2011年01月21日

成瀬巳喜男「浮雲」感想



成瀬の最高傑作とされる映画である。だが、私は始めて見たときに正直好きになれなかった。男女の世界を描いた名品だという。決してそういう世界は嫌いではないのだけれど、監督の目がなんと言うか日本的に冷酷なのだ。この作品のウィキペディアをみると、「ゆき子と富岡は何度も衝突しその度によりを戻すが、成瀬はその別れられない理由については「身体の相性が良かったから」といった類の発言をしている。」そうである。
例えば私が好きなベルイマン映画でも男と女の地獄のような世界を描いていて、その過酷さは成瀬よりひどいくらいだけれども、根底には救いを求める視線のようなものがあって、あるいは現実と理想の緊張関係があって、その映画に深みをもたらしている。
溝口健二も過酷な現実を描いているようで、そういう現実を超えていこうと何か、憧れのようなものを感じる。この成瀬映画には、そういう甘さはないと思う。
この「浮雲」の男女の世界は、救いのない男女の世界が、そのままありのまま投げだされて観る者の目の前に晒される。それが日本的な独特な感性といえるのかもしれないが・・。ラストで二人の愛が確認されるけれども、そういうストーリーとは関係なく監督の目が鬼なのだ。
この映画を見た小津安二郎が「私には撮れない」といって褒めたという話があるが、まさしくそうだろう。絶対に撮れない。人間は自分と正反対のものに憧れるのだ。
但し、そういう作品に対する好き嫌いを超えて、強烈で圧倒的な印象を与える作品であることは間違いない。小津の感想も、とにかく作品の力に圧倒された人間の率直な言葉だ。
そして、今回改めて作品の内容を承知した上である程度冷静に見たが、要するに高峰秀子と森雅之が素晴らしいのだ。特に森は、他の映画の作品と違って、冷酷でだらしなくて卑劣だが女には魅力のある男という存在に深いところでなりきっている。高峰もそうだ。
映画は、どんなに現実をありのままに描いているようでも決して現実ではない。成瀬はある種自然主義的リアリズムの冷たい視線で男女の世界を描き出すが、その救いのない男女を二人は、救いのないままの形で、なおかつ映画的な神話創造作業を行いながら行っている。ここでの二人は、現実でありそうでいて、全く現実にはありえない男女なのである。
不思議なことがおこっている。成瀬の視線は冷たく突き放しているが、結果的には男女のメルヘンになっている。最後に林芙美子“花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき”と字幕が流れるが、救いのない現実をそのまま描くことで「花」になっている。映画の魔法だ。
勿論、成瀬もこの字幕を最後にもってくるくらいだから、悲惨な現実を描きながらそれが映画的な美しい創造になることをちゃんと理解し計算して映画を撮っているのだろう。彼は小説家ではなく映画作家なのだから。だから、私が最初に書いた成瀬の視線の冷たさなど本当はどうでもいいことなのかもしれない。とにかく見事な映画なのだから。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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