2012年09月08日

黒澤明「天国と地獄」



最近は、映画を観るに当たってウィキペデイァで配役を確認するのが常になっている。便利になったものだ。つい見逃してしまうような端役についてもすぐ分かる。
この「天国と地獄」については、配役だけでなく、映画にまつわるエピソードも詳細に記されていて大変参考になるが、あまり書く事もなくなって困る。
黒澤は、当時の誘拐罪に対する罪の軽さに憤慨してこの映画をつくったが、公開後に誘拐事件が多発して国会でも問題になったそうである。
それくらい列車から現金を落とすエピソードなど、トリックなど実に細部にわたるまで精緻につくられている。黒澤の特質の、知的な細部のこだわりがよく出た映画である。そして、見れば分かる映画で余計な感想など述べる余地がない。
芸術としてというより上質な娯楽映画に徹していて、黒澤映画の評価の上で損をしていると思う。しかし、本当にディテールまで練りに練られていて完璧で見事だ。
この前に「用心棒」と「椿三十郎」という対になる作品を撮っているが、これはキャストや作品の雰囲気で3年前の「悪い奴ほどよく眠る」とツインになる作品である。
なんと言っても列車の誘拐金受け渡しのシーンが印象的だが、もし撮影に失敗すると2000万かかったり、邪魔になった家の二階を取り払ったりしたそうだ。お金の事ばかり言うのもなんだが、あの尋常ならない映像の緊迫感と、やはり無関係ではないのだろう。
ここでの仲代達矢は実に渋くてかっこいい。黒澤映画の中の仲代の役の中でも個人的には一番好きだ。日本伝統のテレビ刑事ドラマの先駆けとでも言うべきキャラクターの役作りに成功している。黒澤はこの役をヘンリー・フォンダをイメージして創ったと聞いて、仲代は生え際を後退させるべく毎朝剃刀で額を剃っていたそうである。デニーロみたいですごいですね。
三橋達也が、冷酷で計算高い男を演じきっていて、「悪い奴ほど」の正義漢とは対照的な役である。黒澤得意のパターンで、山崎努もそうで、ここでの役とは全く違うキャラクターの役を「赤ひげ」では割り当てられていた。
ちなみに、三橋が急に誘拐金を払うことを主張して買収されたのを三船にすぐ見透かされるシーンはおかしい。
運転手役の佐田豊は、人のよい気弱なキャラクターが実にはまり役だった。
前半部分が誘拐事件の緊迫感あふれる描写で、後半は犯人を追う警察の様子になっている。
そして、その刑事ドラマ的部分が実に精緻で魅力的なのである。
警察の捜査会議の様子で、どうのように分担して捜査するかが克明に描写される。ここら辺も多分十分に実際の捜査のやり方などを十分に下調べした上でつくっているのだろう。
仲代達矢以外にも、石山健二郎、木村功、加藤武といったキャラの強い俳優を使っていて楽しく、この辺もテレビ刑事ドラマの原点である。
また、捜査会議では名古屋章がでていたりする。上司では志村喬、藤田進を使っている豪華さ。せっかくこの二人がいるのに、「では説明は戸倉警部(仲代達矢)に」、と言わせていて勿体ない限り。
そして、単なる誘拐劇でなく、山崎努という屈折した複雑な人物を導入してその心理を描こうとするのも実に黒澤らしい。こういう基本的には娯楽作でも、どうしても人間的な深みを持たせようとする。映画の完成度を考えれば弱点になりかねないが、黒澤のこういうところが好きである。
山崎はラストの熱演も勿論見事だったが、麻薬街のシーンでサングラスをかけ、それが光に反射して目のように無気味に輝き続ける演出も実に印象的だった。
山崎が三船に話しかけて煙草の火をもらうシーンで、街中にさりげなく立っているはずの三船の有無をいわせない存在感にちょっと笑ってしまった。
そして、山崎が花を買いに行くシーンで、刑事組がお互いの顔を見合わせて「あいにく、花を買いに行くような面は一人もいません。」には爆笑。さらに、「母の日かな今日は」のとぼけたセリフ。場面が緊迫しているだけに腹を抱えた。
posted by rukert | 映画

