2011年02月09日

小津安二郎「お早よう」雑記



後期の小津映画については、ほとんど感想を書いたがこれだけ忘れていた。
小津映画は、最初に後期の有名な格調高い名作群から見出して、この「お早う」も期待満点だったのだが初めて見た時には驚きましたよ。
だって、いきなり子供たちが額を押されておならをプゥーとする芸を競うんだもの。佐田啓二がこれを見て笑って言うように「バカだなぁ」である。小津は実は結構庶民的な軽喜劇も初期中期にたくさんとっているけれど、後期小津しか知らなかったんで何だこれと思いましたよ。しかも、力んでもらしてパンツを汚して杉村春子母さんに怒られたりして。さらに、町内会の集金をめぐって近所のオバチャン連中の噂話が続き・・。
という映画で、最後まで本当に軽いコメディで何も起こりはしない。
この映画は、何件かの住宅をセットでつくって撮影されている。だから、構図は狙いがしやすく安定しているし、小津らしい画面を楽しむことは出来る。住宅の間の道から丘を見上げる絵など、小津の得意とするところだ。「東京物語」でも東山が子供と遊ぶ印象的なシーンがあった。
カラーで、小津独特の手づくりの色彩感覚も楽しめる。近所のオバチャン連中の着ている着物もなかなか色彩などよく考えられている。
小津映画の名子役、レギュラーの島津雅彦も相変らず自然体でかわいらしい。「浮草」で、若尾あや子と舞台で踊って、おひねりをあわてて集める姿もかわいかった。また、劇団が解散して、それを察して突然泣き出すという難しい(笑)演技もさせられていたっけ。
品のいい奥様の三宅邦子に、杉村春子、高橋とよ、長岡輝子といった個性派の小津レギュラーが近所のオバチャンでからむ。長岡は、ここでも他の映画の家政婦役でも、なぜか必ず「冨沢さん」だ。
杉村の母親役の三好栄子がすごい迫力だ。押し売りの殿山泰司をおどしたりしている。
泉京子と大泉滉が、外部からの異質な闖入者の役割。大泉はすっかりオバタリアン妻の恐妻家になってしまうが、この頃は成瀬の「めし」にも出たりしていた。
コメディとしてもとくにどうということはない。改めて観ると子供が給食費の徴集をパントマイムでやり、久我美子がトンチンカンな反応をするのが面白いか。あと、学校の低学年の教室でしりとりをして、「つ」なのに、子供が「月光仮面」とか「赤胴鈴の助」とか、全然関係ないことを言って女教師が困惑するところがとぼけていて笑えるか。
そして、ラストは最後までパンツを汚し続ける子供を杉村がしかりつけ、そのパンツを洗濯して青空のもとに干す堂々たるシーンで映画は終わる。
わりと小津も後期はきどった映画が多かったので、こういうのもつくりたくなったのだろうか。


