2012年09月16日

黒澤明「わが青春に悔なし」



この映画については、一年半前ほど前に書いた事がある。自分では何を書いたかすっかり忘れていて驚いたのだが、やはりマルセ太郎ネタで我ながら呆れた。ワンパターンである。

MONOGUSA blog 黒澤明「わが青春に悔なし」雑談

さすがに時間が大して経ってないので感想は今もさほど変わってない。前回書いてないことを若干補足しておこう。
黒澤は、その役者のイメージとは全く異なる役をさせたがるところがある。この映画や「白痴」の原節子はその最大の被害者?だろう。
ここでの後半の農民役も勿論だが、前半の勝気で少し我儘なくらいの自己主張の激しいお嬢さんというのも、多分当時の「アイドル」原節子のイメージには反するものだったのだろう。
しかし、見れば分かるように本作でも「白痴」でも、原節子という役者、あるいは人間の持つ激しい過剰な部分が見事にはまっている。黒澤は原節子のそういう部分を多分直感的に見抜いたのだろう。そういう理屈ではない勘はすごく鋭い人である。
但し、そういう部分を引き出したのは黒澤だけではなくて、小津も「節子」的なお嬢さん的な役をさせながら、「晩春」で原の過剰な部分をある意味では黒澤以上にラジカルに引き出して見せていた。いや、成瀬の「驟雨」なども普通のようでいて実は普通じゃない。
原節子は、あの時代の役者には信じられないくらい「個」や「自我」を感じさせる存在である。そして、(一緒に論じるのは不可能だが)、黒澤や小津や成瀬というような「日本的」であるようで、常にそこから逸脱する過剰な部分をもつ作家たちにその個性がピタリと合っていた。
原節子は、あの時代の日本映画に出るために、全く時代にあわないのにあの時代に生まれたのである。黒澤が、ある意味ではそれを一番ストレートに引き出して表現した。
藤田進は「姿三四郎」の大らかな役と違って、ここでは大変政治的な役だ。うまく演じていると思うが、多分本質はこういうところにある役者ではないような気もする。昔に初めて見た時は「姿三四郎」も何も知らずに見てあまり苦悩する政治犯のようには見えないと思った記憶がある。
藤田は戦時中は、多くの戦意高揚映画に主演して軍人俳優として活躍して、本人もその事を気に病んで戦後派引退も考えたが、他にやる事もなくて役者を続けたそうである。ここでは、戦時中とは正反対の自由主義者の役だ。
役者としての出来ということでは、河野秋武が素晴らしい。実に小心で屈折した心の卑劣な男といった役柄だが、そういう人間のいやらしいところをクセのあるキャラクターで見事に演じている。
映画冒頭あたりで、藤田にズケズケと物を言われて機嫌を損ねた原節子が河野に対して「ひざまずいて誤りなさい」と唐突に言うシーンがある。これも考えてみればSMプレイのようなすごい設定だが、その後の原と河野の関係を象徴していると言えなくもない。
志村喬が、「毒いちご」というイヤな刑事役で登場するが、その目つきの悪さといやらしさといったらない。本当に役に応じて変幻自在に肉体レベルまで変えることの出来る役者だった。
後半の農村シーンは、どうしても原節子がささぞかし大変だったろうと思ってしまう。でも、よく考えると杉村春子だって、役のキャラクターとは違って農作業なんか実際にはしたことなどないはずだ。むしろ年齢を考えると原以上にきつかっただろう。杉村が、この後しばらく黒澤映画にしばらく登場しなかったのもこれにこりたのだろうかなとど勝手に想像してしまう。