2012年09月07日

黒澤明「乱」



今回WOWOWで黒澤全作品が一挙放映されているのでいい機会だと思って全部観ている。但し、この「乱」や「影武者」はもともとそんなに感動した作品ではない。一般的な評価通りでつまらないけれども、白黒時代の名作群のあの有無をいわせない説得力に欠けていると言わざるをえない。
それは理屈のレベルの話ではなくて、映像から素直に受ける印象である。この映画にしてもリア王の翻案がうまくいってないとか、庶民が登場しないとか、その種の退屈な批判のことではない。
例えば「蜘蛛巣城」のマクベスの翻案だって基本的には結構テキトーだ。でも、そんなこととは関係なく映画に文句なく巻き込まれて最後まで充足した時間を過ごせる。「乱」や「影武者」では、残念ながらそういう体験をすることが出来ない。
なぜか。
様々な要素があげられるだろう。黒澤自体の創作力が衰えたこと。白黒時代のスピード感や過剰な生命感―ほとんど映画の体裁など気にしないような表現主義―がなくなり、妙に取り澄ました古典主義的な演出方法にかわっていること。かつての黒澤組の三船から名脇役にいたるまで完璧だった役者陣が失われて、玉石混交の役者あるいは下手な素人をつかっていること。等々。
しかし、それらの説明だけではどうもしっくりこない。
黒澤映画の全盛時代の白黒映画の有するあの普遍的な説得力はどこから生まれるのか。我々現代人や、あるいは少し前の時代の人間が、「過去」の時代の黒澤映画になぜ、これほどまでに刺激されて深い感銘を受けるのか。
逆説的だが、それらの黒澤映画名作群とそれを生んだ時代がピッタリとマッチしているからなのだと思う。
本当の映画のリアリティを生むためには目に見えない時代の空気を深く吸ってそれに素直に従う事が必要なのだと思う。それは理屈抜きの深層レベルのことであって、全く違う時代の全く違う感性の人間が見ても、それはハッキリ感じられる。どんなに純粋に優秀な映画をつくっても、それが時代の空気とずれていると、観る人間は敏感にそれをかぎつけてしまう。
結局、「乱」や「影武者」に起きているのは、そういう事のような気がする。そして、実はそれは黒澤だけではなく全くタイプの異なる成瀬巳喜男の晩年映画にも起きていたことだと思う。
黒澤や成瀬や小津や溝口の日本映画の名作群は、あの時代につくられるしかなかった。小津だけはいいタイミング、ほとんどギリギリのタイミングで死ぬ事が出来た。
彼らと全く同質の映画を現代でつくれる作家がもし現れても、それはとてつもなく退屈な作品になるだけだろう。
とは言っても、それは一般論で、最近見直して例えば「どですかでん」の素晴らしさに感動したばかりだし、「夢」もすごい映画だし、「八月の狂詩曲」も大変気になるフィルムだ。それらについては、個別にまた書いてみたい。

この「乱」でも素晴らしい部分は勿論たくさんある。特に、原田美枝子は素晴らしい。誤解を招く言い方だが、「乱」がすこしずれている中で「女」だけは普遍的な生命力を放っている。
「蜘蛛巣城」の山田五十鈴(本当に素晴らしかった)の現代版だが、もっと過激である。
特に根津甚八に刃をつきつけて凄むシーンは圧巻である。
根津を厳しく尋問して、「たわいもない」と捨てゼリフをはき、つばを吐いて、根津を嘲笑してこわーい笑い方をして、夫が殺されたことも何とも思わないとぬかし、そした最後は色仕掛けで痴女風に根津の首元を激しく舐める。
本当によくここまでやった。ブラヴォーである。そして根津甚八のやられっぷりの見事な事も褒めねばなるまい。
それと、役柄自体もおいしいのだが、井川比佐志も本当に見事だ。他の役者が必死に演じても、どこか生ぬるさを感じさせるのに、井川だけは「かつての」黒澤映画の三船など名俳優クラスに生命力が充溢している。この映画の中であれだけ出来ているのは奇跡に近い。
特に無敵の原田美枝子の元に狐の首を持ってきて、ぬけぬけと嘲弄するシーンは圧巻。この映画では、この二人の俳優が明らかに図抜けている。この二人を主役にして映画を撮るべきであった。
有名な金をかけた城が炎上して仲代達矢がフラフラと現れてくるシーンも確かに美しい。でも、それだけの事だ。例えば、タルコフスキーの「鏡」で小屋が燃えたり「サクリファイス」で家が燃えて爆発するあの精神的な深さには遠く及ばない。
また、あの武満徹をわざわざ使っておきながら
音楽が印象に残らない。黒澤と武満は大変もめたそうだが、黒澤が明らかに悪い意味で独裁者になって武満の自由な創造力をそいだという印象は否めない。武満だとNHKテレビドラマの「夢千代日記」の方がどれだけ素晴らしいか分からない。
そして、ピーターはせめて坂東玉三郎あたりにやらせることは出来なかったものだろうか。
posted by rukert | 映画

