2011年02月14日

成瀬巳喜男「妻として女として」感想

これは美しくて素晴らしくて生命力があって悲しい生き物=女ととことん情けなくて優柔不断で卑劣な生き物=男、という成瀬方程式の極北、白眉の傑作だ。1961年。
個人的には1960年代の成瀬映画はあんまりのめりこめず、戦前戦中の成瀬映画を愛してやまない人間だ。しかし、これは成瀬的な男女の、というより女男の関係が徹底的に描かれていて背筋が寒くなるくらい壮絶だ。
いきなり退屈な感じの平和な家庭のシーンで始まって、60年代の成瀬ホームドラマなのかなと思ってしまうが、とんでもなくてこれはあくまで嵐の前の静けさだ。
森雅之が高峰秀子からの贈り物をみる姿を、正妻の淡島千景がみつめるその「視線」だけで、まだ説明されてないのに観る者は三人の関係性を瞬時に理解する。
そして大学教授の森雅之が妾の高峰秀子と旅行していめところを自分の学生にみられるシーンから、典型的な成瀬的男女関係ドラマがはじまる。森雅之はすっかりうろたえてしまってしまって心ここにあらず。それに高島が苛立ち、どうしてそう世間の目を気にするのかと怒る。徹底的に小心で情けない男と、度胸がすわった女。森の情けない男になりきる演技は、どれりだけ絶賛してもし足りない。そして、列車の中でも森は高島と離れて座っている。人目を忍ぶために。高島が森の方を情けなさそうに見つめる「視線」の表現。ここまでくると森が情けなさすぎて笑ってしまう。
他に登場する男たちも皆見事にダメで情けない。十朱久雄は女たちに集団で糾弾されてしまうし、あの中村伸郎までもがいやらしいオヤジだ。小津映画では、あれだけ粋で気品がある中村も、成瀬にかかると単なる勝手なスケベオヤジだ。成瀬は女性を美しく撮る天才だけれども、同時に男を情けなく撮る天才でもある。
森に高島が別れ話をするシーンでは、障子を閉めて暗くするなど、この映画では随所に明暗を巧みに使って成瀬らしくきめ細かに撮っている。しかし、そんなことも忘れるくらいどんどんストーリーにひきこまれる。
とにかく淡島千景が「強い女」で、その存在感に圧倒される。正直、おっかないです。第一回目の淡路と高島の正面対決は、淡路の圧勝である。高島は、少し人がよくて気が弱い設定なので、淡路にピシッとやられてしまう。冷静に考えると、淡路の主張も「世間的」にはもっともなのだが、そういう性格付けの魔術で、観るものは淡路=ヒール、高島=ベビーフェイスと思わされ、妾の高島につい同情してしまう。
そもそも、どんな人間に対しても底では辛辣な観察眼を失わない成瀬も、「妾」「芸者」といった弱い立場の女に対しては優しい見方をする。それは、戦前の「妻よ薔薇のやうに」や「噂の娘」の頃から変わらない。
高島が酔って、妾の悲しさを母の飯田蝶子にこぼすシーンは美しい。ちょっと前の例えば「流れる」で芸者たちが悲しい女の身をなげくのと似通ったところがある。成瀬は時代を意識して作品をつくる監督で、それが私などは60年代の成瀬がイマイチ好きになれない原因なのだけれども、成瀬的なテーマや感覚はどの時代にも通底していて変らない。
高島が、大沢健三郎に自分の息子だと打ち明けるあたりのシーンは、映画だとわかっていてもハラハラする。まだ言わない前にジェットコースターで息子に自然に抱きつくシーンなど巧みな演出だ。そして、基本的には人のいい高島がなかなかいえないところに、きつい感じの役柄の淡路恵子を登場させて言わせるのは卑怯だ。もうハラハラしてみていて、「やめろー」といいたくなる(笑)。すっかり映画の虜だ。人のいい高島はそれを止めようとするという設定で、ここも巧みな演出だ。
そして、正妻vs愛人・妾の最終対決。これは戦争だ。なんという恐ろしい女の戦い。見ていてこわいのだけれど興奮せずにはいられない(笑)。やはり先攻するのは淡島千景だ。やはり凄い迫力と説得力。しかし、ついに高島秀子も反撃する。淡島のことを「人の不幸を自分の幸福にする女」とまでいう。おっかない。ここまで来ると笑ってしまいそうになくらいだ。しかし、ここではもうどちらが悪役でどちらが善役ということではなく、二人ともギリギリの女としての真実を語っているように感じる。二人とも正しいと思う。
そして、二人の矛先はついに森雅之に向かう。淡島と高島画正面から対峙していたのが、二人が同時に森に視線を向ける。この瞬間こそ、この映画のハイライトだろう。成瀬的な視線の芸の極北・白眉である。
そして、その二つの真剣な鋭い視線を向けられた男、森は何を言うのか。それが何もいわないのだ。ここにきてまで。なんという男に対する成瀬のサディズムだろう。女が自分をさらけ出して真実を語ったのにもかかわらず、男は何もいわずに立ち尽くすだけである。その視線も女に向けられずに下を向いたままなのだ。
さらに、森は「子供の意見を聞こう」などと言い出す。何の罪もない子供に判断させるとは、ビックリだ。ということで、娘の星由里子と息子が入ってくる。ここでも主張するのは「女」の星で息子は黙っている。星は、二人の女をなじるが、それよりも父親を「卑劣」と言い切る。その言葉だけが耳に残る。もっともだ。それ以外ない。
前半はヒールっぽかった淡島も、最後のシーンでは夫と別れることを決意して、自分のやったことを間違いだったかもしれないとまで言う。女の正しさを最後まで成瀬は描ききる。一方、森は大学のキャンパスを悄然として歩くだけだ。
星はさっそく家を飛び出して自立する。ここでも女は生命力があって立派な存在だ。そこへ息子の大沢健三郎がやってくる。まだ若いのだから仕方ないが、彼はそのまままだ家にいる。一応彼も自分の人生を生きるという明るい方向性で映画はおわるのだが、正直彼が将来森雅之にならないかが心配だ。いや、きっとそうなってしまうのに違いない。
こうして、とことん女を素晴らしい生き物として描き、男をトコトンダメな生き物として貶める成瀬映画を見ていて思う。これは、果たして女性賛美なのだろうかと。実は、女性を褒め称えるというよりは、そういう女性であって欲しいという男の願望が成瀬映画には隠されていると思う。どの映画をみても、私はそのことを感じる。徹底的に男がマゾヒズム的に卑下されるが、実はマゾヒズムというのは自己犠牲ではなく自己中心的な態度だ。そういう女に囲まれて生きていたいという男の勝手な願望が根底にあって、成瀬映画は実は女性賛美どころか、下手すると究極の女性差別の危険をはらんでいると思う。これは、成瀬批判ではない、そういう極限の女性像をぬけぬけと表現しているのが成瀬映画の偉大さなのだ。但し、それはあくまで男性目線であって、成瀬映画は女性映画ではなく、とことん「男」の映画なのだと思う。女性は成瀬映画をみてどう感じるのだろうか。
とにかく、この作品は60年代では最高傑作で、成瀬映画の中でもベストの何本かに入る作品だと私は感じた。
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成瀬巳喜男 「秀子の車掌さん」感想