さて、本作は政治映画である。前回感想を書いたときに、その善悪二元論が気になると自分でも書いていた。今回も観ながら、やはりそんなことを考え続けていたのである。
ただ、これはそもそもGHQの奨励したいわゆる民主主義映画だ。つまり、黒澤も本当に思うままに自由につくれたわけではない。戦時中とは逆の意味で。
だから、黒澤が政治的に本当にどういう考え方をしていたのかを、この映画だけで解釈してはいけないところもあるだろう。
前回にも書いたが、政治映画としては少し善悪を二元対立して分かりやすく描きすぎているのが気になる。藤田や原がヒーローになりすぎているところがある。
しかし、そもそも黒澤はそういう政治的メッセージが言いたくてこういう映画をつくったのではないような気がする。
黒澤は戦時中に「一番美しく」という、一見封建的な道徳を賛美するような映画を撮っている。しかし、そこではそういう思想はほとんど関係ない女性工員たちの人間らしい姿が、黒澤らしいあたたかい視線で描かれていた。
この映画の原節子も、「民主主義者」というよりは、結局は一人の人間である。
当時、この映画と大変似た設定の映画があって、その圧力で後半の脚本が大きく書き換えられたと言う。確かに、原が農村に行って働くのはストーリーとしてはやや唐突である。しかし、そのおかげてあの原の鬼気迫る姿をとることが出来た。そして、そのせいでこの映画が浅い政治映画であることをまぬかれてるような気もする。
黒澤は同時期の日本の巨匠たちと比べると、現実に即した「政治的」メッセージを映画にこめるほうではある。だが、黒澤映画の魅力は、そういう理屈のレベルのメッセージからはみ出る何かが常に映像から伝わってくる事だ。それは人間賛歌という言葉でも説明しきれない得体の知れない何かである。だから、黒澤は立派な映画監督なのだ。
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2012年09月09日

黒澤明「醜聞」



志村喬の「生きる」の原型ともいえ、あるいはそれ以上の魅力も湛えている素晴らしい作品。特に名作といわれる事もない映画だが、個人的には黒澤作品の中でも最上位の部類に入れたい。
現代で言うとフライデー的な写真雑誌のでっちあげスキャンダル記事に三船敏郎扮する画家が戦うという社会的な題材である。しかし、「生きる」が一応は官僚機構の話でありながら、そんなことはどうでもよくなる人間の造形に成功していたように、ここでも志村や三船によってつくりだす役の魅力に尽きる。
どちらかと言うとリアリスティックというよりは、メルヘンティックな設定でフランク・キャプラ的な楽天主義的な雰囲気が支配している。真面目な社会描写の映画として鑑賞しても無意味だと思う。
三船の役柄からして、バイク好きの奔放な画家という設定で現実離れしているし、ここでの三船の演技もいつもの三船とはちょっと違ってコミカルな軽い味わいを出している。三船が、実は大変知性が高くて役に求められるものを的確に出す事が出来た役者だったことの証明にもなっていると思う。
しかし、何といっても志村喬である。クレジットでは脇だが実質的には「生きる」同様に、完全に彼の映画という印象が残る。