2012年09月06日

黒澤明「蜘蛛巣城」



最近亡くなった山田五十鈴のマクベス夫人(の翻案)が凄い。あのメイクのせいもあるのだろうがオーラからして恐ろしい。権力欲に取り付かれた女のこわさ。あまりにすごくて笑ってしまうくらいだ。
特に三船を唆して主君を殺させるシーン。この映画は能も意識しているそうだが、サッと三船を振り返る動き一つでゾッとさせる。いや、ちょっとした目の動きだけでも。確かに能的である。動きに全くムダがなく洗練されている。
山田五十鈴は成瀬巳喜男の「歌行灯」で、能そのものを題材にした映画でも重要な役をしており、実際に能役者に厳しく鍛えられたそうである。そういた体験が役に立っているのかもしれない。
そして、動く際に立てる衣擦れの音が実に効果的で、この女のこわさを如実に表現している。
襖戸を開いて後姿で暗闇に静かに消えていき、また酒瓶をもって暗闇から静かにヌッと出てくるところのこわさ。本当に素晴らしい。
三船に槍を渡したあと殺すのをうながして、やにわに立ち上がって見事に舞って座すところ、これは完全に能だ。彼女の心の不安と期待などが入り混じった状態が、簡潔な身体の動きで完全に表現されている。
そして、番兵に槍を持たせて手を洗い、三船を黙ってしばらく見つめる。その間が何かを雄弁に物語る。
さらに、すごい形相ですばやく動いて門を渾身の力で開いて「狼藉者じゃー」と叫ぶ。
呆然としていた三船が我に返って、本当に狼藉者が出たと自分でも信じているように振舞う。
なんという完璧なシーンだろう。そして、ここではやはり三船よりも山田五十鈴が素晴らしいと思う。ここだけでも、この映画を観る価値がある。
例のマクベス夫人が正気を失って手を洗って血を洗い流そうとするシーンでは、セリフづかいが「とれやしない、いやな血だねぇ」とか何だかかわいらしい。それが本物の狂気を感じさせるという演出なのかもしれないが、ちょっとおかしかった。
山田は黒澤映画では、「用心棒」のとんでもない女将、「どん底」でも毒婦と徹底的に悪役である。黒澤は対照的な役を同じ役者にやらせることも多いが、それだけ山田の悪役能力に惚れこんでいたのかもしれない。
ちなみに同時期の山田のベビーフェイス役としては成瀬巳喜男の「流れる」がある。まだ十分美しい山田を見ることが出来る。
ちなみに、この権力者の妻の悪女という設定では、「乱」の原田美枝子もとても印象的だった。女はこわい。
その他にも、冒頭のシーンなど神秘的な映像美を意識した撮り方が多い映画である。但し個人的な感想をいうと、例えば溝口の「雨月物語」や先ほど述べた「歌行灯」が本当に心の底まで染入ったりゾッとさせる迫力や美しさがあるのと比べると、黒澤の映像はどこかつくりものめいているような気がする。
昨日も書いたが、黒澤は無意識に比べて意識的な部分の強靭な作家で、その映像の作り方は完璧だけれども、ある種余韻とか深さが欠けているようにも(少なくとも私には)感じられる。逆に「椿三十郎」のような作品では完璧である。
黒澤は実は日本的な監督では全然ないような気がする。別にそれは優れているいないの問題ではなくて作家の体質の違いのようなものだ。
例えば、森の中の三人の幻の武者のシーンでは、 木村功、宮口精二、中村伸郎が次々に現れるのだが、どちらかと言うとこわいというより面白くなってしまっていると思う。
千秋実が珍しく男前の二枚目の役で、さすがに見事に演じているのだが。亡霊になって現れるシーンもなんとなく人の良さのようなものが出てしまっている。
脇では三好栄子の存在感がちょっと出てくるだけだが、やはりすごい。そして物の怪の老婆は、浪花千栄子だそうだが、言われても分からないくらいだ。音声が変えられてしまっているからね。
配役をよく見ると、意外な役者がチョイ役でたくさん出ていて驚くが、番兵で殺される加藤武だけは、声だけで一発で分かるのがさすがだ。警部マクロードのクリフォード刑事部長の吹き替えが懐かしい。
最後の弓矢のシーンで本物の弓を使ったのは有名な話だが、ウィキペディアに興味深いエピソードが載っているので最後にそのまま引用しよう。すごい話である。三船もやはり本物の狂気を抱え持つタイプの役者で、だからあれだけの演技が出来たのだと納得させられる。

三船演ずる武時が次々と矢を射かけられるラストシーンは、特撮ではなく、実際に三十三間堂の通し矢の名手に、学生弓道部の部員が直接三船めがけて矢を射た(ただし遠距離からではなく、カメラフレームすぐ横からの射的)。実際撮影が終了した後、三船は黒澤に「俺を殺す気か!?」と怒鳴ったとのことである。その後も、自宅で酒を飲んでいるとそのシーンのことを思い出し、あまりにも危険な撮影をさせた黒澤に、だんだんと腹が立ってきたようで、酒に酔った勢いで散弾銃を持って黒澤の自宅に押しかけ、自宅前で「こら〜!出て来い!」と叫んだという。石坂浩二の話によると、このエピソードは東宝で伝説として語り継がれている。そんな三船は頻繁に「黒澤の野郎、あいつバズーカ砲でぶっ殺してやる!」ともらしていたという。
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2012年09月05日

