にもハマッていてことの他よい。ラストの子役たちだけでなく、根岸季衣の走りっぷり、こけぶりも中々よかった。
この映画では、長崎の原爆をわりとストレートにとりあげている。何も世界の黒澤は、わざわざ原爆問題を取り上げなくても映画を撮れただろう。
しかし、黒澤は愚直なくらいに長崎の原爆のことを描いている。こういうところが実に黒澤らしいと思う。そして、「生きものの記録」でも分かるように、黒澤の原爆に対する多度というのは、政治的というよりも、むしろ生理的感覚的レベルの切実な問題であったような気がする。あのピカの目のイメージにしても、下手をすると通俗的になりかねないのだが、黒澤的な想像力の中ではきわめてリアルなのだろう。
現在においても、我々に一番欠けているもの、必要なものは黒澤的な素朴な想像力だと思う。我々は知識で頭を一杯にしすぎて現実を分かったつもりになっているが。
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2012年09月20日

黒澤明「どん底」



多々ある黒澤映画の中でもラストが何とも印象的。貧乏長屋の連中が「あ、こんこんこん畜生、こんこん畜生こん畜生、地獄の沙汰も金次第、仏の慈悲も金次第、おやこっちはオケラだすってんてん、そばでも雨でも降ればいい、テンテンツクツク、テンツクツン・・」といって、全員が猛烈な勢いで踊りだす。強弱のアクセントをつけつつ大変な盛り上がりである。画面が猛烈にスウィングしている。これだけの感じは中々出せるものではない。理屈抜きの映像の力。黒澤が撮った奇跡的な画の一つだと思う。
最高に盛り上がったところに千秋実が飛び込んで来て、藤原釜足の「役者」が首をつったことを告げる。止まって呆然とする一同。首吊り現場を見てしまった根岸明美が顔面蒼白にして入ってくる。三井弘次のアップになって、カメラ目線になると「ちぇっ、せっかくの踊りぶちこわしやがった。バカがっ。」と言う。そして画面が突然切れて映画は終る。本当に素晴らしい。
江戸の貧乏長屋を舞台に、社会の最底辺を生きる者たちの人間模様を描いている。一応は三船敏郎と山田五十鈴が主役にクレジットされているが、全員が主役の集団演劇である。
従って黒澤映画に欠かせないバイプレイヤーたちが勢ぞろいして達者なところを見せている。その誰もが実に強烈な個性があってうまい。はたして、現代にこんな役者が少しでもいるだろうか。黒澤映画を支えた脇役たちを満喫する映画である。
貧乏長屋内の長回しのシーンも多いせいで常に映像に活気と迫力がある。
ゴーリキーの同名原作を江戸時代に当てはめているが違和感はない。同じような設定の現代版が「どですかでん」である。人物の設定や描き方はより自由にやっている「どですかでん」が面白いが、役者の質ではこちらが上か。
山田五十鈴が本当にうまい。「蜘蛛巣城」のマクベス夫人役も壮絶だったが。ここでは、三船に色情の未練や執着を示す女の業深さや弱さを存分に表現している。三船と二人のシーンでの女のしなや嫌らしさ、憎悪と愛情の表情、それでいて美しい。
一方で、香川京子をいじめたり三船の不幸を願う毒婦ぶりがすごい。時に三船が大家をアクシデントで殺してしまった際の、「ざまあみろ」という表情。本当にこわいのだけれども同時に魅力的なのだ。
三船敏郎はわりと人のいい純情な盗人で、そのキャラクターを正確に表現しているが山田のアクの強さと比べると印象が薄い。でも、それは三船のせいというよりは役の設定のためだろう。
香川京子は、取り乱して三船と山田を訴えて呪詛するところが良かった。「赤ひげ」でもそうだったが、単なる清純な役よりもこういう役の方が生き生きとしているように感じる。
三井弘次がラストを含めて大変印象的。独特のあの声ときっぷのよさ。
渡辺篤は、最後の踊りのシーンでの表情のつくりかたとか動作がうまかった。
左卜全は、ここでは珍しく物の道理をわきまえた優しい老人の役だが、本当にうまくなりきつていた。やろうと思えばどんな役でもこなせるのだと思う。それは、ここに出ている名脇役全員にいえるのだろうが。このキャラクターは「どですかでん」では渡辺篤の「たんばさん」に引き継がれていく。
達者な男役者連中に混じって根岸明美が貧乏長屋に住む女として登場する。男優陣に少しも負けていない。私は黒澤映画ですっかりこの人のファンになってしまった。
妄想の恋人との逢瀬の一人語りの部分が印象的。「赤ひげ」で大変長い一人語りを完璧にこなしたせいか、黒澤もこういうのをやらせたがったようである。「どですかでん」でも一人芝居風な役で出ている。
大家に中村鴈治郎を持ってきて悪役をやらせていてうまく演じているが、単純な悪の役なので三船同様に印象は薄い。これも役のせいだ。
他にも、千秋実、藤原釜足、東野英治郎、田中春男、上田吉二郎、三好栄子といった黒澤常連の名脇役が次々に登場する。さながら、黒澤脇役博覧会だ。
そういった役者の事を知らないとしても映画自体に大変な勢いがあって鑑賞に堪える。他の三船「主演」の映画とは一風異なる集団劇の魅力がこの映画の個性だ。
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2012年09月19日