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2011年02月08日

成瀬巳喜男「 乙女ごゝろ三人姉妹」感想

これはとても素晴らしい映画だ。
1935年。成瀬初のトーキー作品。なるほど、そう言われると随所にサイレント的な演出映像が出てくる。
冒頭に当時の浅草の風景がかなり長いこと次々に映し出される。そして次女のお染(堤眞佐子)が下駄の鼻緒をきらせたところに、青山(大川平八郎)が通りかかり助けてやる。ここからして映像と二人の表情だけ見ていれば全て分かるし、そういうサイレントで台詞なしでいい撮り方が身体にしみついているようで面白い。
三女の千枝子(梅園竜子)はダンサーをしていて一人だけ洋装で登場する。「妻よ薔薇のやうに」の千葉早智子もそうだったが、それが何とも新鮮な感じで魅力的だ。近所の悪ガキどもをほうきで追い払うあたりも、サイレント・コメディダッチだ。それにしても、そういったところがなんとものどかで醇朴な時代背景を感じさせる。無論、生活は苦しいし今とは違うイヤなところも多々あったのだろうが、この時代の成瀬映画をみると、どれもほのぼのしてしまうところがある。そして、成瀬は戦後よりもこの時代によくマッチしているようにも思う。好き嫌いだけで言うと、私は戦後の1950年代の名作群よりも、戦前戦中の成瀬作品が好きだ。
長女のおれん(細川ちか子)は家をピアノ弾きの恋人と飛び出してしまっている。さすがに細川ちか子は貫禄十分で、他の役者が少し素人っぽいところがある中、堂々たるプロの女優という感じ。浅草の不良と女ながら一歩もひかずにつきあっているりも妙に納得してしまう(笑)。恋人のピアノ弾きだけは不良でなくマジメな男である。男が無理な肉体労働をして血を吐いて、細川が驚くシーンもサイレント的。むしろ台詞なんかない方がいいくらいだ。
しかし、この映画で最も強烈な印象を残すのは、次女のお染(堤眞佐子)だ。門づけをして、三味線で夜の町の酒場で歌ってお金を得るつらい仕事をしている。イヤな客に邪険にされたり意地悪されるのを耐えいてるが、母親も鬼のようでつめたい。しかし、心に全く穢れがなくて優しい女である。ちょっと、フェリーニの「カビリアの夜」を思い出してしまった。この堤眞佐子という女優は、決してきれいではないのだけれど、確かに人のよさがにじみ出ている。仲間の後輩のかけだしの女たちを優しくかばい、妹が母親に禁じられているのにひそかに恋人をつくっているのも優しく見守る。ちょっとした市井の聖女風なのだ。成瀬の巧みな演出もあって、観る者はこのお染がどんどん好きになってしまう。
お染が、町で着物姿で座ってあんこ餅か何かを食べているところを、通りかかる男がモデルのようにカメラでうつし、お染が素直に嬉しそうにポーズを取るシーンもなんともいじらしくて微笑ましい。すると、お染の破れた足袋が映って動揺するところもサイレント調だ。というか、このシーンは実際に台詞もない。
最後、妹の恋人が不良どもにゆすられるところに、お染が駆けつけてはつきりカメラには写されないが刺されてしまう。それを手配したのが不良と関係のある姉のおれんなのだが、それでもお染はおれんが恋人と地方にいくのを上野まで見送りに行く。二人が去り、お染が三味線を取り落としたところで映画は終わる。お染が大丈夫だったのか凄く気になる。しかし、このラストは「カビリアの夜」のラストでジュリエッタ・マシーナが泣き笑いしながら道を歩くシーンに負けないくらい美しいと思う。
1950年代の名作に全然ひけをとらない素晴らしい作品で、個人的には代表作の一つにあげてもいいくらいに感じた。総じてこの時代の成瀬映画には、戦後にない独特のよさがある。
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2011年02月07日

成瀬巳喜男「お国と五平」感想

1952年。お国(木暮実千代)と五平(大谷友右衛門)がお国の敵討ちの旅をするロードムービー。
木暮実千代が抜群に美しく撮れている。溝口の「祇園囃子」も色気があって素晴らしかったが、こちらは本当に女性らしく「美しい」という感じ。こんなことばかり書いていて恐縮だけれど、成瀬映画は女優の美しさだけでも十分観る価値があると思うのだ。その点、小津の「お茶漬の味」はあんまりよく撮れてない。小津は女性を撮るのは上手じゃないし、そもそも女性が少し苦手だったのではないかしら。
そう言えば、お国の母親役が三好栄子なのだが、彼女までが気品ある女性に撮れている。それこそ小津の「おはよう」や「東京暮色」ではとんでもないババアで、そういう役だし彼女の持ち味なのだろうが、そういう三好まできれいに撮ってしまうのは成瀬マジックだ。
これは、「歌行燈」と違って、いかにも成瀬らしい時代ものだ。ラスト近くまでは、二人の旅を淡々と映してほとんど事件らしい事件も起こらない。ただ、二人の男女の微妙な内面を描き出すのだ。
成瀬らしい美しい雨のシーンで、五平がお国の敵の友之丞(山村聡)の関係に疑いを持って逆上しかけ、それをお国が諌めるところなど、いかにも成瀬的だ。大谷友右衛門の純情なまっすぐな目と、それを言葉では諌めながら五平の想いをしっかりと感じ取るお国。
友之丞(山村聡)が登場して、俄然映画は緊迫する。それにしても、山村聡はこういう卑劣な感じの男を演じさせたら天下一品だ。本当に素晴らしい。小津の「宗方姉妹」も見事だったけれど。
友之丞が五平に討たれる場面で言うことは、いちいちもっともだ。死にたくはない、二人の忠義は二人が既に愛し合っている以上ウソだ、自分は二人の幸福を願うから命だけは助けてくれ、と。武士道からすると卑劣だけれども、現代的には友之丞は一応もっともなことを言っているのが、なんだか面白いところだ。しかし、最後が余計で、五平に斬られて死にかけているところで、友之丞はお国と関係があったといい残すのだ。なんと卑劣ないやな男、そしてそれをやりきる山村聡は名演としかいいようがない。



