2010年04月19日

村上春樹「1Q84 BOOK3」断片的感想

(以下ネタバレで書いているのでご注意ください。)



あらゆる要素が宙吊りのまま、全ての読者は未完成感の欲求不満に晒されずにはいられなかったBOOK1・2。3では読者にお望みの結末がもたらされ、問題は全て解決される。まるで作者が裏の裏をかいたかのようにストレートに。しかし、この大円団を迎えるBOOK3を読了して逆に痛感するのは、実はBOOK1と2で小宇宙としてパーフェクトに完結した作品だったということだ。青豆と天吾は、結局めぐり合えないままである。青豆は自殺してしまう。天吾は空気さなぎの中に10歳の少女の青豆の強烈なイメージを観る。二人が少年少女時代に、一瞬だけ心が通い合う。それは一瞬だけだが、永遠に通じていた。これ以上完璧なラブストーリはありえないだろう。それと比べると、BOOK3の結末は、余りに通俗的である。作者は、BOOK1・2では満足できない読者のためにBOOK3を書きながらも、実は物語が完結していたことを読者に異議申し立てしたかったのではないだろうか。

1Q84は、通常の論理が通用しない世界である。月が二つ見えるし、リトル・ピープルが日常世界に侵食している。青豆と天吾は、その世界から元の世界に帰還する。BOOK3は、空想世界から現実世界への帰還の物語でもある。ふたりは現実世界に戻ると、人間らしいセックスをして、二人で唯一つしかない月を眺める。1Q84では天吾とふかえりが、宗教的な儀式としてのセックスをしていたのとは対照的に。しかし、二人の間には1Q84て青豆が、リーターやふかえりや神聖な力歩を借りて処女懐胎した子供を連れ帰ってきている。青豆は、ガソリンスタンドの虎の向きがかつてと同じだったか確信をもてない。その意味では、完全に1Q84と縁を切ったわけでもなく、元の現実世界への帰還でもない。だから、完結編に思えるBOOK3の後にBOOK4が書かれても驚きはしない。恐らく作者が本当に1Q84の問題と直面する覚悟ができた時に続編は書かれるはずだ。

まさか牛河が第三の要素としてピックアップされるとは誰しも考えなかっただろう。二人の愛を妨害する要素として、物語に緊張感をもたらすために、或いは進行上の役割を与えられて。しかし、そういう物語構成要素として以外に、牛河は徹底的に世界から阻害されて行き続けざるをえない存在である。もっとも1Q84らしい人間ともいえる。牛河は、二人のように愛によって救われることもなく、悲惨な死を遂げる。しかし、リトル・ピープルが彼の死の際に訪れる。青豆と天吾のような救われ方はしないが、牛河も世界を孤独に自力だけで生きようとした点では青豆や天吾の同志である。

作者にとって、1Q84の世界は一体何だったのか。単なる幻想的で現実世界から一本ねじが欠けた欠陥のある世界だったのだろうか。1Q84では、現実世界に他界が干渉している。リトルピープル的なものが常に目に見えないところで、現実世界にメッセージを伝えようとしているし、さきがけのリーダーやふかえりのようなシャーマンも大きな力を発揮している。「ねこの街」も他界の象徴の一つだろう。作者は、そういう世界を否定して、BOOK3で現実世界への帰還、覚醒の物語を書きたかっただけなのだろうか。
しかし、青豆は1Q84の限界状況で一種の信仰告白をしている。処女懐胎も素直に直感的に受け入れる。彼女を支える天吾も同様である。現在の現実世界には、そのような要素は決定的に欠落している。青豆も天吾も1Q84で、ある種決定的な「他界」経験をすることで、初めて現実世界への帰還が許され、本当の意味で生きてゆくことが可能になった。作者にとって、1Q84のような「他界」は恐らく単なる幻想世界ではないはずだ。現実の生と同じくらいリアルで、なおかつ逆にのような「他界」がなければ現実の世界を生きることが不可能な切実な存在であるはずだ。しかし、人間はそのような「他界」だけに浸って生きていると転落して自らの生を見失う。現在決定的に見失われている「他界」をリアルに実感しながら、そこに溺れずに現実の生を地に足をつけて真摯に来き抜くこと、そんな素朴きわまりないメッセージがこの本のテーマだと私は考える。別に村上春樹がはじめて言ったことなんかじゃない、日本の伝統的な文学が常に語りかけ続けていたことに過ぎないのだ。



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2010年01月14日

岡本太郎の本 1 呪術誕生



岡本太郎の芸術論、若き日のパリ時代の思い出、母かの子の子供時代の追憶などが収録されている。
岡本の芸術観は「対極主義」という言葉で要約されるのだが、どちらかというと理論的な正確なものというより、彼の生き方そのままの矛盾を矛盾としてそまま受け入れて突き進もうとする姿勢の実践的表現である。
絵画的には、抽象的要素だけを追求する集団にパリでは身をおきながらも、そのなかに具体的要素を描き入れたいというほとんど本能的ともいえる欲求から会派を離脱して抽象かつ具象という岡本世界を追求していくことになる。もともと岡本が子供の頃に描いた絵がまさしくそういうもので、海外で出版された岡本画集の冒頭にそれが掲載されたこともあったという。
岡本のパリ時代の話は当然面白い。カンディンスキーといっ大御所も属するグループに最年少の身で所属する栄誉を得て、彼らと日常的に付き合ったという。とても民主的な会だった一方、いったん利害関係が絡むと日本人には想像できなくなるくらい冷酷になる彼らのやり方などを赤裸々に紹介している。単に外国芸術家に憧れる日本人という立場でなく、冷静に観察して書いている。
また、岡本はパリでは絵画だけでなく、社会学を学ぶために大学に通ったそうである。それをきっかけとしてバタイユと知り合い、個人的に付き合い深く共感しあうとこけろがあったという。簡単に言うけど凄いことだ。
しかし、何といっても岡本流の人を食ったエピソードが面白い。エジプトのツタンカーメンの墓を見てその「いやったらしさ」(岡本流の賛辞表現)に感動して、当地のマスコミに「エジプト芸術はそのいやったらしさが素晴らしい」とか一席ぶったそうである。記者も驚いただろうが、話をよく聴いた末に納得して帰ったそうである。そして翌朝の新聞に「日本のアヴァンギャルド画家、オカモト、エジプト芸術にたいし新説をはく」とのったそうな。
母岡本かの子の想い出も面白い。一般のゆったりとした叡智に満ちた大母性のイメージとは異なり、実際は余りにも傷つきやすいもろいむきだしの童女のような存在だったそうである。
とにかく岡本太郎というと、かつてタモリの「今夜は最高」などにも登場して奇矯な芸術オヤジのイメージが世間的に振りまかれたし、こうして本に書かれていることも相当変わっていて面白すぎるわけだが、根底のところではごくごくまっとうでまっすぐな人間という印象が読んでいてどんどん強まった。
なんとなく急に岡本太郎を集中的に読みたくなったのだが、今こそ日本人に読まれるべき人という気がする。
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2009年07月06日

村上春樹「1Q84」読書メモ

(注意 ネタバレで書いています)




あのラストを読んだら、誰しも色々考えざるをえないだろう。考えさせるためのラストともいえる。読了から二日ほど立つが、いまだによく考えがまとまっていない。とりあえずの読書メモ。

かつてオウム真理教のポアという教義が問題になった。間違いを犯している(に特に限らないが)人間を、悟りを開いた人間が死の世界に魂を移行させて、苦しむ者の魂を救済するという教義。そもそも、死後の世界があるのかということを一度カッコに入れるにしても、普通の人間にすれば、宗教の勝手きわまりない行為、単なる殺人行為でしかない。それに対して、カルト側は、間違った生を送っている人間を救済する行為だと言い張る。実際問題としては、そんなカルトの主張などとりあうだけ無駄といってしまえばそれまである。しかし、一応形式論理上だけで言うと、両者の主張は平行論をたどる。だから、さらに仮定として(あくまで仮定として)、宗教側がいっていることが正しいとしたらどうなるのか。もし、人の魂を本当に救うとしても、勝手に人の生を人間が取り扱っても良いのか。そこまで来て、答えははっきりする。ノーであどんなに聖者に近いとしても、人間は人間である。人間が、勝手に他の人間の運命に介入する権利はない。それこそ「なぜ人は人を殺してはいけないのか」に対する根本的な理由だと思う。宗教的な思考の深みにはまっていくと、それがたとえカルト教団による思考でないにしても、「常識」が失われる恐れがある。しかし、結局人間の現実的な「常識」というものは実はギリギリのところでも通用するものなのである。むしろ。怪しげな宗教的な思考に対抗するためには、ごくごく素朴な「常識」のほうが、高度な思想などよりも、よほど有効なのである。
青豆は、家庭内暴力を振るう男たちを殺している。青豆と考え方を共有する老婦人の協力を得て。読者は、彼らの行為に共感せずにはいられないだろう。弱い立場の女性を虐待する虫けらのような男たちは、処罰を受け報いを得るのが当然だと。しかし、先ほど言ったように、それでも人は人を殺してはいけない。最悪な暴力男たちわ罰するのならば、他の方法を探らなければならない。それが常識である。無論、現実問題として、法律や社会が、そういう心を病んだ男たちをきちんと監視しきれていないということはある。病的な男たちは、もし野放しになれば、何度でも犯行を繰り返し、被害者が増え続ける。だから、青豆と老婦人は、彼らを殺しているのである。
しかし、それでも人間が人間を殺す権利はない。裁かれる人間がどんなに卑劣で生きる価値のない存在だとしても、青豆たちのしていることは、結果的にはオウム真理教と変わらない。青豆たちの行為が、心からの善意、というよりは正義感使命感により、オウムの行為が単なる狂信によるという違いはあるにしても。
青豆結局自殺する。なぜ、と我々読者は思う。なんとしても天吾と会おうとするべきではないか、そういてリーダーを殺したのを最後に殺人行為をやめて、新たに生き直すべきではないのか。あるいは、罪を告白して罰を受けるのも良い。しかし、そうはならない。青豆は自ら死を選ぶ。
青豆が「リーターー」を殺すのは、天吾を救うためである。だから、その任務が終わり、自分が天吾を心から愛しているという事実さえあるのならば、もう自分で命を絶っても構わない。そういう意味では、筋が通っている。しかし、別のハッピーエンドでなく、青豆に自殺させた作者の意図はどこにあるのだろうか。小説としての悲劇的な美しい側面が欲しかったからだろうか。そんな浅はかなものではあるまい。私には作者の意図はよく分からない、ただ、作者の意図というのは、単に意識的なものにはとどまらない。意図的にこうすべきと考えるのとは別な深い無意識の力が働いているはずである。優れた小説には必ず起こることだ。
結局、青豆は、人を殺し続けたということに対する深い意識が働いていたのだと思う。表面的な意識では、自分の行為の正しさを確信しながらも、その本質的な過ちを理解していた。それは、「リーダー」という自分が殺されることを承知している人物を殺すというギリギリの状況で、自分の行為の深い意味を考えさせられずにはいられないということも関係するだろう。だから、青豆は自分で自分の死を選んだ。天吾を愛していたということだけを唯一の救いとして。読者は、青豆の生い立ちやおかれた環境や天吾との関係を考えれば、胸を痛めずにはいられない。当然の事だ。青豆を読者として個人的には、徹底的に哀悼する。しかし、青豆の自殺はストーリーとしては「正しい」。作者がどの程度意識して書いているのかは、一切不明なのだが。

この小説で私が一番気に入ったのは、最初のあたりで青豆が中年男性を誘って、というよりは強引に説得してセックスをする場面である。あの場面は、本当に小説として秀逸だと思う。ただ、勿論小説的な中心場面ではない。中心場面は、おそらく青豆がリーターと対面して殺す場面である。あれは、村上春樹による「カラマーゾフの大審問官の場面」なのだと思う。
パッシヴァとレシーヴァという難解な概念。そして、リトルピープル。ふかえりと天吾は、コンビを組むことで、反リトルピーブル的な力を発揮しているのだという。表面的な読みをすると、リトルピーブル=悪、ふかえり天吾=善とも取れる。しかし、恐らくそうではないのだと思う。リトルピープル的なものの力は、普段は人間が生きる世界には届いていない。それを、仲介する人間が現れた時だけ、人間の世界に届き、とんでもない力を発揮する。そして、多くの人間、特に心に弱点をもつ人間の生を軽々と破壊する。
しかし、ふかえりや天吾や青豆のような「何か」を自分の中に持っている人間には、リトルピープル的な力は一切手出しをすることが出来ない。つまり、リトルピープル的なものというのは、本来「別世界」に属するものなのだ。
一方、どんなにくだらない弱い人間であっても、とにかく全ての人間は「この世界」を生きている。少なくとも死ぬまではそうだ。だからこそ、人間の生は尊い。どんなに優れた聖人も、クズのような人間も、等しく各人の生を生き抜く。ところが、そこに間違った手段により「別の世界」の力が介入した場合にはどうなるか。其の場合、人間の自由は奪われる。弱点をもつ人間は「別の世界」の力によって破滅する。リトルピープル的な力というのは、決して「悪」ではないのだと思う。むしろ価値中性的な一つの巨大な力である。
普段、人間の生に介入することはない一つの裁く力である。ふかえりは、その力の実在にはなんら疑いを抱かないが、その力が間違って生きる人間の世界に介入してくることが誤りであることに気付く。それは彼女の宗教的な天才によるのではなく、彼女の人間としての歪みのない感性によるのだろう。リトルピープルは別に間違ったことをしているわけてはない、人間の世界に貫流してはいけないのだ。リーダーの肉体がポロポロになり、極限的な苦痛を味合うのもそのためである。彼は特別な能力を持つ代わりに、人間として破滅する。そして、青豆によって殺されることのみを望む。
だから、この1Q84は、決して善と悪の物語ではない。「別の世界」の力の強大な力と比べれば、限りなく卑小で限られた力しか持たない「この世界」の人間に対する徹底的な肯定の物語なのである。
青豆も天後も二つの月を見る。それは、(リーダーも語っていたように)パラレルワールドへの移行といったSF小説の出来事ではない。月が二つある世界は、れっきとした現実の世界である。それは、「シンフォニエッタ」を流したタクシー運転手も暗示していたことだ。彼は青豆の前に現れた預言者である。月が二つの世界も、れっきとした現実だし、喜びも悲しみも苦しみも生も死も全て、あるがままの現実である。ただ、目覚めた人間にとって、全く世界の見え方が変わってしまうだけである。それは、自己のパッシヴァとレシーヴァへの分裂した人間が見る月だ。また、自分の「空気さなぎ」を意識するか見てしまった人間に起こることとも言える。リトルピープル的なものの力を感じ取って、「別の世界」の追憶をしっかり感じ取りながらも、その魅力的ながらも破滅的な世界に回収されることを徹底的に拒否し、この大地上で生き抜いていくことを決意した生身の人間が、二つの月を見るのだ。それは1Q84に登場する青豆や天吾後だけに関係する話ではない。この世界に生きる、全ての人間、私やあなたも実際に関係している出来事なのである。
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2009年02月19日