黒澤明「一番美しく」



この映画についても、一年半前ほどに書いている。

MONOGUSA blog 黒澤明 「一番美しく」感想


この時書いたことと、今も基本的に考えは変わらない。
「わが青春に悔いなし」は、戦後にGHQが奨励した民主主義映画の線に忠実に沿ったもので、この「一番美しく」は、一見封建的な滅私奉公の価値観を賛美している。
しかし、黒澤はそういう状況の限定に応じながらも、結局そういう政治状況とは関係ない人間の姿を描いていると思う。
勿論、黒澤自身にも何らかの個人的な政治信条はあったのだろうが、少なくとも黒澤の映画の画面上で表現されているものは、つまらない政治的イデオロギーとは無関係である。黒澤自身にそういう本質的な「反政治的」な資質がある。政治を無視するのではなく、政治の世界には到底おさまりきらない人間の姿に対する深い理解と愛情が映像で自然に溢れ出ているという意味で。
戦時中の映画ということもあって、あまり黒澤流の派手な演出はないが、それがさりげなくてかえって効果的だ。
例えば、矢口陽子(渡辺ツル)が、集団の先頭を歩いているところで、背後から誰かが「渡辺さんは、怒っているときは右肩がちょっとあがっているのよ。」と言い皆が笑い渡辺さんの後姿をカメラが映し出すところ。大変印象に残る絵だ。
また、バレーボールのシーンで、運動が苦手な娘が、サーブをする際にボールに向かって大きくお辞儀をするところ。皆が大笑いするのだが、この映画をもし「反戦映画」というなら、こういうところだとも思う。
それにしても、渡辺さんを演じた矢口陽子の存在感、見ただけて人間の大きさを感じさせるところがすごい。班長という役なのだが、存在自体で何も説明せずにそれを納得させてしまうところがある。後に黒澤の奥さんになるのだが、黒澤はそういう人間性で選んだようにも思える。黒澤の女性観が何となく伺える。
寮母役の入江たか子が大変美しい。菅井一郎もいい味を出していた。
女性工員の二人が喧嘩した後、一人が夜中に庭に出て月を見ていると妙な鳴き声が聞こえてギョッとするところもおかしかかった。昼間に狸が夜に出ると話題になっていたのが伏線になっている。しかし、それは喧嘩をした相手の女性工員の泣き声だった。二人はお互いに謝りあって、最後は二人とも泣き出してしまう。とても微笑ましいシーンだった。
posted by rukert | 映画

2012年09月18日

黒澤明「どですかでん」



色彩豊かなたくさんの電車の絵に囲まれて、六ちゃん(頭師佳孝)とその母親(菅井きん)が猛烈な勢いで南無妙法蓮華経を唱えている。
六ちゃんが母親を心配するが、実は六ちゃんの方が実に見えない電車を一日中運転している知的障害の子供だ。六ちゃんが架空の電車を運転するシーンが長々と映し出され、近所の子供たちが六ちゃんをバカににして石を投げつける。そのバックで武満徹の何ともいえない優しい素朴な音楽が流れだす。
そのようにしてこの映画は始まる。その間、特に何も起こらない。それまでのモノクロの「赤ひげ」までは、常に劇的な何かが起きていた。しかし、この映画では映像の持つ力だけで勝負しようとしている。
また、これが黒澤初のカラー作品だ。黒澤らしくカラーである事を徹底的に考えて、意図的に原色系を用いたり、独特の色彩感を明らかに生み出そうとしている。
この映画は後期黒澤の幕開けで、ストーリの展開ではなく映像の持つ力だけで表現しようとする後期の特質がはっきり出ている。「夢」や「まあだだよ」もそうだろう。
特に遺作の「まあだだよ」では、本当にもう何も劇的な事件はおきない。あれは多分夢の中で起きている事なのだ。内田百閧竰子の言う事は実は全然面白くも何ともない。しかし、皆が楽しそうに笑っている。あるいはどうでもいい事で喜んだり悲しんだり泣いたり
している。
しかし、退屈しながら見終えるとその映像イメージが不思議と無意識の深い部分に働きかけてくる。ある種の夢が現実以上に現実であるように。
「まあだだよ」は後期黒澤のある意味での究極の到達点だったのだと思う。この「どですかでん」にも、そういう映像だけが独立して持つ不思議な力があると思う。
その、一方で以前の黒澤映画のストーリー性もまだ失われていない。これは明らかに現代版の「どん底」である。社会の最底辺を生きる人間像ドラマが併行して次々に語られてゆく。そういう、物語としての面白さも決して欠けていない。
この、「どですかでん」は本質としては後期黒澤でありながら、前期黒澤の面白さも残している過渡的な作品である。そして、初のカラーの実験的な色彩。というわけで、この作品は何ともいえない個性を湛える素晴らしい作品になった。
題材が地味なので、当時興行的には完全に失敗したそうである。それも理解できる。しかし、現在の目で見ると大変レベルが高くて鑑賞に堪えるフィルムだと思う。

黒澤映画史上では、そのように位置づけられる作品である。ただ、個人的には私がこの作品を本当に好きなのは、映像面よりはその人間模様の描き方の方だ。
この映画には、六ちゃん親子を始めとして、本当に様々な人間が出でくる。無垢なもの、天使のようなもの、優しいもの、ろくでもないもの、サイテーな人間、健康的な人間、普通の人間、悟ったような人間・・。その誰かが主役というわけではない。集団の人間劇だ。「どん底」と同じ手法である。
そして、その善も悪も何もかもを黒澤はそのまま否定せずに受け入れて描いている。決して、善なるものたちを肯定して悪の者たちを
否定するのではなく、その全ての人間の業を大きく抱きとめているのだ。
黒澤は大変正義感が強い人だったようで、映画でもそれが表に出すぎて下手をすると勧善懲悪劇になりがちなところもあった。しかし、ここでの人間のあらゆるダメな部分に対してひっくるめて、突き放していて同時にあたたかい目が素晴らしいと思う。私はこの映画のそういう部分が大好きなのである。