登場の仕方からして、いきなりどぶにはまって靴下をぬらして、変な顔をしていかにも怪しげな雰囲気を漂わせて、靴下を振り回しながら怪弁をふるう。志村が帰った後に三船と千石規子が「何よあれ」と言って大笑いするが、本当にその通りの怪演なのである。
「生きる」より、より人間的な弱点をかかえたコミカルな役で、役者としての志村に求められているものは高い。志村自身、この役が黒澤映画では自分で一番気に入っていると述べたそうだが、それも肯けるというものである。
娘の天使のような桂木洋子の前で「わしは蛆虫だ」と言って泣いたり、実に楽しそうに競輪を楽しむダメ親父だったり、酒を飲んでくだをまいたり、法廷でのダメダメ振りといい、絵に描いたようなダメ人間である。それを実に志村らしく演じきっている。
特に、クリスマスに酒場で「蛍の光」を合唱するシーンは白眉。酔った左卜全が立ち上がって、「今年はダメだったが、来年はやるぞ。」と演説する。左卜全も本当にいい味を出している。この時代の役者は何でこんなに皆素晴らしいのだろう。
そして、やはり酔った志村がそれに呼応して立ち上がって、「その通りだ今年はわしは蛆虫だったが、来年はちゃんとやる」と叫んで、「蛍の光」を皆で歌おうと頭をさげて頼む。
最初は周囲はあっけにとられて、この酔っ払いどもがと白い目で見ているが、バンドが笑いながらしょうがないなといった様子で「蛍の光」を演奏し始める。
志村と左と三船が三人で並んで一生懸命歌い出し、生活に疲れたバーのホステスや客たちも、結局感極まったように全員で本気で歌いだす。
そんなシーンだ。いや、このように文字にしても全く伝わらないな。細部まで計算されつくした映像の演出が本当に見事なのである。少なくとも私は泣いてしまった。
そして、その帰り道で志村が「やっぱりわしは蛆虫だ」と泣き崩れると、やはり泥酔した三船が「何を言うんだ、神様がどう考えているかわからないぞ。」と叫ぶ。ちょっと恥ずかしいようなセリフだが、こういうところがなんとも好ましい。
千石規子は実に不思議な魅力のある役者で、ここでもそのちょっとした表情やセリフ回しで深い印象を残す。
小沢栄太郎は堂に入った悪役ぶり。編集者の
日守新一の小心翼翼ぶりも実におかしく、裁判のラストで頭をかかえるところなど笑える。
桂木洋子は病気の天使のような娘という反則ともいえる様な役なのだが、演出が巧みで全く不自然ではないし、それらしい雰囲気を見事に出している。小津の「晩春」にも出ていた。
三井弘次、清水将夫、高堂国典、上田吉二郎、千秋実といったおなじみの役者がチョイ役で登場するが、本当になぜこの時代にはこんないい役者が揃っていたのだろう。
ラストでは、三船が「我々はお星様がうまれるのをみたんだよ。」という、こうして文字にするとトンでもないセリフを言って終るのだが、こういう臆面のないところがこの映画らしさそのもの。そして、相変わらず冴えない志村が帽子を落としたりつまづいたりしている姿で映画は終る。
本当に「生きる」とも甲乙つけがたい。どちらにも捨てがたい良さがある。
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2012年09月06日

