2012年09月13日

黒澤明「まあだだよ」



愛猫のノラがいなくなって、内田百(松村達雄)は、すっかり意気阻喪して何も手につかなくなり食べる事も寝る事も出来なくなる。教え子たちが共同して猫探しをし学校でのビラまきなどをして近所の人間に知れ渡るところとなる。
現実主義的な視点から考えるとバカバカしい話だ。単なる老人の我がままにも思える。一匹の猫などよりよほど大変な人間がたくさんいるというのに。そう言われかねないだろう。
教え子の高山(井川比佐志)が、こんなことを言う。
「先生はオレたちとは違うんだよ。その感受性も想像力もオレたちとはまるで違う。どこにいるか分からないノラのことを考えると、その様子が細かいところまで目に浮かぶ。だから、たまらなくなるんだ。」
これは、恐らく黒澤明自身のことを言っているのに違いない。理屈のレベルではなく実感として色々なものが見えたり感じたりしてしまう人間。
「生きものの記録」の老人もそうだ。あの老人の原爆恐怖症は理屈ではない。その恐ろしさが「細かいところまで目に浮かぶ」のだ。
それは単なる特殊な体質をもつ人間の問題に過ぎないのだろうか。普通の一般的な人間は、想像力に欠けている。現実的に余計なことは考えない。しかし、それは実は現実をありのままにみているということではない。自分が見たくないことから意図的に目をそらすと言う事だ。そうでもしないと、この世を正気で生きていくのは不可能だから。
しかし、本物の想像力を持つ人間は本当の現実から目をそらす事が出来ない。ほとんど肉体的、生理的なレベルで。そして、黒澤の想像力の正しさが311で不幸な事に実現してしまった。
普通の人間は実際に事が起きてからうろたえる。こんな事は起こるわけはなかったと。だが、事実の可能性ををその想像力で直視していた人間にはリアルに見えていた。
このノラのエピソードは単なる猫の話ではないのだ。多分現在の我々に致命的に欠けているのは、人間本来の素直で子供のような想像力である。それが欠如しているために、現実主義の名の下にありのままの現実を直視することが出来ない。
内田百閧ヘ、この映画でずっと子供のような人物として描かれ続ける。それも、まさしく黒澤自身の姿に違いない。黒澤映画を見ていて感じるのは―その初期からこの遺作の「まあだだよ」に至るまで―子供のような純真な目なのである。
しかし、とは言ってもノラの話は単なる一匹の猫の話に過ぎない。そんなことに周りの人間、大人たちを巻き込んだりして単に迷惑ではないか。
新しい猫が見つかり、やっと内田百閧ェ落ち着いて教え子たちと酒を飲むシーンで、内田が因幡の白兎の歌を歌いはじめる。そして白兎を救う大黒様についてこんなことを語る。
「大黒様は誰だろう。大黒様は誰でもない、キミたちだよ。いや、ノラのことで、あたしに親切な手紙をくれた人、電話をしてくれた人、あたしと一緒にノラのことを心配してくれた人、大黒様はその人たちだ。『大きな袋を肩にかけぇー(歌う)』大黒様のその大きな袋には、優しい心がいっぱいつまっているんだ。その心があたしを助けてくれたんだ。」
内田百閧フ子供のような心に、一般の人たちの心が反応する。多分「しょうがねぇなぁ」とかいいながら、その心の純真さにウソがないのを感じ取って、自分たちの中に眠っている子供の心が目を覚ます。
ノラ一匹のことより、その事の方が余程大切だ。内田百閧フような人物は現実的にはそんなに役立たなくても必要な人間である。多分黒澤もそういう人間だった。
但し、集まってくるのは善意だけではない。イタズラ電話をかけてきて、「とっくに三味線にされたされたぞ」と言って三味線まで鳴らす人間もいる。さて、現代ではどちらの反応が優勢なのだろうか。
この映画は、感覚的にはかなり現代の感覚とはずれている。その独特な感覚のカラーの映像美や、宴会の場面の雰囲気の巧みな描写構成を楽しみつつも、私自身も結構退屈しながら見続けた。
しかし、ラストで内田百閧フ少年時代の夢の場面になって、ハリウッドから輸入した「サイレント・フロスト」というコンピュータ制御のシステムによる、人工的だが妙に美しい夕焼け空が画面に流れて終ると、この映画全体の醸し出す余韻にひたっている自分に気づく。特に映画では何も起こらなかったのに、波乱万丈の映画を見た後のような感覚に陥るのだ。
それは、映画の中で起きる出来事の力ではなく、映像自体の持つ力によるものだ。最後は夢のシーンだが、この映画全体が大変リアルな夢である。静かで退屈だけれども、イメージの印象が心の深層に妙に滲みこんでくる。そういう不思議な映画だ。最後に見事な「夢」―静かな白鳥の歌―をつくることに黒澤は成功した。
posted by rukert | 映画
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