ザ・龍之介全小説全一冊



小林秀雄が芥川龍之介について書いているのを読んで、読みたくなり全作品を読んでみた。やはり面白い。
小林秀雄の芥川評価はきわめて厳しい。「芥川龍之介の美神と宿命」というごく初期の評論で論じている。
芥川自身の「僕はどういう良心もーーー芸術的良心さへ持っていない。が、神経は持ち会わせている。」(「僕は」)という一節をひいて、芥川はよく言われるように理知的作家ではなく神経によって人生を裁断しただけの作家と断じている。逆説によって人生を分析しようとするが、それをとことんまで突き詰めていくことはせず、逆説的な風景を繊細な神経によって描出することだけで満足したのだと。
例えばイエス・キリストの「心の貧しきものは幸いなり」という逆説豹発言は、逆説そのままが現実となるぎりぎりの逆説であるが、芥川の小説にはそのような切羽詰ったものはないのだと。
「ある日の大石蔵之介」「枯野抄」「お富の貞操」などの心理も決して深く突き詰めたものではない心理的風景画にとどまる。現実の相対性を徹底して突き詰めようとしないので、「一塊の土」のように現実を描こうとした小説でも、人間が図式的で本物の生々しいありのままの真実に欠けると。
小林が若い日に熱中していた西欧の小説家や詩人たちと比較すると、いかにも芥川が中途半端に見えたのだろう。それなのに理知的と評価されているに納得できず、中途半端な気取った知性にしか見えなかったのだろう。それは何となく分かる気がする。
ただ、小林は最後にこんなことを言っている。
今日読めば、何と思うだろうか。意外に古風な日本的詩人を発見して心動かされるかもしれない。

ところで私はどうかというと、そもそも小林のように「文学」や「芸術」にそんな真面目な期待など一切していないわけだ。だから、芥川ももっと自由気儘に楽しめる。こうしてまとめて読んでみると、やはりその筆力というのはすごくて、今時使わない表現を用いてみると「女子供が夢中に小説を読む」ように読んだ。特に初期から中期の作品には、文句のつけようのない作品としての力があるとおもう。
芥川が理知的だとか悪魔的だとか言うのは勿論間違いであって、まず感じるのはなんともいえない人柄のよさ、素直さである。
「杜子春」は「ありふれた人情」とか「古いモラリスト」とか酷評されたそうだが、昔から批評はそういうものなのかなと思う。なぜ、もっと素直に受け取れないのだろう。芥川が提出するイメージは確かに生きていて純粋である。それが人生を直視してないという面があるとしても、むしろ人生を見つめすぎて悲観的側面に目を取られてかえって人生が見えなくなるよりも、それよりもたとえ理想であっても明るいイメージの力を提示することのほうがよほど大事だと思う。そして、芥川にはそういう能力があると、少なくとも私は感じる。
「魔術」「父」「毛利先生」。どれも甘いといわれそうだが、私は大好きである。
「地獄変」「藪の中」「羅生門」のような系統の作品があるが、むしろそういう作品こそ本物とはいえない偽者の匂いをどこかにかぎとってしまう。不良ぶっているだけの普通の学生のように。

芥川は自殺してしまった。勿論痛ましいことである。「西方の人」「続西方の人」「侏儒の言葉」といった逆説的分析・箴言については、まさしく小林の批判が当てはまりそうだ。徹底した理論というよりも、常識の一回ひねり、気取りといった芥川の弱点が露骨に出てしまっていると思う。芥川の自殺は世紀末の悲劇とかいうようなことではなく、あくまで神経が実に繊細な男が、恐らくは肉体の病気を主要な原因として、自分を追い詰めって行ったということ以外に意味がないと思う。残酷な言い方かもしれないが。というのは、先に書いたように芥川にはもっと楽天的な人のよさというものがあって、それが本来の最大の長所だったと思うのに、その反対方向に進んで行ってしまっていたのが惜しいと思うからだ。しかし、やはりそういう言い方は人の人生に対しては礼を欠くのかもしれない。
晩年の作品では「ある阿呆の一生」や「歯車」はやはり良い。それは人生を語る深刻さによってではなく、やはり小説風景としての美しさのためだけれども。「ある阿呆の一生」の中で、この部分が忘れられない。
ある雪曇りに曇った午後、彼はあるカッフェの隅に火のついた葉巻をくわえたまま、向こうの蓄音機から流れてくる音楽に耳を傾けていた。それは彼の心持に妙に染み渡る音楽だった。彼はその音楽の了るのを待ち、蓄音機の前に歩み寄ってレコオドの貼り札を調べることにした。
Magic Flute―Mozart
彼は咄嗟に了解した。十戒を破ったモッツアルトはやはり苦しんだのに違いなかった。しかしよもや彼のように、・・・彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子へ帰って行った。
十戒を破った苦しみの共有というよりは、芥川というのはあの魔笛序曲を聴いてそれが直覚的に分かるタイプの人だったということに私は感動するのだ。つまらないことだけれども。

芥川には確かにユーモアのセンスがあった。「鼠小僧次郎吉」の講談調など腹を抱える。「ねぎ」「好色」「馬の足」なども良い。もっと、そういう側面を追求して欲しかったと思う。
いわゆる歴史上の人物心理シリーズ。小林によれば、ああいうパロディのようなものは、全然その人物に届いてないということになる。しかし、最初からそんなことを期待しなければ面白い。一種のユーモア小説として読めばよいのだ。たとえ人間は描けてなくても、そこで芥川が発揮する手腕は絶妙である。「ある日の大石蔵之介」「俊寛」「枯野抄」「将軍」など、どれも作り物なのだが、そこに登場してくる人物たちが妙に生き生きしているのだ。芥川独特の人形的な人物創造術である。この際、人間が描けてないことなど、どうでもよろしい。
無論、根底には圧倒的な文章力があるのだが。あと、忘れがたいのは「蜃気楼」とか「海のほとり」という、なにもとも起こらない小説、一種の散文詩である。なんとも不思議にリアルな文章で、完全に文章だけで充足している。
芥川は短編作家だったが、やはり長めのものでも抜群の力量を感じる。未完に終わった「偸盗」もすごいし、「邪宗門」とか「アグニの神」とか、一種活動映画的文章の魅力がある。映像を想起させるのだが、文章だけに読む側が自由にイマジネーションを拡げていく余地がある。「影」などには、それこそヒッチコックの「疑惑の影」的な味わいがあると思う。まあ、そもそも小説の中で活動写真を語るという設定なのだけれども。
他にも言い出せばきりはないが、ちょっとした作品にもいいのがいくらでもある。「西郷隆盛」とか「お時儀」とか。

芥川というのは、現在の目で見ると日本の古来のよさのようなものが確かにあるのだが、勿論普通の意味での日本的感覚とは違うものを持っている人だった。「西方の人」を読むと、結局信仰とは無縁な人だったと分かるが、キリスト教に対してかなり真剣な思いを持っていたことは多分間違いないだろう。
「神々の微笑」というのは、芥川の「日本的なるもの」への感覚を知る上で重要な作品だと思う。日本へ布教に来たオルガンティノの前に不思議な老人が現れてあらゆる外来文化宗教の日本化について語る。キリスト教も日本的なるものに変容してその本質を失うであろうと。
ことによると泥烏巣デウス自身も、この国の土人に代わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れの中にもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明かりにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい・・・。
芥川は、そういう日本的なものに対してあきらかに違和的感覚を持っていたと思う。それは彼の小説が、当時の私小説とは全く違うだけでも分かる。全てをつつみこみ、一神教的な屹立するものを全て汎神論的に溶解してしまう正体の知れないモヤモヤとしたものに対するほとんど生まれ持っての反逆する感覚があったのではないかと思う。しかし西欧のキリスト教的な徹底的に突き詰めるという意志のようなものがあるというわけでもない。結局、小林秀雄の主張は正しいのかもしれない。
芥川のキリシタン物は、本来のキリスト教的なるものとは明らかに異なるだろう。実際、芥川は晩年「西方の人」で、明確なキリスト教への不信仰不適正を告白している。
しかし、そういうキリシタン物が、私には不思議なくらい魅力的なのだ。「きりしとほろ上人伝」の滑稽で一途な信仰、キリスト教ではないが「往生絵巻」のメチャクチャな浄土信仰。とてつもなくユーモラスであり暖かい。芥川の美質がよくでていると思う。
そして「奉教人の死」については・・。私はこれこそ芥川の最高傑作だと信じて疑わない。
これを甘いとかキリスト教徒は関係ないとか分かったような批評をする奴は犬にでも喰われろ!

:結局のところ、私は芥川との精神的親和性を勝手に感じるというのが結論なのだけれども・・。
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2008年11月14日

水村美苗「日本語が亡びるとき」雑感

この本には、様々な重要で大きなテーマが並列的、あるいは重層的に含まれている。現在ネットで大きく取り上げられているが、その場合は、「英語の世紀」とネットの世界的な普及が中心的な興味関心テーマになるだろう。そういう観点でも読む価値がある本だし、その意味では、現代を生きる全ての人間に関連してくる問題でもある。
しかし、言うまでもなく、水村氏の「中心テーマ」はそのことではない。現代日本の「国語」が、あまりにも内容が薄くて読むにたえないものになっており、このまま放置していたら、確実に「日本語は亡びる」ということである。そして、それを防止するためには、「国語」としてきわめてレベルも高く充実していた漱石に代表される「近代文学」を多くの日本人が読み、教育にも取り入れられるべきだという。
水村氏は日本語教育について、きわめて具体的にこのように述べている。
日本の国語教育においては、すべての生徒が、少なくとも、日本近代文学の<読まれるべき言葉>に親しむことができるきっかけを与えるべきである。子供のころにあれだけ濃度の高い文章に触れたら、今巷に漠然と流通している文章がいかに安易なものか肌で分かるようになるはずである。
私自身は現在40代である。少なくとも「国語教育」を受ける時代に、文庫で過去の文学作品の名作を読むという習慣が、かすかながらも残っていた世代である。本を読むのは好きな方だったので、専門的ではないにしても、漱石をはじめとする「日本近代文学」に馴染んで育っている。そういう文学の魅力も、素人なりに少しは理解しているつもりだ。
しかし、「今巷に漠然と流通している文章が安易なものか肌で分かるようになるはずである」という指摘には、とても同意する気にはならない。水村氏は、「安易な文章」の例を、具体的に上げることは避けている。だから、私でも水村氏に同意せずにはいられないくだらない雑文の類のことを言っているのか、「現代日本文学」といわれているものまでひっくるめて言っているのかは不明だ。
だから、水村氏がどう思っているか分からぬまま、例えば名前を挙げてみると「よしもとばなな」はどうだろう。彼女の文章は、ご存知の通りとても読みやすいしスラスラ簡単に読めてしまう。「近代文学」のように「濃度が高い」とはいえない。しかし、文章の表面的な印象だけで文学を評価するのは、言うまでもなく限りなく浅薄である。
よしもとばななも、簡単そうな言葉で書かれているが、あれはまるで彫刻するように、微妙にバランスと言語感覚によって築き上げられている最上の芸術である。また、やさしい言葉によって語られているが、その感性と思想は、恐ろしく深いところまで届いていると思う。「アムリタ」を評して、梅原猛は「大乗仏典のようだ」という意味のことを述べたと記憶するが、私もその通りだと思う。
むしろ、よしもとばななを正当に評価するためには、「近代文学」を読んで学習し、文章に対する美意識や感性を相当磨かないと無理だともいえるだろう。
繰り返しになるが、水村氏は、この本の中で一言もよしもとばななや、その他の現代日本語作家を否定してはいない。しかし、何も具体的に現代文学に言及していないのは、なんと言ってもこの本の致命的欠陥になっていると思う。是非、水村氏には、別の機会でもいいから、具体的に語って欲しいものである。無論、もし批判的な見方をされているのだとしたら、言いにくいのは承知だけれども。