黒澤明「蜘蛛巣城」



最近亡くなった山田五十鈴のマクベス夫人(の翻案)が凄い。あのメイクのせいもあるのだろうがオーラからして恐ろしい。権力欲に取り付かれた女のこわさ。あまりにすごくて笑ってしまうくらいだ。
特に三船を唆して主君を殺させるシーン。この映画は能も意識しているそうだが、サッと三船を振り返る動き一つでゾッとさせる。いや、ちょっとした目の動きだけでも。確かに能的である。動きに全くムダがなく洗練されている。
山田五十鈴は成瀬巳喜男の「歌行灯」で、能そのものを題材にした映画でも重要な役をしており、実際に能役者に厳しく鍛えられたそうである。そういた体験が役に立っているのかもしれない。
そして、動く際に立てる衣擦れの音が実に効果的で、この女のこわさを如実に表現している。
襖戸を開いて後姿で暗闇に静かに消えていき、また酒瓶をもって暗闇から静かにヌッと出てくるところのこわさ。本当に素晴らしい。
三船に槍を渡したあと殺すのをうながして、やにわに立ち上がって見事に舞って座すところ、これは完全に能だ。彼女の心の不安と期待などが入り混じった状態が、簡潔な身体の動きで完全に表現されている。
そして、番兵に槍を持たせて手を洗い、三船を黙ってしばらく見つめる。その間が何かを雄弁に物語る。
さらに、すごい形相ですばやく動いて門を渾身の力で開いて「狼藉者じゃー」と叫ぶ。
呆然としていた三船が我に返って、本当に狼藉者が出たと自分でも信じているように振舞う。
なんという完璧なシーンだろう。そして、ここではやはり三船よりも山田五十鈴が素晴らしいと思う。ここだけでも、この映画を観る価値がある。
例のマクベス夫人が正気を失って手を洗って血を洗い流そうとするシーンでは、セリフづかいが「とれやしない、いやな血だねぇ」とか何だかかわいらしい。それが本物の狂気を感じさせるという演出なのかもしれないが、ちょっとおかしかった。
山田は黒澤映画では、「用心棒」のとんでもない女将、「どん底」でも毒婦と徹底的に悪役である。黒澤は対照的な役を同じ役者にやらせることも多いが、それだけ山田の悪役能力に惚れこんでいたのかもしれない。
ちなみに同時期の山田のベビーフェイス役としては成瀬巳喜男の「流れる」がある。まだ十分美しい山田を見ることが出来る。
ちなみに、この権力者の妻の悪女という設定では、「乱」の原田美枝子もとても印象的だった。女はこわい。
その他にも、冒頭のシーンなど神秘的な映像美を意識した撮り方が多い映画である。但し個人的な感想をいうと、例えば溝口の「雨月物語」や先ほど述べた「歌行灯」が本当に心の底まで染入ったりゾッとさせる迫力や美しさがあるのと比べると、黒澤の映像はどこかつくりものめいているような気がする。
昨日も書いたが、黒澤は無意識に比べて意識的な部分の強靭な作家で、その映像の作り方は完璧だけれども、ある種余韻とか深さが欠けているようにも(少なくとも私には)感じられる。逆に「椿三十郎」のような作品では完璧である。
黒澤は実は日本的な監督では全然ないような気がする。別にそれは優れているいないの問題ではなくて作家の体質の違いのようなものだ。
例えば、森の中の三人の幻の武者のシーンでは、 木村功、宮口精二、中村伸郎が次々に現れるのだが、どちらかと言うとこわいというより面白くなってしまっていると思う。
千秋実が珍しく男前の二枚目の役で、さすがに見事に演じているのだが。亡霊になって現れるシーンもなんとなく人の良さのようなものが出てしまっている。
脇では三好栄子の存在感がちょっと出てくるだけだが、やはりすごい。そして物の怪の老婆は、浪花千栄子だそうだが、言われても分からないくらいだ。音声が変えられてしまっているからね。
配役をよく見ると、意外な役者がチョイ役でたくさん出ていて驚くが、番兵で殺される加藤武だけは、声だけで一発で分かるのがさすがだ。警部マクロードのクリフォード刑事部長の吹き替えが懐かしい。
最後の弓矢のシーンで本物の弓を使ったのは有名な話だが、ウィキペディアに興味深いエピソードが載っているので最後にそのまま引用しよう。すごい話である。三船もやはり本物の狂気を抱え持つタイプの役者で、だからあれだけの演技が出来たのだと納得させられる。