頭師佳孝の六ちゃんは、文字通り世の中に何も役に立たない存在だけれども、ただとにかく生きているだけで素晴らしいという意味でこの映画の象徴である。彼が主役にクレジットされていながら実際は主役ではないのだが映画の本質では中心人物なのである。「赤ひげ」の天才子役が忘れられないが、ここでも架空の電車を運転ぶりが見事である。
その母親の菅井きんは、冒頭の南無妙法蓮華経の唱えっぷり、そして店先の「電車バカ」の子供の落書きを必死で消してヤケになったように天ぷらを揚げるところ。この映画の物悲しくてユーモラスな描き方の一例である。
絵描きの加藤和夫は、「生きものの記録」で、歯科医の志村喬の息子を演じていた人だそうで分からなかった。
伴淳三郎は、悪妻のことを同僚に罵られて怒るところが意表をついて良かった。
三波伸介の何とも心の優しい父親ぶりはなかなかハマっていた。子供たちとのやり取りが大変良い。
芥川比呂志は何もセリフもなくて、あの異常に絶望した目だけで全てを表現するというのもよかった。一度の浮気で奈良岡朋子を最後まで許そうとしないのは、ある意味冷酷なのだが、そういう人間像も黒澤はそのまま肯定しているのだ。
乞食の子供の天使ぶりと、父親のダメぶりの対比ぶりもよい。父親は、完全に現実から目をそらして想像の世界に逃避してしまっている。子供に食料の調達もやらせて、自分のせいで食中毒で苦しんでいるのに、子供の介抱もせずにうろたえるだけ、病院にも見せる事も片意地に拒んで結局子供を殺してしまう。
しかし、この最低な人間に対しても、たんばさんの口を借りて「強情?芯の弱いかわいそうな人だ」と言わせている。決して否定はしていないのだ。父親の三谷昇が実にイヤな感じだった。ちょっと本当に同情できないくらいに。
井川比佐志と田中邦衛と二人の女の生命力溢れる健全な?夫婦交換も面白かった。こんな人間も、一度の浮気の場面が忘れられない芥川比呂志も同時に描いてしまう映画なのである。
松村達雄の人間のクズぶりは素晴らしかった。こういうのをやらせると本当にうまい。「まあだだよ」よりも、こちらの方が断然よい。悪事が露見して大慌てで逃げるところを妻が何も言わずに黙っている演出もなかなか良い。
かつ子(山崎知子)の不思議な天使ぶりも印象に残る。
「生きものの記録」や「赤ひげ」でとても光る演技をしていた根岸明美も「渋皮のむけた女」という変な役で出ている。ここでもジーンズ姿でそのプロポーションをさらけ出しながら、「赤ひげ」同様の一人芝居を見せている。常に不思議な存在感がある人だ。
ジェリー藤尾、塩沢とき、二瓶正也も端役で出ている。
しかし、この映画で一番重要な役は、渡辺篤のたんばさんだと思う。クレジットでは他に混じって本当に後の方に出てくるのだが。
この最底辺の暮らしの中を、飄々とある種の悟りを開いたように静かに生きている。全てを肯定する黒澤の視点の代弁者だ。
泥棒が入ってくれば親切に金をわたす。先ほど述べた乞食の父親に対する深い人間洞察も然り。
ジェリー藤尾が泥酔して大暴れしているところにヒョッコリやってきて、「ちょっと代わろうかね、私が代わろう、一人じゃ骨折れるだろうからね。」と言う。ジェリー藤尾も呆気に取られてすっかり大人しくなる。まるで禅問答のようだ。
渡辺篤は黒澤映画の脇役で出演しつづけてきた名優である。新しい役者たちに混じっていると、やはり風格、品を感じさせる。酒場のオヤジのチョイ役で三井弘次も出てくるが、やはり役者としての格が違う。
そして、やはり名優の藤原釜足と渡辺篤の二人のシーンはさすがに素晴らしい。死にたくなった老人の藤原に渡辺が毒薬を飲ますが、死ぬのがイヤになった藤原が激しく渡辺を責めるところのおかしさ。昔の黒澤組の役者の素晴らしさが再現されていた。
そして、実は飲ませたのは単なる胃薬というオチ。とにかく生きていればいいというこの映画での黒澤のメッセージが、そこには集約されている。
この「どですかでん」も一般的な評価は低いが間違いなく黒澤の名作の一つだと思う。