この本で、とても勉強になるのは、「国語」というのが自明に当たり前に保持されるものではないことについての具体的説明・指摘である。日本の「国語」が、成立したのは、ほとんど僥倖と言ってもいい歴史的条件が重なったおかげである。日本以外の国では、ごく簡単に「国語」を喪失してしまった国がたくさんあるし、むしろそういう国のほうが多い。日本も「言語加害者」の一員だった経験もある。
そういった指摘は全てもっともだと思う。また、一度「国語」が成立してからも、そういう国語を人為的に改変しようとする動きがあった。日本の場合では、明治時代に漢字を日本語から追放しようという動きがあったが、外国の文明を翻訳するために表意の漢字がきわめて便利だったため、そういう歴史的条件によって漢字排除の動きが抑えられたというのは、とても興味深い話である。
つまり、日本語の「国語」というのは、決して無条件に所与されているものでは決してなく、自発的な努力によって守る必要がある。そういう水村氏の主張は正しい。
しかし、その努力が、教育において「近代文学」を皆に読ませるようにすべきだということには、つながらないはずである。制度の問題として、現在の「国語」を、人為的に代えようとする勢力があるならば、それに,対しては徹底的に戦う必要があるだろう。しかし、だからといって「近代文学」を偏重して教育に取り入れるべきだという話とは、全くつながらないのだ。
無論、水村氏も、そういう直接にはレベルの異なる話を、つなげて書いているわけではない。しかし、少なくとも、水村氏が「近代日本文学」をなぜ重視するかについて、具体的理論的説明を欠いているのだ。結局、漱石が高度な文章を書き、世界に対する鋭敏な意識をもつ教養人だというような,漠然とした肯定判断しか語っていないように、私には感じられた。現代文学一般に対する侮蔑も、根拠なく感覚的であるように思う。
アメリカの大学の先生の日本人の女性の友人と、お酒を飲みながら語り合う場面が出て来る。
彼女は赤くなった顔で言った。
「あたしたちが小さいころ、小説家って言ったら、モンのすごく頭がよくって、色んな事を考えていてーなにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもの読む気がしない。」
 彼女が私のことをどう思っているかはわからない。人の悪いところが存分にある健全な精神をした人だから、当然「頭の悪い人たち」の部類に入れて済ましているのであろう。だが、私は傷つくということもなく、そうよ、そうよ、と彼女と同じように赤くなった顔でしきりにうなずいた。
結局、こういうことなのではないだろうか。勿論、「近代文学」の作家や作品に、個人的な趣味としては、好きだったりあこがれたり尊敬したりしても一向に構わないだろう。しかし、だからといって、そういう文学が普遍的に高い意味を持つということとは全くならない。少なくとも、本書から、水村氏が「近代日本文学」だけを重視するきちんとした理論的根拠を見出せなかったのである。文学なのだから理屈ではないといってしまえばそれまでなのだが、そういうと現代文学のほうが好きだという人と、どちらが正しいのか分からないということになってしまうのだ。

繰り返しになるが、ある国の国語・書き言葉が、自明に与えられるものでないというのは、何度言っても良いくらい重要な事実である。そして、そのことについて示唆に富む本書は、とても価値の高い書物だと思う。しかし、結局、大切なのは、政治的な力によって、自然に自由に使われている言語が、人為的な力によって介入され、歪められないようにするだけで十分なのではないだろうか。
この問題に関連するのだが、水村氏は、坂口安吾を引用した上でこう批判している。
あたかも、日本人はDNAによって日本人であるかのような思い込み・・。
それは、あの有名な「日本文化私観」のなかで、坂口安吾に「非必要ならば、法隆寺をとり壊して停留所をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。」と歯切れよく啖呵を切らせた思いこみと同じである。戦争中に書いていた安吾は反骨精神に燃えていたかもしれず、また事実、反骨精神に燃えていたのかもしれないが、実は、これほどまでに日本人に典型的な発言もないのである。安吾は、桂離宮を「発見」したブルーノ・タウトについて言う。「タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文明を見失っているかもしれないが、日本を見失うはずない。」
 安吾が気がついていないのは、ヨーロッパ人は、他民族の侵略につぐ侵略という過酷な歴史を生きてきたうちに、自分たちの国を「発見」したということである。(後略)
そして、安吾の言うように街並みを破壊し続けたために、現在の日本の街の惨状があるのだ、と水村氏の批判は続く。
安吾が、本気で法隆寺を壊したり、街並みを好き勝手に改造していいと思っていたなどと、どうすれば読むことが出来るのだろうか。安吾はそんなことを、これっぽっちも言ってないはずだ。安吾が言いたいのは、「伝統」の名前にあぐらを書いて実質的内容を欠く日本文化への徹底的な批判である。表面的な形式文化のみ保存して、自らを高きとし他を俗とする日本的「伝統主義者」の精神的貧困を指摘しているだけである。また、安吾くらい、文化が「自明に与えられている」とは思っていなかった作家も珍しいのだ。自分の身を同時代に浸しながら、現実と遊離せずに精神的に高い「文化」を作り上げようと悪戦苦闘した人である。また、日本文化の相対性についても、あれほど鋭敏な感覚を持っている人もいなかった。例えば、「安吾風土記」等をちょっとでも読めばすぐにでも分かることである。
安吾に対する評価はともかく、水村氏のように「近代日本文学」を偏重して、それを教育に用いれば日本語が滅ばずに済むなどというのは、あまりに楽観的ではないだろうか。「日本近代文学」がきわめて質の高い文章であることを率直に認めるにしても、それは結局その時代の文章に過ぎない。言語は、当然ながら時代や人の心とともに変質していく。基本的に俗化の方向をたどるのが必然だとしても、本当に生きた言葉とは、その時代に生きる言葉でしかない。それは、「現地語」とは異なる書き言葉としての「国語」であっても、本質的には同じことである。
近代文学から、国語のあり方について大きなヒントを得るにしても、現在に生きていながら近代文学のように文章を書いても全く無意味である。どんなに形式的には俗的な言葉を使っていようと、高い「国語」を書くことは可能だし、ある時代を生きる作家というのは、そういう努力をするべきなのではないだろうか。最初にも、例を出したが、よしもとばなななどは、そういう努力を最大限している作家だと私は思う。
書いているうちに、段々アツくなって、水村氏の論考をきちんと冷静にたどるというよりは、自論を開陳するだけになってしまった。水村氏の本に対する、正当な評価にも批判にもなっていないことをあらかじめお断りしておく。
とにかく、これだけ日本語について改めて考える機会を与えてくれたことに感謝しよう。
梅田望夫氏が「日本人全てが読むべき本」と紹介していた。私は、「英語の世紀」という事についてはそうだけど、「日本語」については、むしろ本来は読者を限りなく限定する本なのではないかと思っていた。
しかし、こうして自分で感想文を書いてみて分かった。日本語自体について考えるためにも、この本は広い範囲の読者に読まれるべきだと。

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2008年05月12日

齋藤孝/梅田望夫「私塾のすすめ」読書メモ

私が梅田望夫さんのことを知ったのは「将棋」を通じてである。本書の表現を用いるならば、将棋を対象とした「志向の共同体」を通じて、梅田さんが将棋のことをブログでよく書かれているのを知り、一方、ちょっと自慢話を許していただくと、私が書いている将棋ブログを梅田さんはご覧になってくださることもあるようだ。
ただそれは、私にとっては将棋の世界だけでなく、他の世界への窓も開くことになった。誰だって将棋のことだけ考えているわけではなく、梅田さんにとって将棋はあくまで趣味(といっても相当重要な趣味)であり、現在のところは一応「ウェブの専門家」である。私はブログこそ書いているが、ウェブのことなど、もともと何の興味もなかった。グーグルだって、ただの検索機関としか思ってなかったが、梅田さんの本でそのとんでもない意味にようやく気づいたのである。だいたい、グーグルでなく、ずっと「ゴーグル」と読んでいたし。
とにかく、少し強引に言うと、ネットには「志向の共同体」を通じて、自分と趣味関心が重なる人と知り合えるだけでなく、その別の人が興味を持っている他の分野に視野を広げる機会を得られるという副次効果もあると思う。あるひとつの「志向の共同体」が別の「志向の共同体」への道を切り開いてくれるとでも言うか。
また、私にとっての将棋という「志向の共同体」との関わりで言うと、将棋のブログを細々と書き続けているうちに、他の将棋ブロガーと知り合いになったり、レギュラー的にコメントをつけてくれる人とウェブ上の知己になることが出来た。大した人数ではないのだが、決して馬鹿にできない。少なくとも、将棋というマイナーな分野で、リアルでそれだけの知り合いを得ようとしたら、大変な努力が必要なはずだ。しかも、その人たちは、恐らく人間的なタイプ、年齢等では、必ずしも自分と同質ではないような気がする。そういう個人的な違いを超えて、将棋という同じ「志向性」でゆるやかに自由につながることが出来る可能性をウェブは秘めているのではないかと思う。
また、これも自慢話で恐縮だが、将棋ブログで書いた記事を、ごく稀にだがプロ棋士に取り上げてもらったこともある。将棋ファンにとっては、プロ棋士というのは神様のような存在である。音楽ファンにとってのミュージシャン、映画ファンにとっての俳優、なんでもいいが、人はそういうことに当たっては、もうとんでもなくミーハーになるものである。一般将棋ファンにとっては、プロ棋士というのは完全に別次元の大天才たちなのだ。そういう人たちと、ただブログに記事を書くだけで、いとも簡単に、かすかであれ接点を持てる可能性があるというのは、やはりウェブのすごいところだといわざるをえないだろう。

さて、以下は「私塾のすすめ」自体の内容についてのメモがき。
人は読書するにあたって、必ずしもそれに全面的に賛同したり感情移入できるわけではない。いや、そういう本というのは、それぞれの人間にとっては、ごくごくわずかしか存在しないのだと思う。
この対談の二人は「私塾精神」にのっとって、とてつもなく熱い。そのことが、この本にとても爽快な読後感を与えているし、特に若い人の中に、全面的に共感して二人の私塾精神に参加しようとする人たちが出てきたらいいなあ、と思う。
しかし、特に私のように彼らとほぼ同年齢のもので、既に自分がある程度出来上がってしまっている者にとっては、完全に全てに賛同する必要は必ずしもないだろう。むしろ、読書という行為においては、一冊全て読んで、一箇所でも学んだり心から共感することが出来たならば、それはきわめて幸運かつ幸福な読書体験といえるのではないかと思う。梅田氏もこう言っているではないか。
僕は基本的に、ものごとというのは、だいたいのことはうまくいかないという世界観を持って生きていますね。だから、一個でも何かいいことがあったら大喜び。そのへんがまだ十分に伝え切れていないところなのですが、世の中に対する諦観がベースにあります。
梅田氏の過度なまでのオプティミズムはよく指摘されることだが、こういう徹底した諦観を根底に持っているからこその楽観主義ともいえるだろう。変な比喩だが、仏教の歴史が、徹底した現世否定、無常観を原点としながら、それを突き詰めていって、密教のような、根本に現世に対する空観を保持しながらも徹底した生命肯定に行き着いたのと、似ていなくもないとも言えるだろうか。

話がずれたが、このきわめてポジティブかつパワフルなお二人の対談を、気持ちよく読みながらも、正直いって、個人的にはついていけないところもあったのだ。それは、基本的にお二人が、あまりに世界に対しに真っ直ぐに外向的に向き合いすぎているという感覚である。こればお二人に対する批判という話ではなく、ほとんど個人的な資質による生理的反応とでも言えるものである。
もし齋藤氏や梅田氏のような方向性が自分にあっていて出来るという人たちは、思い切ってそういう行為に飛び込むのがよいと思う。しかし、あまり世界に対して真っ正直に向かい合って、戦い抜いて勝利を勝ち抜くということが、に人間としてのタイプとして全くむいていない人間も、世の中には確かに存在する。そういう人間が、無理にお二人のような生き方をしたら疲れはててしまうだけだろう。
そういう人間は、無理に実世界で高いステータスを得ようとする必要はないのだ。あくまで自分の身の丈にあった、世間的生活を続ける術を探し求めながら、うまく世間に適合しながら、自分の中に豊かな世界を築き上げていくというやりかただって立派な生き方だろう。現代社会においては、そういう生き方というのは、逃避的とか社会不適応だとか、場合によっては「負け犬」として否定されがちである。しかし、言うまでもなくそういう現代的な価値観ほど浅薄なものはないだろう。
もともと伝統的な日本社会は、そういう社会に一定の距離を置く生き方をする人たちにもとても寛容だったはずなのだ。お二人は、時代のモデルとして、幕末から明治をあげていて、確かにあの時代も魅力的なのだが、個人的には、さらに遡って、いわゆる「出家遁世」が、ある程度正当な権利として認められていた時代の方に、個人的には共感を抱くのである。これは、お二人に対する批判などではなく、あくまで個人的な感性の問題である。
ただ、私が今言ったような、一種の社会から距離を置く生き方の立場から、逆に社会で積極的に生きる人たちを否定するのも逆に浅はか過ぎるだろう。もし、そういう人間が、単に物質的金銭的快楽的成功のみ追い求めているのならば、批判しても構わないかもしれないが、健全な方向で社会との生き生きとした関わりを保持して進んでいこうとしているならば、もし出来るならばそういうことはした方がよいに決まっている。あくまで、そういうことに向いていない人間が、全く別の生き方を出来る価値観の可能性多様性も残しておいてもらいたいというだけのことである。
そもそも、先に上げた梅田氏の発言の引用を読めば分かるように、氏の社会への関わりは積極的で明るいが、決して浅はかな現世主義でないのは明らかだろう。私がこの本で一番共感できたのは、先の梅田氏の言葉だったのである。

齋藤氏の率直な物言いのおかげで、梅田氏のものの考え方感じ方の本質が見て取れるのも、この本の面白いところだ。やはり、梅田氏というのは、生まれついて徹底した個人主義的性向のある人なのだと思う。例えば、齋藤氏が大学の授業で、全員に同じ行為をやらせようとするとき教室から逃げ出そうとする生徒がいて、「今教室を出て行くと単位を取れないよ」と言ったという話(すごい話だ)に対して、
皆と同じことをやらされるのが苦手で、齋藤先生の授業だとひとり逃げ出すほうです(笑)。
さらに、
子供のころから、「入社式」とか「制服」とか「工場実習」とか「同期入社」とか「課長試験」とか、そういうことに絶対的な違和感をもっていたから(以下略)
こういう部分にも共感してしまって仕方ない。まあ、自分が梅田氏と同じだなどというような自惚れは決して言うまいが、私は思いっきり後ろ向きな梅田望夫なのだと、消して卑下ではなく言うことだけは許してもらえるだろうか。

