2012年09月27日

黒澤明「夢」



古い話だが黒澤明が亡くなった頃、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」では淀川長治が解説をしていて、毎週のように「さよなら、さよなら」とやっていた。(ちなみに、アレは「さいなら、さいなら」と聞こえたが本人はちゃんと「さよなら」と言っていると弁明していた。)
その日曜洋画劇場で、黒澤明追悼をやった際に放映していたのが確かこの「夢」だった。
どういう基準で選ばれたのか、淀川自身が選んだのかは不明だ。ただ、とにかくモノクロ時代の名作群でもなく、カンヌで賞をもらった「影武者」でもなく、それほど評価されているわけでもないこれが選ばれた。
黒澤映画はどれも長いのでテレビ向きではなくて放送できないものが多かったのかもしれないが、私は何となく勝手にこれを選んだ淀川の映画に対する鑑賞眼、見識のようなものを感じたのである。
淀川は大変映画の趣味の高い人で、多分本音では現代映画よりサイレント時代の世界の名作が好きだったような気がする。私も淀川推薦のサイレントを次々に観て勉強したクチだ。
そして、この「夢」の独特な映像美が淀川の眼鏡にかなったのではないただろうか。黒澤の映像作家としての質の高さを、この映画を選択する事で主張したかったのではないか、私は当時もボンヤリとそんな事を考えていた。勿論、実際の事全く分からず私の勝手な妄想に過ぎないのだが。
その淀川が黒澤と対談した際に、「影武者」で仲代達矢が見る夢の色彩が面白いというと、黒澤が「ぼくはね、すごい強烈な色の夢ばかり見るんですよ」と答えている。
これを読んで私はハッとした。いや、ほとんど頓悟に近いショックを受けた。
黒澤のカラー作品の色彩感覚というのは実に独特である。「でですかでん」から、この「夢」を経て「まあだだよ」に至るまで。
私は黒澤のような大家に対して今まで言うのを遠慮していたのだが、ハッキリ言って黒澤の色彩センスは決して趣味が良くない。現実にある色よりも何かどぎつくて色が強すぎるのだ。
普通の日本人の繊細な感覚からいうと、本当に品の良い美しさとはいいかねるところがある。
二人の対談で話題になった「影武者」の夢にしても、かなり毒々しい色彩に彩られていた。淀川はそれを面白いというが、正直に言うと私は色彩センスがないと思った。
しかし、それは恐らく黒澤の夢に出てくる色彩そのまま(あるいはそれを再現したもの)なのだろう。つまり、黒澤が頭で選んだ色ではなく、黒澤自身のほとんど生理的な感覚による色彩なのである。
私は、そういう色彩センスに不満を持ちつつも、「どですかでん」の不思議な原色強調など黒澤後期の不思議な現実感に惹かれてきた。それを、今まで書いてきた記事でも何度も「リアルな夢」と呼んでいる。なぜか分からないけれども、心のひだにひっかかってくる映像の色彩と感覚なのだ。
その理由が今となっては分かる。それは、黒澤の本当に正直で個人的なイマジネーション、色をそのまま絵にしているからだ。だから、不思議な説得力が映像にある。
そう考えると、次々に黒澤のカラー映像が頭に浮かぶ。「どですかでん」の乞食父子の空想する家のシーンも、妙に色が強すぎる。「八月の狂詩曲」で、原爆のピカの目を遠景の山に重ねて映像化しているところでも色が不自然だが妙にリアルだ。「まあだだよ」のラストで内田百閧フ少年時代の夢に出で来るあの妙な色彩の雲もそうだ。
いや、私が記事で酷評してしまった「影武者」と「乱」にしてもそうだ。「影武者」冒頭の三人のシーンの変な色彩と雰囲気、最初の方に出で来る不自然な夕焼け、そして夢の色彩。「乱」の白が燃えるシーンの非現実的などぎつさ、戦いに倒れた人間を描写するどぎつい色の使い方、ラストの鶴丸を遠景で映し出す美しいが不自然なところのある色彩。
私は、この二つを時代劇として捉えていたので、それにはあの黒澤の変な色彩感覚があわずに気にいらなかった。でも、あれが黒澤の生来的な感覚によるものだと考えると納得できる。
それらは、多分全部黒澤の夢に出で来る個人的な色彩なのだろう。そして、それらの映像の色彩感やリアルさは、現実にはないのだが現実以上にリアルなのである。
黒澤の映画作家としてのイマジネーションの秘密、本質はここらへんにあそうな気がする。つまり、彼は現実上に切実でリアルな想像の世界を本当に「観て」いた。空想するのではなく、実際にあるように夢などで体感していた。その感覚が全て映画に注ぎ込まれている。だから、我々はこれだけ黒澤の映像に動かされる。
黒澤は、恐らく(誤解を招きかねない表現だが)霊視者だったのであり、我々に見えない何かが、まるで現実のように「見えて」いた。そして、この映画の「赤富士」が予言的で驚かされるのも、恐らく単なる偶然の一致ではない。
そして、この「夢」は、なにしろ最初から夢と宣言してしまっているのだ。だから、現実とは違った色彩や感覚であっても構わない、どころかそれが求められる。
この「夢」の映像にしても、昔から私の評価は両義的だった。不思議な美しさとリアルさはあるのだが、本当に趣味のよい美しさでは決してない。でも、映像に説得力があるので許してしまう。そういうことも、今述べた事を考えると全て解決する。これは、黒澤の夢のまま色彩だし、この世の現実以上に切実な或る現実の物語なのである。