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成瀬巳喜男「芝居道」メモ

戦時中の映画。映画中の芝居の演目に戦争ものが出てきて 「歌行燈」よりも戦争を感じさせる。長谷川一夫が苦労して芸の道をきわめる話。山田五十鈴が恋人で「鶴八鶴次郎」と似ているが二人の深いからみはなく、ストーリー自体も単純で成瀬らしい傑作とはいいがたい。
ただ、キャストは面白くて、古川ロッパが大阪人らしい雰囲気を出しているし。娘役の明るい人のいい花井蘭子も印象的だし、ロッパの敵役の志村喬もいい味出しているし、進藤英太郎も相変らずいい声だ。
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2011年02月06日

成瀬巳喜男「歌行燈」感想

戦時中の映画。成瀬映画としては、ちょっと異色な感じなのだけれども、どんどん引き込まれた。文句なく面白い。
泉鏡花の原作で、その独特な世界を映像化しているので当然普段の成瀬的な世界とはちと異なる。
花柳章太郎が宗山が謡うのを絶妙の間合いで合いの手を入れてリズムを崩してうたえなくさせるというのも、活劇調で、面白いと思うかつくりものめいているか感じ方が分かれるところかもしれないが、私などは素直に物語に入り込んで堪能した。そういう話だと思ってしまえばいいのだ。
花柳章太郎が店先で歌って糊口をしのいでいるが、その土地を縄張りにしている男に商売の邪魔だと怒鳴りつけられるが、花柳が歌に聞きほれてしまって、おまえちょっと待ってくれと男の方から和解を申し出るシーン。ちょっと通俗な時代劇的なのだけれども、成瀬の映像の撮り方や演出がうまいので、いいシーンだなと素直に感動できる。
成瀬らしいユーモアも随所に織り込まれている。花柳の父親と叔父の二人は終始一貫漫才コンビだ。また、花柳の目の前に自殺に追い込んだ宗山の幽霊が出てきて急にB級ホラーのようになったと思ったら、それが夢で明るい海辺だったというオチ。あるいは花柳が盲目のあんまに強くもまれて痛いのに、やはり盲目だった宗山のことを考えて、もっとやってくれとヤケ気味に言うシーンなども完全なギャグだ。
そういう、ちょっとほろっとさせたり笑わせたりする名シーン続きの映画なのだが、花柳章太郎と山田五十鈴が森の中で、舞のレッスンをする場面が夢幻的で美しい。溝口の「雨月物語」のようなところもあるが、成瀬的な個性の繊細な映像になっている。映画の内容に関係なく純粋に素晴らしいい場面だ。
山田五十鈴が最後の場面でも舞う。彼女は芸達者で、みごとなのだけれども、何しろ厳しい芸の世界の能がベースなので、さすがに大変だったのではないだろうか。
とにかく、泉鏡花の世界にどっぷり浸って映画的な興奮に身を浸しきった。私がみた成瀬映画の中でも一番好きかもしれない。
戦時中の映画なので、成瀬も余計な政治的の要素のない鏡花の世界で遊んだというところもあるのかもしれない。黒澤が「一番美しく」で戦争中の現実の女性たちを描きながら体制へのひそかな反抗をみせたり、溝口が普段は社会の最底辺の女性を描くある種反体制的な映画をとっていながら「元禄忠臣蔵」で日本的な道徳を賛美するような大真面目な映画をつくったりしてそれぞれの個性があって興味深い。成瀬が非現実的な物語の世界に向かったのも「らしい」気もする。どちらにしても、戦争が映画監督の内面に甚大な影響を及ぼしたのは間違いなく、とても興味深いテーマである。
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成瀬巳喜男「夫婦」メモ