本書で、一番面白かったのは、実は梅田氏のあと書き「私塾による戦い」である。齋藤さんがある経営者に対して「いずれは文化大臣をやろうと思っているんです。」といったら「ははは、バカを言ってはいけない」と一笑に付されたそうである。また、梅田氏自身も、ある経営者から「梅田君、虚業もいいけれど、そろそろ実業の世界で活躍してみる気はないのかい」と言われて、本気で怒って謝罪を求めたことがあるそうである。
梅田氏が言いたいのは、現代の日本社会にはびこるほとんど無自覚なまでに現状肯定的な価値観、齋藤氏の表現によれば「本気で変える意志というものを持っていない。もやーっとした感じ」である。
梅田氏も、斎藤氏もそういう日本的な惰性に真正面から挑戦状をたたきつけようとしているのだ。梅田氏が酔っ払って書いた有名な記事も、つまるところ、そういう日本的な精神風土への、激しい苛立ちが酒の力を借りて噴出したのだろう。だから、あれだけ反響を呼び、共感する人もいれば、激しい反発を感じる人間もいたのだろう。酔って、日本の本質的な触れていけない部分を刺激してしまったわけだ。
こういう部分についても、私は共感を覚える。先に書いたたように、個人としての考え方感じ方は、多分梅田氏とは全然違うのだが、根底にある個人志向とか日本的共同体を維持している重苦しさに対する違和感は、共有できているのだと思う。梅田氏の本というのは、浅はかに読まれるとウェブを使った立身出世のガイド本になってしまうのだが、そういう根底にある「日本的なもの」への問題意識をもし見逃したら、何も読んでないも同然といってもいいくらいである。一応、私は梅田氏とは全くタイプが異なるからこそ、そのことがよく分かるのだと強弁しておこう。
ついでに言うと、梅田氏が感じていることを、極端なまでにイディアして昇華した形で表現した例が太宰治の「人間失格」だと思う。あそこに描かれている「世間智にまみれた大人」の描写は、太宰的自意識によって激しくゆがめられたものであり、決して客観的とはいえないかもしれない。しかし、太宰の天才は、文芸作品としての価値をこえて「日本的なるもの」の本質を直覚的につかみ取っていたのだと私は考えている。

実は、本書で一番私に突き刺さったのは、申し訳ないけれどもお二人の言葉ではない。梅田氏が紹介している森有正の言葉である。
人間が軽薄であるかぎり、何をしても、何を書いても、どんなに立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も刺し出さず、他の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかり僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。
なんと、恐ろしく、美しい言葉だろうか。
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2008年03月06日

梅田望夫「ウェブ時代5つの定理」を読んで感じたこと

梅田さんについて書かれた有名なブログ記事に「梅田望夫さんが見ている、どこか遠い世界」というのがある。率直に気取ることなく綴られていて、多くの人間の共感を集めたらしい。梅田さんも、この記事のことは気になっているようで、何かの講演(だと思う)で言及している。そして、「ウェブ時代をゆく」は、(梅田さん本人を含めての)「Rest of us」を対象にして書いたのだとも話していた。
この「ウェブ時代5つの定理」は、バリバリの企業経営陣の言葉が中心なので、率直な感じ方としては、普通の人間には「遠い世界の話」となってしまうのかもしれない。私も勿論そういう普通の人の一人である。しかし、ウェブの世界で働こうとする人間向け限定ということではない。ウェブの最先端で活躍する人物が、どういう「思想」や「パーソナリティ」の持ち主なのかを知るための貴重な資料という読み方も可能だろう。
グーグル的世界観についての感想については既に書いたことがある。ここでは、もっと根本的な大きな問題についての漠然とした雑談をしてみよう。
基本的に、ウェブ世界の第一線で活躍する人たちは「理系人間」である。梅田さんは理系出身ではあるが、そういう人たちと比べると文型人間的だと自己分析している。それは、梅田さんの著作を読んだ者なら多分納得できるだろう。
一方、私は、それこそガチガチの文系人間である。特に技術者が中心の会社で働いていた際に、文系スタッフとして彼らと接してよく分かったのだが、本当に人間としての感性が両者では全く異なる。別の種類の生き物というくらいに。文系人間として放言すると、理系人間というのは、確かに専門性も高いし勤勉だし人間的にもマジメだ。しかし、何か人間としての幅の狭さのようなものを感じることが多い。自分自身も人のことを言えた義理はないのだが、世間知らずで自分の価値観を人に押し付けて融通のきかないところがある。無論、今言ったのは極端な単純化したパターンであるが。逆に理系人間からすると、文系人間というのは、無知で不勉強で不真面目で全く実用的には何の役にもたたないのに、人生が分かったような顔をしている奴らということになるのかもしれない。
そういう偏見に満ち満ちた文系人間として、この本の経営陣について、かすかに嗅ぎ取っててしまうのは、そんな事なのである。勿論、彼らのチャレンジャー精神や楽天性や倫理性や勤勉性やリーダーシップについては素直にリスペクトする。すごいなあと思う。しかし、そういうことは、あくまで企業家としての資質であって、なんと言うか、人間としての深い思想性の話ではない。無論、ビジネスの世界はあくまでビジネスの世界である。深い思想など持ち込まれたらかえって迷惑なのだが。
ただ、グーグルの例が顕著なのだが、彼らがウェブにかかわって行っている仕事というのは、人の生き方や人生観思想の部分に、どうしても抵触せずにはいられない領域である。(そのことに、いち早く気づいていた一人が梅田さんなのであって。我々はそのおかげでグーグルの持つとんでもない重大な意義を教えてもらっているわけである。)
ただ、どうしても気になるのは、グーグルの経営陣の思想というのが、ちょっと単純すぎやしませんかということなのである。「邪悪であってはいけない」とか「世界をより良い場所にするための機関」というのは、素晴らしいし、現在グーグルが携わっている領域の意義を考えると、こういう姿勢でやってくれないと困るのである。
しかし、改めていうまでもないが、世界は邪悪に満ちている。どんな楽天的な人間でも、現在の全世界を見渡して、正義が行使されている状態だと言い切れる者はいないだろう。だからこそ、グーグル的な善への信頼が必要なのだといえるかもしれない。しかし、彼らの楽天性というのは、本当に現実の諸々の困難や悪や障害や、現在の人の心の絶望的な未熟さを、きちんと分かった上での、本当に強靭なものなのだろうか。一種の理系人間にありがちな、世間知らずなところがあるのではないだろうか。そういうのは、あくまで偏った文型人間の偏見と杞憂であって欲しいとは思う。
しかし、グーグル的な楽天的な善への信頼というのは、もし彼らの力が現実の権力関係に影響を及ぼうほどに肥大化した場合に、どうしても現実の悪の部分と衝突せざるをえないものなのではないかと思う。なんだかんだいっても、グーグルは今のところ、現実世界のリアルな経済圏としてはちっぽけな広告収入世界に過ぎない。しかし、梅田さんが適切に理解しているように、それは本質的に世界の成り立ちを揺るがしかねない衝撃力と革新性を孕んでいる。
そういう重大な意義を持つ世界の導き手の思想が、楽天的ではあっても、やや底が浅いように感じられるのは、一般人としてはかなり不安なのである。
こんなことをいっているのも、私自身やっと、グーグル的な世界全体の情報整理の持つとんでもない意義に、梅田さんの力を借りてやっと気づいたからなのである。本当に、グーグルのような一企業がやれること、やっていいのかということを感じているのである。今はともかく、遠い将来的には、一般人民がたとえ間接的に出あれ。その情報管理や監視をできるくらいになっていないと安心できないくらい、重大なことだという気がするのだ。
書き進むにつれて、妄想が肥大するのを防げなかったので、もうこの辺にしておこう。

さて、本題とは関係ないくだらないオマケを。これも何かの講演で梅田さんが言っていたのだが、梅田さんの名記事「直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」は、実は酔っ払って書いた記事だそうである。そうしたら、大反響でブログが炎上しかけたのだと。私は、初めてこの記事を読んだとき、鈍感なせいなのか良さがピンと来なかった。でも、酔っ払って書いたのだと聞いて読み直してみたら実に良かった。素晴らしい。本当に群衆の叡智というのは確かだ。わたしの見る目など、まったく当てにならないのだとよく分かった。
で、私の場合、こういう本当に素晴らしいものにふれるとパロディをしたくなってしまうのだ。たぶん頭がおかしいのだろう。「お笑い」をテーマにしたのでやってみる。パロディだけれど、かなり私は本気で言っている。

二十歳にもなれば、その人のすべてのお笑いはもう顕れている。その自分の笑える部分を見つけるには、自分のボケを信じ(つまり自分のギャグを信じるということ)、自分が面白いと思える「ネタ」が出る対象を大切にし、その対象を少しずつでも押し広げていく努力を徹底的にするべきだ。
ネット空間で特に顕著だが、日本人は人のいうことを笑わない。もっと笑えよ。心の中でおかしいなと思ったら口に出して笑え。誰だって、いくつになったって、ウケれば嬉しい。そういう小さなことの積み重ねで、世の中はつまらなくもなり楽しくもなる。「人を笑う」というのは「ある対象のボケたところを探す能力」と密接に関係する。「ある対象のボケたところを探す能力」というのは、人生を生きていくうえでとても大切なことだ。「ある対象のお笑いのサムいところを探す能力」を持った人が、日本社会では幅を利かせすぎている。それで知らず知らずのうちに、影響を受けた若い人たちの思考回路がネガティブになる。笑わそうとする勇気が低くなる。「人を笑わそうとしちゃいけない」なんて思っちゃいけないんだとか自己規制している。それがいけない。ギャグを思い切っていわないのがいちばんいけない。
僕だって君たちを見ていて、お笑いのつまらないところとか、サムいところとか、たくさん見えるよ。でもそんなことを指摘して何になる?
それでもっと悪いのは、ダメな大人の真似をして、自分のことは棚に上げて、人のお笑いのサムいところばかり粗探しばかりする人がいることだ。そうすると利口に見えると思っているかもしれないけど、そんなことしている暇があったら自分でつまらなくてもいいからギャグのひとつでも言え。
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2007年11月26日

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」と村上春樹の「うなぎ」

「ウェブ時代をゆく」のP16にこんなくだりがある。

例えばあるとき私は「これはすごい書評だ」と目を瞠はるような文章に出合った。調べてみればそのブログの筆者は、膨大な量の読書をしながら内科医を三十年以上続けてきた団塊世代の方なのだと知った。医学を修め、その後も人の生と死を見つめながら、六十歳近くまで思索を続けてきた市井の知が刺激的でないはずがない。


多分日々平安禄のことである。「ウェブ時代をゆく」に対しても、ものすごい量の密度の濃い書評を書かれていて、梅田氏も読まれているようだ。
「ウェブ時代をゆく」については、実践的な読みも可能な一方、この方のように、哲学的な思索を掘り下げるやり方も可能だと思う。私も、レベルは違うにせよ、同じ方向性で読みたいと思っている一人である。もしかすると、梅田氏のこの本の本来の意図から逸脱する読み方なのかもしれないが、テキストとは本来そういうものだし、優秀なテキストほど、著しく逸脱した読み方が可能なのである。

梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」(7)「うなぎくん」より、村上春樹の発言をまた引きしてみる。

 村上:僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなきゃいけないと言うんですよ。・・僕は「うなぎ説」というのを持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人でだけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにはうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。・・僕は、自分とうなぎと読者で、3人膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ちあがってくるんです。・・でもそういう発想が、これまでの既成の小説って、あんまりなかったような気がするな。みんな読者と作家とのあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。・・
 柴田:その場合うなぎって何なんですかね(笑)。
 村上:わかんないけど、たとえば、第三者として設定するんですよ。適当に。・・僕としては、あまり簡単に言っちゃいたくなくて、ほんとはうなぎのままでおいておきたいんだけど。


「うなぎ」という第三者は、絶対他者とか哲学用語に言い換えてはいけない。あくまで、とりあえず「うなぎ」としか呼んでおくしかない何者かである。その「うなぎ」の存在のおかげで、「私」と「読者」の二者関係の閉塞性を回避し、客観性を保つことが出来る。
日々平安禄の筆者は、何を書く場合も、はっきり「こうだ」という結論を明示せずに、読むものに考えさせるような含みのある書き方を、たぶん意図的にしている。
私は、逆にすぐに分かりやすい結論を言いたがる男なので(笑)、「ハイ、それ群集の叡智のこと」と言いたくなってしまう。
梅田氏はウェブ時代の書評に全て目を通している。しかしそれだけでは、「梅田=私」と「読者」の、二者関係だけにとどまってしまう。下手をすると、誰かにカルトと皮肉られる恐れもある。しかし、村上春樹も言っているように、何も読者の「正しい読み」や「理解や賞賛」が大切なのではない。むしろ、誤解されて読まれている部分のほうが重要である。そういう正解、誤解、賞賛、誹謗中傷の総体が「うなぎ」なのである。
「群集の叡智」というのも、何か個々人の正しき知恵が集まった素晴らしき集合体というものではあるまい。様々な階層の人々の、理論的だったり、感情的だったり、礼儀正しかったり、無礼だったり、瞠目すべきだったり、取るにも足らなかったりする意見のすべての集合体が「群集の叡智」なのである。
梅田氏は、ウェブ上の書評の一部を公開ブックマークしている一方で、他の全ての書評についてのノートをつくっているらしい。明らかに、そちらのほうが大切なのだ。いかに公開主義の梅田氏でも、そこまではもったいなくて見せられないところだろう(笑)。
梅田氏のオプティミズムを「全てにイエスという精神」と言い換えることが出来るかもしれない。人間は、自分の周りの世界に対するに当たって、無意識に取捨選択をして、主観的な好き嫌いで世界を切り取っている。そのことで不安定な自我構造が保たれている一方で、個人的な主観エゴの洞窟にとどまらざるを得ない。梅田氏の「全てにイエスの精神」は、そういう狭い自己を粉々に砕き、自己を広い世界と直結させる壮大な実験である。
そのためには、自分にとっては不愉快な発言や、耳障りな意見にも全て耳を傾ける精神力が必要である。そういう否定的なエネルギーの矢に対して、感情的に反発するのではなく、ひたすら相手の立場に立って素直に耳を傾けてみること。そういうきつい作業に耐えることで、やっと「うなぎ」が見えてくる。
既に一度引用したが、梅田氏の「群集の叡智」について言及したくだり。

