2009年01月30日

映画「ピーター・セラーズの愛し方」



一応はピーター・セラーズの伝記映画である。どこまで本当かという問題は常にある、多分、大筋の事実では本当、ディテールの描き方はデタラメの創作なのではないだろうか。まあ、映画なんだからその辺はうるさくは言わないが、やはり、セラーズ・ファンとしては楽しく見られるという種類のフィルムではない。
でも、私はもっぱらセラーズの私生活について知りたかっただけなのだし。一応、大筋として多分事実に基づいていそうなことを、映画から推測して列挙してみよう。

かなりマザコン気味の人物で、かなり年齢がいくまで強烈な個性の母親の強い影響下にあった。
「美しい女性」が大好きで、四人の女性と次々に結婚。基本的に下半身には余り人格がなかった人らしい。
いつまでも大人に成りきれず、自分を抑制することが出来ず、ストレスがたまると大爆発して、家族等周囲に迷惑をかけることがあった。
映画の撮影現場でも、かなり主張が強かったらしい。クルーゾー役は、本人はあまり気に入っておらず、シリーズ監督のブレイク・エドワーズとは、対立関係にある場合も多く、常にゴタゴタしていたらしい。
自分の性格というものを持たない空っぽの容器のような人物で、だからあれだけ色々な役に完璧になりきれた。
「チャンス」だけは、自分でも、どうしても撮りたい演じたい映画だった。

正直言って、私は「チャンス」の庭師役の印象が強烈過ぎるので、もしかしたら私生活でも聖人のようなタイプだったのではないかと想像していたのだが、きわめて人間的だったようである。
要するに「空っぽの容器のような人間」ということなのだろう。固定した自己や自我を持たないので、どんな役にもなりきれる。しかし、大人としての人格をきちんと形成していないので、常に子供っぽい側面が残る。また、自身の欲求や感情にはとことん素直に従い、またそのスケールや強度が人並み外れて大きい人だった。だから、どんな役をやっても、あれだけ振幅の大きい強烈なイメージを人に与えることが可能なのだろう。母親との関係も、そういう大人に成りきらない、自我を固定化しないための必要条件であり、十分条件である。
というような心理分析は容易だが、そういう作業はむなしい。ただ、セラーズのあの役への成りきりの秘密、個人的資質というものはある程度理解できたような気はした。しかし、言うまでもなく、重要なのはセラーズが普段どんな人物だったかということではなく、セラーズがスクリーン上でどのように演じきり、どのように見えたかということだ。
ファンとしては、そういうセラーズを堪能するだけのことである。
ブレイク・エドワーズとの関係も興味深い。例えばマイルス・ディヴィスとテオ・マセロの関係のような、常に悪態をつき合いながら信頼しあっているような間柄とも似ている。ただ、違うのは、セラーズセラーがあまりクルーゾー役を気に入っていなかったらしいということだ。
セラーズが本当に演じたかったのは「チャンス」の庭師だった。あれは本当に素晴らしい。まさしく「空っぽの器」が「空っぽの人物」を演じきった稀有な例なので。
しかし、客観的にみてやはりクルーゾーも、それに劣らず素晴らしい役柄創出である。本人が嫌がっていようがなんだろうが、結果的にフィルムに定着された姿や他人の評価のほうが確かなのだ。もしあんな馬鹿げた役とセラーズが思っていたとしたら、それはやはり彼らしい子供っぽさの素直な表現である。馬鹿らしい役だろうが、それより重要なのはクルーゾーという世にも稀な個性の表現である。それを、対立関係にありながら共犯的に作り上げたエドワーズはやはりえらいのだ。
スタンリー・キューブリック(役)も登場する。彼は勿論映画監督としての格が違いすぎる。映画としての質だけで言うと、セラーズ作品では「博士の異常な愛情」が突出している。エドワーズもキューブリックと比べてしまったら、それは気の毒だ。でも、あのクルーゾーというのは、やはりセラーズを支えたエドワーズの見事な創造行為だったと思う。馬鹿馬鹿しいキャラクターなので、なかなかそういうことが見えにくいかもしれないが。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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