1953年。上原謙と原節子が夫婦を演じた「めし」や「山の音」と同系列の作品だが、ここでは奥さん役が杉葉子。彼女は今述べたに作品にも出ていて、独特な存在感を発揮していた。ちよっと不思議な女優で、ものすごいベビーフェイスもできそうだし、とんでもないヒールも似合いそうだ。「山の音」などは善女なのか悪女なのか、よく分からない変った役で面白かった。
ここでは、倦怠期を迎えてはいるが、基本時には明るくてかわいい奥さん役である。多分、こういう味は原節子には出せないだろう。原節子は、日本的な男に頼って甘える女性というのが全然似合わないのだな、とこの「夫婦」を見てふと思った。
三国連太郎が若くてビックリする。また、役柄がコミカルな図々しい若い男なのである。三国が杉に何も言わずに視線を送り、杉も黙ってその意味を了解するシーンは成瀬映画の典型だ。
上原に、妻が好きなんだろといわれ。そうです、でもそれは純粋な憧れなんです、とか大の男の三国がいうところはなんだかバカバカしい。現実にはありえないのだけれども、そういう設定のコメディなのだ。
上原謙は天下の二枚目だけれども、成瀬映画では煮えきれないじれったい夫という役が多い。私もそんなに昔の映画を見ているわけではないので成瀬映画のイメージそのままだ。「残菊」でも情けない男役だったし。そういえば、小津の「宗方姉妹」でもはっきりしない優柔不断な男だった。そういうキャラクターなのか。それでも、どの映画でもそんなに悪い男ではないという印象を残す。不思議な役者だ。
そんなはっきりしない上原が、杉が妊娠した時だけは、きっぱりとおろせと主張するという無理な脚本だ。映画が進むと、夫婦の和解のための伏線だと分かる。全体に脚本は結構テキトーだ。
但し、その夫婦で子供をおろしにいくラストは風が吹きすさぶ成瀬らしい美しいシーンである。
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2011年02月05日

成瀬巳喜男「鶴八鶴次郎」感想

長谷川一夫と山田五十鈴のコンビなのだけれども、山田五十鈴が素晴らしすぎる。なんと当時21歳。気が強くて、頭の回転が早くて、苦労人でしっかりしていて、でも女性らしい繊細さがあって、優しいところもあって美しい。そういう女性を完璧に演じていて、長谷川一夫が単なる引き立て役に見えてしまうくらいだ。溝口の「祇園の姉妹」や「浪花悲歌」でもね19歳とは思えない舌を巻く演技をしていたが。こんな天才少女で、女性としての魅力も十分で、こうしてスクリーンごしに今見ていても、惚れかかってしまうやろ。当時のファンの騒ぎようは大変だったのではなぃだろうか。
何度も繰り返される芸をめぐる喧嘩のシーンの二人の丁々発止のやりとりが本当に見事だ。本当に芸に真剣そのものの二人のひたむきさと、その底に流れる二人の男女が惹かれあう感情がないまぜになって、真実があって美しくて、なおかつコミカルである。
脇をかためる、藤原釜足、大川平八郎、三島雅夫といった役者も、とてもいい。特に藤原釜足は当たり役ではないかしら。
但し、女のことを思って男が身を引くラストはどうだろう。美談だけれども物足りない。この成瀬映画では、長谷川一夫が零落してドサまわりをして苦労して、結婚している山田五十鈴とコンビ結成して成功するというストーリーだ。しかし、もし溝口だったら、山田五十鈴が結婚しても芸の道と長谷川一夫が忘れられずに、夫を捨ててスキャンダルで芸の表の世界から追放されて、二人で零落しながら芸を続けて身を滅ぼすというような映画をとったのではないだろうか。でも、そんな映画を成瀬はとりそうにないけれども。
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成瀬巳喜男「女人哀愁」感想

