2012年09月09日

黒澤明「醜聞」



志村喬の「生きる」の原型ともいえ、あるいはそれ以上の魅力も湛えている素晴らしい作品。特に名作といわれる事もない映画だが、個人的には黒澤作品の中でも最上位の部類に入れたい。
現代で言うとフライデー的な写真雑誌のでっちあげスキャンダル記事に三船敏郎扮する画家が戦うという社会的な題材である。しかし、「生きる」が一応は官僚機構の話でありながら、そんなことはどうでもよくなる人間の造形に成功していたように、ここでも志村や三船によってつくりだす役の魅力に尽きる。
どちらかと言うとリアリスティックというよりは、メルヘンティックな設定でフランク・キャプラ的な楽天主義的な雰囲気が支配している。真面目な社会描写の映画として鑑賞しても無意味だと思う。
三船の役柄からして、バイク好きの奔放な画家という設定で現実離れしているし、ここでの三船の演技もいつもの三船とはちょっと違ってコミカルな軽い味わいを出している。三船が、実は大変知性が高くて役に求められるものを的確に出す事が出来た役者だったことの証明にもなっていると思う。
しかし、何といっても志村喬である。クレジットでは脇だが実質的には「生きる」同様に、完全に彼の映画という印象が残る。
登場の仕方からして、いきなりどぶにはまって靴下をぬらして、変な顔をしていかにも怪しげな雰囲気を漂わせて、靴下を振り回しながら怪弁をふるう。志村が帰った後に三船と千石規子が「何よあれ」と言って大笑いするが、本当にその通りの怪演なのである。
「生きる」より、より人間的な弱点をかかえたコミカルな役で、役者としての志村に求められているものは高い。志村自身、この役が黒澤映画では自分で一番気に入っていると述べたそうだが、それも肯けるというものである。
娘の天使のような桂木洋子の前で「わしは蛆虫だ」と言って泣いたり、実に楽しそうに競輪を楽しむダメ親父だったり、酒を飲んでくだをまいたり、法廷でのダメダメ振りといい、絵に描いたようなダメ人間である。それを実に志村らしく演じきっている。
特に、クリスマスに酒場で「蛍の光」を合唱するシーンは白眉。酔った左卜全が立ち上がって、「今年はダメだったが、来年はやるぞ。」と演説する。左卜全も本当にいい味を出している。この時代の役者は何でこんなに皆素晴らしいのだろう。
そして、やはり酔った志村がそれに呼応して立ち上がって、「その通りだ今年はわしは蛆虫だったが、来年はちゃんとやる」と叫んで、「蛍の光」を皆で歌おうと頭をさげて頼む。
最初は周囲はあっけにとられて、この酔っ払いどもがと白い目で見ているが、バンドが笑いながらしょうがないなといった様子で「蛍の光」を演奏し始める。
志村と左と三船が三人で並んで一生懸命歌い出し、生活に疲れたバーのホステスや客たちも、結局感極まったように全員で本気で歌いだす。
そんなシーンだ。いや、このように文字にしても全く伝わらないな。細部まで計算されつくした映像の演出が本当に見事なのである。少なくとも私は泣いてしまった。
そして、その帰り道で志村が「やっぱりわしは蛆虫だ」と泣き崩れると、やはり泥酔した三船が「何を言うんだ、神様がどう考えているかわからないぞ。」と叫ぶ。ちょっと恥ずかしいようなセリフだが、こういうところがなんとも好ましい。
千石規子は実に不思議な魅力のある役者で、ここでもそのちょっとした表情やセリフ回しで深い印象を残す。
小沢栄太郎は堂に入った悪役ぶり。編集者の
日守新一の小心翼翼ぶりも実におかしく、裁判のラストで頭をかかえるところなど笑える。
桂木洋子は病気の天使のような娘という反則ともいえる様な役なのだが、演出が巧みで全く不自然ではないし、それらしい雰囲気を見事に出している。小津の「晩春」にも出ていた。
三井弘次、清水将夫、高堂国典、上田吉二郎、千秋実といったおなじみの役者がチョイ役で登場するが、本当になぜこの時代にはこんないい役者が揃っていたのだろう。
ラストでは、三船が「我々はお星様がうまれるのをみたんだよ。」という、こうして文字にするとトンでもないセリフを言って終るのだが、こういう臆面のないところがこの映画らしさそのもの。そして、相変わらず冴えない志村が帽子を落としたりつまづいたりしている姿で映画は終る。
本当に「生きる」とも甲乙つけがたい。どちらにも捨てがたい良さがある。
posted by rukert | その他
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