2009年07月06日

村上春樹「1Q84」読書メモ

(注意 ネタバレで書いています)




あのラストを読んだら、誰しも色々考えざるをえないだろう。考えさせるためのラストともいえる。読了から二日ほど立つが、いまだによく考えがまとまっていない。とりあえずの読書メモ。

かつてオウム真理教のポアという教義が問題になった。間違いを犯している(に特に限らないが)人間を、悟りを開いた人間が死の世界に魂を移行させて、苦しむ者の魂を救済するという教義。そもそも、死後の世界があるのかということを一度カッコに入れるにしても、普通の人間にすれば、宗教の勝手きわまりない行為、単なる殺人行為でしかない。それに対して、カルト側は、間違った生を送っている人間を救済する行為だと言い張る。実際問題としては、そんなカルトの主張などとりあうだけ無駄といってしまえばそれまである。しかし、一応形式論理上だけで言うと、両者の主張は平行論をたどる。だから、さらに仮定として(あくまで仮定として)、宗教側がいっていることが正しいとしたらどうなるのか。もし、人の魂を本当に救うとしても、勝手に人の生を人間が取り扱っても良いのか。そこまで来て、答えははっきりする。ノーであどんなに聖者に近いとしても、人間は人間である。人間が、勝手に他の人間の運命に介入する権利はない。それこそ「なぜ人は人を殺してはいけないのか」に対する根本的な理由だと思う。宗教的な思考の深みにはまっていくと、それがたとえカルト教団による思考でないにしても、「常識」が失われる恐れがある。しかし、結局人間の現実的な「常識」というものは実はギリギリのところでも通用するものなのである。むしろ。怪しげな宗教的な思考に対抗するためには、ごくごく素朴な「常識」のほうが、高度な思想などよりも、よほど有効なのである。
青豆は、家庭内暴力を振るう男たちを殺している。青豆と考え方を共有する老婦人の協力を得て。読者は、彼らの行為に共感せずにはいられないだろう。弱い立場の女性を虐待する虫けらのような男たちは、処罰を受け報いを得るのが当然だと。しかし、先ほど言ったように、それでも人は人を殺してはいけない。最悪な暴力男たちわ罰するのならば、他の方法を探らなければならない。それが常識である。無論、現実問題として、法律や社会が、そういう心を病んだ男たちをきちんと監視しきれていないということはある。病的な男たちは、もし野放しになれば、何度でも犯行を繰り返し、被害者が増え続ける。だから、青豆と老婦人は、彼らを殺しているのである。
しかし、それでも人間が人間を殺す権利はない。裁かれる人間がどんなに卑劣で生きる価値のない存在だとしても、青豆たちのしていることは、結果的にはオウム真理教と変わらない。青豆たちの行為が、心からの善意、というよりは正義感使命感により、オウムの行為が単なる狂信によるという違いはあるにしても。
青豆結局自殺する。なぜ、と我々読者は思う。なんとしても天吾と会おうとするべきではないか、そういてリーダーを殺したのを最後に殺人行為をやめて、新たに生き直すべきではないのか。あるいは、罪を告白して罰を受けるのも良い。しかし、そうはならない。青豆は自ら死を選ぶ。
青豆が「リーターー」を殺すのは、天吾を救うためである。だから、その任務が終わり、自分が天吾を心から愛しているという事実さえあるのならば、もう自分で命を絶っても構わない。そういう意味では、筋が通っている。しかし、別のハッピーエンドでなく、青豆に自殺させた作者の意図はどこにあるのだろうか。小説としての悲劇的な美しい側面が欲しかったからだろうか。そんな浅はかなものではあるまい。私には作者の意図はよく分からない、ただ、作者の意図というのは、単に意識的なものにはとどまらない。意図的にこうすべきと考えるのとは別な深い無意識の力が働いているはずである。優れた小説には必ず起こることだ。
結局、青豆は、人を殺し続けたということに対する深い意識が働いていたのだと思う。表面的な意識では、自分の行為の正しさを確信しながらも、その本質的な過ちを理解していた。それは、「リーダー」という自分が殺されることを承知している人物を殺すというギリギリの状況で、自分の行為の深い意味を考えさせられずにはいられないということも関係するだろう。だから、青豆は自分で自分の死を選んだ。天吾を愛していたということだけを唯一の救いとして。読者は、青豆の生い立ちやおかれた環境や天吾との関係を考えれば、胸を痛めずにはいられない。当然の事だ。青豆を読者として個人的には、徹底的に哀悼する。しかし、青豆の自殺はストーリーとしては「正しい」。作者がどの程度意識して書いているのかは、一切不明なのだが。

