2008年01月24日

菊地成孔・大谷能生「憂鬱と官能を教えた学校」

この二人の本にハマッて、三冊目を読了。タイトルだけ見て、これが一番読むのがしんどいかもと思っていたが、そうじゃなかった。とにかく、刺激的な内容を語りながらも、啓蒙的に誰にでも分からせようという姿勢を失っていないのがえらい。
本書は、別にバークリー・メゾッドの解説を目的に書かれているわけではない。でも、その説明が、実に分かりやすいのだ。本人の美意識が許さないだろうが、本当に売れることだけを考えるのなら「天才菊地の誰にでも絶対分かるバークリー・メソッド これであなたにもジャズが分かり曲もつくれるかも!」としても良いくらいである。いや、こんなタイトルじゃ逆に絶対売れないか(笑)。とにかく、ジャズの楽理を知りたいけれど、やっぱちょっとどうもめんどくさいし億劫だし、という向きには文句なくオススメである。菊地は、実に切れ者でつっぱったところがあるが、この教え方の丁寧さ、わかりやすさを見ると、本質的には絶対に親切ないい人なのに違いない(笑)。

さてと、素朴な感想と疑問をメモ書き。

バークリー・メゾッドを、基本的に十二音平均率をもとに、それを理論家・記号化して整理する試みと捉えている。言うまでもなく、いわゆるクラシックと、コードを意識して書かれた曲は本質的に異なる。本書でも、ガーシュインがグラズノフに弟子入りしようとして「対位法の知識のかけらもないのに」と一蹴された話が紹介されている。さらに、「キーワード編」では、濱瀬氏が、ラモーの和声楽すらもバッハ一族は認めていなかったことを話していた。バークリー・メゾッドによる「記号化」というのは、クラシック音楽自体そのありのままの姿に届いているとはいえないだろう。例えば、平均率クラ−ヴィアのコード進行を分析しただけでは、何もしたことにはならない。
無論、彼らはそんなことは重々承知だろうし、クラシック自体を対象として論じることは最初から除外しているのだろう。しかし、バークリー・メゾッドが、あくまで西欧音楽の「一部」を抽出して記号化しただけに過ぎないことは、一応はっきりさせておくべきだろう。クラシックの名曲が、細々とでも現代まで生き残っているのは、むしろ、記号化で分析される方向性を内包しながらも、そういう記号化からこぼれるも内容を豊かにもっているからだと思う。むしろ、そういう部分だけが存在価値だといっても良い。
また、西欧音楽が、世界制覇の普遍化の傾向を持ち、実際、ローカルな音楽に過ぎないのに、日本の音楽の聞き手が無意識にその見方に毒されているのは事実である。しかし、やはり私は西欧音楽が、これだけ普遍性をもってしまったのには、それなりの必然性と価値があるからだと思う。西欧音楽を絶対普遍なものとする偏見は常に相対化するべきだが、むしろその普遍化を持ちえた特殊性のようなものの方こそが重要なのだと思う。

そのことと少し関連するが、彼らは何も、記号化反対の反近代主義者なのではない。それは、最終章ではっきり言っていて、記号化しようとする意志にしたがって、やれるべきことはやり尽くすべきだが、そのひとつの方法としてのバークリー・メソッドを絶対化するべきではないということだ。むしろ、そういう作業を、きちんとやった上で、そういう記号化の内部から外部を垣間見ようというのが、彼らの基本スタンスなのだろう。
その、糸口として例えば、ブルースを考えているわけである。バークリー・メソッドでは、うまく解析できないもの。コード進行の、ドミナントとニックの「緊張と緩和」のストーリーを持った二元論的解決を最初から拒否するものとしてのブルース。
しかし、本当にブルース的な態度というのは、人を幸せにするものなのだろうかと、素朴に疑問に思う。西欧的な二元論で、無理に善悪明暗を分けようとするから、現代人は、誰しも躁鬱になる傾向にある。そうかもしれない。しかし、私には、ブルース的な、緊張を維持し続ける態度のほうが、よほどしんどいように思えるのだが・・。