1937年。古い映画だが、成瀬映画特有の流麗なカメラワークはこの頃からで、入江たか子が子供に宿題を聞かれるのだが、何度も邪魔が入ってしまう一連のシーンは見事だし、成瀬らしいユーモアがある。
私はこの時代の成瀬映画の雰囲気が好きだ。成瀬にこの時代があっているのだろう。ただ、入江たか子が嫁入り先の家で文金高島田の和服姿の芸者のようあ姿で普通に家事をしているのにはさすがに驚く。
入江たか子が、ものすごく大人しくて従順な旧式の女性を演じて、家柄のいい家に嫁入りして、我儘で冷たい旦那の家族に女中のようにこき使われる。しかし、実は入江たか子はしっかりした考えの持ち主で、最後にブチキレるという話。最後に、ひどい家族たちに颯爽とものいいしてへこませるシーンで観るものは胸がすく思いのする仕組みだ。急に自分勝手な妹は恋人の愛に気づき入江に素直に従い、言われ放題だった夫も理路整然と言い負かし、卑怯な儀父母は黙って逃げてゆく。水戸黄門が最後に証文を出すような快感のある映画である。
冷静に考えると、そんなに賢い女がそれまでの境遇に黙って耐えているわけがないのだけれど、この際、そういう細かいことはいわないでおこう。成瀬は、昔風に周りに従順にしたがって耐え抜いていながら、実は男よりも聡明な女性を描きたかったのだろう。成瀬映画の女は皆魅力的だけれども、このつくりものめいた映画でもわかるように、実は現実にいそうな女ではない。成瀬が、そうあって欲しいという女性を理想的に表現しているのだ。ある意味、男の勝手なおしつけなのだが、それが成瀬映画の面白いところだ。そして、成瀬はたいてい男が女に打ち負かされること、男よりも女が優れていることを望んでいる。

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成瀬巳喜男「杏っ子」メモ

1958年。映像は、「山の音」と似た感じの深々とした美しいモノクロである。そういえば両方とも山村聰が出ている。
室生犀星の原作で、確かにあの時代の小説の臭いがプンプンして今観るとちょっと違和感覚えるところもある。
漆山亮吉(木村功)が屈折したダメ男を好演している。成瀬は本当にダメ男(と立派な女)を描くのが好きだ。表面的には木村がどうしようもなくて、物分りのいい有名小説家の平山平四郎(山村聰)とその娘でダメ夫に耐える平山杏子(香川京子)を好意的に描いているようでそうでもない。
亮吉は才能もないのに小説を書く事に固執していて、自分を全く認めない平四郎や杏子を逆恨みする。事実関係としては、亮吉が明らかにダメで、平山父娘には何の非もない。
しかし、平四郎は小説家らしく理解があって物分りがいいが、実は亮吉をはっきり見下している。杏子も夫を支えようとしながら、亮吉を全然尊敬してはいない。どこかで、立派な「父」とダメな「夫」を比べている。
つまり、平四郎は立派な人間だが、残酷で鈍感なところがあり、杏子もファザコン気味で、意識的には優しいが父親以外の男をどこかで見下しているのだ。そういうのを亮吉は敏感に感じ取って、苛立ち自暴自棄になるのだ。そういう意味では、どんな善人を演じてもなりきれないところがある山村聰と、美しくて優しそうだがどこか澄ましていて冷たいところのある香川京子は的確なキャストなのかもしれない。
木村功が酔って平山家の庭をぶちこわし、平四郎が一瞬憤怒の表情をみせながらも、結局優しい建前的な言葉を木村にかけるシーンが、この映画を象徴している。木村がどうしようもなくて、平四郎がよく出来た人なのだけれど、実は平四郎の方がいやらしかったりする。そして、夜の庭の美しい映像。
映像の美しさに反して、そういう人間の微妙ないやらしい心理がにじみ出てくる成瀬らしい映画だとは思う。原作のせいもあるのだろうが、個人的にみていてあんまり楽しい映画ではなかった。
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2011年02月04日