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2012年09月17日

黒澤明「白痴」



私はこれが黒澤明の最高傑作だと思う。個人的に一番好きな作品だと言うにとどめようかとも思ったが、単なる趣味嗜好の問題で済ましたくないくらい圧倒される。今回改めて観て、ますますそういう印象を受けた。
いや、原節子の代表作だし(「東京物語」よりも)、森雅之が演じた最高の役だし(「浮雲」よりも)、三船敏郎の白眉の役(「七人の侍」よりも)と叫びたくなっている自分がいる。
但し、必ずしも一般的な評価は高くない映画である。人によって好き嫌いがハッキリ分かれるのも理解はできる。
冒頭からして実に魅力的だ。混雑した夜行船の中で男の異様な叫び声がきこえる、寝ていた乗客たちが目を覚まして何事かという様子をする、カメラの奥から亀田欽司(森雅之)が身を起こす。「ちぇっ、なんて声出しやがるんだ。」と三船の声。そして足だけ映っていた赤間伝吉(三船敏郎)が身を起こしてカメラに入ってくる。寸分のムダも隙もないカットである。
それにしても、この映画での森雅之は素晴らしい。いや、もう完全に「演技」の範疇など軽く超えてしまっている。
この原作ではドストエフースキーのムイシュキンは本当に演じるのが難しい役だ。完全に赤子のような純粋で澄みきった心の持ち主など、当然生身の大人の人間には存在しない。そして、森雅之は決して本来そういう純真な役をするタイプではないのだ。「浮雲」にしても、黒澤の「悪い奴ほどよく眠る」にしても、むしろ少しクセのある男をやらせるとうまいくらいだ。(ちなみに、黒澤が同じ役者に全く対極の役をやらせるパターンがここでも出ている。)
ところが、ここでは森雅之は本当に微塵もイヤなところを感じさせない純粋な人間に本当になりきっている。その目も物腰も喋り方も何もかも。
独特の両手を胸に当てるポーズが何とも印象的である。これが、実に役のキャラクターにあっている。黒澤の発明したポーズなのだろうか。
そして、目が本当に純粋というよりは何かを見ているようで何も見ていない一種虚ろな目。純粋であると同時に何か得たいの知れない無気味なものも感じさせる人間、それを目の演技だけで完全になしとげている。
小林秀雄が評論で、ドストエフスキーはムイシュキンで、純粋な人間ではあるが、底知れぬ暗部を内部に抱え込んでいる不気味な人間であり、単なる無知による善人でなく、人間の深い即知れぬ深淵を持つ存在を表現したかったという意味のことを述べている。ここでの森雅之は、純粋さだけではなく、そういう無気味さまで表現できていると思う。
いや、これも演技というよりは、本当に肉体的に深いレベルから変化してしまっているかのようだ。どうすけば、このような演技ではない演技が出来るのだろう。
(ちなみに、森雅之でこれと同系統の役としては溝口健二の「楊貴妃」の世間離れした玄宗皇帝というのがあった。)
那須妙子(原節子)はまず写真で登場する。札幌の街中に飾られた肖像写真を森と三船が見るシーン。森はその写真だけを見ただけで、原節子の本質を理解する。その写真の原の目がとんでもない。強烈な光を放っている。
この映画では、最初から最後まで原節子の「目」がすごいのだが、今述べたように森雅之の目も印象的だったし、三船敏郎が森に殺意を抱く目もクローズアップされていた。女の対決の場面での久我美子も然り。これは「目」の映画でもある。
そして、森雅之と原節子が香山家で出会う場面。森が玄関に出てきて驚いたように目を見開いて胸に手を当てて先をじっと見つめてテーマ音楽が流れる。その先に雪に手をはらう原節子の姿が。美しい。小津映画では見せなかった、いかにも気の強そうな「大人」のオーラが最初から出ている。二人の視線をカメラが往復して捉えて、原が一体何を見ているのかという様子で玄関の外をみやる。
といった調子で全シーンを語りたい。この映画は。ここでも、いきなり原節子と千石規子がにらみ合うシーンが。本当にメンチをきりあうのが極端に多い映画である。
それにしても、原節子の冷然として傲慢な様子、気品と言ったら。本当に恐ろしい。笑い声まで野卑で品がない。でも美しい。その原の圧倒的な存在感。そして、森が殴られてからまたしても原と見詰めあうシーン。
もうこれだけでお腹一杯である。しかし、すぐさま夜の東畑邸の圧倒的な名場面が続くのだ。この、香山家と東畑邸のところは本当に好きで好きで仕方がない。
原節子が花瓶を見つめる恐ろしい目。花瓶をなぎ倒す凶暴な狂気。そして、またしても森と原が正面から見詰めあうのをカメラが横から映し出す。以下、原のこわい目、涙、こわい笑い声。もう理屈ぬきである。二人が何度目か分からないくらい正対して立って見詰めあうところで、三船の一行の中の一人の女が驚いたように森の顔をのぞきこむところが妙に印象的だった。
とにかく、この一連の場面での原節子と森雅之はすごすぎる。どんな恋愛映画でも、二人がこんなに何度も何度も真正面から向き合って見詰め合うのも本当に珍しいだろう。
このシーンはずっと感動しっぱなして観てしまうのだが、原節子が燃え残った現金を香山の上に乗せて「よござんすか」と啖呵をきるところはヤクザ映画の女のようて、ちょっと笑ってしまった。
さすがの三船敏郎も、前半部分では森と原がすごすきて、添え物的にも見えてしまう。しかし、後半に入って三船と森が会話する辺りから断然存在感を発揮してくる。
特に三船の母親のところへ二人でいくシーンがよい。母親は信心深くてすでにボケてしまっている。三船がウィンクするところのかわいこと。いや、三船というより、ここでの赤間伝吉も本当は心が純粋そのものとという設定で、それがあの恐ろしくも素晴らしいラストにつながってゆく。
あまり笑わない三船が笑うと大変魅力的だ。そう言えば、「野良犬」で志村刑事宅で、志村のつまらないジョークに人のいい笑いを見せるところも何とも印象的だった。
そして、先述したように森を三船のすごい「目」がつきまとう。
原節子と久我美子の対面のシーン。会う前には原節子が、久我を天使のように思っていて「会うのがこわい」と言って澄み切った目で不安そうな様子をみせる。黒いコート姿が本当に美しい。(度々美しいと言って申し訳ない。でも美しいのだ。正直この映画の原節子を私は愛しているのだ。よく言う。)
そして、久我本人が現れるとこわいものでも見るように何も見逃すまいとまじまじと見つめる。そして、久我が笑顔で原を見つめようとするが、目が合った瞬間に笑顔が消えて、久我も原をにらみ返す。「女が女を理解した。」瞬間である。
もはや、二人の間には憎悪しかない。原が久我を見つめる目、表情の恐ろしいことといったらない。そして、二人が正面衝突に至る。久我美子は、正直全体的には三人と比べるとかなり物足りないのだけれども、この場面でのヒール的役割ということではよくやっているかもしれない。原の「こんな焼きもち焼きのお嬢さんを、天使か何かのように想像していたんですからね」のセリフが何とも印象的。
そして、この場面で原節子が、一度は森雅之を心配しながら、気を変えて久我美子と勝負しようとする狂気じみた様子。原節子のこの尋常ではないテンションの高さは一体何なのだろう。本当に素晴らしい。
しかし、何と言っても最後の晩の三船敏郎と森雅之が、映画の映像としては最高である。蝋燭の火の照明で、二人の様子が様々な陰影と角度で映し出される。
三船の顔と様子が、どんどん子供に戻ってゆく恐ろしさ。状況を森と三船に会話させて解説してしまうのが見船らしいところだが、最後は言葉など必要ない映像に収斂する。
三船の正気を失ったところの本当に少年のような顔と澄みきった目が忘れられない。これも、完全に演技など超えてしまっている。森が三船の顔を、子供に対するようにさする。そして、その森のもはや人間とはいえない呆然とした無心の表情。背後では鐘の音が鳴り続ける。

