2009年03月22日

小林秀雄全集第四巻「作家の顔」

本巻中の小林と白鳥の論争については、別に書いた。
他にも面白いものはたくさんあるのだが、「戦争について」がとても気になる。小林は戦争の時代を生きた、現在我々はすっかり平和ボケして自分の国が戦争したり動乱している状態を想像することすら出来なくなっている。もし、我々がそういう状態に置かれたら、どのように振舞うべきなのか。
小林が編集していた「文学界」の後記もこの本に収録されているのだが、その中にこういう部分がある。ある雑誌から戦争についての座談会への出席を求められて。
「戦争に対する文士の態度という特別な態度でもあるのかい。」
「ないでしょうね。」
「だから僕は断るよ。一言で済んでしまうもの。戦いは勝たねばならぬ。同感だろう。」
「同感だ。」
小林流の放言なのだけれども、決して馬鹿にして済まされない問題である。
「戦争について」からも、いくつか引用する。
銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国のために死ぬであろう。僕にはそれ以上の覚悟が考えられないし、また必要だとも思わない。一体文学者として銃をとるなどということがそもそも意味をなさない。誰だって戦う時は兵の身分で戦うのである。
文学は平和のためにあるのであって戦争のためにあるのではない。
日本に生まれたということは、僕らの運命だ。(中略)自分一身上の問題では無力なような社会道徳が意味がないように、自国民の団結を省みないような国際正義は無意味である。
いわゆる敗戦思想を僕は信じない。極言すれば、そんなものは思想とさえいえないのだ。科学から意匠だけ失敬してきた感傷的な政策論に過ぎない。俺は審判者である、貴様の国家は歴史的に遅れているから、人類の理想のためにもう一つの国家に負けろ、などということでは子供の喧嘩の仲裁すら難しかろう。
歴史の最大の教訓は、将来に対する予見を盲信せず、、現在だけに精力的な愛着を持った人だけがまさしく歴史を作ってきたということを学ぶところにあるのだ。過去の時代の歴史的限界性を認めるのはよい。但しその歴史的限界性にも関わらず、その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する尊敬の念を忘れては駄目である。この尊敬の念のないところには歴史の残骸があるばかりだ。
文学者たる限り文学者は徹底した平和主義者であるほかはない。従って戦争という形で政治の理論が誇示された時に矛盾を感じるのは当たり前なことだ。僕はこの矛盾を頭の中で片付けようとは思わない。誰が人生を矛盾なしに生きようなどというおめでたい希望を持つものか。同胞のために死ななければならぬ時が着たら潔く死ぬだろう。僕はただの人間だ。聖者でもなければ預言者でもない。
小林の言っていることは正論なのである。特に、現代の平和ボケの状況において、自分の立場を棚に上げて安易に何らかの政治的事件を批判することに対して、私自身もほとんど生理的嫌悪を感じる。どんなに正しいことを言っているとしても、自分の立場を省みない正義感やヒロイズムや自惚れというのは不愉快なものである。特に本人が全く気付いていない時は醜い。
しかし、だからといって小林の言うところまで一直線に突っ走っていいのだろうかと、決して大声ではなく、こっそりつぶやきたくなるのも事実である。
小林も明快に指摘している通り、本当の文学者というのは本質的に徹底的な平和主義者であるしかない。しかし、戦争という状況においては、自分の実践的、実際的立場を取らざるをえない。小林は、とにかく戦争が起こったら、それに加わるしかないというのである。
戦争で自国民が、そして現場の兵隊たちが極限的な苦しみを受けている時に、大局的な空疎な平和論、敗戦論をぶつのは確かに醜い。それは小林の言うとおりだ。小林の言うことはとことん男らしい。
しかし、文学者が、小林の言うようなものならば、やはり戦争時にも文学者は徹底した平和主義者であり続けるべきなのではないだろうか。それは自分を棚に上げたおめでたい平和主義ではなく、苦渋と苦難に満ちた抵抗だろう。自分が自分の国家から一歩上に立った無関係な存在では決してなく、あくまでその運命を共有する一員であることを鋭く感じながら、激しい苦しみを感じながら、無責任な平和主義の立場を、声高にではなくひっそりと続けること。ヒロイズムや建前論とかは一切なく、ウジウジと戦争に逆らうこと。文学者や知識時間ののとりうる態度、というかギリギリの実際の生き方というのはそういうものでしかないのではないだろうか。
勿論、こういうことも言うだけなら容易だ。実際に戦争という状況におかれた時の振る舞いについて、現在の平和ボケの我々が何らか言うのが、そもそも無限にためらわずにはいられないことなのである。例えば、現実に兵隊になったら、兵となって戦うしかない。それ以外の選択はないのは無論なのだが。
小林は、自分は聖者で話すし預言者ではないという。その通りだ。誰だってそうだ。しかし。文学者や知識人というのは、自らが聖人とは遠く離れた卑小な存在であることを深く自覚しながら、盲目的な民族の集団的運命に、卑怯といわれようが姑息といわれようが、イジイジと逆らうべきものなのではないだろうか。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(1) | 小林秀雄
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