2012年08月31日

黒澤明「生きる」



マルセ太郎という個性的で一度見たら忘れられない風貌の芸人がいて、本物の猿よりも猿らしいと評された形態模写などをしていた。
彼がまた得意にしていたのは「スクリーンのない映画館」という一人芝居で映画を再演する芸。この「生きる」もレパートリーの一つだった。
残念ながら私は映画全体を演じたバージョンを見ていないのだが、ある時(はるか昔で記憶もおぼろだが)その一部を演じると共に「生きる」を語ったテレビ番組を見たことがある。
その中でマルセが言っていたのは、「生きる」は大真面目なヒューマニズムの感動映画であると同時に、コミカルな側面も持ち合わせるといったようなこと。
例えば、志村喬が、息子の幼い頃を思い出して、「みつお、みつお」と言いながら階段に向かうと、息子に突き放されてうなだれるシーン。あれも、大真面目なシーンなのだが、同時に何ともおかしい。
そんなような事を多分マルセは語っていた。なんで、こんな思いで話から始めたのかというと、このマルセの「生きる」評が妙に黒澤映画の本質を突いているような気がするからだ。
黒澤映画は常に大真面目である。それを表現主義的に過剰な演出でやりきる。それが黒澤映画の素晴らしさなのだが、同時に醒めた目の持ち主にはついていけないところもあるかもしれない。むしろ、笑ってしまう。ネタやパロディの材料になりかねない。
「生きる」もそうした相反する二つの見方が可能な典型的な黒澤映画である。本当に生きるとは何かを問う映画であると共に、その過激で過剰な演出がフト笑いを誘う。
私はそれが黒澤映画の最大の美点なのではないかと最近は考えている。例えば、いかにも日本映画的な小津や成瀬(個人的にはこの二人が自分には一番しっくりくる)の方は、実に繊細で洗練されていて、黒澤映画のように、(作者が意図しない形での)お笑い解釈をほどこす余地はない。
しかし、黒澤映画の生命過剰な表現主義的演出と、そこから意図せずに導き出される健康的な笑いが私には愛しく感じられる。
この「生きる」は、超真面目な映画であるのだけれども、同時にそのディテール部分を笑ってみる事が出来るのだ。それは多分黒澤の意図も超えていて、現実とも虚ともつかないある一つのメルヘンなのである。
例えば、志村喬の動きが邪魔な極道者にすごまれるシーンがある。加東大介が、志村に「おい、おっさんでしゃばらない方がいいぜ」と凄むが志村は言う事をきかない。加藤が志村のむらぐらをつかんで「このやろう」といって加藤が反転すると、そのほうには生々しい切り傷がありカメラがそれを映し出す。
真面目なシーンなのだが、その説明的な演出にちょっと笑ってしまうのだ。あくまで感動しながらだ。
そして、加藤が「てめえ、命がおしくねぇのか」と脅すと、自分の死を覚悟している志村は完全に無防備な笑顔でにこっと笑うのだ。加藤が気味悪がってひるむ。こういったシーンの志村のほとんど演技を超えている演技は本当に素晴らしいと思う。
そして、ヤクザの親分の、貫禄十分で本当にこわい(という設定の)宮口精二が登場して、おっかない目で志村を睨みつけるのだが、志村はここでも赤ん坊のような澄み切った何の邪心もないという目で真っ直ぐに見つめ返す。それをカメラがアップで捉える。宮口が気合負けして目をそらす。
こういったところは、本当に感動的であると同時におかしいのだ。
これは官僚機構の硬直性を批判するといった浅いレベルの映画では断じてない。自分の死を意識する事で、完全に自己に対するこだわりや執着をすてて、ありのままの生命の姿に気づいてしまった人間の物語である。そして、そういう人間には今で見えていなった世界の美しさに気づき、完璧に現在という瞬間を生きはじめる。
公園地の惨状に気づいた志村がめかるみに直進してゆくシーン、できあがりつつある公園
をまるで自分の子供のように見つめる志村の目、夕焼けの美しさに呆然とする志村、こういったところはもう笑いの入り込む余地もない。
そして、あの雪の夜で志村がブランコに乗りながらゴンドラの歌を深々とした声で歌うシーンでは完全にやられてしまうのである。
そして、マルセ太郎も、この映画のおかしさも感受しながら同時に実は完全に「生きる」にやられている一人なのだと思う。
マルセが「生きる」のあのゴンドラの歌のシーンを一人芝居している動画を見つけて見たら、本物の映画以上に、真面目に過剰に真剣に表現主義的に、一切の笑いもなく演じきっていた。
posted by rukert | 映画
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