黒澤明「虎の尾を踏む男達」



大戦末期に撮られた作品。当然、検閲も意識しないといけないし、予算等の制約もあっただろう。
一言で言えば、歌舞伎の「勧進帳」を映画化した作品。基本的には大河内傳次郎などが重厚な古典らしい演技をするが、映画化に当たって工夫もこらされている。
喜劇王エノケン、榎本健一が原作にはない要素として、茶々を入れる。また、音楽が画面とは合わないミュージカル風な現代的な音楽をつけている。
つまり、検閲されにくい歌舞伎のネタを題材に、そこに遊び心を入れて、ささやかな抵抗をしようとしたといった感じだろうか。
この後の戦後の黒澤は、この映画とは対照的な過激な表現主義というべき路線を突っ走って圧倒的な傑作を次々に生み出した。
ただ、黒澤本人は元来「古典的」な様式観、あるいはその種の教養に裏付けれされた人物だったようで、特に黒澤後期の作品では、そうした要素が色濃く現れてくる。語弊のある言い方があるかもしれないが、本来の性質が年を取って表に出てきたように。
ジャズのジョー・ザビヌルが初期はアダレイ・ブラザーズと黒人のブルース的な感覚の曲やプレイを白人なのにしていたが、ウェザー・リポートを経て晩年は西洋音楽の教養に根ざしたような音楽をやるようになったのと同様。そして、ザビヌルの場合、晩年の音楽は結構退屈だったりした。
この映画を見た感想をごくごく正直に言うと、やはり―ほぼ一時間の短い映画であるにもかかわらず―退屈してしまった。
今述べたような要素は頭では理解できるのだが、ごく普通の現代人の感覚で見るとやはり時代を感じさせてしまうのだ。黒澤の他の長い映画が、全く退屈させずに一気に見せるのとは対照的である。
冒頭の景色の撮り方からして―その後もずっと―、静的な古典的な構図で、そういう意味では黒澤映画としては珍しく貴重なのかもしれない。
また、エノケンもが見られるのも貴重だが、我々は名前でしか知らないので、この映画だけ見てもその面白さがそんなには分からない。キャラクターの強烈さは理解できるのだが。
しかし、例えば現代に置き換えると、例えば間寛平が「勧進帳」の大真面目な芝居に紛れ込んで茶化しているのとも考えられる。そう思うと中々面白いアイディアなのかもしれない。古典的な撮り方も、そう考えるとかなり知的なひねった高度なパロディと捉える事も出来る。
といっても、映画はそういう理窟よりも見た素直な印象が全てだ。やはり、戦時中の検閲が黒澤ほどの反抗心の強烈な作家の創造力さへ抑圧してしまったという印象は否めない。
但し、黒澤自身はこの作品にも結構自信をもっていたようで、戦後に(形式的に残っていた検閲官に酷評されて)、くだらない奴にくだらないと言われるのは、この作品がくだらなくない証拠だと息巻いたそうである(作品のウィキペディアより。)
戦後に次々に撮った奔放な作品群のイメージと違って、実は黒澤は知的に計算して映画をつくるタイプである。
それが、恐らく他の同時期の日本の巨匠も、小津や成瀬や溝口と一番違う点で、それらの作家たちには自分たちが表現しようとするものから無意識に逃れ出る得体の知れないものがあった。その点が彼らの魅力だし、色々映画について語りたく部分でもある。
しかし、黒澤の場合は、表面上の過激さとは裏腹に、映画制作の姿勢は実に意識的で「知的」である。
例えば、昨日感想を書いた「椿三十郎」にしても、その脚本の精緻な構成に舌をまく。ほとんど現代ハリウッド映画にも近い感覚なのでる。
だから、この「虎の尾を踏む男達」の冒頭に述べたきわめて高度な知性的なパロディの姿勢も、実は結構黒澤的なのかもしれない。
ただし、例えば「蜘蛛巣城」のあの大胆なシェークスピアのマクベス翻案と比べると、いかにも平面的で物足りなく感じてしまうのも事実だ。
しかし、それは戦時中の様々な制約を考えると、言っても仕方ないような気がする。
ちなみに、エノケンが何度も義経一行の下にあらわれて、同行を願うシーンは、「七人の侍」で、三船敏郎の菊千代が志村喬一行に何度もつかむ名場面を連想させる。当然、このアイディアが下敷きになっているのだろう。