三船演ずる武時が次々と矢を射かけられるラストシーンは、特撮ではなく、実際に三十三間堂の通し矢の名手に、学生弓道部の部員が直接三船めがけて矢を射た(ただし遠距離からではなく、カメラフレームすぐ横からの射的)。実際撮影が終了した後、三船は黒澤に「俺を殺す気か!?」と怒鳴ったとのことである。その後も、自宅で酒を飲んでいるとそのシーンのことを思い出し、あまりにも危険な撮影をさせた黒澤に、だんだんと腹が立ってきたようで、酒に酔った勢いで散弾銃を持って黒澤の自宅に押しかけ、自宅前で「こら〜!出て来い!」と叫んだという。石坂浩二の話によると、このエピソードは東宝で伝説として語り継がれている。そんな三船は頻繁に「黒澤の野郎、あいつバズーカ砲でぶっ殺してやる!」ともらしていたという。
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2011年11月14日

2011-11-14-2

monogusablog / monogusablog
311以来ブログを更新する気力を失って現在に至る。現実を語るには重すぎて、私が普段書いているような趣味の話は軽すぎる。時間の経過に解決を期待したが現在もある種の宙吊り状態が続いている。いや日本だけではなく世界全体がなにやらザワザワしている。 at 11/13 22:24
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そのような時代状況下で個人としてどう生きるべきか。とても簡単に答えが出てきそうにないが、とりあえず普通にオロオロしながら、しかし不必要に悲観もしすぎずに「人間」として暮らしていくしかないように思う。 at 11/13 22:28
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例えば、政治的な大改革による変化や「宗教」による救いを求めたくなる状況だけれども、それはある種の罠のような気がする。こういう救いのない状況で、そのまま救いのないまま受け入れるのが唯一の救いのような気がする。 at 11/13 22:31
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勿論、現実をそのまま受容したり無思考に陥るということではなく、ありのまま人間存在を受け入れるチャンス。この期間色々な本を読んだが、吉本隆明の「決定版親鸞(最後の親鸞等を含む)が面白かった。 at 11/13 22:34
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私は吉本さんを理解しているとはとても言えないし、また違和感を感じる点も多いし、例えば昔読んだ時に親鸞が究極的には宗教を解体するのではないかという現代的論点についていけなかった。しかし、こういうギリギリの状況下で読むと「宗教」の限界的意味について考えざるをえない。 at 11/13 22:36
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私は個人的には「宗教」の周りをウロウロしながら、「宗教」と縁のない人間だった、ずっと。。 at 11/13 22:40
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しかし、最近狭義の「宗教」への未練がサッパリ切れて、人間は人間であるまま既に救われている、「宗教」によって救われるのではなく、人間のままであるのが救いで、もし本当の「宗教」があるとしたらそれが唯一の役割ではないかとなどとボンヤリ考えている at 11/13 22:40
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一方、現在の日本の状況を観ていると、いわゆる「知識人」「インテリ」(と自分が思い込んでいる)人間ほど、率直にありのままに事実を見ることが出来ていないような気がする。頭も悪くなさそうだし知識も有り余るほど持っていそうなのに、どうしてそういうことになるのか不思議で仕方なかった。 at 11/13 22:43
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それは、多分こういうことなのだろう。何者かに「洗脳」されているのではなく、既存の秩序にそういう人間ほど無意識で深く執着しているために、「理性的」な根拠付け正当化を行って偽りの制度にしがみついている。だからその言説が一見論理的合理的に見えてもその底には実に原始的な恐怖や信仰がある。 at 11/13 22:47
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だから、彼らを「理性的」に説得しようとしても不可能である。何者かに「洗脳」されているのではなくて自分から進んで「自己洗脳」にかかっているからである。そのことで、かろうじてチッポケな偽りの自己にしがみついている。 at 11/13 22:50
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しかし、そうした傾向も今まで隠蔽され続けてきた真実が急激に露呈してきている証拠とも解釈出来る。 at 11/13 22:50
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2011-11-14

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横尾忠則がツイッターはある種の禅だと言った。禅としてのつぶやき、聴かれることを前提としながらも他者を気にしないつぶやき。そんな感じでやってみよう。 at 11/13 20:45
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2009年06月04日

ネット雑感

とにかく現在のネットでは、足を引っ張ったりこきおろす機会を虎視眈々と狙っているハイエナやサメがウヨウヨしているので大変危険である。ある程度個人的なことを率直に述べたりしようものなら、それを悪意に曲解して解釈するなどお茶の子サイサイ。

昨日の友は明日の敵。親友と思われていた人間に、背中からナイフでブスリと刺されたりするのでご注意を。しかも、アホにアホ、三流以下に三流と言われたりするので、腹立たしいこと限りない。

ネットでは、大人の普通な会話をすることなど不可能である。リアルでは、誰でも相手に気をつかって話をするのだが、ネットではリアルで殴られてもおかしくないような言説が平然と振りまかれる。

理論を装った私的感情の蔓延。もっともらしい理屈を言っているが、その底には本人も気付いていないルサンチマンが渦巻いているのだからたちが悪い。

とにかくマスを侮蔑すると解釈できる発言(ほとんどは曲解している)に対しては過剰反応。そんなに自分に自信がないのだろうか。

残念ながら人の心と言うのはとても未熟なものである。誰しも例外ではない。しかし、ネットにおいてはその未熟さが限りなく拡大して顕れてしまっている。絶望的なまでに自己を省みて反省する力の欠如。

だから、ネットはこっそりやるのがいいんですよ。最近毒舌で再ブレイクした猿岩石の有吉はこう言った。「売れるというのはバカに見つかるということ」。同じく「ネットで有名になるというのはバカに見つかるということ。」
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2008年04月14日

眞鍋かをりのココだけの話(ココログブックス)

