2012年09月15日

黒澤明「姿三四郎」



姿三四郎(藤田進)のことを、師匠の矢野正五郎(大河内傳次郎)が「アイツはいつまでたっても赤ん坊みたいなヤツだからな。」といって笑う。
最近、黒澤映画を続けて見たり書いたりしていて、その登場人物が子供のような純真な心の持ち主というテーマが何度も繰り返し出てくるのを感じていたが、この黒澤の処女作からして姿三四郎はそういう人間の典型である。
遺作の「まあだだよ」の内田百閧烽サうだった。あるいは、「生きる」の志村喬演じる市民課長も死を覚悟する事で人間らしい純粋な心を取り戻す。そして、言うまでもなくそうした人物像は全て黒澤自身の投影像なのだろう。
それにしても、藤田進の姿三四郎がハマリ役過ぎる。藤田という役者は、なんとも大らかで真っ直ぐな人間性を感じさせて、姿三四郎の役のイメージにピタリと合致している。特にいかにも人のよい笑顔が印象的だ。「用心棒」では、出入りを避けてサッサと逃げ出す用心棒の役だったが、その際に三船に向けてニッコリと笑うところなども印象的だった。
柔道がもきちんとした精神修養を含めた武術
だった時代の話で、現在の審判の判定に左右される滑稽なスポーツとはえらい違いだ。古い映画なので、さすがに時代を感じさせるのだが、藤田や大河内や志村喬の演じる武術家像は今見ても大変魅力的だ。むしろ新鮮である。
志村喬は当時38歳で、いきなり老け役である。しかし、完全になりきっていて、とてもそんな実年齢には見えない。さすがである。
また、戦後の作品では完全なお爺さん役のイメージが強い高堂国典が住職の役だが若くて驚く。当然だろうが。
大河内傳次郎は、大変威厳や品格のある役者だが、この人はちょっとカツゼツが悪く、録音状態が古くて悪いのでセリフを聞き取りにくいところがある。
月形龍之介も、また大変強烈な個性の役者で、この作品の中では蛇のようなイヤな男という設定なのだが、現代の悪役と比べると、むしろその品の良さを感じてしまう。
轟夕起子も、この時代らしい美女で大変かわしらしい。
映画の演出としては、花井蘭子のお澄が、父親を投げ殺されて姿三四郎をじっと見つめ続けるシーンが印象的。結構長い時間見つめるシーンが映し出され続けていた。今となってはシンプルな演出だけれども、後年の黒澤的な演出の萌芽を感じさせるところである。
ただ、この映画は戦時中の混乱で紛失された部分があり、また細かいところでもコマとびも結構ある。特に、花井蘭子が父の敵として姿のもとに乗り込んで対面するシーンが失われているようなのは残念だった。
それと、藤田進が大河内に怒られて庭の池に飛び込むシーンも印象的。姿三四郎が、池に咲いている白い花を見て、ハッと悟って師匠に詫びを入れて許される。その白い花のイメージは、最後の決闘のシーンでなど何度も挿入される。
この花のイメージも、やはり今となってはシンプルで少し古い演出だけれども、とても黒澤らしい。
藤田進が対戦相手の志村喬の娘の轟夕起子に心を乱されて戦いに集中できないと悩むシーンで、和尚の高堂国典が、あの池の白い花を見た時の無心を思い出せば戦えるぞと一喝して、藤田は我に返り戦う決意をかためる。
この、無心の純粋な境地というのは、黒澤の重要なテーマで、例えば「生きる」の志村喬もそういう人間像だった。ただ、「生きる」の場合は、白い花ではなく自身の死の覚悟がその「悟り」のキッカケだったが。
posted by rukert | 映画
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