成瀬巳喜男「妻よ薔薇のやうに」感想

主役の千葉早智子がとても魅力的。成瀬は女性をきれいに撮る監督だけれども、これもその特徴がよく出た作品だと思う。
千葉がいきなりモダンな洋装で登場するのだが、この時代の洋装には不思議なかっこよさがある。小津の作品の原節子もそうだけれども。しかし、千葉は普段は和服姿である。こちらもよく似合ってきまっている。
そして、役柄上も千葉の演じる君子は、洋装と和装を両方こなすように、伝統的な女性と新時代の両方の境界線にいる女性である。正妻の悦子は、独立心もあり自分の世界をもっていてマイペースだ。和服を着ているが一応は新時代タイプだ。一方、父親の俊作が一緒に逃げたお雪は、男に献身的に尽くして優しい古い伝統的なタイプの女性である。
君子の目を通じて二人が客観的に比較される。実母も勿論普通に愛しているが、お雪のけなげな姿と父親との仲のよさをみて、冷静に父親は彼女がいたほうが幸福かもしれないと考える。
おじさん役の藤原釜足は、「世間」を象徴する存在で、当然そうは考えない。正妻のもとに戻るのが当り前で、妾とさっさと別れるよう強く主張する。ところが、君子は実の娘であるにもかかわらず、とても冷静で客観的な判断をくだすのだ。
俊作は、世間的な落伍者でダメ男なのだが、人間味とやさしさはある。そして俊作が娘の君子に対して「自分はおかあさんが苦手なんだよ」という言葉が全てを説明している。成瀬も、優しいお雪の姿を好意的に、冷淡で心を開かない悦子を否定的に描いている。
それに対して、娘の君子は、母親的な独立心や現代性を持ちながら、お雪的な女性的な優しさも兼ね備えている。両者を止揚する現代性と伝統性を兼ね備える理想的な女性像を成瀬は描きたかったのだろう。君子が、洋装も和服も両方見事に着こなすのはその象徴だろう。
成瀬が描きだした数多い魅力的な女性の中でも、ここでの千葉早智子は素晴らしい。話の深刻な内容に関わらず、とても楽天的な希望に満ちた雰囲気をもつ映画だ。
そして、君子の恋人は、ちょっと頼りないが現代風のよい男だ。父親と、それにはない新時代の要素を兼ね備えている。この二人が結婚して、倦怠期を迎えると「驟雨」の佐野周二と原節子の夫婦になってもおかしくない。
それにしても、成瀬はこの時代にみごとにはまっている。成瀬の場合、映画の出来不出来に関係なく時代を遡れば遡るほど、時代に適合しているので、どの映画も見ていてとても心地よいのだ。
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2011年02月03日

