2012年09月05日

黒澤明「虎の尾を踏む男達」



大戦末期に撮られた作品。当然、検閲も意識しないといけないし、予算等の制約もあっただろう。
一言で言えば、歌舞伎の「勧進帳」を映画化した作品。基本的には大河内傳次郎などが重厚な古典らしい演技をするが、映画化に当たって工夫もこらされている。
喜劇王エノケン、榎本健一が原作にはない要素として、茶々を入れる。また、音楽が画面とは合わないミュージカル風な現代的な音楽をつけている。
つまり、検閲されにくい歌舞伎のネタを題材に、そこに遊び心を入れて、ささやかな抵抗をしようとしたといった感じだろうか。
この後の戦後の黒澤は、この映画とは対照的な過激な表現主義というべき路線を突っ走って圧倒的な傑作を次々に生み出した。
ただ、黒澤本人は元来「古典的」な様式観、あるいはその種の教養に裏付けれされた人物だったようで、特に黒澤後期の作品では、そうした要素が色濃く現れてくる。語弊のある言い方があるかもしれないが、本来の性質が年を取って表に出てきたように。
ジャズのジョー・ザビヌルが初期はアダレイ・ブラザーズと黒人のブルース的な感覚の曲やプレイを白人なのにしていたが、ウェザー・リポートを経て晩年は西洋音楽の教養に根ざしたような音楽をやるようになったのと同様。そして、ザビヌルの場合、晩年の音楽は結構退屈だったりした。
この映画を見た感想をごくごく正直に言うと、やはり―ほぼ一時間の短い映画であるにもかかわらず―退屈してしまった。
今述べたような要素は頭では理解できるのだが、ごく普通の現代人の感覚で見るとやはり時代を感じさせてしまうのだ。黒澤の他の長い映画が、全く退屈させずに一気に見せるのとは対照的である。
冒頭の景色の撮り方からして―その後もずっと―、静的な古典的な構図で、そういう意味では黒澤映画としては珍しく貴重なのかもしれない。
また、エノケンもが見られるのも貴重だが、我々は名前でしか知らないので、この映画だけ見てもその面白さがそんなには分からない。キャラクターの強烈さは理解できるのだが。
しかし、例えば現代に置き換えると、例えば間寛平が「勧進帳」の大真面目な芝居に紛れ込んで茶化しているのとも考えられる。そう思うと中々面白いアイディアなのかもしれない。古典的な撮り方も、そう考えるとかなり知的なひねった高度なパロディと捉える事も出来る。
といっても、映画はそういう理窟よりも見た素直な印象が全てだ。やはり、戦時中の検閲が黒澤ほどの反抗心の強烈な作家の創造力さへ抑圧してしまったという印象は否めない。
但し、黒澤自身はこの作品にも結構自信をもっていたようで、戦後に(形式的に残っていた検閲官に酷評されて)、くだらない奴にくだらないと言われるのは、この作品がくだらなくない証拠だと息巻いたそうである(作品のウィキペディアより。)
戦後に次々に撮った奔放な作品群のイメージと違って、実は黒澤は知的に計算して映画をつくるタイプである。
それが、恐らく他の同時期の日本の巨匠も、小津や成瀬や溝口と一番違う点で、それらの作家たちには自分たちが表現しようとするものから無意識に逃れ出る得体の知れないものがあった。その点が彼らの魅力だし、色々映画について語りたく部分でもある。
しかし、黒澤の場合は、表面上の過激さとは裏腹に、映画制作の姿勢は実に意識的で「知的」である。
例えば、昨日感想を書いた「椿三十郎」にしても、その脚本の精緻な構成に舌をまく。ほとんど現代ハリウッド映画にも近い感覚なのでる。
だから、この「虎の尾を踏む男達」の冒頭に述べたきわめて高度な知性的なパロディの姿勢も、実は結構黒澤的なのかもしれない。
ただし、例えば「蜘蛛巣城」のあの大胆なシェークスピアのマクベス翻案と比べると、いかにも平面的で物足りなく感じてしまうのも事実だ。
しかし、それは戦時中の様々な制約を考えると、言っても仕方ないような気がする。
ちなみに、エノケンが何度も義経一行の下にあらわれて、同行を願うシーンは、「七人の侍」で、三船敏郎の菊千代が志村喬一行に何度もつかむ名場面を連想させる。当然、このアイディアが下敷きになっているのだろう。

posted by rukert | 映画
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