posted by rukert | 映画

2012年09月04日

黒澤明「椿三十郎」



言うまでもなく傑作痛快時代劇。見れば分かる。説明の必要もない。個人的には対になる「用心棒」よりも好きだ。「用心棒」は話自体が殺伐としすぎているが、こちらは随所に上質なユーモアが散りばめられていて楽しい。
まず、オープニングからして素晴らしい。若武者たちが円形に座って話し合つて盛り上がるあの雰囲気の描写が大変映画的。そして、暗闇から三船の椿三十郎がぬっと登場するかっこよさ。何という完璧な演出だろう。
100分弱の映画で完璧なストーリーを盛り込む脚本にも舌を巻く。黒澤自身も脚本を書いているようだが、どの程度関わっているのだろうか。
黒沢映画には、ルーカスやコッポラというハリウッド系の監督が反応しているが、こういう脚本の精緻な巧みさもその要因になっているのだろう。
三船敏郎の役でも、これは大層魅力的である。三船はどの役もごくごく自然に、まるで素のミフネのままなようだが、実は繊細に各役を演じ分けている。キャラクターが強烈すぎるので、どうしてもミフネが表に出るのだが。
ビリー・ホリディが、どんなスタンダード・ナンバーを歌っても、ビリー色に染めてしまうが、実は各歌曲の精髄の本質を見事に表現しているのとも似ている。
加山雄三は、「赤ひげ」と共に、まだ「加山雄三」になりきっていない加山雄三で若者の素直さ、爽やかさが直截的に表現できていて素晴らしい。
こいそ役の樋口年子、「隠し砦の三悪人」でオーディションで登場したが、ここではセリフを結構セリフを喋っている。
奥方役で、入江たか子が登場するが、例えば黒沢だと「一番美しく」から約二十年経過している訳だが若き日の典型的な美女と比べて、そのあまりの変わりようにちょっとショックを受ける。女優という仕事の難しいところだ。
団令子は、おっとりとしたお嬢さん役。「赤ひげ」でも清純な役で、同じ役者に対極の役をやらせたがる黒澤にしては珍しい。成瀬や小津では、変わった女を怪演したいいキャラクターなのに。
三船が、入江の踏み台になるシーンもおかしい。ミフネの顔のしかめ方。入江が本当に重たそうなだけに・・。
志村喬が脇の悪役で、しかも脇の脇。ちょっと寂しい。現代の感覚だとまだ当時全然若いと思うのだが。
なんと言っても、この映画で一番おいしいのは小林桂樹である。入江の人柄にうたれて逃げ出すのを自分から断念し、押入れの中で本当の事実を知り、ついには若武者たちの幼稚さに耐えられず、押入れから飛び出してきて人生の先輩の意見を決然と述べてから押入れに戻るおかしさ、そしてうまく計略が行って押入れから出てきて新たな仲間たちと喜んでから我に返るシーンは実に出来のいいコメディである。
そもそも、黒澤がこの作品の元になる脚本では、小林桂樹などが主役候補だったらしい。
入江と団が合図のつばきを赤にするか白にするかをのんびり話し合うところで、三船がイライラしてのの字を書くところも抜群におかしい。
城代家老の伊藤雄之助は、言われないと分からないくらい馬面メイクだ。確かに顔は長いけれど。「生きる」の無頼派作家とは全く違うタイプの役で、黒澤が好むパターンだ。
ラストの、三船と仲代達矢の決闘シーン、最初観たときはショックを受けた。あの血の吹き出し方。最近は、あれはジュースだと思って見るようにしている。そうでないと、今でもちょっとこわいくらいのシーンなので。

それと、この映画のセリフのセンスが秀逸である。現代だと「天空の城ラピュタ」の名セリフが話題になったりするが、全くそれにも劣らないと思う。以下、それらを幾つか紹介して終わりにしよう。

「するとニヤニヤ笑って、おいっ、オレがその汚職の黒幕かもしれないぞ。お前たちは、このオレを少しうすのろと思って案山子がわりに担ぎだすつもりらしいが、人は見かけによらないよ。あぶないあぶない。一番悪い奴はとんでもないところにいる。あぶない、あぶない。」

「盗み聞きって言う奴は、いいもんだぜ。岡目八目、話している奴より話の本筋がよくわかる。」

「なかなか聞き分けがいいな。いいこだ。」

「こうなったら死ぬも生きるも我々九人。」「十人だっ。てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねぇや。」

「ちぇっ、こう金魚のウンコみたくつながってこられちゃ始末がわりぃな。」

「いい侍だ。ふっ、おめぇたちより頼もしいぜ。」

「おめぇ、丑年の生まれか?何かというとつっかかるが。」

「なんだ、その面ぁ。刀振り回してぇんだろうが、御免だぜ。間抜けな味方の刀は敵の刀よりあぶねぇ。けつ斬られちゃ、かなわねぇからなっ。」

「あなたは、ちょっとギラギラしすぎていますね。抜き身みたいに。あなたは鞘のない刀みたいな人。よ−く斬れます。でも、本当にいい刀は鞘に入っているものですよ。」

「あの奥方のなさることはマッタク天衣無縫だな。」「ちぇっ、少し足りねえのさ。」

「しかし、アイツ何をやりだすか分からんっ。化けもんだぜ、ありゃあ。」

「それはねぇ、誰かもおっしゃったようですが、あの人の変なクセです。あの人は褒めたい時でも悪口しか言えない人なんですよっ。」「それみろ・・。」

「わからねぇのか。こいつら助けるのよ。」

「はっ、のどかなもんだっ。この調子じゃ、城代の居所を見つけるころにゃあ、おらぁ白髪の七十郎だぜ、おいっ。」

(流れてきた椿を見て入江)「まぁ、きれいだこと。」

「ざまぁみやがれ。うまくひっかかりやがった。椿の合図は赤も白もねぇんだ。」

「おまえらが謝ることないよ。わしに人望がなかったのがいかんのだ。どうもなぁ、わしのこの間延びした馬面にも困ったもんだ。昔の事だが、わしが馬に乗ったのを見て誰かこんな事言いおったよ。乗った人より馬は丸顔。」

「こいつはオレにソックリだ。抜き身だ。こいつもオレも鞘入ってない刀だ。でもなっ、あの奥方の言ったとおり、本当にいい刀は鞘に入っている。おいっ、おめぇたちも大人しく鞘にはいってろよ。」