この小説で私が一番気に入ったのは、最初のあたりで青豆が中年男性を誘って、というよりは強引に説得してセックスをする場面である。あの場面は、本当に小説として秀逸だと思う。ただ、勿論小説的な中心場面ではない。中心場面は、おそらく青豆がリーターと対面して殺す場面である。あれは、村上春樹による「カラマーゾフの大審問官の場面」なのだと思う。
パッシヴァとレシーヴァという難解な概念。そして、リトルピープル。ふかえりと天吾は、コンビを組むことで、反リトルピーブル的な力を発揮しているのだという。表面的な読みをすると、リトルピーブル=悪、ふかえり天吾=善とも取れる。しかし、恐らくそうではないのだと思う。リトルピープル的なものの力は、普段は人間が生きる世界には届いていない。それを、仲介する人間が現れた時だけ、人間の世界に届き、とんでもない力を発揮する。そして、多くの人間、特に心に弱点をもつ人間の生を軽々と破壊する。
しかし、ふかえりや天吾や青豆のような「何か」を自分の中に持っている人間には、リトルピープル的な力は一切手出しをすることが出来ない。つまり、リトルピープル的なものというのは、本来「別世界」に属するものなのだ。
一方、どんなにくだらない弱い人間であっても、とにかく全ての人間は「この世界」を生きている。少なくとも死ぬまではそうだ。だからこそ、人間の生は尊い。どんなに優れた聖人も、クズのような人間も、等しく各人の生を生き抜く。ところが、そこに間違った手段により「別の世界」の力が介入した場合にはどうなるか。其の場合、人間の自由は奪われる。弱点をもつ人間は「別の世界」の力によって破滅する。リトルピープル的な力というのは、決して「悪」ではないのだと思う。むしろ価値中性的な一つの巨大な力である。
普段、人間の生に介入することはない一つの裁く力である。ふかえりは、その力の実在にはなんら疑いを抱かないが、その力が間違って生きる人間の世界に介入してくることが誤りであることに気付く。それは彼女の宗教的な天才によるのではなく、彼女の人間としての歪みのない感性によるのだろう。リトルピープルは別に間違ったことをしているわけてはない、人間の世界に貫流してはいけないのだ。リーダーの肉体がポロポロになり、極限的な苦痛を味合うのもそのためである。彼は特別な能力を持つ代わりに、人間として破滅する。そして、青豆によって殺されることのみを望む。
だから、この1Q84は、決して善と悪の物語ではない。「別の世界」の力の強大な力と比べれば、限りなく卑小で限られた力しか持たない「この世界」の人間に対する徹底的な肯定の物語なのである。
青豆も天後も二つの月を見る。それは、(リーダーも語っていたように)パラレルワールドへの移行といったSF小説の出来事ではない。月が二つある世界は、れっきとした現実の世界である。それは、「シンフォニエッタ」を流したタクシー運転手も暗示していたことだ。彼は青豆の前に現れた預言者である。月が二つの世界も、れっきとした現実だし、喜びも悲しみも苦しみも生も死も全て、あるがままの現実である。ただ、目覚めた人間にとって、全く世界の見え方が変わってしまうだけである。それは、自己のパッシヴァとレシーヴァへの分裂した人間が見る月だ。また、自分の「空気さなぎ」を意識するか見てしまった人間に起こることとも言える。リトルピープル的なものの力を感じ取って、「別の世界」の追憶をしっかり感じ取りながらも、その魅力的ながらも破滅的な世界に回収されることを徹底的に拒否し、この大地上で生き抜いていくことを決意した生身の人間が、二つの月を見るのだ。それは1Q84に登場する青豆や天吾後だけに関係する話ではない。この世界に生きる、全ての人間、私やあなたも実際に関係している出来事なのである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評
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