2007年08月20日

岸田秀 唯幻論物語(文春新書)

「極東ブログ」の過去記事で取り上げられていたので読んでみた。
昔からの岸田秀のファンである。特に「ものぐさ精神分析」。ブログタイトルも、その影響だ。しばらく、追っかけで出版される本は読み続けていたのだが、国の関係に精神分析を持ち込んだあたりから飽きてきた。当たっているといやあ、当たっているのだろうが、どうも恣意的な感じがして、国家のことについては精神分析するより、ありのままを事実のことを知ったほうがよっぽど面白いし刺激的だし、ためになると思ったので。例えばチョムスキーのように、事実だけを指摘しただけの本で十分ショッキングである。生意気ながら「ものぐさ精神分析」を超える本は、もう書けないだろうと思って、新著は読んでなかった。
というわけで、久しぶりに読んだのだが、まず、何より相変わらず面白い文章を書く人だ。なんせ、岸田にかかるとラカンも、次のように言われちゃうのだ。
「ある種の女は、男に口説かれてすぐセックスを許せば安っぽい女と見られるので、高く売り込むために、口説き落とされるまでに男に時間的、エネルギー的、金銭的にできるだけ多くのコストをかけさせようとするが、(以下略)」
ラカンは、思想的にそういうことを行っただけだという調子なのだ。また、批判を受けて本著を書くきっかけになった「すばらしき愚民社会」の小谷野敦については、
「私は彼が、わたしよりもはるかに若いのにもかかわらず、私の読んだことのない、というより聞いたこともないような本を猛烈にたくさん読んでいることに心底より驚き、彼の抜群の学識に感銘を受け、それ以来、彼を深く尊敬していたので」
だって。別に皮肉とか言ってるのでなく、多分岸田は本心からこう思っているのだ。困った人である。おかしくて仕方がない。(一方、小谷野も、若き日に「ものぐさ精神分析」を読み、感銘を受け、座右の書にしていたそうである。はっきりいって、教養あふれる若きインテリで愚民社会を批判している男の本など、ちょっと敬遠したくなるのだが、そういう人間ならば読んでみようかと思ってしまった。)
さて、岸田は、「ものぐさ精神分析」以来ふれてきた、個人的に問題を抱えていた母子関係についてまとまって語っている。簡単に言うと、母親のとった、意識的には子を思うような良心的な態度とは裏腹の、無意識には子供を犠牲にする態度のせいで、岸田は、強迫神経症、鬱病になったということだ。母の愛は絶対だというのも、岸田に言わせれば幻想に過ぎない。また、別に母親が根っからの悪人だったというわけではなく、むしろ意識的には良心的なのに、それとは裏腹な無意識の意図のために、子供が苦しみ、うまく受け取れなくて神経症になるというのは、とてもよく納得できる。
レインの家族分析とか、ダブル・バインドとかと、つながりそうな話だ。ただ、岸田の場合は、あくまでフロイドに忠実である。といっても、岸田はフロイド派の、正統な精神分析医などではない。むしろ、正統なフロイド派の精神分析には批判的である。この本の中でも、別にフロイドが言うまでもなく、昔からのことわざでも、そういうことは言われていたと指摘している。もったいぶったブランドの精神分析など必要でなく、古くから人間の知恵がつかんでいたことをフロイドはきちんと整頓しただけとでも言いたげである。
そもそも、私が「ものぐさ精神分析」に感動したのは、別に岸田の唯幻論が素晴らしいと思ったわけでもなく、フロイド学説に同意したわけでもない。岸田の言葉が、あまりに生きていて、ただの文字の書物なのにもかかわらず、読みながらそのまま最高の精神分析を受けるような思いが出来たからだ。高名な精神分析医の書いた文章を読んでいると、この人、本当に自己分析とか出来ているのだろうかと、率直に思うことがある。精神分析医になるためには、必ず自己分析か他人の分析を受けている筈なのだが。岸田の場合はその種の「正当」な経験は一切ない。それにもかかわらず、明らかに厳しく自己分析を成し遂げた人間の文章なのだ。岸田の場合、実際強迫神経症にかかったので、有無を言わさず実際に自己分析せざるを得なかった事情があるのだろう。とにかく、自己分析に実際自分の血を流した人間が書いているので、読む人間をあれだけ動かすのだろう。
余計なことを言うと、別に「フロイド」に思想基盤を置かなくてもよかったんじゃないかという気もする。私は、岸田の影響など受けて、若いときにフロイド全集など買い込んでしまった。絶対読まねえだろうと思いつつ。しかし、意外にも結構読んだ。フロイドというのは、とにかく比類なく抜群に知性の高い人なのだけは間違いない。その説に同意するかどうかには関係なく、その思考の足跡を、何とかたどっているだけで、十分面白いのだ。
ただ、そうは言っても、汎性欲説とか、エディプス・コンプレックスについては、最初から「本当かなあ」と思っていた。岸田のような筋金入りのフロイド研究かに対して、どシロウトがこんなことを行っても無意味なのだが、岸田が母子分析について行っていることについて、本当にフロイドの汎性欲説が必要だとは思えない。本当に必要なのは「無意識」と「意識」の構造関係だけなのではないだろうか。岸田が、自ら述べているように、一般の知恵が気づいていたことをフロイドは理論化しただけで、その場合に有用なのは「無意識」だけで、汎性欲説をはじめとするフロイドのヘンテコな思想は全く必要ないのではないかと。そういえば、小林秀雄も講演で、フロイドでもっとも大切なのは「無意識の発見」だけだという意味のことを言っていた記憶がある。