ラストで「用心棒」同様、三船はお得意の肩をゆするポーズをして後姿で去ってゆく。実は「赤ひげ」でもそうなのだ。


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2012年09月03日

黒澤明「隠し砦の三悪人」



大好きな黒澤作品。何といっても、上原美佐の雪姫である。理窟抜きの存在感、凛々しさ、健康的な色気、心の美しさ、はかなさ。と役者と役柄を混交して述べてしまったが、この上原雪姫は演技のレベルなど軽く超えて役柄と本人が一体化してしまっているのである。
そもそも、この上原美佐は、素人だったところを東宝社員の目にとまり、黒澤が上原の「気品と野生の二つの要素がかもしだす異様な雰囲気」を評価してデビューに至ったそうである。(上原のウィキペディアによる。)
三船敏郎も、オーディションに来ていたところをその異常な迫力にうたれた黒澤の要望で補欠合格した経緯があってよく似ている。二人とも理窟抜きの尋常ではない迫力あるオーラの持ち主で、こういう役者が黒澤の好みなのだろう。
上原はこの後数年して「自分には才能がない」として(あるいは家庭の事情とも言われる)、あっさり引退してしまう。従ってかえってこの上原雪姫が一期一会のスクリーン上の奇跡として我々の記憶に残る事になった。
上原は、山の中では現代風に言うと短パン姿で通して、三好栄子言うところの「猛々しい」姫であるにしても、いくらなんでも世継ぎの姫にこんな格好をさせるのは時代考証以前に無理な設定である。でも、黒澤はこういう野性的な姫を創造したくて、ぬけぬけとこういう格好をさせた。我々は「黒澤えらい」と叫ばずにはいられない。
雪姫のシーンはもう全部印象的だ。山の上に遠望で屹立する姿の凛々しさ、三船をなじった後で少女のように大泣きする泣きっぷりのよさ、三船のおしにするという計略を見抜いた際の何ともいえない笑顔、三船が関所で大暴れするところを見つめる笑顔、最後の番で歌うシーン、姫に戻って三船の男ぶりを褒めて三船が照れるシーン等々。語りだしたらキリがない。
マルセ太郎のように「スクリーンのないブログ映画館」と題して、逐一語ってもいいのだが、読者諸賢に迷惑だと思うのでやめておこう。
しかし、その中でも忘れがたいのは、火祭りのシーンだ。土俗的なエネルギーの発露の画面全体が圧倒的で素晴らしいのだが、その中で上原美佐雪姫が踊る姿は本当に女王の気品と凛々しさが現れていた。三船なども一緒に映っているわけだが、上原一人に目が釘付けになるのである。
全体の上原の鋭いまなざしが特に印象に残る。しかし、結局あのちょっと上滑りする様な喋り方、身体全体から醸し出すオーラの説得力が文句なしである。この上原を見て「演技になっていない、うまくない」とか言うのはバカげている。こういう狭義の「演技」など軽く超越している存在こそ本来映画が夢見るものであるはずだ。
三船も、ここでは上原に負けずに露出の多い衣装で肉体美を誇示している。相変わらず文句のつけようがない。ちなみに、馬に乗って敵兵を追いかけるシーンではスタントを使ってないそうである。改めてみるとすごいスピードである。一体どんな肉体能力の持ち主だったのだろう。
三船のライバル役の藤田進も素晴らしい出来だ。「姿三四郎」「わが青春に悔なし」など初期黒澤で主役(級)をはり、その後も脇役でも常連だがこの時期では最も印象的な役だ。
この人は、大らかな人柄と、引き込まれるような人の良さのようなものが人間本質の部分で自然に表出されてくるところが魅力だ。三船との決闘で負けを潔く認めるところ、味方を裏切る前に歌いだすところ、雪姫の言葉に嬉しそうにうなずくところ、雪姫が鎧姿の三船を褒めて三船が照れたところに呵呵大笑するところ、どれも本当に平家物語に登場する武将のようだ。そういう時代離れした不思議に人間の大きさを感じさせる役者である。「裏切りごめん」の決め台詞が何とも爽快である。
娘役の樋口年子も印象的。本作にあたってオーディションで抜擢されたらしい。それだけに、小細工なしの体当たり的な演技が新鮮である。
そう言えばこの娘を買った上田吉二郎のアクの強さもさすがだった。雪姫の寝姿にムラムラとした二人を石をもって脅すシーンは何ともおかしい。その際、藤原釜足よりも千秋実
の方がスケベオヤジっぽさがでていて素晴らしかった。どうでもいいことだが。
また、敵中に犠牲となって飛び込むシーン、捕えられて「私が姫です、姫です」と叫ぶシーン。いや、別に演技しているのではないのだが、こういう無私の奉公ぶりにどうも我々日本人は弱い気がする。いいことかどうかは分からないが・・。
ちなみに、この樋口年子は「椿三十郎」にもチラッと登場する。
そして、千秋実と藤原釜足のでこぼこコンビについては今更何も言うべき事はないだろう。この時期の日本映画を支えた名脇役二人が思う存分やりきっている。素人系の役者が多い映画だが、―ある意味黒澤映画の三船というのもいい意味で永遠の素人だったような気がする―、この二人は紛うことなき玄人の役者である。
この二人の元に夜に野宿しているところに三船が訪れるシーンが何ともおかしくて好きだ。
千秋「おいっ」。三船が凄い目をして振り返る。千秋ひるんで小声で「こんばんはっ。」藤原何をやっているんだと、「おいっ。」三船がやはり凄い目をして振り返る。藤原とぼけて、「山は冷えるなぁ」。
こんな完璧なコントは中々作ろうと思ってもつくれるものではない。
この作品を元にルーカスが「スター・ウォーズ」をつくったのは有名な話だが、冒頭の佐藤勝の音楽も、ジョン・ウィリアムスのあのテーマと似ていなくもない。そこまで参考にしたのかと今回思った。
そして、「隠し砦の三悪人」というタイトルだけれども、三人とも実は全然悪人ではないというタイトルオチの映画でもある。
posted by rukert | 映画