 「群衆の叡智」とは、ネット上の混乱が整理されて「整然とした形」で皆の前に顕れるものではなく(いずれウェブのシステムが進化すれば、そいうことも部分的に実現されるだろうが)、「もうひとつの地球」に飛び込んで考え続けた「個」の脳の中に顕れるものなのだ、私はあるとき強くそう直感した。「新しい脳の使い方」の萌芽を実感した瞬間でもあった。ネット空間と「個の脳」が連結したとき、「個」の脳の中に「群衆の叡智」をいかに立ち顕れさせるか。この部分は確実に人間の創造性として最後まで残ってくるところのように思えた。


「群集の叡智」とは、受動的に与えられるものではない。「全てにイエス」として、耳を傾けた結果に、ようやく個が世界から勝ち取るものである。その時点で、個は自分の狭隘な価値観の束縛から解き放たれ、世界の真実らしきものと何とかつながることが出来るのだ。「うなぎ」とは、そういう得体の知れないものである。
梅田氏は、やはり狭義のもの書きではないのだと思う。あえて言うなら「発明家」である。ウェブ上の批評を全部読んでみるというのは、実は簡単なようで、とんでもないコロンブスの卵的な大発明なのだ。梅田氏の著作が、多くの読者の、「頭」ではなく「こころ」に影響を与えているのだとしたら、それは梅田氏の単なる紙の上の書き手に収まらない、独特な存在のあり方によるものなのではないだろうか。

この問題については、実は極東ブログが、マイケル・ポランニーと関連させて、私が言ったのとはまったく別な文脈で論じきっている。上の引用部分も、極東ブログと全く同一箇所だ。(私が、極東ブログの言っていることがちゃんと理解できているなどとは決していわない。)
梅田氏の著作には、きわめて実践的で分かりやすい部分と、このようなわけの分からない含蓄の多い部分がごたまぜになっている。注意深く読まないと多分読みすごしてしまうだろう。
引用中で言われている梅田氏の「直感」というのが、どういうものなのか、正直私にははっきり把握しきれないでいる。ただ、ここで言われている「群衆の叡智」が、単なる客体として扱えるものでもないし、逆に「群集の叡智」に浸透された「個」が、単なる個人の主観にとどまらないことだけは間違いないだろう。そういう、主体と客体が、交錯し浸透しあうようなところまで、梅田氏は深く考えているのではないだろうか。当然、そういうものは、本来分かりやすく説明したりすることなど不可能なのだ。だから、村上春樹のように、「うなぎ」と呼んでおくのが一番いい。
少なくとも、そういう「うなぎ」に対する感性は、実は人間にとって必要不可欠なものなのではないだろうか。「私」にも「世界」にも、閉じこもらない生き方。
ウェブが、究極的に可能にすることが出来るのかもしれないのは、そういう生き方なのかもしれない。
ということで、「ウェブ時代をゆく」も、日々平安禄も、極東ブログも、意図的にテキストとして誤読する実験はこれで終わりにする。
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2007年11月15日

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」−男、京大生じゃないの日記

「ウェブ時代をゆく」を再度読了したところである。既に一度読んで、こんなことを書いた。そのときの心境はと言うと、
「いやー、なんかメチャクチャ興奮する本だったなあ。ブログに何か書くとすっか。待てよ、そういやあ、梅田さん、ウェブ上の書評に全部目を通すとか言ってたなあ。もしかしたら、こんな誰も読んでないブログも見つけて読まれちゃうのかしら。だとすると、普通に書いても、多分自分の考えていることなんて、絶対他の誰かが書いちゃってるだろう。せっかくだから、思いっきりハジけて書いちゃうか。少なくとも、梅田さんを退屈させないことだけを唯一の目標にしてみるか。ソレッ。」
ってな調子でやったんで、あんな感じになってしまった。そしたら梅田さんにブクマされちゃったよ。勿論うれしいんだけど、同時に極度に恥ずかしかったよ。読み直して、オレ、なんて口の利き方を梅田さんにしてるんだろうって。
で、少なくとも、梅田さんがブクマしている「ウェブ時代をゆく」関連に、ほとんど全部目を通して見ましたよ。ますます恥ずかしさが膨らみましたよ。みんな、もっとちゃんとした書き方してるじゃん。それに、こんなこと書いてる人間、全然いないじゃん。普通に書けばよかったよ、普通に。もう、恥ずかしさのあまり、ここ一日すっかり寝込みました(ウソ)。
しかし、タイトルで臆面もなくパクった京大生翌日書いた記事で言ってる、「「梅田さんに届けこの気持ち」えいやっとあちら側に投げ込んだ記事」というの、多分みんなこんなに気持ちは多かれ少なかれ、あるんだろうね。まあ、女、京大生だから、梅田さんの「おお、かわいき奴」と思うのであって、四十過ぎのオヤジからこの種の熱いメッセージが届いたら、ちょっと当惑するでしょうが(笑)。
さてと、二回目読んでみて、結構改めて色々なことに気づいた。この本は、二回読むのが正解だと思う。一回目は、狂喜乱舞して熱に浮かれたように、二回目は、冷静に内容をたどって。
で、改めて冷静に「普通」に書いて見ます。そのため凡庸さを露呈するのは仕方ないとするか。

この本を読んですぐ思ったのは、もしその気になったら、いくらでも色々なことが書けるだろうなっていうこと。梅田さんの本は、一応ウェブ論なのだけれど、もう少し広義に、現代における個としてのあり方とか、日本社会のシステムに対する建設的な批判という読み方も可能なはずだ。私はウェブにもかなり興味があるが、そういう、もう少し広い漠然とした問題をめぐって書いてみる。

組織型人間と、非組織型人間について。一人の非組織型人間として、梅田氏は、具体的にいかに生きていくかの方法論をきわめて具体的に提示している。これは、組織従属型社会から、個人主義社会へというレベルよりさらに根深い、各自の人間としての個性、性質、アイデンティティにかかわる問題である。非組織型の人間というのは、どうやっても組織になじめないものだ。思想上の要請というより、個人の資質の問題として、必要に迫られて非組織型が、どう生きるかという話だと受け取るのがよいのかもしれない。
私自身、明らかに非組織型なのだが、それでも、梅田さんとは全く人間としての性質が異なると感じる。ユングが提出した、「外向型」と「内向型」という対概念がある。梅田さんは、明らかに「外向型」である。「組織型と非組織型」に加えて「外向型と内向型」という二つの軸を加えてみる。梅田さんが対象にしているのは「非組織型外向型」なのではないだろうか。しかし、世の中には少数派ながら「非組織型内向型」が、ほとんど肉体の特質のように確固たる個性として刻みつけられている人々がいる。
そういう人間は、概して人付き合いが苦手だし、世の中でうまく立ち回れるタイプではない。残念ながら「けものみち」をバイタリティあふれて進んでいくパワーはないだろう。しかし、そういう人間だって、なんとか生きていかなければいけない。
しかし、そういう人間にも、ウェブは役立ちそうだ。内向型の場合、求める目標を外交型より、極端に緩めてウェブを現実生活で直接生きて生きる為の手段にしなくても、本当に無償の自己表現だけのために使ってもよいと思う。内向型は、無理しなくてもいいし、無理しても挫折するだけなので。
しかし、ウェブにおいては、本来完全に対立する「外向と内向」も、実は共通点をもつ。梅田氏も、本書で何度も触れているが、ウェブで評価されるのは、無償の努力、好きなものを徹底的に貫く姿勢である。外交型は、自分にあった好きを貫いて現実に関わればよいし、内向型は、さらに無責任に好きをウェブで貫けばよいのではないか。一人の「内向型」として、そんなことを思った。
梅田氏の言う「勤勉」や「サバイバル」というのも、誤解を招きがちな表現である。下手すると、戦後に会社員が組織のために滅私奉公でやったことを、ウェブでやれといっているだけではないかと。しかし、本書全体を少しでも注意深く読んだ人ならすぐ分かるが、そういう行為を苦しみとしてでなく、楽しんでやるというのが大きな違いだ。それなら、内向型でも出来そうだ。内向型は極端に挫折しやすいので、「勤勉」は苦手ではあるが、本当に自分のペースで自由にやることは得意なので。
「サバイバル」については、なんとか生活さえできるのなら、ふつうの社会的な意味で「サバイバル」する必要などないんじゃないかと思う。そもそも、日本というのは、そういう生き方に許容度が高かったはずなのだ。大風呂敷を広げてしまうと、ウェブは日本人古来の、個が社会から一歩身をひく行き方が出来る可能性を秘めているのではないだろうか。
と、基本的に私が、やりたいのは、梅田氏の著作を拡大解釈することだ。
ついでに、非組織高内向型を対象に特化している書き手がいる。本多信一。普通に大マスコミに就職したが、生来の極端な非組織型内向性のために、ノイローゼ状態に陥り、自殺を図り会社を辞める。その後は、完全に自分の好きなように、なおかつ利他的な生き方をしようとして「無料相談」業をじめる。それだけでは、生計は立たないので、中小企業診断士の資格を取ったり、ものを書くことをはじめて、既に数十冊、いや、もしかすると百冊を超えるかもしれない本を書いている。しかし、本人の中では、あくまで本業は「無料相談」をして人々に利他行することである。ほとんど現実離れした話で、本多信一を架空の人物と疑う人もいるくらいだが、私は実際に数度会ったのだ!
ということで、「非組織型外向型」には、梅田氏の本を、「非組織型内向型」には、本多氏の本を薦めておく。
しかし、梅田の言う「人からどう見えるとか、他人と比較してどうこうという相対的基準に左右されるのではなく、自分を信じ、好きを貫く人生を送ること。本当の幸福とは、そういう心の在りようにこそあると思う」というのは、全ての人間に当てはまる金言である。こういうのを、わかり易すぎるとか、安っぽい人生論といってバカにする人もいるのかもしれないが、こういう当たり前の真実をきちんと言う梅田氏の強さと率直さ私は尊敬する。この言葉を、どれだけ深く受け取る能力があるかは、各人次第なのである。

物書きとしての、梅田氏の特異な立ち位置について。バルザックの話が出てくる。古典的文豪のイメージしかないバルザックは、実は行動的な起業家だったのだ。梅田氏の父親の話が出てくる。もともと純文学作家だったのが、ラジオ、テレビ、広告等の分野に転身を続けた。
現在では、基本的に物書きというのは、書くことのみ行う専門職だというイメージもある。まあ、今時、書斎で苦吟氏ながら文章を生み出すということはないにしても。しかし、本来のもの書きというのは、単なる文章家からはみ出す部分がある人なのかもしれない。そうでないと、本当に広い範囲の社会に生きる人々を動かす力のあるものを書けないのかもしれない。
梅田氏は、普通に考えるもの書きとして異色な位置にあるのかもしれない。しかし、実は本来のもの書きのあり方を回復しようとする人物なのかもしれないと感じる。さらに言うと、梅田氏は別に「物書き」になりたいわけではないのだろう。ロールモデルの章で述べているように、かつて氏が本当に憧れていたのは「シャーロック・ホームズ」である。単なる、若き日の懐かしき憧れなのだろうか、いや、私は、梅田氏が本当になりたいのは、今でも「物書き」などではなくて「シャーロック・ホームズ」なのだと思うぞ(笑)。

ウェブの光と影について。梅田氏は、ウェブについて意図的に徹底的にオプティミスティックに語っている。しかし、勿論ウェブの影の部分についても、十二分に承知しているはずだ。本書を読むまで知らなかったが、梅田ブログも「炎上」しかけたらしいし(笑)。
2チャンネルの功罪について、私は包括的に論じる力は全くない。ただ、2ちゃんるるが、現代人の心のありようの一種のネガであることを否定する者はいないだろう。匿名で完全に自由にものを言った場合に、人の心のネガティブな部分が過剰に増幅されるということはあるだろう。しかし、基本的に現代人の心が、本質的に荒れ果てて、未熟で、攻撃的で、猛獣のように操縦不能なことを、2チャンネルほど雄弁に証明しているものはないと思う。念のため言っておくが、これは2ちゃんねらーに限定した話ではなく、2ちゃんを毛嫌いする人間の心にも、誰しもそういう部分が潜んでいるという意味で。そういう心を持つ人間が使ってしまうと、ウェブはきわめて危険な存在と化す恐れがある。
「オープンソース」に関連させると、技術系については、実際にすでに大きな成果を上げているし、それを否定するものはいないだろう。しかし、梅田氏が本書でもすこし触れている「文型のオープンソース」についてはどうだろう。梅田氏は、良心的なリーダー、管理者の存在を想定している。しかし、問題の種類にもよるが、大雑把に言うと「文型」の世界というのは、各人の主観が関わる分野である。例えば、歴史認識ひとつをとっても、客観的な記述にいかに努めてね。突きつめると各人の価値観、思想、信条の問題に逢着せざるをえない。そういう問題において、本当に客観性や質の高さを保てるもののだろうか。それどころか、声の高い者のみがまかり通り、悪貨が良貨を駆逐して、政治的に有害な現象が起こる可能性の方が高いと思う。実際、現在の日本のネットにおいて、そういう傾向は、既に十分出ているわけだし。
「群集の叡智」への基本的な信頼という考え方に共感する一方で、一番「群集の愚衆性、盲目性」が噴出しかねないジャンルだと思う。やはり、ウェブについて、全てを有効に活用するのでなく、この分野にはあっている、この分野にはあっていないという現実的な区別をすることが必要だと思う。えらく常識的なことを力んで言って恐縮ではあるが・・・。
しかし、梅田氏は、実はウェブへのかかわりについて、自発性、志向性といった形で、受動的にではなく、各個人がいかに建設的にウェブを生かすべきだということを、きちんと言っている。それは、個人としてはその通りだと思う。しかし、私は「群集の叡智」が集団化して暴走した場合に恐れを抱く古いタイプなのだ。
「群集の叡智」と「個」の関わりについて、梅田氏は決して単純な考え方をしていない。序章にこんな部分がある。

