2011年02月01日

溝口健二「夜の女たち」



これは実に溝口らしい凄い映画だ。田中絹代が街娼にまで身をやつす役なのだが、その迫力が半端ではない。「西鶴一代女」でも田中はやはり街娼で、それもやりきっていたが、こちらは設定が現代で生々しく勢いが尋常ではない。
溝口のワンカットワンシーンが、いつもにも増して効果的である。角田富江が町の不良のなぐさみものにされ、それだけで角田が純情そのものの雰囲気なので見ていて痛々しいのだが、角田が男にすがるところに、不良の女達がおそいかかって身包みはがして追い出すシーンなど、映画だと分かっていてもゾッとしてしまう迫力だ。田中絹代が、警察の施設から塀を越えて逃げ出すシーンの緊迫感。
田中が、普通の未亡人から街娼に落ちぶれて、初めて画面に登場するシーンの変わり身の凄さ。完全に「夜の女」になりきっていて笑ってしまうくらいだ。警察で婦人記者が街娼の女性の地位について正義漢ぶって熱弁を振るうところに、田中が「オバチャン、何言うてんねん」とか何とか啖呵をきるシーンも溝口的だ。溝口はそういう女性の生態を知り尽くしていながら、外部からきれいごとをいうのではなく、その内部のありのままを描くことで問題提起する。いや、問題提起するというよりは、そういう世界の悲惨さをよく理解しながら、そのまま突き放して描いて、とことん愛す立場とでもいうか。
何といっても、ラストのシーンが素晴らしい。すっかり自暴自棄になった角田富江に対して、田中絹代が自分の体験から心の叫びをして、街娼という身分の悲しさを叫ぶ。婦人記者の主張との対照。
さらに、それに納得した角田を田中が連れ出そうとするところに、足抜けようとする田中に対して街娼仲間が集団リンチをする迫力、それにいたたまれなくなって田中を救う街娼達、角田が田中にかけより二人でやっとの思いでその場を去り、そこに残される街娼達が動物のようにうずくまる。そして、カメラが上方へパンアップすると、聖母マリアの絵が映し出される。地獄絵図を見守るマリア。
これは溝口が撮ったシーンでも、最も壮絶で美しいシーンの一つではないだろうか。ベルイマンの「処女の泉」のような極限的な演出である。しかし、世界広しといえども、こんなものを撮れるのは溝口だけなのかもしれない。
ちょっと特殊な作品だが、名作とされる「雨月物語」や「西鶴一代女」にも負けない傑作だと個人的には思う。
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木下恵介「二十四の瞳」感想



この時代には、小津、溝口、黒澤、成瀬といった強烈きわまりない個性の監督が芸術的な映画を制作して競い合っていた。全員一癖も二癖もあるが、その中で木下には彼らのようなアクの強さはないが自然な大人の風格のようなものがある。この作品も題材は、芸術的というよりは通俗と取られかねないが、全然通俗になっていない。
小豆島の美しい自然が全篇にわたって流れるが、普通の撮り方なのだが、とても明晰な感じのする映像である。人物も、妙な小細工をしないが、しかしきちんとした意図のもとにしっかり撮られている。きちんとした意志の力で貫かれた古典的な透明感のある映像だ。
人物の描き方も、それぞれの個性に曖昧なところがなく、明確でありながらきめ細やかである。高峰秀子や笠智衆も、その個性が自然にいきていると思う。彼らが他の巨匠たちの映画に出たとは、また違う魅力がある。
反戦の考えが盛り込まれているのだが、それも妙に理屈っぽくなったり、逆に感情に流されていない。高峰の口を通じて、ごくごく常識的な普通の考え方が伝えられている。あっさり、そういう問題を明快に処理していて、つべこべいわないので説得力がある。
島の生活の苦しさも、淡々と、しかし着実に描かれていて胸を打つ。特に、まっちゃんはかわいくてかわいそうでたまらない。最後に、同窓会では井川邦子として、すっかり別嬪さんになって現れるので、ちょっとホッとするのだ(笑)。
戦争という時代背景もあり、とにかく次々に簡単に人が死んでいく映画である。映画をも見続けて、その流れを追っていくと、自然に世や人の無常を感じられる仕組みだ。時々挿入される、文字語りも効果的である。
ごくごく普通のようで、実は大変強靭な映画だと思う。
木下恵介はジャズで言うと、デューク・エリントンのような存在なのかもしれない。大人な音楽でエキセントリックなところはないが、実に深くて高度ない楽的な理論・技術の裏づけがある。小津、溝口、黒澤、成瀬といった巨匠達と比べても、それに負けないか、あるいは実は一段上の芸術家なのではないかと思わせるようなところがある。
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成瀬巳喜男「娘・妻・母」雑記



1960年。「秋日和」と同年公開の映画で、ここにも原節子が出ているのだけれども、さすがに少し歳をとった感じがしてしまう。成瀬は原節子のことを実にきれいに撮っているのだけれども、これは役柄の設定なのか、初期のカラーがうまくいってないのか、髪型や衣装のせいなのか、「秋日和」の方がいい。さらに、翌年の1961年の小津の「小早川家の秋」では、さらに逆に若返った感じがする。原は、この撮影当時40少し前だと思うので、微妙な年齢なのだが、現代ならもっと若い感じで映せたのではないかと、原ファンとしてはグチグチ嘆いてしまうのだ。
とはいえ、やはり美しいことは美しい。仲代達矢との、ちょっとしたキスシーンもある。私はタモリが吉永小百合ファンなのと同じタイプの原節子ファンなので、正直いらないシーンなのだけれども。
映画は、成瀬が後期によく撮ったホームドラマである。それを豪華オールスター・キャストでやっている。原節子と高峰秀子が共演している貴重な作品だが、あまり二人が深く絡むシーンはない。森雅之と高峰秀子が夫婦だったり、上原謙がチョイ役だったり、とにかくすごいメンバーだが、その中で団令子が、やはり独特の存在感を発揮している。
原節子は、いくら歳をとってもお嬢さんタイプの女性という役で原節子の従来のイメージ通り。ただ仲代達矢と大人の淡いロマンスもするというのが今までにはな役だ。しかし、母親を邪魔にする子供達の中にあって、一人だけ真面目に母親を守ろうとして、それは従来の原節子的である。
成瀬が時代に応じて、原に新しいタイプの役をさせようたというところもあるのかもしれない。原が普通に大人の男女の恋をすることが意外になかったので。そういう原などみたくないというファンもいるだろうし、私もそういうところがあったりするのだが、原はそういう役も本来十分こなせる役者だったような気もする。でも、それはむしろ日本的な男女の恋ではなく、フランス映画のような成熟した個の男と個の女の恋があさわしいと思う。勿論、そんな映画を当時日本に撮る監督はいなかった。ありえない妄想だが、カトリーヌ・ドヌーブのような原節子がちょっと見たかったではないか。
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