久我美子も、三人と並んで重要な役である。勝気で我儘な若い女の感じは良く出ている。特に、原節子との対面の場面での演技はよかった。しかし、役柄的には、それがそのままかわいくて美しくて純真に感じられなければいけないはずだが、単に勝気なところが勝ってしまっているように感じる。他の三人と比べては酷かもしれないが。ただ、これは女性の個人的趣味も関係しているのかもしれない。久我美子ファンには怒られしまうか。
脇では、香山睦郎の千秋実が素晴らしい。卑劣で小心な男の感じが良く出ていた。特に東畑家の夜会で、現金が燃えるところで意地をはって我慢するところ。
志村喬は、実はすごく難しい役で志村にしては珍しくキャラクターがかたまりきっていないような気もする。東畑家の夜会の場面で、亀田の財産の告白をするところは、志村らしかった。
ドストエフスキー原作だけに、家庭での会話が全然日本らしくない。そして、東山千栄子
は、いかにも無理して喋っている感じがしてしまう。「東京物語」のイメージが強すぎるのかも知れないが。
柳永二郎の東畑の原に未練タラタラのスケベオヤジぶりもハマっていて見事だった。
なお、原作と映画の比較、関係については昔に書いた事がある。

MONOGUSA blog 原節子のナスターシャ・フィリポヴナーーードストエフスキーと黒澤明の「白痴」

それにしても、オリジナルの四時間半が観たい。何とかならないだろうか。

この映画のテーマである、純真で汚れがない子供のような心というのは、黒澤映画で何度も何度も繰り返し出てくるテーマである。
デビュー作の「姿三四郎」から遺作の「まあだだよ」に至るまで。「生きる」もそうだし、言い出したら全てそうだ。全然そうは思えないような「生きものの記録」も実はそうだと思う。
そのテーマを一番ストレートに取り上げた本作が傑作にならないわけがない。
posted by rukert | 映画