1、日照り雨

黒澤得意の「雨」のシーンで始まる。森の中の狐の嫁入りの行列の様式感は能である。それがいいのだが、同時にここからして黒澤独特の変でリアルな色彩感覚である。
倍賞美津子のこわそうな母親の感じがとてもいい。そして、語ともが森に再び森に向かう際の花畑と虹の、少しどきつい色彩。これが黒澤の色だ。現実とは違う現実の色。

2、桃畑

いきなり部屋が紫や赤に彩色されていて「夢」であることを暗示している。ここでの色彩感も黒澤流の不自然なリアルさ。
そして桃畑の人形の化身たちの色も強烈で美しくも気味が悪い。

3、雪あらし

「乱」でも素晴らしい演技をみせていた原田美枝子が雪女で登場する。両方とも何ともすごい役である。恐ろしくも美しい。黒澤映画で存分に魅力を発揮できる女優は少ないけれども、原節子、山田五十鈴、根岸明美 、上原美佐、そしてこの原田美枝子といったあたりが素晴らしかった。
どの女優も普通の「女」というよりは、強烈な生命感を有する女たちである。黒澤の女性の好みなのだろうか。

4、トンネル

いきなり登場する野犬に彩色されている赤がどぎつい。これが黒澤の色で、凶暴な犬のオーラの色である。
野口一等兵として頭師佳孝が登場する。亡霊で白塗りされているので、クレジットを見ないと分からないのだが。「赤ひげ」の天才子役が、ここでも実に巧みな演技をみせてくれている。
そして、彼同様に自分の死を認め認識できていない日本兵たち。戦争を知らない私でもこのイメージは強烈で切ない。寺尾聰が、必死に死を悟らせようとするところは素直に心を打たれる。
ちなみに、このトンネルのシーンでは黒澤映画史上最長の十数分のワンシーン長回しをしている。

5、鴉

この映画のエピソードはどれもいいのだが、これだけはどうだろう。
ゴッホの有名な吊橋をセットでつくってしまっている。そして、ゴッホ役のマーティン・スコセッシの大根ぶりにまずビックリ仰天する。ゴッホの描き方も、あまりに通俗的過ぎる。
そしてしゃにむに働く機関車のようにというと、何とそのまま機関車のイメージ映像が挿入される。
さらに、ついにはゴッホの名画の中を寺尾聰が歩き出すのだ。バックにはアシュケナージを真似して演奏したというショパンの「雨だれ」。
最後は「烏のいる風景」の烏をコンピューター合成で本当に飛ばしてしまう。
なんという通俗だろう。これは何かのシャレなのだろうかと言いたくなる。
でも、このどぎつい色彩感は確かに黒澤のものだ。こんなつまらないエピソードより、黒澤がゴッホのあの色彩に何を感じていたのかが知りたくなるところだ。