高峰秀子の成瀬映画デビュー作。当時17歳くらい。1941年の作品。
高峰秀子が実家近くでバスを止めて、田んぼの中を走って家へ向かうシーンが素晴らしい。成瀬映画ではこういう自然の中の移動シーンのつなぎや組み立てで感心することが多い。「まごころ」「 妻よ薔薇のやうに」など。それにしても当時の自然がとても美しく感じられる。
藤原鶏太(戦時中で当局から藤原釜足に文句をつけられて改名中)の珍しい主役映画でもある。やはり、さりげないとぼけた感じでいい味出している。高峰に「小説家(夏川大二郎)はフランス映画の「にんじん」に似ていると言うが、私はごぼうだと思う」といわれたりしている。勿論役のバス運転手として言われるのだが、藤原釜足本人が言われているようでおかしい。
高峰秀子が初々しい。但し、年齢のわりにはやはり堂々としてうまいのだけれども。個人的には、「浮雲」以降の「女優」高峰よりも、この作品や木下恵介の「カルメン故郷に帰る」のようなタイプの高峰が好きだ。
夏川大二郎も原作の井伏鱒二とおぼしき作家のマジメな役のようでいて、バスガイドの声色で延々とバスガイド原稿を読んだり、うるさい蝉を追っ払おうとして水をかけて下を通る夫人にかかってしまって恐縮したり、なかなかのコメディアンぶりである。
それと社長役の勝見庸太郎がすごい役者で怪演していて笑わせる。やたらとラムネと氷が好きで。ラムネをあける音の爽快感がたまらないとか、ちょっと洒落た台詞をいうが、これは井伏鱒二原作の通りなのかしら。
非常に牧歌的なコメディだけれりども、バスから映す風景の映画的な感覚、各キャラクターのうまく練られた個性があって完成度は高い作品だ。軽い小品だけれどもレベルは決して低くない。いや、高い。
それと、そもそも私は個人的にこの時期の成瀬作品が、どれもこれも好きで仕方ないのだ。
しかし、コメディとは言ってもラストのオチは素直でない成瀬らしいセンスで素晴らしいし、何も知らずに最初で最後のバスガイドを嬉しそうにする高峰と藤原の姿で終わるのも、映画らしくうまく完結していると思う。

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