2009年03月15日

溝口健二「楊貴妃」



正直言って、見る前はあまり期待していなかった。溝口に中国の歴史ものですか、有名になったから名作狙いで一発当てようという魂胆丸見えじゃないですか。溝口の場合、明らかに自分には合わないテーマの作品も結構撮っているので、またそうなのかと思い込んでしまっていた。カメラも宮川一夫ではないし、溝口初のカラー作品でもある。
しかし、全くいい意味で裏切られた。溝口は、玄宗皇帝と楊貴妃の愛の物語を、歴史的史実など完全に無視して、溝口流の男と女の物語に仕立てあげてしまった。素晴らしい天才の力技である。溝口は歴史交渉にもうるさくて、ある女優に厚い歴史の本を渡して、これを読んでおきなさいと言ったとかいうエピソードも残っている。しかし、そういうこだわりがありながら、結局は無視してしまって、自分好みの物語を作ってしまう天才の独断に乾杯。舞台は中国の宮廷だが、ほとんど日本の遊郭の話としてもおかしくない。そもそも、誰も溝口映画に歴史的考証の厳密や精緻など求めていないのだ。もっと他のものを求めている。そして、溝口はそういう期待に見事に応えてくれている。
この映画はそれほど高い評価を受けているわけではないようだ。Amazonのリンクをはろうとしても、単独品がなく全集しかなかったくらいである。しかし、個人的には、とても気に入った。楊貴妃のも物語ではなく、「近松物語」のように見てしまえばよろしい。細かいことなど、一切気にせずに。
森雅之の玄宗皇帝からして、あまりに聖人に性格設定しすぎているだろう。だが、そんなことは気にしないでよい。彼が楊貴妃を愛するという必然性だけ観る者に納得させられるならば。京マチコの楊貴妃が、とても美しくても全然楊貴妃のイメージでなくても一向に構わない。玄宗皇帝を慕う必然性だけ納得させられるならば。溝口が描くのは、男や女の個人としての物語ではなく、あくまで男女の対の物語である。男と女が愛し合った場合に現出する異様でいてしかしリアルな確固たる世界。他者からは伺いしれないが羨望し共感せずにはいられない特別な世界に対する無邪気なまでの徹底的な肯定が根底にある。
長安の町に二人でお忍びで出かけるシーンが素晴らしい。 森雅之が、街の団子か食べる際には、まるで生まれてそれを食べるかのように食べている。そして、京マチ子の楊貴妃が街中で踊る場面の見事なこと。彼女は、たぶん運動神経抜群ですごく敏捷なところがある。
そんなのは歴史的にはありえない、大岡越前が町にお忍びするんじゃあるまいし、という野暮な突っ込みは不要である。二人が、お忍びで町の祭りを心から楽しんで、二人の世界にすっかり浸っている感じがありありと出ていることが何より肝心なのだ。
京マチ子の楊貴妃というのは、もともとのイメージからするとミスキャストなのかもしれないが、そんなことがどうでも良くなるくらい、この映画の中での彼女は活き活きしている、・・ようにフィルムの中では見える。森雅之と同じように観る者は恐らく京マチコに恋してしまううのだ。楊貴妃に対してではなく。
歴史的背景など一切関係なく、森雅之と京マチ子の愛に無邪気に溺れきってしまうこと。この映画を観る者に唯一求められているのは、それだけである。そういう観方をすれば、紛うことなき純然たる溝口作品の姿をしている。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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