2009年02月06日

タルコフスキー著「サクリファイス」(鴻 英良 訳)

タルコフスキーは、この小説を「ノスタルジア」の翌年に執筆したのだという。さかのぼってソ連時代に「ストーカー」に続く映画作品として構想していたそうである。
映画「サクリファイス」は様々に解釈できる作品である。私自身見たときに、これはきわめて高度な狂言なのではないかという、とても勝手な解釈をしたのだが、どうもタルコフスキーの意図は、もっと素直で直接的だったようである。私のような解釈は、タルコフスキーが最も嫌うタイプのものかもしれない。
そもそも、タルコフスキーが「映像のポエジア」で繰り返し言っているのは、映画に対して何か背後に隠されている象徴的な意味を探るべきではないということだ。また、そのように仕組まれた映画は、映画本来の表現に反すると。映像そのものが訴えかけてくるものを、見る人間が直覚的に感じ取り象徴的に解釈しないような、時間の強度をフィルムに定着している作品こそ、本当の映画だと。
例えば、タルコフスキー映画に頻繁に出現する水や雨は何の象徴かと、よく聞かれたそうだ。それに対して、タルコフスキーは、水は水、雨は雨なのだと答えている。あえて言えば、少年時代にロシアで実際に接した雨や水であって、そういう直接的な体験に裏付けられたものであって、決して何か象徴的な意味を装填しようとする意志は一切ないという。
あるいは、「ストーカー」の「ゾーン」やトンネルについても同様である。何か隠された意味などなく、ゾーンはゾーン、トンネルはトンネルである。
もしかすると、カフカの小説についても同じことが言えるのかもしれない。「城」は官僚機構の象徴なのではなく、単なる城かもしれないのだ。そんなつまらない象徴的解釈などより、カフカの文章が喚起する生々しいイメージの直接的な力がよほど大切なのである。カフカは言葉という象徴をまとわずにはいられない道具を使って、様々な象徴解釈が可能なように書きながら、一番象徴とは遠いところまで言葉を導いたのかもしれない。というのは、今思いつきで書いたのだが。
タルコフスキーの「サクリファイス」も、余計な象徴的解釈は必要とせず、そのまま受け取るべきなのだろう。私がわざわざこの小説を読んだのは、まさしくあの映画の象徴的解釈が知りたくてである。しかし、本書を読んでも、そのような期待は裏切られるだろう。情報自体としては、ほとんど映画に与えられる以上のものはない。勿論。映画には描かれていない部分もあるが、それは何か解釈のヒントになるものではない。
むしろ、「映像のポエジア」で、タルコフスキーは「サクリファイス」の解釈について語っている。あの映画は様々な解釈が出来るように作られている。例えば、信仰に興味がある人間は、アレクサンドルの祈りに映画の中心テーマを読み取るだろうし、超自然的な現象に興味がある人間は魔女マリアとのシーンが中心的な出来事になる。(サクリファイス制作の頃、タルコフスキーは、ルドルフ・シュタイナーに深い関心を持っていたという。)
さらに、映画の全ては主人公の心の病が生み出した幻想で、実際には何も起きていないと考える人もいるだろう、と。
こうした反応はどれも映画が示している現実と本質的にはなんの関係もない。
と、タルコフスキーは言い切っている。フィルム上に展開される、現実がそのままの意味を持つのであって、そこに何らかの隠しテーマが存在するというわけではないと。映画という表現に対する深い自身と誇りが言わせる言葉である。映画で起きていることを、もっと直截的に全て感じ取ることを、観客は期待されているのである。厳しい見方を求められているともいえるし、映画を見るという体験は結局そういうこととも言える。小説を読むのとは全く違うわけだから。
私自身も、基本的には「何も起こっていない」というタルコフスキーが一番嫌いそうな解釈をしていたわけである。かなりタルコフスキーを「素直に」見るタイプの私でもそうなのだ。しかし、無理やり自己弁護するならば、そもそも極端に真剣なものというのは、究極的には笑いを誘うものである。私は、アレクサンドルがマリアの家に自転車で向かう途中でこけるシーンで噴き出してしまって、以降全てがおかしくなってしまったわけだが、狂言というのは、そもそも真面目なものに笑いを見出そうということである(かどうかはよく知らないが)。タルコフスキーの映画のイメージや現実の流れを完璧に細心に受け止めながら、なおかつ笑うというのは(その笑いは、意味解釈による笑いでもなく、まして嘲笑的な笑いではなく、笑いそのものの本源に近い笑いである)、それほど、タルコフスキーの映画の見方としては間違ってはいないのではないだろうか。
閑話休題。
とはいっても、勿論タルコフスキーが映画をつくるにあたって考えていたことは存在する。それは映画タイトルが示している。「サクリファイス」(犠牲の精神)
である。それで十分だろうと。
「映像のポエジア」の終章で、タルコフスキーは、やや信仰告白気味に苛烈な現代文明批判を繰り広げている。現代の物質文明が人間の精神性を著しく阻害してしまったこと。社会と個人が激しく対立し、個人が社会という組織に従属することを余儀なくされている。また、個人は他人に対して何かを要求することこそあれ、他人に対して何かを与え譲ろうとはしない。その際必要なのは、自己犠牲、他人に尽くそうとする精神である。まさしく「サクリファイス」である。
さらに自由というのは、本来勝手な自己主張ではなく、自分が他者と関係することを認識しつつ、深くつらい内的精神的作業を経ながら、苦労して勝ち取るものだ。それはお気楽な幸福の状態とは全く異なる、苦悩を通過して得ることができる状態であって。自己主張の自由とは正反対の状態だろう。そのような自由は、何か特別な人間だけの特権ではなく、あらゆる人間が平等に可能性を有しており、なおかつ各個人が内的困苦を経なければ獲得できない状態である。現代においては、そういうことをしようとする人間がほとんどいないだけである。
そして、そのような自由を表現し、人々にインスピレーションを与えるものこそが芸術に他ならない。タルコフスキーにとっては、「映画」が、それをもっとも純粋に表現できる手段だった。
「映像のポエジア」の最後の部分。
最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう。実際人類は芸術的イメージ以外はなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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