「「群集の叡智」とは、ネットの混沌が整理されて、「整然とした形」で皆の前に顕れるものではなく、「もうひとつの地球」に飛び込んで考え続けた「個」の脳の中に顕れるものなのだ。」

梅田氏が、強調するのは、あくまで「個」の主体的なかかわりと努力の側面である。「群集の叡智」は寝ていて、ネットからエサのように与えられるものではないのだ。ネットという混沌世界から、「個」として何かを掴み取ろうとする努力を惜しまないものにだけ与えられる最大の贈り物である。「文系」についても、これはその通りだと思う。グーグルが「グーグル・ブックサーチ」という壮大な実験を実行中だか、もし本当に実現すれば「個」が「群集の叡智」を手で掴み取る有効な手段になるのは間違いない。(しかし、その作業が、もっぱら英語圏で進んでいるというのが残念である。日本というのは、基本的には「規制社会」なので、著作権がらみの風当たりも強いのだろう。)
梅田氏の、ウェブに対する基本姿勢は明確である。ウェブは、最高の宝庫ですよ、しかし、それを生かすも殺すも、各人のウェブに対する付き合い方ひとつなのですよ、ということだ。

グーグル関連でいうと、その「善を信じる世界政府的な発想」は理念としては素晴らしいと思うし、現在のところ実際に、その基本線を堅持して進んでいるようだ。また、ググールがやっていることは、一部の人間が大多数の人間を管理するということではなく、それこそ、コンピューター力を駆使して、なるべく悪い意味での「人間的要素」を排除した形で行っている。
しかし、そうは言っても、根本にあるのは、一部のリーダの「人間的な意志」である。このことについては、やっぱり私は梅田氏のオプティミズムに、無条件にはついて行けないものを感じてしまう。愚かな現実の権力者たちと、一部の賢者の集団というの、昔からよくある話だ。しかし、私はどうしても一部の賢者に全てを任すという発想に、ほとんど本能的な拒否反応を起こしてしまうのだ。ありえない話だが、たとえばグーグルの中枢が暴発したらどうなるのか。また、そうでなくても、ウェブを心底脅威と感じたリアルな権力が、グーグルに介入して、その膨大な情報収集能力を悪用した場合にどうなるのか、それに対抗することは可能なのか。心配性過ぎるよと、笑われそうだが、ほんの少しでも考えておくべきことなのではないだろうか。

最後に、終章のアメリカの話について。アメリカは、かつては旧世界に息苦しさ感じる者にとって、自由に呼吸が出来る「場所」だった。また、現在だって、最小限度の自由は保たれている。
しかし、現にアメリカが現在、全世界に対して行っている政治的干渉と自国中心主義を、無条件で賞賛するものはいないだろう。ここでも、恐らく梅田氏は、そんなことは十二分に承知の上で、アメリカについてオプティミスティックに語っているのだろう。
しかし、アメリカの政府も、メディアも、厳重に自分のよいことしか伝えないように自主規制されており、アメリカ人は政治的真実をほとんど知らないまま、愛国心に捉われてしまっているのが、れっきとした事実である。グーグルがいくら頑張っていても、アメリカの現実は、ほぼ絶望的だといってもいいだろう。
しかし、大切なのは、そういう現実にどう向き合うかということだ。少なくとも、アメリカにおいて、言論の自由は「原則上」は保持されている。徹底的な反アメリカの本だって、いくらでもアメリカ人は読もうと思えば読める。つまり、個人の主体的な取り組み方次第では、アメリカという巨大な幻想の虚偽に気づくことは可能なのだ。そのために、ウェブが強力な武器になる可能性を秘めているのも間違いない。これは、アメリカだけの問題でなく、同じ島国根性を抱える日本にも、同様に適用できる課題であるだろう。
ただ絶望して知るより、梅田氏のように、「個」の主体的かかわりにオプティミスティックに賭けてみるほうが、よほど健全な態度だと思う。梅田氏のこの本は、単なるウェブとの関わりに限定せず、「個」がいかに「世界」と関わるかという問題まで射程に入れているといえないだろうか。誤読、深読みに過ぎないのかもしれないが、少なくとも私はそういう読み方をしたい。
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2007年11月12日

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」雑感

ムズムズして背中に羽が生えてしまったのは、恐らく四コマ漫画の作者だけではない。「ウェブ進化論」の時もそうだったが、なぜ人々は梅田望夫を読んで、これだけ触発され。熱狂し、反発し、巻き込まれ、全否定し、勇気付けられ、失望するのだろうか。梅田の体内に渦巻いているエネルギーの強度と触発機能は、何に由来するのだろうか。父親が、冒険的なもの書きだった血を引いているのか。
そもそも、梅田望夫は、本物か、偽者か。新たなウェブ時代を率いて、人間のライフスタイルに一大革命を起こすオピニオンリーターーか。それとも、ウェブという巨大な幻想を武器に人々を惑わすだけの詐欺師、山師なのか。ある有名ブロガーが、この本を読んで梅田をスピリチャリスト江原呼ばわりしたが、にせのメシアなのか。本物の希望の星なのか。
梅田は、一応経営コンサルトという肩書き「だった」。しかし、本書が明らかにしているように、「固定職業」を目指していた人ではない。梅田は、いわゆる学者でもなければインテリでもない。しかし、ネットなどから猛烈な学習意欲で学びまくり、様々な知識を貪欲に吸い込んでいる。梅田の文章には、何かとてつもないエネルギーが埋蔵されていて、読む者の心を狂わす。
梅田望夫とは、いったい何者か。恐らくなにものでもないのだろう。あえて言うならば、氏がかつてあこがれた「幻想のシャーロック・ホームズ」なのだ。私が、この本を読んで一番感動するのは、ウェブについての論考ではなく、梅田の世にも不思議な存在のありようである。(勿論、最高のほめ言葉のつもり。)

梅田のオプティミズムは、現代のような時代にあって貴重なあり方か、それと現実無視の無責任か。恐らく、それは読む人間の心が決めることだと思う。オプティミズムに共感できる人間はすればよい。出来ない人間は、否定するのもよい。ここでも、梅田は、読む人間の心を映す万華鏡である。
しかし、そうはいっても、確固たるリアルの世界は存在する。ざらざらした救いのない現実を誰もが抱えてトボトボ生きている。が、人間はありのままの現実輪、ありのままに受け入れて生きることが出来るほど強い生き物ではないのである。どんなに現実主義を気取っている人間でも、心の中にみすぼらしい夢をひそかに抱えているものだ。それは、人間の弱点などではなく、人間という生き物の美しき本質なのである。梅田の本が、そういう各人の心の底に隠し持っているものを、著しく刺激し、あるものは有頂天になり、あるものは激しい拒否反応を起こす。

しかしながら、そうは言っても、人は現実を生きなければいけない。梅田のウェブ論は、単なるお気楽な楽観主義者の抱いた一場の夢か。そんなことはない、梅田がいっているのは、ごくごく軽度で初歩的な人の生き方に過ぎない。各人の心のありように従って生きよといっているだけだ。この程度のことが、素直に受け入れられない「現実主義者」は、「現実という幻想」に固執してしがみついているだけなのだ。梅田は、ちゃんと現実との関わりを失わないような書き方をするように極力努めている。しかし、それがかえって誤解を生むところなのだろう。梅田の極めて現実的なアドバイスを生かすも、生かさないも、完全に各人の自由に任せられている。梅田の示すウェブ活用法は、きわめて現実的な一方で、とてつもなく遠いところまで恐らく届いている。しかし、それは断じて「現実拒否」などではない。

しかし、そうは言ってもさすがに私だって、すこしは現実に戻らずにはいられない。技術系のオープンソースについては、ウェブは間違いなくとてつもない効力を発揮するだろう。しかし、「文科系のオープンソース」については、恐らく現実的には意味を持たないのではないだろうか。グーグルの「善を信じる世界政府的な発想」にも、私はついて行けないし、ごくごく常識的な危惧すら覚えざるを得ない。
つまるところ、その種の問題は、人々の「心」のレベルの問題に帰結する。残念ながら、我々の持っている「心」はどうしようもなく未熟で混乱している。それこそ、2ちゃんを三秒でも見れば分かるが、人の「心」はまだ幼児的段階なのである。2チャンネルを平気かイヤなのかは、自分の心の在り方に、無意識か意識的かの違いに過ぎず、誰の心もそれほど違ったレベルにはない。いかにウェブという受け皿が無限の可能性を秘めていようとも、その主体となる人の「心」がどうしようもないので、残念ながらそれを生かすことなど不可能なのだ。これは、ウェブの世界の問題でもなければ、リアルの世界の問題でもない。大きく出ると、人類の永遠の課題であり、それだけが本来は、唯一の「現実」の問題なのである。


ウェブは、果たして現実の世界に革命をもたらすか。断じて否。
しかし、梅田の本を読んでいると、そんなことはどうでも良いと感じる。梅田の本が喚起する、とても危ういながらも美しい夢を受け取る力を、読者が持っているかどうかが一番肝心な問題なのである。少なくとも、私は何かを受け取ることが出来た。それをどう現実に反映されるかは、徹頭徹尾各人の個体責任の問題に属する。そもそも、どんなに刺激的な書物でも、それが限界なのである。しかし、そういう可能性を、かすかでも提示できる書物は、滅多に世の中には存在するものではない。
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2007年09月25日

梅田望夫・平野啓一郎「ウェブ人間論」

まず、この本を読んで思ったのは「スター・ウォーズ」シリーズをもう一度見直してみないと、ということ(笑)。ほとんど良く覚えていないのだが、思ったほど悪い映画じゃないというのと、やっぱり善悪単純に分けすぎだ、というのだけ覚えているんだけど。まあ、これだけはちゃんと見直してみないと何もいえないが、グーグルの首脳が、スター・ウォーズ的世界観を共有している「無邪気」な人たちだというのは、やはりちょっと怖いと思ったというのが率直な感想だ。梅田さんの「ウェブ進化論」の中にあるグークールの「世界政府」という表現をみて否定的な反応をした人たちも多かったそうだが(私もその一人)、本人たちの意図が「良きもの」だとしても、彼らが無邪気に生み出す膨大で強力な情報システムが、もし悪用されたら、ということをどうしてもすぐ考えてしまう人間なのだ。彼らのやり方が、従来のガチガチな社会秩序を溶解してくれるかもしれないという可能性に希望を託すことができるかもしれないという気持ちもある。しかし、それはあくまで、情報を提供する「枠組み」にとどめたほうがよいとも感じる。
すごくありきたりな考え方だと自分でも思うが、ネットの新しい潮流は、あくまで情報を提供する枠組みに限定して、情報を本当に自分のものとして咀嚼し深く考えるのは、各個人が自力でやるべきことという二分論である。古臭いとか保守的とか言われそうだが、ネットでスラスラ集めた情報だけで、本当に人はものを考えることは出来ないと思う。今言っていることは、あくまで、個人の信条思想生き方価値観にかかわる領域に限定する話だが。
ジャンルによっては、そんな面倒くさいことをしなくても、どんどん情報共有してしまったほうがいいものも当然ある。ソフトにしても、技術的な問題にしても、将棋の技術とか棋譜の情報などについては、別に個人で手間をかけて考えなくてもいいことなので。
しかし、やはり基本になるのは、個人の考えである。それがスターウォーズ的価値観を前提に一色に染められてしまった価値観を前提に推し進められたら、たまらないというのが私の素直な反応なのである。
ただ、現代、特に日本においては、本当にものを考える材料をほとんどの個人が与えられないままに過ごす社会システムの中で生かされていて、ネットが、そういう情報の閉鎖を打ち破る可能性はあるとは思う。しかし、現状としては、その力は建設的な方向に働かず、単なる、社会に対する不満の吐露に過ぎなくなってしまっているという印象がある。そうした行為を、ネットを行っている人間が、自分や社会を本当に変えるのではなく、単なる欲求不満の捌け口の安全装置として働き、なおかつ批判をいっているつもりの本人が、完全に社会の従来の価値観に同化し従順なのに、ますます気づかなくなっているという。
こんなネガティブなことばかり言っている自分が情けないが、とにかく、一読して率直に感じたことを、とりあえず書いてみた。
他にも、匿名性の問題、ネットにおけるリアルとは別の人格の問題など、興味深いテーマが、たくさんでてきていたが、力尽きた。
「ウェブ進化論」のことを書いたときにも言ったが、とにかく、もっともっとウェブについて勉強しないといけないなどと殊勝に思っている。
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2007年09月20日

梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)

