2007年11月26日

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」と村上春樹の「うなぎ」

「ウェブ時代をゆく」のP16にこんなくだりがある。

例えばあるとき私は「これはすごい書評だ」と目を瞠はるような文章に出合った。調べてみればそのブログの筆者は、膨大な量の読書をしながら内科医を三十年以上続けてきた団塊世代の方なのだと知った。医学を修め、その後も人の生と死を見つめながら、六十歳近くまで思索を続けてきた市井の知が刺激的でないはずがない。


多分日々平安禄のことである。「ウェブ時代をゆく」に対しても、ものすごい量の密度の濃い書評を書かれていて、梅田氏も読まれているようだ。
「ウェブ時代をゆく」については、実践的な読みも可能な一方、この方のように、哲学的な思索を掘り下げるやり方も可能だと思う。私も、レベルは違うにせよ、同じ方向性で読みたいと思っている一人である。もしかすると、梅田氏のこの本の本来の意図から逸脱する読み方なのかもしれないが、テキストとは本来そういうものだし、優秀なテキストほど、著しく逸脱した読み方が可能なのである。

梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」(7)「うなぎくん」より、村上春樹の発言をまた引きしてみる。

 村上:僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなきゃいけないと言うんですよ。・・僕は「うなぎ説」というのを持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人でだけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにはうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。・・僕は、自分とうなぎと読者で、3人膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ちあがってくるんです。・・でもそういう発想が、これまでの既成の小説って、あんまりなかったような気がするな。みんな読者と作家とのあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。・・
 柴田:その場合うなぎって何なんですかね(笑)。
 村上:わかんないけど、たとえば、第三者として設定するんですよ。適当に。・・僕としては、あまり簡単に言っちゃいたくなくて、ほんとはうなぎのままでおいておきたいんだけど。


「うなぎ」という第三者は、絶対他者とか哲学用語に言い換えてはいけない。あくまで、とりあえず「うなぎ」としか呼んでおくしかない何者かである。その「うなぎ」の存在のおかげで、「私」と「読者」の二者関係の閉塞性を回避し、客観性を保つことが出来る。
日々平安禄の筆者は、何を書く場合も、はっきり「こうだ」という結論を明示せずに、読むものに考えさせるような含みのある書き方を、たぶん意図的にしている。
私は、逆にすぐに分かりやすい結論を言いたがる男なので(笑)、「ハイ、それ群集の叡智のこと」と言いたくなってしまう。
梅田氏はウェブ時代の書評に全て目を通している。しかしそれだけでは、「梅田=私」と「読者」の、二者関係だけにとどまってしまう。下手をすると、誰かにカルトと皮肉られる恐れもある。しかし、村上春樹も言っているように、何も読者の「正しい読み」や「理解や賞賛」が大切なのではない。むしろ、誤解されて読まれている部分のほうが重要である。そういう正解、誤解、賞賛、誹謗中傷の総体が「うなぎ」なのである。
「群集の叡智」というのも、何か個々人の正しき知恵が集まった素晴らしき集合体というものではあるまい。様々な階層の人々の、理論的だったり、感情的だったり、礼儀正しかったり、無礼だったり、瞠目すべきだったり、取るにも足らなかったりする意見のすべての集合体が「群集の叡智」なのである。
梅田氏は、ウェブ上の書評の一部を公開ブックマークしている一方で、他の全ての書評についてのノートをつくっているらしい。明らかに、そちらのほうが大切なのだ。いかに公開主義の梅田氏でも、そこまではもったいなくて見せられないところだろう(笑)。
梅田氏のオプティミズムを「全てにイエスという精神」と言い換えることが出来るかもしれない。人間は、自分の周りの世界に対するに当たって、無意識に取捨選択をして、主観的な好き嫌いで世界を切り取っている。そのことで不安定な自我構造が保たれている一方で、個人的な主観エゴの洞窟にとどまらざるを得ない。梅田氏の「全てにイエスの精神」は、そういう狭い自己を粉々に砕き、自己を広い世界と直結させる壮大な実験である。
そのためには、自分にとっては不愉快な発言や、耳障りな意見にも全て耳を傾ける精神力が必要である。そういう否定的なエネルギーの矢に対して、感情的に反発するのではなく、ひたすら相手の立場に立って素直に耳を傾けてみること。そういうきつい作業に耐えることで、やっと「うなぎ」が見えてくる。
既に一度引用したが、梅田氏の「群集の叡智」について言及したくだり。

 「群衆の叡智」とは、ネット上の混乱が整理されて「整然とした形」で皆の前に顕れるものではなく(いずれウェブのシステムが進化すれば、そいうことも部分的に実現されるだろうが)、「もうひとつの地球」に飛び込んで考え続けた「個」の脳の中に顕れるものなのだ、私はあるとき強くそう直感した。「新しい脳の使い方」の萌芽を実感した瞬間でもあった。ネット空間と「個の脳」が連結したとき、「個」の脳の中に「群衆の叡智」をいかに立ち顕れさせるか。この部分は確実に人間の創造性として最後まで残ってくるところのように思えた。


「群集の叡智」とは、受動的に与えられるものではない。「全てにイエス」として、耳を傾けた結果に、ようやく個が世界から勝ち取るものである。その時点で、個は自分の狭隘な価値観の束縛から解き放たれ、世界の真実らしきものと何とかつながることが出来るのだ。「うなぎ」とは、そういう得体の知れないものである。
梅田氏は、やはり狭義のもの書きではないのだと思う。あえて言うなら「発明家」である。ウェブ上の批評を全部読んでみるというのは、実は簡単なようで、とんでもないコロンブスの卵的な大発明なのだ。梅田氏の著作が、多くの読者の、「頭」ではなく「こころ」に影響を与えているのだとしたら、それは梅田氏の単なる紙の上の書き手に収まらない、独特な存在のあり方によるものなのではないだろうか。

この問題については、実は極東ブログが、マイケル・ポランニーと関連させて、私が言ったのとはまったく別な文脈で論じきっている。上の引用部分も、極東ブログと全く同一箇所だ。(私が、極東ブログの言っていることがちゃんと理解できているなどとは決していわない。)
梅田氏の著作には、きわめて実践的で分かりやすい部分と、このようなわけの分からない含蓄の多い部分がごたまぜになっている。注意深く読まないと多分読みすごしてしまうだろう。
引用中で言われている梅田氏の「直感」というのが、どういうものなのか、正直私にははっきり把握しきれないでいる。ただ、ここで言われている「群衆の叡智」が、単なる客体として扱えるものでもないし、逆に「群集の叡智」に浸透された「個」が、単なる個人の主観にとどまらないことだけは間違いないだろう。そういう、主体と客体が、交錯し浸透しあうようなところまで、梅田氏は深く考えているのではないだろうか。当然、そういうものは、本来分かりやすく説明したりすることなど不可能なのだ。だから、村上春樹のように、「うなぎ」と呼んでおくのが一番いい。
少なくとも、そういう「うなぎ」に対する感性は、実は人間にとって必要不可欠なものなのではないだろうか。「私」にも「世界」にも、閉じこもらない生き方。
ウェブが、究極的に可能にすることが出来るのかもしれないのは、そういう生き方なのかもしれない。
ということで、「ウェブ時代をゆく」も、日々平安禄も、極東ブログも、意図的にテキストとして誤読する実験はこれで終わりにする。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評
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