2008年11月14日

水村美苗「日本語が亡びるとき」雑感

この本には、様々な重要で大きなテーマが並列的、あるいは重層的に含まれている。現在ネットで大きく取り上げられているが、その場合は、「英語の世紀」とネットの世界的な普及が中心的な興味関心テーマになるだろう。そういう観点でも読む価値がある本だし、その意味では、現代を生きる全ての人間に関連してくる問題でもある。
しかし、言うまでもなく、水村氏の「中心テーマ」はそのことではない。現代日本の「国語」が、あまりにも内容が薄くて読むにたえないものになっており、このまま放置していたら、確実に「日本語は亡びる」ということである。そして、それを防止するためには、「国語」としてきわめてレベルも高く充実していた漱石に代表される「近代文学」を多くの日本人が読み、教育にも取り入れられるべきだという。
水村氏は日本語教育について、きわめて具体的にこのように述べている。
日本の国語教育においては、すべての生徒が、少なくとも、日本近代文学の<読まれるべき言葉>に親しむことができるきっかけを与えるべきである。子供のころにあれだけ濃度の高い文章に触れたら、今巷に漠然と流通している文章がいかに安易なものか肌で分かるようになるはずである。
私自身は現在40代である。少なくとも「国語教育」を受ける時代に、文庫で過去の文学作品の名作を読むという習慣が、かすかながらも残っていた世代である。本を読むのは好きな方だったので、専門的ではないにしても、漱石をはじめとする「日本近代文学」に馴染んで育っている。そういう文学の魅力も、素人なりに少しは理解しているつもりだ。
しかし、「今巷に漠然と流通している文章が安易なものか肌で分かるようになるはずである」という指摘には、とても同意する気にはならない。水村氏は、「安易な文章」の例を、具体的に上げることは避けている。だから、私でも水村氏に同意せずにはいられないくだらない雑文の類のことを言っているのか、「現代日本文学」といわれているものまでひっくるめて言っているのかは不明だ。
だから、水村氏がどう思っているか分からぬまま、例えば名前を挙げてみると「よしもとばなな」はどうだろう。彼女の文章は、ご存知の通りとても読みやすいしスラスラ簡単に読めてしまう。「近代文学」のように「濃度が高い」とはいえない。しかし、文章の表面的な印象だけで文学を評価するのは、言うまでもなく限りなく浅薄である。
よしもとばななも、簡単そうな言葉で書かれているが、あれはまるで彫刻するように、微妙にバランスと言語感覚によって築き上げられている最上の芸術である。また、やさしい言葉によって語られているが、その感性と思想は、恐ろしく深いところまで届いていると思う。「アムリタ」を評して、梅原猛は「大乗仏典のようだ」という意味のことを述べたと記憶するが、私もその通りだと思う。
むしろ、よしもとばななを正当に評価するためには、「近代文学」を読んで学習し、文章に対する美意識や感性を相当磨かないと無理だともいえるだろう。
繰り返しになるが、水村氏は、この本の中で一言もよしもとばななや、その他の現代日本語作家を否定してはいない。しかし、何も具体的に現代文学に言及していないのは、なんと言ってもこの本の致命的欠陥になっていると思う。是非、水村氏には、別の機会でもいいから、具体的に語って欲しいものである。無論、もし批判的な見方をされているのだとしたら、言いにくいのは承知だけれども。

この本で、とても勉強になるのは、「国語」というのが自明に当たり前に保持されるものではないことについての具体的説明・指摘である。日本の「国語」が、成立したのは、ほとんど僥倖と言ってもいい歴史的条件が重なったおかげである。日本以外の国では、ごく簡単に「国語」を喪失してしまった国がたくさんあるし、むしろそういう国のほうが多い。日本も「言語加害者」の一員だった経験もある。
そういった指摘は全てもっともだと思う。また、一度「国語」が成立してからも、そういう国語を人為的に改変しようとする動きがあった。日本の場合では、明治時代に漢字を日本語から追放しようという動きがあったが、外国の文明を翻訳するために表意の漢字がきわめて便利だったため、そういう歴史的条件によって漢字排除の動きが抑えられたというのは、とても興味深い話である。
つまり、日本語の「国語」というのは、決して無条件に所与されているものでは決してなく、自発的な努力によって守る必要がある。そういう水村氏の主張は正しい。
しかし、その努力が、教育において「近代文学」を皆に読ませるようにすべきだということには、つながらないはずである。制度の問題として、現在の「国語」を、人為的に代えようとする勢力があるならば、それに,対しては徹底的に戦う必要があるだろう。しかし、だからといって「近代文学」を偏重して教育に取り入れるべきだという話とは、全くつながらないのだ。
無論、水村氏も、そういう直接にはレベルの異なる話を、つなげて書いているわけではない。しかし、少なくとも、水村氏が「近代日本文学」をなぜ重視するかについて、具体的理論的説明を欠いているのだ。結局、漱石が高度な文章を書き、世界に対する鋭敏な意識をもつ教養人だというような,漠然とした肯定判断しか語っていないように、私には感じられた。現代文学一般に対する侮蔑も、根拠なく感覚的であるように思う。
アメリカの大学の先生の日本人の女性の友人と、お酒を飲みながら語り合う場面が出て来る。
彼女は赤くなった顔で言った。
「あたしたちが小さいころ、小説家って言ったら、モンのすごく頭がよくって、色んな事を考えていてーなにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもの読む気がしない。」
 彼女が私のことをどう思っているかはわからない。人の悪いところが存分にある健全な精神をした人だから、当然「頭の悪い人たち」の部類に入れて済ましているのであろう。だが、私は傷つくということもなく、そうよ、そうよ、と彼女と同じように赤くなった顔でしきりにうなずいた。
結局、こういうことなのではないだろうか。勿論、「近代文学」の作家や作品に、個人的な趣味としては、好きだったりあこがれたり尊敬したりしても一向に構わないだろう。しかし、だからといって、そういう文学が普遍的に高い意味を持つということとは全くならない。少なくとも、本書から、水村氏が「近代日本文学」だけを重視するきちんとした理論的根拠を見出せなかったのである。文学なのだから理屈ではないといってしまえばそれまでなのだが、そういうと現代文学のほうが好きだという人と、どちらが正しいのか分からないということになってしまうのだ。