2012年09月02日

黒澤明「素晴らしき日曜日」



黒澤初期のなかなか可憐な佳作である。黒澤にしては、あまりにも重くなりすぎたりはしていない。
ウィキペディアによると、当時東宝争議のせいで藤田進、原節子などが退社していて、新人を起用したそうである。
中北千枝子は個性の強い脇役として黒澤、成瀬、小津映画にも頻繁に登場しているが、ここでは若き日の初々しい主役。ふっくらして健康的でかわいらしい。いかにも性格が良さそうで、この映画の設定にピッタリである。
沼崎勲も、なかなか個性のある役者さんだが、この後37歳で急逝したそうである。
戦後間もない東京を舞台に、二人の日曜のデートがテンポよく綴られていき、どのシーンも印象に残る。特に子供たちと沼崎が野球をするシーンは、当時の子供たちがアップなどて映し出されるが、皆かわいらしくて時代を感じさせる。
こんな小品でも、ダンスホールのシーンでは支配人に清水将夫、与太者に渡辺篤、中北が道を聞く相手に菅井一郎などがチョイ役で登場している。
浮浪児役の水谷史朗という子役の顔つきやその醸し出す雰囲気が何とも印象的で忘れがたい。当時は、本当にこんな子もいたのだろうか。
後半に二人が沼崎の部屋で喧嘩するシーンは、怒って去ったいった中北が忘れて置いていったバッグについているアクセサリーの小動物が効果的で、長い間があって中北が戻ってきて意を決して服を脱ごうとして、それを動揺して見守る沼崎、泣き出してしまう中北の二人をバックから映し続けてるところはなかなかよかった。
そして、音楽堂で沼崎が一人でエア指揮をしようとする場面。当然、中北がカメラに向けて観客に話しかけて、拍手を求める。ゴダールの「勝手にしやがれ」でもジャン・ポール・ベルモントが一瞬カメラに話す有名なシーンがあったが、ここでは中北は滔々とカメラに向かって語り続けるのである。
WOWOWの解説によると、日本ではこの演出はあまり受け入れられなかったが、この映画をフランスで上映した際には、観客から熱い拍手がわきおこって黒澤は感動したそうである。
そして、このシーンは本当に十分に時間と間を使って長い。まるで、タルコフスキーの「ノスタルジア」で主人公がろうそくの火をつけたまま池を横切ろうとするところのようだ。
恐らく、一般的な現代人からすると、かなりこの部分の演出は悠長、冗長に感じるのではないだろうか。また、中北がカメラに向かって熱く語りかけるのも、ちょっと照れくさい。多分普通の日本人はそうだ。フランス人じゃないんだから。私もどちらかというとそういう感じ方だ。
しかしながら、この屋外演奏堂のシーンに、このように大掛かりで長い映画のコーダを持ってこようとしたのが実に黒澤らしいような気がする。
映画の性質からすると、もっと軽く終わらせた方が首尾一貫しているのかもしれないが、いい意味でも悪い意味でもこれが黒澤映画なのだ。
そして、私も実はちょっと照れながらもこのシーンが好きなのである。
posted by rukert | 映画

