2012年09月15日

黒澤明「續姿三四郎」



「姿三四郎」がヒットしたために続編が作られる事になったが、黒澤は乗り気でなかったそうである。
しかし、第一作からたった二年しか経っていないのにもかかわらず、演出方法が大変大胆になっていて面白い。第一作はわりと普通の武術映画だったが、こちらでは随所にユーモアが散りばめられている。
黒澤も無理矢理つくらされただけに、好きなようにつくろうと思ったのだろうか。見ようによっては、ほとんどコメディ映画だ。まるで、黒澤自身が「姿三四郎」のパロディを撮ったのかのように。黒澤映画の中でも隠れた名品だと思う。
但し、決して黒澤は映画をテキトーにつくったのでなく、WOWOW解説によると、最後の雪山の決闘シーンは、志賀高原で役者、スタッフが毎日山道を三時間歩いて撮影したそうである。まさしく命がけだ。
ここでは、藤田のあの何とも言えない笑顔を、完全にトレードマークにして何度も何度も用いているそして、最後の決闘の後のシーンでも重要なモチーフにしている。また、その笑顔が何とも言えず人がいいのだ。
月形龍之介(檜垣鉄心)と河野秋武(檜垣源三郎)のコンビも、かなり突飛なキャラクターで少し漫画チックである。
例えば、藤田が道場で禁則を破って酒を飲んでいるところに、大河内がやってきて、酒瓶に対して柔道の技を次々にかけて藤田をヤキモキさせておいて、さて寝るかと見てみぬふれをするところ。石田鉱(左文字大三郎)が柔道に入門してから、時系列の彼の絵を編集で重ねて次々に写してその成長を表現するところ。
月形龍之介が一人二役で、前作で姿に負けた檜垣源之助も演じているのだが、すっかり人が変わって改心して姿三四郎としみじみ語り合う。ここら辺も後年の黒澤流ヒューマニズムの走りである。
そして、その檜垣源之助を姿三四郎が人力車で送ろうとするところに、桧垣がかつて愛し今は姿と微妙な仲の轟夕起子が偶然通りかかって、三人の視線がバチバチと交錯するところ。あまりに劇的で同時にちょっと笑ってしまう黒澤的演出である。
そして、姿三四郎がボクシングのアメリカ人を倒すシーン。アメリカ人の聴衆も日本人の聴衆も、ついでに音楽隊のメンバーもかたまってしまうシーンは完全に意識して撮ったコメディだ。菅井一郎が実にいい味を出していた。小津の「麦秋」とは全然違う演技で、芸域の広い人である。
細かいところだが、アメリカ人のレフェリーが姿の手をあげて勝利者宣言しようとするところで、姿が意味が分からずに抵抗するところもおかしかった。
高堂国典の和尚と姿が夜中に座禅するところもおかしい。特に映画後半は名演出の連続で、真面目なシーンの中に常にユーモアもしのびこませていた。
藤田進と轟夕起子が決闘前に会うシーンで、藤田が何度も振り向いて、そのたびに轟がお辞儀する撮り方も面白かった。
藤田と同門で、森雅之や宮口精二もチョイ役で登場している。森はあの声と喋り方だけはこの頃から全く変わらない。
月形龍之介と河野秋武が、最後に「負けた」「負けた」と笑顔を見せるところもよかった。河野秋武は「わが青春に悔いなし」の卑劣な男が忘れられないが、キャラの強い人である。
黒澤がかなり自由に大胆に好きなように演出していて、なかなかこれだけのものは後年の黒澤映画でも見られないと思う。
posted by rukert | 映画

黒澤明「姿三四郎」



姿三四郎(藤田進)のことを、師匠の矢野正五郎(大河内傳次郎)が「アイツはいつまでたっても赤ん坊みたいなヤツだからな。」といって笑う。
最近、黒澤映画を続けて見たり書いたりしていて、その登場人物が子供のような純真な心の持ち主というテーマが何度も繰り返し出てくるのを感じていたが、この黒澤の処女作からして姿三四郎はそういう人間の典型である。
遺作の「まあだだよ」の内田百閧烽サうだった。あるいは、「生きる」の志村喬演じる市民課長も死を覚悟する事で人間らしい純粋な心を取り戻す。そして、言うまでもなくそうした人物像は全て黒澤自身の投影像なのだろう。
それにしても、藤田進の姿三四郎がハマリ役過ぎる。藤田という役者は、なんとも大らかで真っ直ぐな人間性を感じさせて、姿三四郎の役のイメージにピタリと合致している。特にいかにも人のよい笑顔が印象的だ。「用心棒」では、出入りを避けてサッサと逃げ出す用心棒の役だったが、その際に三船に向けてニッコリと笑うところなども印象的だった。
柔道がもきちんとした精神修養を含めた武術
だった時代の話で、現在の審判の判定に左右される滑稽なスポーツとはえらい違いだ。古い映画なので、さすがに時代を感じさせるのだが、藤田や大河内や志村喬の演じる武術家像は今見ても大変魅力的だ。むしろ新鮮である。
志村喬は当時38歳で、いきなり老け役である。しかし、完全になりきっていて、とてもそんな実年齢には見えない。さすがである。
また、戦後の作品では完全なお爺さん役のイメージが強い高堂国典が住職の役だが若くて驚く。当然だろうが。
大河内傳次郎は、大変威厳や品格のある役者だが、この人はちょっとカツゼツが悪く、録音状態が古くて悪いのでセリフを聞き取りにくいところがある。
月形龍之介も、また大変強烈な個性の役者で、この作品の中では蛇のようなイヤな男という設定なのだが、現代の悪役と比べると、むしろその品の良さを感じてしまう。
轟夕起子も、この時代らしい美女で大変かわしらしい。
映画の演出としては、花井蘭子のお澄が、父親を投げ殺されて姿三四郎をじっと見つめ続けるシーンが印象的。結構長い時間見つめるシーンが映し出され続けていた。今となってはシンプルな演出だけれども、後年の黒澤的な演出の萌芽を感じさせるところである。
ただ、この映画は戦時中の混乱で紛失された部分があり、また細かいところでもコマとびも結構ある。特に、花井蘭子が父の敵として姿のもとに乗り込んで対面するシーンが失われているようなのは残念だった。
それと、藤田進が大河内に怒られて庭の池に飛び込むシーンも印象的。姿三四郎が、池に咲いている白い花を見て、ハッと悟って師匠に詫びを入れて許される。その白い花のイメージは、最後の決闘のシーンでなど何度も挿入される。
この花のイメージも、やはり今となってはシンプルで少し古い演出だけれども、とても黒澤らしい。
藤田進が対戦相手の志村喬の娘の轟夕起子に心を乱されて戦いに集中できないと悩むシーンで、和尚の高堂国典が、あの池の白い花を見た時の無心を思い出せば戦えるぞと一喝して、藤田は我に返り戦う決意をかためる。
この、無心の純粋な境地というのは、黒澤の重要なテーマで、例えば「生きる」の志村喬もそういう人間像だった。ただ、「生きる」の場合は、白い花ではなく自身の死の覚悟がその「悟り」のキッカケだったが。
posted by rukert | 映画
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