繰り返しになるが、ある国の国語・書き言葉が、自明に与えられるものでないというのは、何度言っても良いくらい重要な事実である。そして、そのことについて示唆に富む本書は、とても価値の高い書物だと思う。しかし、結局、大切なのは、政治的な力によって、自然に自由に使われている言語が、人為的な力によって介入され、歪められないようにするだけで十分なのではないだろうか。
この問題に関連するのだが、水村氏は、坂口安吾を引用した上でこう批判している。
あたかも、日本人はDNAによって日本人であるかのような思い込み・・。
それは、あの有名な「日本文化私観」のなかで、坂口安吾に「非必要ならば、法隆寺をとり壊して停留所をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。」と歯切れよく啖呵を切らせた思いこみと同じである。戦争中に書いていた安吾は反骨精神に燃えていたかもしれず、また事実、反骨精神に燃えていたのかもしれないが、実は、これほどまでに日本人に典型的な発言もないのである。安吾は、桂離宮を「発見」したブルーノ・タウトについて言う。「タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文明を見失っているかもしれないが、日本を見失うはずない。」
 安吾が気がついていないのは、ヨーロッパ人は、他民族の侵略につぐ侵略という過酷な歴史を生きてきたうちに、自分たちの国を「発見」したということである。(後略)
そして、安吾の言うように街並みを破壊し続けたために、現在の日本の街の惨状があるのだ、と水村氏の批判は続く。
安吾が、本気で法隆寺を壊したり、街並みを好き勝手に改造していいと思っていたなどと、どうすれば読むことが出来るのだろうか。安吾はそんなことを、これっぽっちも言ってないはずだ。安吾が言いたいのは、「伝統」の名前にあぐらを書いて実質的内容を欠く日本文化への徹底的な批判である。表面的な形式文化のみ保存して、自らを高きとし他を俗とする日本的「伝統主義者」の精神的貧困を指摘しているだけである。また、安吾くらい、文化が「自明に与えられている」とは思っていなかった作家も珍しいのだ。自分の身を同時代に浸しながら、現実と遊離せずに精神的に高い「文化」を作り上げようと悪戦苦闘した人である。また、日本文化の相対性についても、あれほど鋭敏な感覚を持っている人もいなかった。例えば、「安吾風土記」等をちょっとでも読めばすぐにでも分かることである。
安吾に対する評価はともかく、水村氏のように「近代日本文学」を偏重して、それを教育に用いれば日本語が滅ばずに済むなどというのは、あまりに楽観的ではないだろうか。「日本近代文学」がきわめて質の高い文章であることを率直に認めるにしても、それは結局その時代の文章に過ぎない。言語は、当然ながら時代や人の心とともに変質していく。基本的に俗化の方向をたどるのが必然だとしても、本当に生きた言葉とは、その時代に生きる言葉でしかない。それは、「現地語」とは異なる書き言葉としての「国語」であっても、本質的には同じことである。
近代文学から、国語のあり方について大きなヒントを得るにしても、現在に生きていながら近代文学のように文章を書いても全く無意味である。どんなに形式的には俗的な言葉を使っていようと、高い「国語」を書くことは可能だし、ある時代を生きる作家というのは、そういう努力をするべきなのではないだろうか。最初にも、例を出したが、よしもとばなななどは、そういう努力を最大限している作家だと私は思う。
書いているうちに、段々アツくなって、水村氏の論考をきちんと冷静にたどるというよりは、自論を開陳するだけになってしまった。水村氏の本に対する、正当な評価にも批判にもなっていないことをあらかじめお断りしておく。
とにかく、これだけ日本語について改めて考える機会を与えてくれたことに感謝しよう。
梅田望夫氏が「日本人全てが読むべき本」と紹介していた。私は、「英語の世紀」という事についてはそうだけど、「日本語」については、むしろ本来は読者を限りなく限定する本なのではないかと思っていた。
しかし、こうして自分で感想文を書いてみて分かった。日本語自体について考えるためにも、この本は広い範囲の読者に読まれるべきだと。

posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(3) | 書評
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「日本語が亡びるとき」を読んで(1)
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