えーー、恥ずかしながら今頃になって、この話題の本を読んでみた。このところブログを書くのが一番の趣味になってしまって、ここではなく「ものぐさ将棋観戦ブログ」を中心に書いている。しかし、ほとんど一方的に言いたいことをたれ流して、読んでくれる人に読んでもらえばいいや、程度のことしか考えてないもので、ウェブ自体についてほとんど興味もないし、その結果当然無知もはなはだしい。「WEB.2.0」、何それ、ってなもんで。
という人間なので、とにかく勉強になったし、知らないことばかりなのでかなり興奮しながら読み終えたわけです。したがってウェブ自体について何か言うのは到底無理。すこし一般的な話題「総表現社会」、「不特定多数無限大への信頼」あたりについて、素朴に感じたことを書いてみる。
まず、「総表現社会」について。具体的に私が関わっている将棋に即して考えてみる。まず「情報の共有」ということについては、間違いなくウェブはとんでもない効力を発揮している。プロ棋士のブログがたくさんあり、様々な情報を発信する多くの一般のブログがあり、ブログではないが、ネットによるプロ将棋の中継と、あわせて十分な解説の提供がある。将棋ファンにとっては楽園状態だ。
一方「表現の質」ということについて。正直言って、一般者の将棋ブログで「これは」といえるのは、本当に数え上げたらすぐ終わるという程度しかない。いや、それどころか、将棋を伝える専門であるはずの「表現者」のメディア側についても、本当に読めると思えるものはほとんどない。これは、こと将棋にとどまらない。自分が興味のある、音楽、映画、思想などについても、ごく一部の突出した優れたブログか少数あるだけ。やはりネットではない専門の表現者の方も、かなり心もとない。
多分、ウェブの問題ではなく、専門の人間も含めての、全体的な質の劣化が本質的問題なのではないかと思う。別に私は「衆愚社会」を嫌悪するといった類のイヤな人間じゃないつもりだけど。専門的な表現者を含めた社会自体がそういう状態だと思っているので、それを母体にするウェブに楽観的な考え方をすることが出来ないのだ。
ウェブに期待できるのは「情報の共有」のジャンルに限定されていて「表現の質」の方については最初から期待しないほうがいいのではないかという、すごく頭の固い古臭い考え方である。こうして専門の表現者でもないのに、ブログで好きなことをいう機会を与えられていながら我ながら恩知らずだとは思うが。
「不特定多数無限大への信頼」について。これについても、何が信頼できて何が信頼できないか、ウェブに何が向いているか、向いていないかの区別が大事だと思う。情報を一部の人間が、囲い込んだり占有することにたいする突破口にウェブはなるかもしれないとは思う。また、管理されつくされている現行メディアには決して現れない人間たちの率直な意見が聞ける場になるかもしれないとも思う。しかし、そういう管理から逃れた個々の声が聞ける場としては貴重でも、それが集団となって高い集団知の叡智に達するかというと、やっぱり疑問を覚えてしまう。権力側が、守旧的で支配的だとしても、一般の集合知も、ごっちゃになるとやはりそれに劣らず危険な猛獣と化すという、ふるーーい考え方をしているのだ。この問題についても、管理されない個別の情報を共有するという役目については、すごく期待するけれど、それを束ねて何かをもたらすということは期待しないほうがいいと思う。但し、適したジャンルとそうでないものがあると思う。例えば、本書で紹介されているソフトのオープンソースについては、明らかに適した分野だ。しかし、例えば政治的な世論の形成については、役に立たないどころか危険だと思う。別に大衆に対して侮蔑的な考え方を持っているつもりは全くなくて、そもそも集合的な世論というのが本来そういう性格のものだと思っているので。これまた、古典的なありきたりの考え方で申し訳ないが。
それと、気になったのは「グーグル」が推進している個人の情報を「あちら側」におくというやり方。心配性な私などは、そういう「あちら側の世界」が悪意のある人間に利用されたらということを考えてしまう。実際グーグルの上層部は、良心的な人間で現在はそういう恐れはないようだが、むしろ悪用しようとする人間のほうが一般的には多いのではないかと考えてしまう私は、やはり徹底的なペシミストである。オーウェルの1984の影響が強すぎるのかもしれない(笑)。
私は将棋を通じて梅田さんを知ったのだが、梅田さんのことが人間的にとても好きなのだ。本書でもそうだが、底抜け楽観的で明るくて活気があって少年のようなところがあって。私に欠けているものを全て持っている(笑)。そういういい意味のオプチミスト梅田さんの書いたこの本を読んで、ぺシミストぶってみたくなっただけのことである。
それより何より、ウェブについてもっと勉強しようと思った。この本だけ読んで感じた表面的な、初歩的な感想を素直に書いてみた。こうして書き散らしてきたことにも、きっと無理解ゆえの誤りも多々あるのに違いないと思う。これからいろいろ読んでみるつもりである。
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2007年09月16日

ウォルフレン教授のやさしい日本経済

2002年初版、ということで小泉さんが出現した後の本である。「日本/権力構造の謎」では、日本人に対して、かなり辛らつな書き方をしていて、読んでかなりムッとしてしまったわけだが、これは日本人向けだということもあってかなりソフトタッチです(笑)。また、啓蒙を意図して書いているので、すらすら読める。ウォルフレンは、アメリカ嫌いでもあるので、英米圏ではないヨーロッパのメジャー国ではないオランダ人として、日本人にも共感を覚えているという感じである。
「日本/権力構造の謎」みたいに、一方的に日本を批判するのでなく、日本の特殊性、長所もある程度認めながら、現行システムでいく危うさもきちんと指摘するという客観的な書き方をしている。この本の方が、読むのにはお勧めである。
とか言っても、当たり前のように真実のように書かれているが、多分ちゃんとした学者筋からは、あんまり認めてもらえなさそうな話満載だということを念頭において読まれたほうがいいかもしれない。でも、私はほとんどウォルフレンの言うこと信じちゃったんですけどね。
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2007年09月13日

ウォルフレン「日本/権力構造の謎」 上・下

遅まきながら、ウォルフレンの主著を読んでみた。まあ、日本人としては腹立つ本である。これ、読んでちっとも腹立たないって言う人がいたら、尊敬するって言うか、軽蔑するって言うか。まあ、外国人だから遠慮なく言えるというところはある。
要するに、日本には責任不在のシステムから成り立っていて、官僚、政治家、財界人が、管理者(アドミニストレーター)として日本を支配している。しかし、それぞれの力には限界、縄張りがあって、最終的な権力者はおらず、システムをもたれあって維持している。一般大衆は、システムに馴致させられていて、そのことに気づきもしていない。システムの存在さえ理解していない、といったところだ。
根本の理論には別に、取り立て新しい知見があるわけではない。中心の空虚についてはロラン・バルト、無責任の体系については、丸山真男の焼き直しである。しかし、外国人らしく、遠慮会釈なく具体的な事象を次々に叩ききっていくのは、やっぱり一種の爽快感はある。
農協、ヤクザ、右翼、文部省、日教組、組合、田中角栄、警察、記者クラブ、司法、電通、同和問題、新興宗教、流通機構、内務官僚の戦後における復活、等々。無知な私は、知らないこともいっぱいあった。といっても、どこまで真に受けていいものか、留保して読まなければいけないのだろうけど。
政治、経済、社会問題についての分析は、多分、おおむねあっているのだろうなという感覚、あくまで感覚に過ぎないが、はある。
ただ、日本人は、システムへの服従を胸にしていて、なおかつ西欧的な法の普遍的精神に従うことが全くない、というような単純な対比をされると、ちょっと、ちょっとといいたくもなる。
さらに、「それこそ、すなわち日本人的な価値観、文化だ」という抗弁も、実は、管理者が一般人を馴致する方便、自己正当化に過ぎない、とかウォルフレンは言うのだ。まあ、そうかもしれませんけどね。認めないわけじゃないのだが、この本実際に読んでもらえば分かるけど、日本ダメ、西欧ヨシのあまりに自国の文化についての楽観的な対比をしすぎしているのだ。
法の支配が成立しているとしても、あくまで、それは歴史的には自国の文化圏の成員に対してのみであって、異邦人に対しては法もクソもない徹底的に残虐な態度をとり続けていたことなどは、完全に度外視かよといいたくなる。どちらの文化にも、長所、短所はある。西欧文化は、合理的で各個人の自我が確立しているけれどだけども残酷、残忍、非寛容、自己本位、日本文化は、不合理で、権威服従型で現実を変える契機に乏しいが、他者との関係を保つやわらかい自我構造だ。まあ、多分どっちもどっちなのだろうけど。
日本の経済成長が、一般の庶民をシアワセにしていないという指摘も基本的には正しいだろう。しかし、少なくとも衣食住足る、それも十分に足る、という偉業を、このどうしようもない世界の中で達成したことについては、ほんのチョッピリ言及するだけ。働き虫の日本人は、システムに服従しているだけの、意気地のないアワレな人間たちとでも言わんばかりだ。全然、実際の日本の庶民を見ていない。見ていないのはいいとしても、これっぽっちの愛情もない。高みから、従順なアワレな日本人どもよ、目覚めなさいと諭すだけ。まあ、私の言っているのは感情的な批判なんですけどね。
まして、聖徳太子は、仏教の和の精神を支配原理として利用した、とか、本居宣長は、無理論、無原理を主張することで、体制を正当化したとか、これ以上ないくらい浅薄な議論である。親鸞は、超越的普遍的な原理に迫ろうとする態度がすこしはあったし社会批判的要素もあったからから、日本人らしくなくて、なかなかよろしい、とか。カンベンしてよ。
ウォルフレンみたいな人間に深い心の問題など語るのは、ハナから無理なのだろうけど。各人間が、自立して権利をちゃんと主張して、物質的に幸せな活を送れば、それでは万事OK位にしか考えていないのかしら。徹底的な現世否定の契機を含んでいた、イエス・キリストが聞いたら、さぞ悲しむだろうって。
矛盾するようだが、政治において一番大切なのは、国民が不自由なく暮らせるようにすることだけだと思う。心の問題は、各個人が取り組むべきことで、政治が口出しするような低次元の問題じゃない。その意味で、戦後の政治、官僚は、あくまで結果的には、最低限のことはきちんとやったと思う。無論、別に国民のためを思っていたわけでもないだろうし、ウォルフレンの指摘の通り、各人が自立的に考える自由を、とことこ制限する形、心の問題にまで介入しようとするやり方だったという限界付だけれども。でも、ウォルフレンの思うほど、庶民は権力に服従しているわけじゃない。全く実際の庶民なんか、ほとんど見てないのだろう。
今後従来のシステムのままでは、破綻はまぬかれず、「構造改革」っていうやつも、国民の自覚もきっと必要なんだろう。この本は、1990年ごろの本だ。当然、日本を取り巻く状況は、全く今とは違う。で、日本のシステムは変わったか。小泉氏が本人は本気で改革をしようと思っていても、無理だったのは、やる気不足だったのではなく、首相にそんな権限、力がなかったからに過ぎない。官僚、政治家、財界人の、システムに阻まれたわけで、ウォルフレンの分析は生き続けている。また、経済的強者を優遇するシステムの本質は、ますます露骨に表れてきているというべきだろう。
悪口ばかり書いたが、何かを知りたいと思う日本人なら是非一読すべき本だというのが、ねじけた結論だ。
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2007年08月20日

岸田秀 唯幻論物語(文春新書)