6、赤冨士

このエピソードは311の後でかなり話題になった。富士山の近くにある東海地区の原子力発電所が次々に爆発するという設定である。
逃げ惑う人々と、爆発で無気味な赤色に染まる富士、このどぎつい色彩感が黒澤の個性である。
人間は、放射能物質に色彩をつけるという発明をする。原発技術者役の井川比佐志が冷静に次々に説明する。
「あの赤いのはプルトニウム239、あれを吸い込むと2000分の1グラムでも癌になる、黄色いのはストロンチウム90、あれが体内に入ると骨髄にたまり白血病になる、紫色のはセシウム137、生殖腺に集まり遺伝子が突然変異を起こす。つまりどんな子供が生まれるか分からない。」
この映画は1980年に公開なのだ。どれだけの人が、当時こういう元素を知っていただろう。こんなにこれらの元素が現在有名になると予測できただろう。
井川が苦しんで死ぬのはゴメンだと自殺しようとするのを見て赤ん坊の母親役の根岸季衣が叫ぶ。
「そりゃあ、大人は十分生きたんだから死んだっていいよ。でも。この子たちはまだいくらも生きちゃいないんだよ。
でもね、原発は安全だ、危険などは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対にミスはおかさないから、問題はないってぬかした奴ら、許せない。あいつら、みなに縛り首にしなきゃ、死んだって死にきれないよ。」
黒澤は専門家に聞いて、もし本当にこのような事故が発生したら中国まで逃げないと安全ではないと知って、これをつくったそうである。
これも、恐らく黒澤が実際に観た夢なのだろう。そして、こういう鮮やかな色彩で。
「生きものの記録」の原爆恐怖症の老人は、まさしく黒澤自身だ。それは理屈のレベルではないのだ、原爆への恐怖や原発への不安は、実に当たり前でまっとうな感覚である。
しかし、黒澤のようなリアルなイマジネーションがない人間は理屈で自分を無理に納得させてしまう。実に不幸な事だ。

7、鬼哭

原発事故、あるいは原子爆弾戦争後の世界である。死の灰で染色体の異常を起こした、巨大で気味の悪いタンポポが咲き誇っている。そのどぎつい色彩が黒澤的である。
その世界に住むのはもはや人間ではない。本当に角のはえた鬼である。
いかりや長介の演技は本当に見事である。後期黒澤では、こういう見事な素人と本当にダメな素人や新人の差が激しい。「まあだだよ」の所ジョージも自然でよかった。いかりやも所もコメディアンなのは偶然なのだろうか。
鬼は、角の数が違い角の多い鬼ほど、昔の世界で威張っていた人間たちである。角の多いほど強い。お互いに食い合って命をつないでいる。
しかし、鬼たちは決して死ぬ事ができない。そして、夕方になると角が痛んで激しい苦しみにのたうち回る。鬼たちが苦しんでのたうちまわる映像は地獄絵図である。
311の原発事故の後にも、相変わらず角のたくさんはえた鬼たちが権力を握って威張り散らしている。それが、現代の最大のコメディだ。
しかもその鬼たちは自分たちの頭に角が生えている事にも全く気づいてないし、角が痛む事もなくのうのうと生き続けている。

8、水車のある村

一転して美しい桃源郷である。水と水車が美しい。
笠智衆の老人が素晴らしい。彼の口を借りて、黒澤が現代文明批判をしている。黒澤らしく当たり前のことを当たり前に言っている。
しかし、そんなことよりも大事なのはこのエピソードの陽気なイメージと素朴な生命肯定である。
死は本来めでたいものだと言った上で笠智衆が言う。
「あんた、生きるのが苦しいとかつらいとか言うけれど、それは人間の気取りでね、正直生きてるのはいいもんだよ。とても、おもしろい。」
死んだ婆さんは私の昔の恋人だったといって、「男はつらいよ」でおなじみの御前様のハッハッハッ笑いも披露している。
その葬式の行列のところの躍動感が素晴らしい。「隠し砦の三悪人」の火祭り並みの活気である。しかも見事なカラーがついている。
笠智衆も赤の衣装に着替え、行列も黒澤らしい鮮やかな彩りに満ちている。しかし、ここでの色は決して不自然ではない。
黒沢にとっては、夢の中での色彩はどぎつくて不自然だったが、この現実の世界のそのままの色彩こそ、本当に美しいものだったのかもしれない。
最後は川の水の流れを静かに映し出して映画はおわる。ここでの水は、まるでタルコフスキー映画の水のように澄みきっている。
posted by rukert | 映画
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