岸田はユングに批判的である。せっかくフロイドが理論的に突き詰めたことを、「集合的無意識」などの恣意的な概念を持ち込むことで台無しにしてしまったと。岸田のように徹底的に合理的に考えようとする人間からすれば、そうだろうと一応納得は出来る。ただ、それもフロイドの合理的な思考の切れ味についての評価であって、フロイドの特異な思想が真実だという根拠にはならないという気がするのだが。フロイドはたまたま、汎性欲説を採用した。しかし、本当の自己とか、権力欲とかいった概念を、もし、フロイドが本気で展開しようとしたら、汎性欲説と、全く同等の思想を構築できたのではないだろうか。
まあ、自分でも何いっているかよく分からず、ゴチャゴチャ書いてきたが、ようするに言いたいのは、フロイドの無意識の構造についての洞察は真実だが、そこに付加する汎性欲説などの偏った思想は、個人的には全然信用できないという程度のことである。
さて、岸田の母子関係に基づく、自己分析の話に戻る。親と幼い時にどういう関係性を持つのかは、間違いなくその人間にとって致命的な影響を及ぼす。少しでも、そのことを意識的に分析した人なら、他人との接し方や、惹かれる異性などについて、どれだけ親との関係性が圧倒的な影を投げかけているかに気づくだろう。そのことを意識せずに、自分が本当に「自由」に振舞っていると考えるのは、紛れもなく、それこそ「幻想」である。自己認識というのは、いかに自分が自由に見えて不自由なのかに気づくほろ苦い行為である。
岸田は、親子関係の欺瞞を鋭く指摘するが、親に全ての責任があるなどと入っていない。どんな変な親に育てられても、同じ人間になるとは限らず、受け取る側の問題も大きいことをきちんと指摘している。そういう受け取る側の個性の根拠として「遺伝」についてなどいっている。しかし、遺伝ならば親の特性を受け取るわけで、同じDNAを引き継ぐ人間に、兄弟同士でなぜあれだけの大きな差が出てくるのかがよく分からないのだが。
理想を言えば、親子関係の欺瞞性に気づいた上で、そういう親も同じ人間として同情してみて「許す」ということだ。岸田もこんなことをぃっている。
「親の悪を認識した上で、寛大に親を許した人であって、広い慈悲の心から親を許さない私の不寛容を批判しているのか、(以下略)。
仏教の言う慈悲とはそういうものなのだろう。ただ、これも言葉で言うのは易く、実際に実行するのは至難の業である。それどころか、無理に意識で許そうとしたら、本当には許していないエネルギーが無意識にたまって危険なだけである。だから、岸田のように自分にとことん正直な人は、古希を超えてもいまだに「親を許せない」といっているのだ。この辺が岸田らしいのだが、勿論それでいいとも言い切れないところだ。
それと、岸田が自己認識の方法について述べていることも興味深い。自己認識のために、沈思黙考して自分の心の奥底をのぞいても無意味である。そんなことをしても自分の都合によいところしか見ることが出来ない。あくまで、自分を知るのは、他者とのかかわりを通じてである。他人に対して、自分がどう反応しているか、あるいは、他人が自分をどう見るかに、貴重な手がかりがある。あくまで、自己は他人との関係性によって見えてくるものであって、孤立した自己など存在しないのだから。大雑把に言うと、仏教的な関係性の思想である。
また、他人は、自分の無意識な部分を、いとも簡単に見抜く。自己の意識は、自分の無意識には自覚的ではない。そもそも、自己の無意識というのがそういう性質なのだから当然のことである。だから、どんなに自分より劣っている人間の意見でも、自分よりは無意識を良く捉えていることが多いので、そういう他人の見方を尊重すべきなのだ。
それと、自分が「嫌い」なものにも注目する。ある人やものが、どうにも我慢できないほどイヤでイヤでたまらないとする。なぜ、それだけ感情的に反応するかというと、それが自分が無意識に無理に押し込めて抑圧している弱点だからだ。無論、その嫌いな人と自分が同じだということではない、自分が、懸命に抑圧している弱点を、その人物が、アッサリと表に出しているのが耐え難いのだ。この方法は、岸田以外にも述べている人がいる。フロイドを元に、こういう事実に気づいて、なおかつ実践している岸田は、やはり大したものだ。私自身も、やってみたことがあるが、実に苦しい作業である。
クリシュナムルティと岸田はちょっと似ているところがある。岸田は、全ては「幻想」としてその欺瞞を徹底的に剥ぎ取っていく。クリシュナムルティも、自由と思っている自己がいかに条件付けられた不自由なものであるかを、とことん否定していく。根本的に違うのは、岸田がそういう幻想をはいでいっても「悟り」など存在しないとするのに対し、クリシュナムルティが、あくまで確固とした「悟りや心の安定」を前提として、否定作業を行っていることだ。「悟り」を全く実感できない私は岸田に同調せざるを得ない。岸田と私の違いは、岸田が実に男らしく「悟り」など存在しないと言い切るのに対し、私は、到底ありえそうもないが「そういうものがあったらいいな、あって欲しい」とつぶやくことだけだ。
岸田というのは、自己認識を言葉だけでなく、実際とことん人体実験して行い続けてきた、徹底的に宗教的ではないのにもかかわらず、不思議に宗教的聖者のような男だとおもう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(1) | 書評
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