2009年07月30日

小林秀雄全集(旧全集版) 第七巻 歴史と文学

小林の戦争時、あるいは戦争に関する文章が多く収められている。小林は、知識人的な反戦主義者ではなく、戦争という日本の運命を多くの国民と同じく黙って受け入れる立場だった。いや、立場というよりは個人の資質としてそうせざるをえないタイプだったと言うべきか。小林は、上っ面の反戦主義を気取る知識人的態度に苛立ち、ほとんど放言ととられても仕方ないような発言もしている。それを、現在の目で批判するのは容易だ。また、場合によっては批判する必要もあるのかもしれないが、あまりそういうことに私は興味が無い。
それよりも、戦争体験によって、小林の繊細で鋭敏な感受性が心底震撼させられるような影響を受けたのかが良く伝わってくる事のほうが大切だ。戦争を一歩外に立って批判していた知識人たちよりも、真正面から戦争と言う出来事の意味を受け入れ、自分自身や日本という国の伝統の深いところで再確認する契機になったことが、よく分かる。この後、小林は「無常といふこと」にまとめられた素晴らしいエッセイ類を書くのだが、あの文章のなんともいえず人を深いところでひきつけずにはいれない迫力とは、小林の戦争体験、そしてそれをまったく逃げることなく真正面から受けとめた心が書かせたものなのだと痛感する。西行や徒然草についての素晴らしいエッセイは、小林自身のことを語っているのだ。だから、自分以外の対象のことを語っていながら、あれだけ生きたことを書けるのだろう。そういう対象への向かい方は、小林のどの時期についてもいえることだが、特にこの後あたりの時期では、日本という伝統の形を、どんな時期よりも、小林がありありと実際のもののように生々しくイメージして書いている。、小林が体ごと戦争体験を受け入れたことが、「無常といふこと」という美しい結実をもたらしたとも言えるだろう。
勿論、それと小林のような戦争の受けれ入れ方が正しいかどうかは、全く別問題である。例えば、ナチに対する協力が戦後問題になったフルトヴェングラー。彼のナチへの具体的協力の内容、程度はともかくとして、フルトヴェングラーは、心底ドイツ的な指揮者で、彼が国に残って演奏し続けたのは、善悪を超えてよく理解できるところである。トスカニーニは、明快にナチを否定し、フルトヴェングラーも激しく批判した。政治的行為としては、どう考えてもトスカニーニのとった態度のほうが明快だし「正しい」わけなのだが、それでも人間の本質的なタイプとして、フルトヴェングラーは破滅に一直線に向かう祖国に残ってその宿命を身をもって国民と共にするしかないという人間だったのではないかとも思う。
勿論、ナチと日本の問題は全然違うのだが、小林についても、似たようなものを感じる。小林は、マルキシズムも深く研究したり、政治的問題で啖呵をきったりはしているが、本質的には、徹底的に非政治的なタイプだったのではないかと思う。小林の一種の理論性が錯覚させるのだが、色々政治について発言してはいるものの、実際には政治的な面では全く役に立たないタイプだったのではないだろうか。むしろ、どうしようもなく繊細で外部の出来事からナイーブ過ぎる影響を受けずにはいられない根っからの非政治的文人タイプだったという気がする。これは善悪の問題ではなく、小林は人間として本質的にそういうタイプだったのであり、彼らしく戦争を受け止めるという小林の宿命に従ったということなのではないだろうか。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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