2012年09月24日

黒澤明「羅生門」



やはり、この映画の最大の功労者はカメラだと思う。今回久しぶりに他の黒澤作品と共にまとめて、この「羅生門」を観たのだが、ちょっとこの作品だけ同じ監督の作品とは思えないくらい、画面の様式感とか深さとか格調の高さが抜きん出ている。
羅生門の見事な雨のシーンから始まり、志村喬や三船が森の中を移動するシーンのあの撮り方、次々に変わるカメラ位置の巧みさ、検非違使庁の場面の構図などなど・・。
勿論、カメラは宮川一夫。「大系 黒澤明」
を読むと、ヴェネチアで金賞を獲った際に宮川のカメラが大変褒められたそうである。そして、黒澤もその事を大変喜んでいる。
また、黒澤は宮川を大変タフなカメラマンだとも述べている。普通のカメラマンは黒澤自身のタフネスに参ってしまうが、全然負けずに最初から乗りに乗って撮影したそうである。
宮川がどの程度までカメラを任されたのかは本を読んでも分からなかったが、映画を観た感じからすると多分宮川の思うように存分に撮ったような気がする。
ところが、こんな素晴らしい映像を宮川が創ったのに、「用心棒」では宮川がいるにもかかわらず、黒澤はマルチカム方式で二台のカメラで同時に撮らせて、しかも斉藤孝雄の撮った映像の方を多く用いている。
いかにも黒澤らしいのだけれども、カメラを完全に宮口に任せた溝口健二の方が賢明だった。この「羅生門」を観て、また溝口映画が観たくなってしまった。
NHKのBSで、宮川一夫の特集番組をした際にも、この「羅生門」を取り上げていた。森の中のシーンでは、鏡を使う事であの独特な光の輝きの感じを出したそうである。普通の光を利用したのとは一味違う幻想感が何ともいえない。
宮川は、森の中は黒(影)、検非違使庁は白、羅生門は鼠(ハーフトーン)と分けて描こうとしたそうである。
京マチ子の告白場面では、早坂文雄のボレロの音楽が使われている。黒澤これを大変気に入っていたそうで確かに印象的。当時はボレロというだけで剽窃と書いた雑誌もあったとのこと。ボレロのリズムを使っているが、勿論音楽は早坂のオリジナルである。

多襄丸の三船敏郎は、いかにもはまり役である。しかし、この映画は各人の告白によってキャラクターをそれぞれ変えて演じて見せる事が要求されるが、三船はどれも完璧に演じ分けている。地のキャラクターが強すぎるので何をしてもミフネになってしまうのだが、実は実に的確に知的に役を演じわける役者で、この作品でもそういう三船の巧さがよく出ている。
金沢武弘の森雅之。この次の「白痴」での役といい大変な難役である。さすがに達者なところを見せていて、特に京マチ子の告白のところでの「軽蔑の目つき」はすごくて忘れがたい。
真砂の京マチ子。これもまた大変な熱演で役柄に実にあっている。特に、志村の告白の場面で、泣きじゃくっているところから急に笑い出すあのこわさ。「乱」の原田美枝子の笑いと双璧のすごさである。
ちなみに、この役は元々原節子を予定していたという。それもちょっと観てみたかった。そういえば、「白痴」での原節子の笑い方も相当なものだった。黒澤は女優にこういうのをやらせるのが好きだったのだろうか。
志村喬と千秋実、二人ともいつものようにうまい。ただ思うのだが、木こりの方が千秋、坊さんの方を志村にした方が、もっとピッタリ来たのではないだろうか。特に木こりは結局刀を盗んだりして卑怯なところがあって、千秋向きで志村には合わないところがある。敢えて逆にした黒澤の意図を知りたいところである。
そして、上田吉二郎の悪漢への徹しぶりも見事だった。

この映画は、とにかくその映像美と名優たち見事な演技を見れば十分である。この映画のメッセージは、それに比べればどうでもいいことだと思う。しかし、やはり気にはなるので最後に簡単に書いておこう。
原作は芥川龍之介の「藪の中」を下敷きにしている。登場人物三人の告白は、それにある程度忠実だ。そして、芥川はどれが本当なのかは決めないまま小説を終らせている。各人の見方の相対性を宙吊りにしたままなのが、ある意味この小説のポイントなのだ。
ところが、黒澤は木こりの志村の証言を創作して映画に追加する事で「真実」を提示してしまっている。ある意味では、原作の良さと特徴を台無しにしているのだ。
しかし、黒澤の創作部分はなかなか見事だ。三者の告白は、それぞれ自分に都合のいいように、自分を美化するように嘘が混じっている。
ところが、木こりの告白では、三者とももはや余裕がなくなって人間本来の姿をさらけ出している。森も、こんな妻などいらないと卑劣なセリフをはき、京も開き直って笑って男二人をなじるが、いざ二人が戦いだすと我に返っておびえきっている。(この辺りの京の描き方は実に見事だ。)三船も森を倒すのに余裕などなく必死だ。森は、倒される際に「死にたくない」とわめき、京は夫が殺されておびえて叫び、三船も動揺して動けなくなってしまう。
つまり、黒澤が言いたかったのは、三人の美化した自分勝手な嘘とは異なり、真相は実に人間らしい醜いが真実に満ちたものだったということである。
しかし、黒澤はそういう人間の醜さを否定するのではなく、そういう人間のありのままの姿を尊いと考えていたような気がする。「どですかでん」の、最底辺の庶民の描き方もそういうものだった。
最後に、きこりが赤ん坊をひきとって、「善意」を示す。これも黒澤らしい。ただ、正直に言うと映画の構成としては、そこまでの流れからいうと唐突で強引なラストのように思えてしまった。
しかし、黒澤がこの映画で言いたかったのも、人間のありのままの姿を直視しながら、その純粋さや善意を信じると言う事である。だから、黒澤の中ではこのラストも自然だったのだろう。
ただ、今述べたように黒澤の書いた木こりの告白だけでも、十分に黒澤らしい人間観は伝わる(理解できるものには理解できる)と思うので、個人的にはもう少しさりげないラストにして欲しかったという気はする。
posted by rukert | 映画
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