2012年09月01日

黒澤明「生きものの記録」



名作「七人の侍」の次に撮られた作品。全く客が入らなかったそうである。それもよく分かる。これを当時の客に理解しろといっても無理だ。311の福島原発事故を経た我々が再発見して驚く映画なのだから。
黒澤には、多分理屈を超えたほとんど肉体レベルの直感能力があって、この作品や「夢」や「八月の狂詩曲」に、ようやく我々が追いついて瞠目させられるのである。
主人公は、水爆恐怖症にとりつかれた老人だ。当時35歳の三船敏郎が見事な老け役を演じきっている。
老人は原爆に対する恐怖に取りつかれて、地方に核シェルターをつくろうとしたり、ブラジル移住を考える。その強引さが家族には迷惑そのもので、家庭裁判所に家族が訴えて老人に準禁治産者の認定を求める。
老人の家族に象徴される一般、世間の立場からすると、老人は完全に神経質すぎて妄想に
取りつかれた「狂気」の存在である。しかし、当時も報道などにより水爆に対する恐怖は程度の差はあれ、誰の心の底にもひそんでいた。
とはいっても、「普通」の人間の立場からすれば、それぞれの生活もあり、恐怖しても仕方ないという諦念もあり、「現実的」に考えれば、水爆など恐れても仕方ないという事になる。その為だけにブラジルに移住するなどとんでもない話だ。それは、現在の我々にもよく理解できる「普通の」感覚である。
ところが、家庭裁判所の調停員は老人の話をよく聞くにつれ、その不思議な説得力に考えさせられるようになる。特に志村喬の演じる歯科医の調停員は、むしろ三船の感覚に、深く考えさせられ、いつしか密かな共感も覚え始める。
結局、老人はその「世間」との軋轢の結果、本物の「狂気」に陥って精神病院に収監される。
そういう映画なのだが、今見ると黒澤のメッセージはあまりにも明確である。世間の「常識」が実は非常識な現実逃避であって、老人の過敏すぎる「狂気」が実はまっとうで正常な「正気」なのだと。
言うまでもなく、これは現在の我々にとって切実な問題である。現実に対する素朴で素直な「恐怖」は誰にでもある。しかし、それが「現実主義」の「大人」の理論と「常識」にょって打ち消されいく。いつの間にかウヤムヤになって、悩んでも仕方ないやと開きなおってしまう。この映画が本質的に訴えかけてくるのは、素朴で素直な心、直感的なは正常な把握能力と、それをもっともらしい理論で冷笑的に糊塗して否定しようとする浅はかな現実主義や「理性」の対立なのである。
この映画は、音楽の早坂文雄が、水爆に関する新聞記事を見て「こんな時代じゃ、安心して暮らせないね」とつぶやいたのがキッカケになったそうである。そして、この映画の撮影中に亡くなった早坂文雄の遺作になり、冒頭のクレジットでは、「遺作」とわざわざ書かれている。映画のラストは黒く何も映らない画面のバックで早坂文雄の音楽が流れて終る。

ここでの三船敏郎は見事だ。黒澤映画の三船は常にそのまま三船だ。そのありのままの存在感に誰もが圧倒される。しかし、この映画では―老け役という事もあり―「演技」する三船敏郎の能力の高さを見せている。
脇では、徹底的な「世間」の「常識」の役割のヒールを担う清水将夫が見事だ。三船と血のつながりのない冷酷な立場である。「椿三十郎」など黒澤映画では欠かす事の出来ない名悪役だ。
次男役の千秋実も相変わらずいい味を出している。一番老人に楯突く役なのだが、同時に何度も三船に怒られたり殴られたりして、そういうところが実に千秋らしいいい味を出している。
長男役の佐田豊は頼りない感じがピッタリで、黒澤映画では「天国と地獄」の誘拐された子供の親の運転手役が何とも印象的だった。
妾の父親役の上田吉二郎も何とも印象的で、特に妾宅で三船に水爆記事をみせて、脅したりイヤミを言うシーンは映画的だった。
ところで、男たちが基本的には三船と対立するのに、女性陣がむしろ三船に共感、理解を示しているのが興味深い。
妻役の三好栄子は最初から基本的に三船の味方だ。妾の根岸明美が自宅に来た際に、次女の青山京子に「お母さんはあなた方のことなんか本当は気にしていないのよ。子供たちの手前で嫌がっているフリをしているだけなのよ」と言われて「何を言っているんだろうね、この子は」と笑いながらいって否定しないシーンは何とも味があった。
その青山京子も、工場の家事のシーンで、三船をなじる清水将夫を、逆にバッサリ斬るシーンは爽快である。
妾の根岸明美の存在感もすごい。父親役の上田吉二郎という曲者に全く負けていない。そして、独裁者の三船に対してさえ、言いたいことをズバリという。黒澤映画では、他にも「赤ひげ」や「どですかでん」でもチョイ役ながらとても印象に残った。黒澤ガールの中でも個人的にはすごく気になる女優である。
そして、やはり黒澤映画常連の千石規子。ここではセリフは少ないのだが、沈黙のうちに三船に理解を示して、家族の愚かさを冷静に見つめているという難しい役を見事にこなしている。今回改めて見てそのことに気づいた。
どちらにしろ、三船のような存在に「男」が無理解で「女」がむしろ直感的な理解を示しているのが何とも興味深いところである。

ラストの精神病院のシーンで精神科医として名優、中村伸郎が登場する。彼に黒澤が言わせているセリフがこの映画の結論であると共に、この異常な現代を生きる我々全てに突き刺さってくる。本当にその通りなのだ。
私は、この患者を見るたびにひどく憂鬱になって困るんですよ。こんなことは初めてです。狂人というものは、そりゃあ、皆憂鬱な存在には違いありませんが、しかしこの患者を見ていると、何だかその、正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです・・。狂っているのはあの患者なのか、こんな時勢に正気でいられる我々がおかしいのか・・。
posted by rukert | 映画
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