溝口健二「元禄忠臣蔵」雑記



なんせ、溝口の忠臣蔵なのだから楽しみにして観た。冒頭はいきなり松の廊下である。このシーンはいい、溝口らしい長まわしで、刃傷沙汰の騒乱ぶりが迫力満点で伝わってくる。
が、その後意外に退屈だ。これは、ものすごく硬派で真面目で格調高い忠臣蔵なのだ。討ち入りのシーンもない。溝口は、例によってのめりこんで忠臣蔵を徹底的に調べて史実通りにしっかり再現しようとしたのだろう。それは溝口らしい良さだとは思う。でも、忠臣蔵という話は真面目にやったって面白くもなんともないのだ。
なにより大石蔵之介役の4代目河原崎長十郎がよくない。私は昔の役者を全然知らないし、多分大石をやるくらいだからエライ役者なのだろうが、率直な感想を思いきって述べてしまうと、この人、悪代官面なのだ。(あーあ、いっちゃった、ごめんなさい)さらに、いちいちかっこつけていて、言うこととなすことウザいのだ(あくまで個人的な感想に過ぎません、ごめんなさい、ごめんなさい)。溝口がこういう大石蔵之介にしたのも、当然従来のイメージ(と言っても当時のイメージもよくは知らないけどさ)を新しく塗り替えて、通俗的でない蔵之介にしたかったのかもしれない。でも、何度もいうけど通俗的でない忠臣蔵なんでほとんど自己矛盾に近いのだ。少なくとも私はそう思う。
例えば、蔵之介が世間を韜晦するために、芸者遊びをしてしこたま酔っ払う有名なシーンがあるじゃないですか。いいシーンですわな。あれは、もう蔵之介が大義を忘れ果てたくらいにバカ騒ぎするのがいいんじゃないですか。それが実は・・ということで。ところが、ここの蔵之介は全然はじけてないのだ。役者がそもそも全然そういうキャラじゃない。忠臣蔵に必須の通俗要素をそぎ落としたら意味ない。もし史実に忠実に格調高くやりたいなら、他のもっとシリアスな題材をやればいいのだ。
あと、音楽が深井史郎で、いきなり西欧風の管弦楽が忠臣蔵の冒頭で流れるのもちょっと変っている。現・NHK交響楽団の演奏で、指揮は何と山田和男(山田一雄)なんでちょっとビックリする。
この映画は、新藤兼人が建築監督を担当していて、「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」の中でも証言している。何でも冒頭の松の廊下のセットは当時を忠実に再現したそうだ。そういうこだわれはすごいと。ただ新藤は、全然この忠臣蔵を買ってなくて、そもそも溝口には大掛かりな歴史ものは似合わないという考え方のようだ。「楊貴妃」とか「新平家物語」とか。そして、溝口の本領は男女の世界、特に社会底辺の女性をリアルに描き出すことにあると。その点については私も、また多分誰もそれほど異論はないのではないだろむうか。但し、私は明らかに失敗作の「楊貴妃」とか好きだけれどね。歴史ドラマが、結局は森雅之と京マチ子の男女ドラマになっちゃっていて。歴史ものでも溝口らしさが出ていれば私は好きなのだけれど、この忠臣蔵はさすがにちょっと擁護するのは苦しい。
でも、この映画でもやはり女性が出てくるシーンはなぜかちょっと活気が出ていい。瑤泉院に蔵之介が討ち入りをを言わずに別れに行くシーンの女性二人の落胆ぶり、怒りっぷり。翌日、討ち入りを遂げたことを文書を読み上げるシーンの興奮ぶり。とても溝口的である。
さらに、おみのの高峰三枝子が、恋人と会わせてくれと懇願するシーン。急に映像が活き活きして「溝口映画」になる。全編こんな調子で撮って欲しかったと、私などは思う。
おみのが蔵之介に「女心がお分かりではありませぬ」とか何とか言うのだが、これってこの映画の的確な蔵之介批判、というよりは溝口忠臣蔵の退屈さに対する、もっともな批判のように私などは聞こえてしまうのだ。
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2011年02月02日

木下恵介「楢山節考」感想



いきなり黒衣が登場して口上を述べる。「楢山節考」という「伝説」についての物語だと。そして、浄瑠璃の音楽と語りが流れて、画面上で舞台のように幕が開けられる。実景ではなくセットで演じられ、画面上で舞台転換も見せる。つまり、実話ではなくてあくまで劇、物語だという印象を与えるのだ。この物語の内容がショッキングなものなので、ひういう演出をした木下のセンスは素晴らしいと思う。
但し、ラストの部分で突然実写になり、駅名の「姥捨て」が映し出される。つまり、これは実際の話だったのかもしれないとと暗示されるのだ。そのショックと観後感がたまらない。こういった木下の演出の計算は実に巧みだと思う。
そして、セットが人工感を強調した鮮やかな色彩をほどこされていて、とても美しい。照明も舞台のようにスポットをあてたりする。浄瑠璃の音楽も効果的。話の内容のどうしようもない悲惨さとの対照をここでも緻密に設計している。
田中絹代が素晴らしい。気丈夫で気高くて優しい老女になりきっている。自分で歯を折るシーンがあるが、その為に実際に何本か抜歯して撮影に臨んだそうである。溝口の「西鶴一代女」でも、わざと醜く見えるような化粧をほどこしていたが、大変なプロ根性であり、この時代の映画はどれもとてつもなく「マジ」でつくられていた。田中といえば溝口だけれども、この木下作品での田中も実に格調が高く凛としていて見事だ。「カルメン」の笠智衆や「二十四の瞳」の高峰秀子もそうだが、その役者の本質的な良さを素直にそのまま生かすのが、木下はうまいと思う。
望月優子も素晴らしい。大らかな心の優しさ明るさと悲しさのようなものがよく出ていて、非現実的な役なのだけれども、望月が本当にそういう女性のように思えてしまう。
キャストを見るまで気がつかなかったが、又やんは宮口精二、その倅は伊藤雄之助である。見直したら確かにそうだ。
それにしても、
楢山の雪の中の田中絹代の壮絶な美しさはなんなのだろう。「楢山節考」が伝説であれ実話であれ、みる人間の心の奥深いところに働きかけてくる。
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溝口健二「残菊物語」メモ