バークリー・メゾッドの話とは別に、律動、リズムの話がとても面白かった。ここでも、彼らちは敢えて単純化して、アクセント言語とグループ言語という対比を持ち出す。それを、西欧音楽の、拍をはっきりさせるやり方と、アフリカ的音楽の、リズムの持続、ビートの表裏のなさと、慎重に関連させようとしている。実際、具体的にクラシックとジャズ(に一応限定)を聞き比べて、明らかに一番はっきり違うのはリズムである。どう考えたって、ジャズのほうが、聴いていて心地良い。
ここからは、本書の話とはまったく関係ない私的感想文になるのだが、ジャズの方が、常にリズムを感じ取ることが出来る身体に良い音楽だと思う。それと、比べて明らかに西欧音楽は、不自然だ。ジャズのリズムの気持ちよさと比べると、マーチやワルツのリズムなど、ほとんど死んでいる。
しかし、そういう身体性と密接に関連するリズムを敢えて犠牲にしたことで、西欧音楽は、あの一種の、内省力とか身体からすり抜けようとする強烈な力を有することに成功しているように、少なくとも私には感じられる。敢えて、不自然に色々なものを犠牲にしながら、何かを得ようとしている音楽というか。そんなものは幻想に過ぎないし、興味もないし、心の病気の原因だといわれればそれまでなのだが。
クラシックの一種のリズム感のなさと無理やり結び付けて言ったが、これは理屈ではなく、私が(狭義の)クラシックを聴いて常に感じていることだし、もっぱらそういう体験のために聴いているのだといっても過言ではない。

ジャズ(これも狭義の)について言うと、身体に根ざしていると同時に、きわめて知的な営為も同時に行われている音楽だと思う。だから、聴いていて面白い上に心地よいのだが、その両者が同時に混在しているのが中途半端だという言い方もできる。例えば、マイルスは、結局最後は、狭義のジャズをどんどん放棄していって、もっと直截的に聴く者に訴えかける音楽に進んでいった。私は、それは決してマイルスのコマーシャリズムというようなことではなく、(無論彼のことだからお金儲けもきわめて大切なことだったのだろうが)、もっと深いところでの音楽に対する直覚が働いていてそうしていたのではないだろうか。

完全に、本書の内容とは関係ない話になってしまった。本書に話を戻すと、やはり、最後に紹介されている、ジョージ・ラッセルの「リディアン・クロマティック・コンセプト」の話が面白かった。要するに、西欧音楽の体系では、Cを基音とするイオニアン・スケールが中心とされるのに対して、Fを基音にするリディアン・スケールを中心として考えるべきということだ。リディアンで考えると、完全5度の音の組み合わせだけで成り立つのに、イオニアン・スケールだと、一箇所だけ不均等点が生じる。そのため、和声による緊張と緩和による解決が必要になり、不自然なことにもなるので、リディアンを中心と考えれば、健康な本来の音楽の姿でいられる、と。西欧音楽体系に対する根本的な異議申し立てであり、徹底的な反近代である。彼らは、LCCの扱いについては慎重で、その意義を認めながらも、その秘教的な内部性やドグマ的側面を指摘している。私としては、ただ面白いなあと思うだけで、何も言えることなどないのだが、それでは、なぜ、十二音平均律においては、イオニアン・スケールが、中心にすえられたのだろうかと思った。さすがに、西欧音楽では、何らかの根拠説が存在するはずなので、自分で調べてみなさいっていう話なのだが。

本当に断片的なとりとめのない話に終始してしまったが、とにかくこの二人の本は、文句なくムチャクチャ面白いのだ。大谷氏が、後書きで「この本が、読者の皆様に多くの悦びと、それより少しだけ多い疑問符をもたらすことを祈って。」と書いている。
「悦び」の方なら、十二分すぎるくらい受け取ることが出来た。一方「疑問符」の方については、あまりに貧弱なものしかもてなかったのが、我ながら残念ではある。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(1) | ジャズ
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