2009年03月13日

溝口健二「近松物語」



溝口らしい作品ということで、文句のつけようがないだろう。特にどうこう言うべきこともない、見れば分かるという作品である。
長谷川一夫も香川京子も、役者というレベルを軽くこえた存在としてフィルムのなかにおさまっている。役者として演技する作為的な姿勢を捨て去るのではなく、反対に過剰なくらいに役者としての表現を行うことで、逆説的に役者が演じる臭みとかいやらしさというものが完全になくなってしまっている。それが溝口の演出方法である。
船で心中しようとして、茂平が死ぬ前にかねてからおさんにいだいていた思いを告白すると、おさんは怒ったような顔をする。茂平が謝ると、それを聞いたらもう死ねない、生きていたいといって、茂平に体ごとすがりつく。とっておきの名シーンである。ストレートで全く余計な要素のない男女の愛のシーンなのだが、勿論現実ではこういうわけにはいかない。しかし、男女が愛し合うというのはこういうことだという幻想に見る者は完全にとらえられてしまい、それが現実よりも現実らしいのである。我々が生きている現実は、実は本物の現実ではなく、かろうじて映画で誇張して表現することで、なんとか感知することが出来るのだ。
というように妄想が起きるくらい、溝口の撮り方は圧倒的である。二人の名シーンは他にもいくらでもある。
進藤英太郎が、相変わらず徹底した悪役を演じきっている。とんでもない奴なのだが、どこか憎めない男なのだ。実際、最後はもっと悪賢い奴に足元をすくわれる。溝口の場合、本当に悪を憎むというよりは、人間的な弱さや業の肯定というのが根底にあり、そのために進藤英太郎という役者、人間が必要だし、またピッタリなのである。溝口映画において、田中絹代よりも重要な役者なのかもしれない。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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