2012年09月15日

黒澤明「續姿三四郎」



「姿三四郎」がヒットしたために続編が作られる事になったが、黒澤は乗り気でなかったそうである。
しかし、第一作からたった二年しか経っていないのにもかかわらず、演出方法が大変大胆になっていて面白い。第一作はわりと普通の武術映画だったが、こちらでは随所にユーモアが散りばめられている。
黒澤も無理矢理つくらされただけに、好きなようにつくろうと思ったのだろうか。見ようによっては、ほとんどコメディ映画だ。まるで、黒澤自身が「姿三四郎」のパロディを撮ったのかのように。黒澤映画の中でも隠れた名品だと思う。
但し、決して黒澤は映画をテキトーにつくったのでなく、WOWOW解説によると、最後の雪山の決闘シーンは、志賀高原で役者、スタッフが毎日山道を三時間歩いて撮影したそうである。まさしく命がけだ。
ここでは、藤田のあの何とも言えない笑顔を、完全にトレードマークにして何度も何度も用いているそして、最後の決闘の後のシーンでも重要なモチーフにしている。また、その笑顔が何とも言えず人がいいのだ。
月形龍之介(檜垣鉄心)と河野秋武(檜垣源三郎)のコンビも、かなり突飛なキャラクターで少し漫画チックである。
例えば、藤田が道場で禁則を破って酒を飲んでいるところに、大河内がやってきて、酒瓶に対して柔道の技を次々にかけて藤田をヤキモキさせておいて、さて寝るかと見てみぬふれをするところ。石田鉱(左文字大三郎)が柔道に入門してから、時系列の彼の絵を編集で重ねて次々に写してその成長を表現するところ。
月形龍之介が一人二役で、前作で姿に負けた檜垣源之助も演じているのだが、すっかり人が変わって改心して姿三四郎としみじみ語り合う。ここら辺も後年の黒澤流ヒューマニズムの走りである。
そして、その檜垣源之助を姿三四郎が人力車で送ろうとするところに、桧垣がかつて愛し今は姿と微妙な仲の轟夕起子が偶然通りかかって、三人の視線がバチバチと交錯するところ。あまりに劇的で同時にちょっと笑ってしまう黒澤的演出である。
そして、姿三四郎がボクシングのアメリカ人を倒すシーン。アメリカ人の聴衆も日本人の聴衆も、ついでに音楽隊のメンバーもかたまってしまうシーンは完全に意識して撮ったコメディだ。菅井一郎が実にいい味を出していた。小津の「麦秋」とは全然違う演技で、芸域の広い人である。
細かいところだが、アメリカ人のレフェリーが姿の手をあげて勝利者宣言しようとするところで、姿が意味が分からずに抵抗するところもおかしかった。
高堂国典の和尚と姿が夜中に座禅するところもおかしい。特に映画後半は名演出の連続で、真面目なシーンの中に常にユーモアもしのびこませていた。
藤田進と轟夕起子が決闘前に会うシーンで、藤田が何度も振り向いて、そのたびに轟がお辞儀する撮り方も面白かった。
藤田と同門で、森雅之や宮口精二もチョイ役で登場している。森はあの声と喋り方だけはこの頃から全く変わらない。
月形龍之介と河野秋武が、最後に「負けた」「負けた」と笑顔を見せるところもよかった。河野秋武は「わが青春に悔いなし」の卑劣な男が忘れられないが、キャラの強い人である。
黒澤がかなり自由に大胆に好きなように演出していて、なかなかこれだけのものは後年の黒澤映画でも見られないと思う。
posted by rukert | 映画

黒澤明「姿三四郎」



姿三四郎(藤田進)のことを、師匠の矢野正五郎(大河内傳次郎)が「アイツはいつまでたっても赤ん坊みたいなヤツだからな。」といって笑う。
最近、黒澤映画を続けて見たり書いたりしていて、その登場人物が子供のような純真な心の持ち主というテーマが何度も繰り返し出てくるのを感じていたが、この黒澤の処女作からして姿三四郎はそういう人間の典型である。
遺作の「まあだだよ」の内田百閧烽サうだった。あるいは、「生きる」の志村喬演じる市民課長も死を覚悟する事で人間らしい純粋な心を取り戻す。そして、言うまでもなくそうした人物像は全て黒澤自身の投影像なのだろう。
それにしても、藤田進の姿三四郎がハマリ役過ぎる。藤田という役者は、なんとも大らかで真っ直ぐな人間性を感じさせて、姿三四郎の役のイメージにピタリと合致している。特にいかにも人のよい笑顔が印象的だ。「用心棒」では、出入りを避けてサッサと逃げ出す用心棒の役だったが、その際に三船に向けてニッコリと笑うところなども印象的だった。
柔道がもきちんとした精神修養を含めた武術
だった時代の話で、現在の審判の判定に左右される滑稽なスポーツとはえらい違いだ。古い映画なので、さすがに時代を感じさせるのだが、藤田や大河内や志村喬の演じる武術家像は今見ても大変魅力的だ。むしろ新鮮である。
志村喬は当時38歳で、いきなり老け役である。しかし、完全になりきっていて、とてもそんな実年齢には見えない。さすがである。
また、戦後の作品では完全なお爺さん役のイメージが強い高堂国典が住職の役だが若くて驚く。当然だろうが。
大河内傳次郎は、大変威厳や品格のある役者だが、この人はちょっとカツゼツが悪く、録音状態が古くて悪いのでセリフを聞き取りにくいところがある。
月形龍之介も、また大変強烈な個性の役者で、この作品の中では蛇のようなイヤな男という設定なのだが、現代の悪役と比べると、むしろその品の良さを感じてしまう。
轟夕起子も、この時代らしい美女で大変かわしらしい。
映画の演出としては、花井蘭子のお澄が、父親を投げ殺されて姿三四郎をじっと見つめ続けるシーンが印象的。結構長い時間見つめるシーンが映し出され続けていた。今となってはシンプルな演出だけれども、後年の黒澤的な演出の萌芽を感じさせるところである。
ただ、この映画は戦時中の混乱で紛失された部分があり、また細かいところでもコマとびも結構ある。特に、花井蘭子が父の敵として姿のもとに乗り込んで対面するシーンが失われているようなのは残念だった。
それと、藤田進が大河内に怒られて庭の池に飛び込むシーンも印象的。姿三四郎が、池に咲いている白い花を見て、ハッと悟って師匠に詫びを入れて許される。その白い花のイメージは、最後の決闘のシーンでなど何度も挿入される。
この花のイメージも、やはり今となってはシンプルで少し古い演出だけれども、とても黒澤らしい。
藤田進が対戦相手の志村喬の娘の轟夕起子に心を乱されて戦いに集中できないと悩むシーンで、和尚の高堂国典が、あの池の白い花を見た時の無心を思い出せば戦えるぞと一喝して、藤田は我に返り戦う決意をかためる。
この、無心の純粋な境地というのは、黒澤の重要なテーマで、例えば「生きる」の志村喬もそういう人間像だった。ただ、「生きる」の場合は、白い花ではなく自身の死の覚悟がその「悟り」のキッカケだったが。
posted by rukert | 映画

