2009年08月17日

小林秀雄全集第六巻(旧全集版) ドストエフスキイの作品

小林によるドストエフスキー作品各論。素直に恐ろしく読みが深いと思う。ドストエフスキー解釈で誘惑に駆られる思想的観念的心理的解釈を徹底して排除し、ドストエフスキーの巨大な肉体自体をじかに感じようとする批評。少なくとも私には理解が難しい部分もあったが、それは分かりやすい安易な解釈を拒否しているためである。特に「「罪と罰」についてU」が圧巻。まず、ラスコーリニコフがソーニャの前で悔悟したという解釈を拒否する。また、ラスコーリニコフの思想にニーチェの超人思想をかぎつけると言ったイージーゴーイングな解釈も勿論ノー。
私自身の感じたことを書こうと思ったのだが、正直言ってここでは小林に圧倒されてしまっていて、特に何か付け加えることも出来ないし、要約めいたこともする気がしない。気になった部分をまとめて引用しすましておく。ちなみに、「「罪と罰について」U」の最後の部分に、意表をついて現れる結語はいかにも小林流の独断なのだけれども、必ずしも分かりやすいとはいえない小林の思考を辛抱して辿った後に突然これが出てくると抵抗しがたい説得力を感じてしまう。ドストエフスキーも、イエス・キリストについて突き詰めてギリギリまで考えたが、小林も伝染して同じ事を考え、ついこんな言葉をもらしたようにも思える。その部分も、最後に引用しておく。

彼(ドストエフスキー)を知る難しさは、とどのつまり、己を知る易しさを全く放棄してしまうことに帰するのではあるまいか。彼が限度を踏み超える時、僕も限度を踏み超えてみねばならぬ。なぜか。彼の作品が、さう要求しているからだ。彼の謎めいた作品は、あれこれの解き手を期待しているがゆえに謎めいているとは見えず、それは、彼の全努力によって支えられた解いてはならぬ大きな謎の力として現われ、僕にさういう風に要求するからである。

ラスコオリニコフの思想を明らかにし、彼の行為を合理的に解釈しようとする、評家たちの試みは成功しない。作者にしてみれば、もし諸君が成功するなら、私の方が失敗していたわけだ、とさえ言いたいだろう。作者は、主人公の行為の明らかな思想的背景といふようなものを信じてはいない。

ラスコオリニコフとは何者か。聡明な頭と優しい心を持ちながら、貧困と激しい疑惑により、何も彼も滅茶滅茶にしてしまった憐れな肩書きの大学生であって、それ以外の何者でもない。

作者が示したかったのは、明らかに、殺人とは、ラスコオリニコフの意志でもなく、願望とさえ呼べない一つの強迫観念であったということだ。強迫観念は、彼を追い、しばしば彼を追い抜くのである。

彼女(ソーニャ)は見抜いてしまう。この人がなにを言おうと、なにをしようと、神様はご存知だ、この人は限りなく不幸な人だ、と。これが、彼女の人間認識の全部である。ソオニャの目は、根底的にはまた作者の目であったに違いないと僕は信じる。

これは犯罪小説でも心理小説でもない。いかに生くべきかを問うたある「猛り狂った良心」の記録なのである。僕らを十二重に取り巻いている観念の諸形態を、原理的に否定しようとするある危険な何ものかが僕らの奥深い内部に必ずあるのであり、そのことがまさに僕らが生きている真の意味であり、状態である。さういふ作者の洞察力に耐えるために、この憐れな主人公は、異様な忍耐を必要としているのである。

ラスコオリニコフは監獄に入れられたから孤独でもなく、人を殺したから不安なのでもない。この影は、一切の人間的なものの孤立と不安を語る異様な(これこそ真に異様である)背光を背負っている。見える人には見えるであろう。そして、これを見てしまった人には、もはや「罪と罰」といふ標題から離れることは出来ないであろう。作者はこの標題については、一言も語りはしなかった。しかし、聞こえるものには聞こえるであろう。「全て信仰によらぬことは罪なり」(ロマ書)と。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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