「極東ブログ」の過去記事で取り上げられていたので読んでみた。
昔からの岸田秀のファンである。特に「ものぐさ精神分析」。ブログタイトルも、その影響だ。しばらく、追っかけで出版される本は読み続けていたのだが、国の関係に精神分析を持ち込んだあたりから飽きてきた。当たっているといやあ、当たっているのだろうが、どうも恣意的な感じがして、国家のことについては精神分析するより、ありのままを事実のことを知ったほうがよっぽど面白いし刺激的だし、ためになると思ったので。例えばチョムスキーのように、事実だけを指摘しただけの本で十分ショッキングである。生意気ながら「ものぐさ精神分析」を超える本は、もう書けないだろうと思って、新著は読んでなかった。
というわけで、久しぶりに読んだのだが、まず、何より相変わらず面白い文章を書く人だ。なんせ、岸田にかかるとラカンも、次のように言われちゃうのだ。
「ある種の女は、男に口説かれてすぐセックスを許せば安っぽい女と見られるので、高く売り込むために、口説き落とされるまでに男に時間的、エネルギー的、金銭的にできるだけ多くのコストをかけさせようとするが、(以下略)」
ラカンは、思想的にそういうことを行っただけだという調子なのだ。また、批判を受けて本著を書くきっかけになった「すばらしき愚民社会」の小谷野敦については、
「私は彼が、わたしよりもはるかに若いのにもかかわらず、私の読んだことのない、というより聞いたこともないような本を猛烈にたくさん読んでいることに心底より驚き、彼の抜群の学識に感銘を受け、それ以来、彼を深く尊敬していたので」
だって。別に皮肉とか言ってるのでなく、多分岸田は本心からこう思っているのだ。困った人である。おかしくて仕方がない。(一方、小谷野も、若き日に「ものぐさ精神分析」を読み、感銘を受け、座右の書にしていたそうである。はっきりいって、教養あふれる若きインテリで愚民社会を批判している男の本など、ちょっと敬遠したくなるのだが、そういう人間ならば読んでみようかと思ってしまった。)
さて、岸田は、「ものぐさ精神分析」以来ふれてきた、個人的に問題を抱えていた母子関係についてまとまって語っている。簡単に言うと、母親のとった、意識的には子を思うような良心的な態度とは裏腹の、無意識には子供を犠牲にする態度のせいで、岸田は、強迫神経症、鬱病になったということだ。母の愛は絶対だというのも、岸田に言わせれば幻想に過ぎない。また、別に母親が根っからの悪人だったというわけではなく、むしろ意識的には良心的なのに、それとは裏腹な無意識の意図のために、子供が苦しみ、うまく受け取れなくて神経症になるというのは、とてもよく納得できる。
レインの家族分析とか、ダブル・バインドとかと、つながりそうな話だ。ただ、岸田の場合は、あくまでフロイドに忠実である。といっても、岸田はフロイド派の、正統な精神分析医などではない。むしろ、正統なフロイド派の精神分析には批判的である。この本の中でも、別にフロイドが言うまでもなく、昔からのことわざでも、そういうことは言われていたと指摘している。もったいぶったブランドの精神分析など必要でなく、古くから人間の知恵がつかんでいたことをフロイドはきちんと整頓しただけとでも言いたげである。
そもそも、私が「ものぐさ精神分析」に感動したのは、別に岸田の唯幻論が素晴らしいと思ったわけでもなく、フロイド学説に同意したわけでもない。岸田の言葉が、あまりに生きていて、ただの文字の書物なのにもかかわらず、読みながらそのまま最高の精神分析を受けるような思いが出来たからだ。高名な精神分析医の書いた文章を読んでいると、この人、本当に自己分析とか出来ているのだろうかと、率直に思うことがある。精神分析医になるためには、必ず自己分析か他人の分析を受けている筈なのだが。岸田の場合はその種の「正当」な経験は一切ない。それにもかかわらず、明らかに厳しく自己分析を成し遂げた人間の文章なのだ。岸田の場合、実際強迫神経症にかかったので、有無を言わさず実際に自己分析せざるを得なかった事情があるのだろう。とにかく、自己分析に実際自分の血を流した人間が書いているので、読む人間をあれだけ動かすのだろう。
余計なことを言うと、別に「フロイド」に思想基盤を置かなくてもよかったんじゃないかという気もする。私は、岸田の影響など受けて、若いときにフロイド全集など買い込んでしまった。絶対読まねえだろうと思いつつ。しかし、意外にも結構読んだ。フロイドというのは、とにかく比類なく抜群に知性の高い人なのだけは間違いない。その説に同意するかどうかには関係なく、その思考の足跡を、何とかたどっているだけで、十分面白いのだ。
ただ、そうは言っても、汎性欲説とか、エディプス・コンプレックスについては、最初から「本当かなあ」と思っていた。岸田のような筋金入りのフロイド研究かに対して、どシロウトがこんなことを行っても無意味なのだが、岸田が母子分析について行っていることについて、本当にフロイドの汎性欲説が必要だとは思えない。本当に必要なのは「無意識」と「意識」の構造関係だけなのではないだろうか。岸田が、自ら述べているように、一般の知恵が気づいていたことをフロイドは理論化しただけで、その場合に有用なのは「無意識」だけで、汎性欲説をはじめとするフロイドのヘンテコな思想は全く必要ないのではないかと。そういえば、小林秀雄も講演で、フロイドでもっとも大切なのは「無意識の発見」だけだという意味のことを言っていた記憶がある。
岸田はユングに批判的である。せっかくフロイドが理論的に突き詰めたことを、「集合的無意識」などの恣意的な概念を持ち込むことで台無しにしてしまったと。岸田のように徹底的に合理的に考えようとする人間からすれば、そうだろうと一応納得は出来る。ただ、それもフロイドの合理的な思考の切れ味についての評価であって、フロイドの特異な思想が真実だという根拠にはならないという気がするのだが。フロイドはたまたま、汎性欲説を採用した。しかし、本当の自己とか、権力欲とかいった概念を、もし、フロイドが本気で展開しようとしたら、汎性欲説と、全く同等の思想を構築できたのではないだろうか。
まあ、自分でも何いっているかよく分からず、ゴチャゴチャ書いてきたが、ようするに言いたいのは、フロイドの無意識の構造についての洞察は真実だが、そこに付加する汎性欲説などの偏った思想は、個人的には全然信用できないという程度のことである。
さて、岸田の母子関係に基づく、自己分析の話に戻る。親と幼い時にどういう関係性を持つのかは、間違いなくその人間にとって致命的な影響を及ぼす。少しでも、そのことを意識的に分析した人なら、他人との接し方や、惹かれる異性などについて、どれだけ親との関係性が圧倒的な影を投げかけているかに気づくだろう。そのことを意識せずに、自分が本当に「自由」に振舞っていると考えるのは、紛れもなく、それこそ「幻想」である。自己認識というのは、いかに自分が自由に見えて不自由なのかに気づくほろ苦い行為である。
岸田は、親子関係の欺瞞を鋭く指摘するが、親に全ての責任があるなどと入っていない。どんな変な親に育てられても、同じ人間になるとは限らず、受け取る側の問題も大きいことをきちんと指摘している。そういう受け取る側の個性の根拠として「遺伝」についてなどいっている。しかし、遺伝ならば親の特性を受け取るわけで、同じDNAを引き継ぐ人間に、兄弟同士でなぜあれだけの大きな差が出てくるのかがよく分からないのだが。
理想を言えば、親子関係の欺瞞性に気づいた上で、そういう親も同じ人間として同情してみて「許す」ということだ。岸田もこんなことをぃっている。
「親の悪を認識した上で、寛大に親を許した人であって、広い慈悲の心から親を許さない私の不寛容を批判しているのか、(以下略)。
仏教の言う慈悲とはそういうものなのだろう。ただ、これも言葉で言うのは易く、実際に実行するのは至難の業である。それどころか、無理に意識で許そうとしたら、本当には許していないエネルギーが無意識にたまって危険なだけである。だから、岸田のように自分にとことん正直な人は、古希を超えてもいまだに「親を許せない」といっているのだ。この辺が岸田らしいのだが、勿論それでいいとも言い切れないところだ。
それと、岸田が自己認識の方法について述べていることも興味深い。自己認識のために、沈思黙考して自分の心の奥底をのぞいても無意味である。そんなことをしても自分の都合によいところしか見ることが出来ない。あくまで、自分を知るのは、他者とのかかわりを通じてである。他人に対して、自分がどう反応しているか、あるいは、他人が自分をどう見るかに、貴重な手がかりがある。あくまで、自己は他人との関係性によって見えてくるものであって、孤立した自己など存在しないのだから。大雑把に言うと、仏教的な関係性の思想である。
また、他人は、自分の無意識な部分を、いとも簡単に見抜く。自己の意識は、自分の無意識には自覚的ではない。そもそも、自己の無意識というのがそういう性質なのだから当然のことである。だから、どんなに自分より劣っている人間の意見でも、自分よりは無意識を良く捉えていることが多いので、そういう他人の見方を尊重すべきなのだ。
それと、自分が「嫌い」なものにも注目する。ある人やものが、どうにも我慢できないほどイヤでイヤでたまらないとする。なぜ、それだけ感情的に反応するかというと、それが自分が無意識に無理に押し込めて抑圧している弱点だからだ。無論、その嫌いな人と自分が同じだということではない、自分が、懸命に抑圧している弱点を、その人物が、アッサリと表に出しているのが耐え難いのだ。この方法は、岸田以外にも述べている人がいる。フロイドを元に、こういう事実に気づいて、なおかつ実践している岸田は、やはり大したものだ。私自身も、やってみたことがあるが、実に苦しい作業である。
クリシュナムルティと岸田はちょっと似ているところがある。岸田は、全ては「幻想」としてその欺瞞を徹底的に剥ぎ取っていく。クリシュナムルティも、自由と思っている自己がいかに条件付けられた不自由なものであるかを、とことん否定していく。根本的に違うのは、岸田がそういう幻想をはいでいっても「悟り」など存在しないとするのに対し、クリシュナムルティが、あくまで確固とした「悟りや心の安定」を前提として、否定作業を行っていることだ。「悟り」を全く実感できない私は岸田に同調せざるを得ない。岸田と私の違いは、岸田が実に男らしく「悟り」など存在しないと言い切るのに対し、私は、到底ありえそうもないが「そういうものがあったらいいな、あって欲しい」とつぶやくことだけだ。
岸田というのは、自己認識を言葉だけでなく、実際とことん人体実験して行い続けてきた、徹底的に宗教的ではないのにもかかわらず、不思議に宗教的聖者のような男だとおもう。
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2007年07月02日

茂木健一郎 「脳内現象」雑感

昨日、脳を科学的に解明して言った上で残る「観察者」「Xの部分」について書いた。言い換えると人間の「私」の神秘である。この本では、その「私」の成り立ちの根本について、脳科学の先端研究成果を駆使しながら迫っている。茂木氏は、そういう問題意識を持った素晴らしい科学者である。


「私」を主観的に成立させる方式として、氏が結論づけているのは「メタ認知的ホムルンクス」である。ホムルンクスというのは、脳の中に住んでいて、働きを遂行している小人である。当然ながら、科学的思考においては、そうした仮設は否定されてきた。茂木氏は「私」の謎に徹底して迫ることで、どうしても「メタ認知的」なその種の問題を仮定せざるを得ないところまで行き着く。


科学者が、科学者であることを全く放棄することなしに「私」の神秘に迫ろうとしたギリギリの思考記録である。

それを追うだけでもう十分価値のある書物である。しかし、やはり素朴な疑問がわく。氏は、やはり科学者として、「私」を成立させる基盤としては、脳の神経ネットワークを大前提にしている。そこに異質な「メタ認知」を持ち込んでいるわけだ。ギリギリまで努力しているにしても、なぜ、脳の神経ネットワークを前提にしなければいけないのだろうか。科学でなくなるからといってしまえば、それまでだ。しかし、結局は科学が通常では用いない「ホムルンクス」を持ち出さないと「私」が説明できないといっている。氏が否定している「独我論」「観念論」に、どうしてもつながってしまっているのではないかという気もする。気がするだけだが。また、逆に脳の神経ネットワークを前提としないで「私」を考えてはなぜいけないのかと、素朴に考えてしまう。

「私」の存在を科学的にではなく徹底的に追及した例としては仏教の「唯識」がある。西欧哲学的には「独我論」「観念論」と分類されてしまうのだが、その精緻な理論構成と重層的な世界観は、私などでは理解しきれないほど凄みのあるものである。宗教というよりは、完全に哲学である。「私」を追及するには、科学ではない、こういうやり方しかないのではないか。私見だが、やはり科学的方法で「私」を見つけるのは相当至難の技なのではないかと思う。

しかし、とにかく色々勉強になる本である。「脳と仮想」は面白い読み物、こちらはいろいろ知見を仕入れることが出来る役に立つ本である。さらりと読めた昨日の本と違って、はっきり言って、今日は読んで今グッタリしているので、もうこれで終わりにする。

さあ、飲もう、でもその元気もあまりないくらい疲れたよ。

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茂木健一郎「脳と仮想」雑感

茂木さんに興味を持ったので、新潮文庫で読んでみた。面白い。言うまでもなく、茂木氏は、私などと比べることも不可能なレベルの人である。だから、とやかく言うのは本来避けるべきなのだが、あまりに自分の関心と重なる部分があり、それが微妙にずれているのでインネンをつけてみる。

茂木氏が、様々な例をとりながら述べていることはただひとつである。科学的、合理的な世界観、因果性で説明できる物質世界がある一方で、人間には自分の心を個人的に働かせることで成り立つ「仮想」の世界が存在する。それは、科学的世界観の説明からは、抜け落ちる部分であり、個人の心のクオリア(質感)によって異なり、個人の心の志向性で成り立つ主観的な世界である。現代では、そういう世界は軽視されがちだが、実際に生きるためには不可欠であり、無限の豊かなイメージをはらむ、そうした「仮想」の世界を見直すべきではないのか。

そうしたテーマを、小林秀雄、夏目漱石、ワグナー、キアロスタミ、柳田國男、といった魅力的な素材をふんだんに織り込みながら論じていて飽きさせない。

ただ、その「二つの世界」の関係性の根本について、「やはり脳科学者だ」と思わずにはいられない箇所がある。引用する。

「人間が体験することは、全て、脳の中の一千億のニューロン活動によって引き起こされる「脳内現象」だということである。」

「「近代科学の明らかにしてきた、局所的因果律に基づく世界観は、恐らく揺らぐことはない。」

どうも反論などできそうにない。しかしあえて「本当なの?」といいたくなってしまう。最初に断っておくが、私はオカルティストでもなんでもない。

現代科学によって、脳の働きは飛躍的に解明されている。その科学的成果を否定するのは単なる愚か者だろう。しかし、どんなに解明が進んでも必ず「残る」部分が存在する。この問題については、昔読んだある本(題名すら忘れた)で私の中では解決済みである。

脳の働きをどんなに科学的に解明していっても、それを認識する存在がどうしても必要になってくる。科学的過程だけが自立的に存在しているのでなく、それを「観察する存在」がどうしても必要だ。その部分だけは、どうしても科学的な記述を逃れてしまう。その「X部分」を度外視して、全てを脳の働きで科学的に説明することは不可能である。

わかりよすぎる話だが、私はこれですっかり安心してしまっているのだ。だから「全てが脳内現象」というのは「本当なのかな」と思ってしまう。もっとも、茂木氏もデカルトを例にとって、この問題を論じているので、私の理解が不十分なのに過ぎないかもしれないが。言うまでもなく「唯脳論」などというたわごとは、私はこれっぽっちも信じちゃいない。

柳田邦雄の「遠野物語」の話が出でくる。「幽霊」や「ザシキワラシ」の話である。「仮想」の観点から茂木氏は切りこんでいる。この問題は吉本隆明が「共同幻想論」で「共同幻想」という独自の概念で論じていた。吉本の見方は、あくまでそうした「幻想」として説明できるという立場だ。茂木の「仮想」も、基本的にはイメージの世界であって、その実在性などそのまま信じてはいない。私は、その両者にも不満なのだ。もう一度言うが、私はオカルティストではない。

小林秀雄の講演テープを茂木氏は絶賛している。実は、私もその講演の大ファンなのだ。恐らく茂木氏よりも早く聞いているみたいなのが自慢だ。茂木氏の指摘通り「志ん生」なのである。文章から受ける印象とは全く違う。どうして、こういう風に書いてくれなかったのかと思ったものだ。但し、その見方もその新鮮さが薄れるにつれて、やはり小林は文章のほうが優れていると今では思っている。小林の文章は骨っぽいが、実は全然退屈でないことに気づきだしつつあるので。そのことに少し読んだだけでは気づかないだけだ。やはり、パロールよりもエクリチュールが優位なのである。

茂木氏もふれているのだが、いきなりユリ・ゲラーの話がでてくる。茂木氏は、違和感を感じながらも「仮想」の観点から受容するという立場だ。はっきり「超能力など存在しない」と、茂木氏は言い切っている。

小林は「あんなことは不思議でもなんでもない」と、講演中で言っている。それを、「不思議なことは他にもいくらでもある」と言っているので、もともと超能力など重視していない、という読み方を茂木氏はしている。しかし、私はアレを聞いて「ああいうものが『存在するのは』当たり前だ」しかし、「他にも不思議なことはいくらでもある」と聞いた。私が、小林の講演が好きになった根本理由に関わるのである。しつこいようだが、私はオカルティストではない。しかし、あの程度のことは「当たり前」出し、別に「超能力」というほどのこともないと思う。「局所的因果律」の絶対性が、私は(恐らく小林も)信じられないだけである。

中沢新一が解説を書いている。正直、どう見るかにとても興味があった。しかし、随分無難な見方にとどめている。無論「脳内現象」信奉者だから、茂木がつまらないなどというのは、きわめて皮相な見方である。だから、中沢のように、茂木氏の刺激的な論考を、ポジィティブに受け止めて、楽しめばいいだけかもしれない。

「仮想」を重視するのはいいが、「合理的世界観」「脳内現象」と、根本的なところで、どう折り合いをつけているのかがやはり気になってしまったのだ。その答えを探して、しばらく、茂木氏の本ばかり読む羽目になるかもしれない。

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