2012年09月14日

黒澤明「野良犬」



黒澤初期の刑事ものだが、結構過激な演出も目立つ。「生きる」のことを書いた際にも紹介したがマルセ太郎の言うように、あまりに真面目で真剣すぎでかえって笑ってしまうところがある。
淡路惠子が、木村功に貰った服を三船敏郎に着てみろといわれて、意地になって着てクルクル回りながら「楽しいわ、楽しいわ」という。背景では稲妻がとどろいている。
このシーンは、初めてみた時にも笑ってしまった。あまりにも表現主義的すぎるのだ。でも、決してバカにしているのではない。この時期の黒澤映画のエネルギーはあまりにも過剰なので、それが笑いに転じてしまうのだ。この時期の黒澤映画の愛すべきところである。
ラストの三船が木村を追跡して格闘するシーンも劇的なつくりである。朝靄の中を二人が草むらの中を走るところは素晴らしい。何となくだが、ワイダの「灰とダイヤモンド」を連想してしまった。
但し、そのバックでピアノの平和な音楽を流したり登校する子供達がのどかに合唱するのは、画面の緊迫と対比する黒澤流の「対位法」だそうだが、これもちょっとわざとらしくて笑ってしまう。
逮捕された木村功が号泣するところも大変激しいシーンである。基本的には、私はこういう黒澤流の演出が好きなのだ。真面目な顔して見ないでニヤニヤしながらも感動して見ている。
ここでの三船は、いかにも三船らしい役柄でピッタリはまっている。志村喬は老練で人間味のある刑事で、いつものように見事になりきっている。後年のテレビの刑事ものベテランデカの原型である。
それと、この映画はちょっとしたキャラクターやシーンも、実によく練って丁寧に撮られていて黒澤流のこだわりがこの映画あたりから本格的に出てきていると思う。そのせいか、端役もすごく印象に残る映画だ。
スリの女の岸輝子と三船の追跡劇と、最後に岸が三船の執念に根をあげて食事とビールをおごるところもなかなかいい。この岸というのもなかなか個性的な顔と雰囲気の女優だ。
千石規子のピストル屋のヒモも、個性にあっていて、特に志村喬とアイスをなめて笑いあうしーんとかよかった。真面目一方の三船刑事と違って志村がいかにも経験豊富な刑事であることが、あの登場シーンで一発で伝わってくる。
千秋實が珍しく色男のようだったり、生方明が女たらしのいやらしいボーイをしたり、清水将夫が被害者の夫の心境を劇的に吐露したり、端役でもちゃんと見せ場が出来ている。他にもあげればキリがないが、有名俳優が次々にチョイ役で登場して、それを見ているだけで楽しい。
淡路景子は、この作品のイメージも強いが、「男はつらいよ 知床慕情」でほぼ40年後に三船敏郎の恋人役として再会する。どちらかというと、女性としては後年の「男はつらいよ」の方が魅力的だったかもしれない。

posted by rukert | 映画

2012年09月13日

黒澤明「まあだだよ」



愛猫のノラがいなくなって、内田百(松村達雄)は、すっかり意気阻喪して何も手につかなくなり食べる事も寝る事も出来なくなる。教え子たちが共同して猫探しをし学校でのビラまきなどをして近所の人間に知れ渡るところとなる。
現実主義的な視点から考えるとバカバカしい話だ。単なる老人の我がままにも思える。一匹の猫などよりよほど大変な人間がたくさんいるというのに。そう言われかねないだろう。
教え子の高山(井川比佐志)が、こんなことを言う。
「先生はオレたちとは違うんだよ。その感受性も想像力もオレたちとはまるで違う。どこにいるか分からないノラのことを考えると、その様子が細かいところまで目に浮かぶ。だから、たまらなくなるんだ。」
これは、恐らく黒澤明自身のことを言っているのに違いない。理屈のレベルではなく実感として色々なものが見えたり感じたりしてしまう人間。
「生きものの記録」の老人もそうだ。あの老人の原爆恐怖症は理屈ではない。その恐ろしさが「細かいところまで目に浮かぶ」のだ。
それは単なる特殊な体質をもつ人間の問題に過ぎないのだろうか。普通の一般的な人間は、想像力に欠けている。現実的に余計なことは考えない。しかし、それは実は現実をありのままにみているということではない。自分が見たくないことから意図的に目をそらすと言う事だ。そうでもしないと、この世を正気で生きていくのは不可能だから。
しかし、本物の想像力を持つ人間は本当の現実から目をそらす事が出来ない。ほとんど肉体的、生理的なレベルで。そして、黒澤の想像力の正しさが311で不幸な事に実現してしまった。
普通の人間は実際に事が起きてからうろたえる。こんな事は起こるわけはなかったと。だが、事実の可能性ををその想像力で直視していた人間にはリアルに見えていた。
このノラのエピソードは単なる猫の話ではないのだ。多分現在の我々に致命的に欠けているのは、人間本来の素直で子供のような想像力である。それが欠如しているために、現実主義の名の下にありのままの現実を直視することが出来ない。
内田百閧ヘ、この映画でずっと子供のような人物として描かれ続ける。それも、まさしく黒澤自身の姿に違いない。黒澤映画を見ていて感じるのは―その初期からこの遺作の「まあだだよ」に至るまで―子供のような純真な目なのである。
しかし、とは言ってもノラの話は単なる一匹の猫の話に過ぎない。そんなことに周りの人間、大人たちを巻き込んだりして単に迷惑ではないか。
新しい猫が見つかり、やっと内田百閧ェ落ち着いて教え子たちと酒を飲むシーンで、内田が因幡の白兎の歌を歌いはじめる。そして白兎を救う大黒様についてこんなことを語る。
「大黒様は誰だろう。大黒様は誰でもない、キミたちだよ。いや、ノラのことで、あたしに親切な手紙をくれた人、電話をしてくれた人、あたしと一緒にノラのことを心配してくれた人、大黒様はその人たちだ。『大きな袋を肩にかけぇー(歌う)』大黒様のその大きな袋には、優しい心がいっぱいつまっているんだ。その心があたしを助けてくれたんだ。」
内田百閧フ子供のような心に、一般の人たちの心が反応する。多分「しょうがねぇなぁ」とかいいながら、その心の純真さにウソがないのを感じ取って、自分たちの中に眠っている子供の心が目を覚ます。
ノラ一匹のことより、その事の方が余程大切だ。内田百閧フような人物は現実的にはそんなに役立たなくても必要な人間である。多分黒澤もそういう人間だった。
但し、集まってくるのは善意だけではない。イタズラ電話をかけてきて、「とっくに三味線にされたされたぞ」と言って三味線まで鳴らす人間もいる。さて、現代ではどちらの反応が優勢なのだろうか。
この映画は、感覚的にはかなり現代の感覚とはずれている。その独特な感覚のカラーの映像美や、宴会の場面の雰囲気の巧みな描写構成を楽しみつつも、私自身も結構退屈しながら見続けた。
しかし、ラストで内田百閧フ少年時代の夢の場面になって、ハリウッドから輸入した「サイレント・フロスト」というコンピュータ制御のシステムによる、人工的だが妙に美しい夕焼け空が画面に流れて終ると、この映画全体の醸し出す余韻にひたっている自分に気づく。特に映画では何も起こらなかったのに、波乱万丈の映画を見た後のような感覚に陥るのだ。
それは、映画の中で起きる出来事の力ではなく、映像自体の持つ力によるものだ。最後は夢のシーンだが、この映画全体が大変リアルな夢である。静かで退屈だけれども、イメージの印象が心の深層に妙に滲みこんでくる。そういう不思議な映画だ。最後に見事な「夢」―静かな白鳥の歌―をつくることに黒澤は成功した。
posted by rukert | 映画