先日、よく行くブックオフで発見して安価に購入。まあ、はっきりいって100円で入手させていただきました。やはり、まとめて読むには本というものは、まだまだ便利である。しかも、眞鍋ブログを読んでいなかった時期もあったので、丁度良かった。
自分でも、こうしていくつかブログを書いているのだけれども、一番書く上で影響を受けているのは、梅田望夫でもfinalventでもなく、実は眞鍋かをりだったりする。それも、意識的に真似しているのではなく、気がつくと影響を受けている感じだ。彼女のブログには、恐ろしい感染力がある。
眞鍋ブログの持つ意味については、きっと誰かが既にちゃんと論じたりしているのだろう。私は、人の書くものを驚くほど読まないので、そういうのとは関係なく思いついたことを書きなぐっておこう。
眞鍋かをりを、何か神のように崇めるのは馬鹿げている一方で、アイドルブログとして、インテリ気取りで上から見下ろして分析したりするのは、それ以上に致命的に間違っている。自明なことだ。
彼女が勝負しているのは、知識の量とかではなく、結局ものの書き方、語り方の「センス」の一点だからだ。お笑い芸人も同様で、インテリが芸人を分析してほとんど的外れだったりするのと同じだ。結局、知識ではない、感覚センスの問題だからだ。
眞鍋かをりは、ああいう軽い感じで書いているわけだが、この本の中でも自身で「ひとつの言葉を選ぶのに何十分もかかったり、接続詞を選ぶのに延々頭を悩ませたりとか・・」と言っている。考えてみれば、当然そうなのだろうが、私のような素直な人間は、気楽にスラスラ書いているのだろうと思ってしまっていたのだから、我ながら愚かだ。まあ、そのように読ませるのも芸のうちなのだろうが。
とにかく、文章はこのように書かなければいけないというルールを一切無視して書いている。自由気ままなスタイルで、好きなように書いていいのですよと。
というか、ブログには、当然それなり似合った文章のスタイルがあるという当たり前の事実に対して意識的に取り組んだ結果の発明なのだろう。いわゆる堅苦しい書き言葉でもないし、かといって、日常の話し言葉をそのまま文字にしたのでもない、第三種の「ブログ言語」を彼女は創造したのだ。だから、そういうことに少しでも敏感ならば、誰でも知らず知らずのうちに眞鍋かをりの影響を受けるのが、ある意味自然なのである。
また、日本における私小説の伝統に連なるという言い方も可能だろう。例えば、葛西善三や嘉村磯多。私が、彼らに理由なく興味を持つわけがなく、小林秀雄が取り上げていたので読んでみたことがある。すごい世界だ。本当に日常のどうでもいいことを、超主観で書いているだけ。しかし、文章へのこだわりはとてつもなく、葛西は何行かうまく書けただけで、喜んで犬のようにはしゃぎまわったとか。私小説といっても色々あるのだろうが、要するに自分のことを語るという行為より、それをどのように語るかが全てなのだ。真鍋かをりのやっていることと同じではないか。ふかわりょうのつぶやきネタ風に言うと
「眞鍋かをりのやってることって、葛西や嘉村と変わらないじゃん」
というところか。
なぜ、日本人は、私小説が好きなのか。他の人の私生活をのぞきたいのだけれども、別にその人間の確固たる自己としての主張や個性に接したいわけではあるまい。そうではなく、他者との同質性や空気の共有をあくまで前提として、他者が多少変わっていても、自分との感覚の共有を確認したくて、私小説を読むのではないだろうか。その場合、その他者は、あまりに凡庸だったり、余りに自分とかけ離れて異質であってはならない。ある程度、自分との違いがあって楽しませてくれながら、自分を不安にさせない程度の距離の近さを保っているのが理想だ。それが、古来から山ほど私小説が生み出され、そのほとんどが、まったく非建設的なまま終わっている理由だろう。
ブログというのは、そういう意味では日本人向けである。ブログで個としての主張をしたいわけではない。そう見せかけつつも、結局は空気の共有を望んでいるのだ。眞鍋かをりの場合は、タレントで一応大抵の人間が姿かたちキャラクターをある程度は知っている。だから、そういう空気の共有のためにも有名人のブログは役に立つのだ。
最近twitterを、気まぐれではじめてみたら、ことのほか面白い。多分、そういう意味で日本人には、ブログ以上に、twitter的なものは、合っているんじゃないだろうか。ブログを書くときは、それでもある程度は構える。少しは、個としての表現を意識する。Twitterの方は、気楽に個人的なことをサラッと書けるのだが、実は個としての独立の意識は希薄だ。空気を共有していて他者に対する甘えが根本にあるはずだ。でなきゃ、気軽に個人的につぶやけないはずなのだ。Twitter的なものが、今後日本を席巻するのではないだろうか。といっても、私の場合、流行から何週も周回遅れの人間なので、先頭ランナーは、今頃「もうtwitterは終わった」とか言っているのかもしれないが。
話題がどんどんつまらない方向に流れた。そんなことよりも、なんと言っても眞鍋かをりブログは面白いのだ。本に収録されていたやつで、気に入ったのがこれ。
またもや June11.2005
8500円って、どんだけ庶民派なんだよ、マナベ!安売りの電化製品じゃあるまいし。
ということで、眞鍋ブログへ、こんな変な記事でも気にせずにトラバ飛ばしておこう。
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2007年09月21日