2012年09月12日

黒澤明「静かなる決闘」



「酔いどれ天使」に続く三船主演作。外科医が梅毒に感染して人知れず苦労するという話。
三船が前作のヤクザとは対照的な知的で良心的な医師の役である。黒澤は同じ役者に全く違うタイプの役をさせるのが好きだが、三船にもいきなりそれを求めている。
三船自体は抑制した演技で基本的にうまく応えていると思う。三船は地のキャラクターが強烈過ぎるのでも何をやってもミフネになってしまうが、実は各役を器用に的確に演じ分ける。
但し、ここでの役は、梅毒のもつ重みとか男女関係の価値観があまりに現代と違いすぎるので正直言って共感しにくい。
溝口のような長まわしで三船が心中を激白するシーンも、セリフの内容があまりに生真面目で古い価値観なので、三船の演技の迫力はすごいと思いながらも、なかなか入り込めないところがある。黒澤自身もこのシーンには「身を震わせるほど感動した」そうだが。
志村喬は三船の父親の医師で、上品な人物の役。「酔いどれ天使」や「醜聞」とは全然違うが、やはり見事になりきっている。
三船の場合は地をいかしながら実は知的に役を構成し、志村の方は完全に役のキャラクターにそのまま成りきるタイプだったような気がする。
大映で撮った作品なので、その専属の役者も登場する。三船の恋人役の三條美紀も大変綺麗な女優さんだが、演技に少し古さも感じさせたりする。
梅毒の男の植村謙二郎も、やはり大映専属だそうで、なかなかアクの強い役者さんだった。
中北千枝子が梅毒をうつされる妻の役で、「酔いどれ天使」よりは、「らしい」役だった。すごくフツーな感じが貴重で、成瀬映画などにも多用されたのだろう。
しかし、この映画は何といっても千石規子である。アンニュイでだらしない感じの不思議な雰囲気を醸し出すのだが、存在感が強烈で三船や志村と対峙しても一歩もひけを取らない。
三船の激白するシーンでも、感極まって泣き出すところの表情と泣きっぷりの凄まじさ。先ほど言ったとおりに、三船のセリフに今ひとつ感情移入出来ないのだが、この千石のほとんど原始的な泣き方にはすっかりやられた。
この千石という人は、その様々な感情がものすごく素直に表に出てくる役者で、それが端的に表現されたシーンだった。
そして、三船に梅毒でもいいから女になりたいと告白するシーンもよい。三船は「それは自己犠牲かい」とか言って、冷静に戻るのだが。
また、植村謙二郎が死んだ胎児を見て正気を失うシーンで、千石が廊下の奥から歩み寄って驚くシーンもなかなか映画的でよかった。
ラスト近くでは、千石が中北相手に梅毒治療について励ましながら、それが同時に三船への思いの告白になっているシーンがある。
当初の不良じみたメイクや格好とは対照的にサッパリした表情である。千石の場合は、前半の拗ねている娘の方がハマっているところもあるのだが、その変身ぶりもなかなか見事だった。
映画はそこで終るが、三船と千石のその後がどうなったか、大いに気になるところである。ここはハッピーエンドを見る人間が勝手に想像してもよいところだろう。

posted by rukert | 映画
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