武満徹、ミルトン・ナシメント、南米

何にもする気がしないので、武満をずっと流している。オケ作品、ピアノ作品、フルート作品、ギター作品をつまみ食い。CD店で現代音楽の棚に押し込められている作曲家では、メシアンと武満をよく聞く。理由は聴いていてキモチイイの一言に尽きる。両巨匠には申し訳ない低級な聞き方だが、聴いていて文句なく気持ちよくなってしまう音楽というのは、最高のほめ言葉なのだと正当化してしまおう。メシアンによれば、世の中には色彩のある音楽とない音楽の二種類あるそうだが。武満は明らかに前者に聴こえる。
ギター作品集は、将棋指しとは別人二十八号の鈴木大介が弾いている。武満作品だけでなく、スタンダードやビートルズのアレンジがはいっているのが魅力だ。特にビートルズがいい。ビートルズ、というかポール・マッカートニーの作るメロディーは確かに美しいのだが、オリジナルよりも、うまく編曲したりカバーした際にこそ、ハッとするような美しさを発散すると思う。この武満編曲もそうだ。でも、一番すごいと思うのは、ミルトン・ナシメントが、「ライブ この美しい惑星より」で「Hellow Goodbye」を歌ったやつだ。胸に染み入る。ナシメントは、私に言わせれば、半分人間、半分神様みたいな存在だ。ブラジルには、確かにミューズの神が生きている。それも、西欧式のひとつの体系に属する音楽でなく、多種多様のスタイルの音楽が自然に共存していて、それぞれが自然に美しい。そういえば、ブラジルのサッカーは、自然に白黒が混合したチームだ。
ブラジルに限らず、南米というのは、いまだに、このギリギリに締め付けられた全世界にあって想像力の源である。グローバルな世界秩序に組み込まれるのを本能的に拒否する何かがある。南米に反米政権が、次々に生まれたのは、単なる政治的要因だけではないように感じる。多種多様な要素が雑然と同居し、しかも深刻には対立しあわない。サッカーも、欧州式の組織型ではない芸術であり、日本のようにルールの遵守に美意識をおかず、その場でルールを作ればよく、サポータも、わが国のように秩序だった応援をしたり、ゴミをちゃんと片付けたりせず、試合観戦が即カーニバルの南米。ボルヘス、ピアソラ、ジョアン・ジルベルトを生んだ西欧にはない形の洗練文化の南米。ナシメントのような、原住的文化も生き続けている南米。世界で唯一アメリカに従わない力を持つ南米。テロや犯罪も、日本のようにはきちんと取り締まられていない南米。ヒクソン・グレーシーやヴァンダレイ・シウバを生んだ南米。混沌と無秩序と調和と美と恐怖と文化と自然と反自然の南米。
私は、根っからベタな日本人だし、多分日本以外では生きられないだろうし、日本の快楽文化に安住している怠惰な一人に過ぎない。でも、時々このクソったれな日本の現実の全てがすっかりイヤになり、内田裕也がある映画のラストで「I  can’t  speak fucking Japanese」いったのに共感してしまうような時、南米は、現実逃避の想像力の翼を広げる為の現実でありながら現実ではない幻想の存在であり続けている。
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2007年07月04日

このブログを始めたワケ

このブログを書き始めたキッカケを説明してなかったので、一応書いておきます。
もともと「ものぐさ将棋観戦ブログ」という、将棋専用ブログを書いています。ただ、勿論将棋以外のことも書きたくなるので、「MONOGUSA  collection」というtumblrを使っていたのですが、text投稿には向いてなく、使い勝手が悪いので、新たにこのブログを作りました。最初にまとめて投稿したのは、そちらに書きだめしておいたものです。

あとひとつ、念のために言っておくと、当たり前ですが私は岸田秀ではありません(笑)。「ものぐさ精神分析」が好きな本なので、色々ブログ名に使わせてもらっているだけです。
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