1939年。菊之助(花柳章太郎)とお菊(森赫子)による純愛、悲愛劇。
これを観る前に新藤兼人の「ある映画監督の生涯」でみて、二人でスイカを食べるシーンが何とも印象的だった。男女の甘美な感じがよく出ていて溝口的である。それを、お得意のワンシーンワンカットでやるので、役者も集中力を高めてやらざるを得ず、本当に好きあっているような感じが出るのだろう。そもそも、二人が最初に登場するシーンで、道を歩きながらお菊が菊の助に芸の意見をさりげなくする長回しのシーンからしてよい。溝口的な極度な過激さはないけれども、気持ちよく見られる恋愛ものだ。
他にも、迫力あるワンシーンワンカットの連続である。菊之助がお徳を探して、鉄道をずっと探し回るシーンなどは、その特性がよくでた、とても映画的なシーンだ。
そう言えば森赫子は新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」にも出ていた。サングラス姿が印象的だった。
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成瀬巳喜男「放浪記」メモ



高峰秀子が田舎くさい野暮ったい娘という感じで、かなり役をつくって演技しているのが印象的。顔の表情のつくり方が面白い。
後期の成瀬映画で最高のヒールの草笛光子も登場。高慢ちきで生意気で気が強い女をやりきっていて素晴らしい。高峰秀子と和解して珍しいと思うのだが、結局高峰の顔を思いきりひっぱたく。「女の座」とこれと高峰は二回も叩かれて災難だ。
林芙美子の原作で、この映画についてはストーリーが面白い。ただ、この時期の巨匠たちの映画は、当時の文学を原作にしたものだと時代を感じさせることがjjある。成瀬の「浮雲」は素晴らしい映画だが、ストーリに違和感を覚えるのは林の原作も関係しているのかもしれない。溝口の「お遊びさま」も、映像や役者はいいのだが、谷崎の原作に違和感を感じる。小津の「宗方姉妹」は大仏の原作だが、全然脚本に共感できない。むしろ、小津と野田オリジナルの、どうでもいいような家族劇が古くならないから不思議だ。
あの時代の日本映画は全然古さを感じさせないし普遍的な輝きを今も放っていると思うのだが、当時の文学に感じる「時代」のことを考えると、当時の日本映画は実は奇跡なのかもしれない。
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2011年02月01日

溝口健二「夜の女たち」



これは実に溝口らしい凄い映画だ。田中絹代が街娼にまで身をやつす役なのだが、その迫力が半端ではない。「西鶴一代女」でも田中はやはり街娼で、それもやりきっていたが、こちらは設定が現代で生々しく勢いが尋常ではない。
溝口のワンカットワンシーンが、いつもにも増して効果的である。角田富江が町の不良のなぐさみものにされ、それだけで角田が純情そのものの雰囲気なので見ていて痛々しいのだが、角田が男にすがるところに、不良の女達がおそいかかって身包みはがして追い出すシーンなど、映画だと分かっていてもゾッとしてしまう迫力だ。田中絹代が、警察の施設から塀を越えて逃げ出すシーンの緊迫感。
田中が、普通の未亡人から街娼に落ちぶれて、初めて画面に登場するシーンの変わり身の凄さ。完全に「夜の女」になりきっていて笑ってしまうくらいだ。警察で婦人記者が街娼の女性の地位について正義漢ぶって熱弁を振るうところに、田中が「オバチャン、何言うてんねん」とか何とか啖呵をきるシーンも溝口的だ。溝口はそういう女性の生態を知り尽くしていながら、外部からきれいごとをいうのではなく、その内部のありのままを描くことで問題提起する。いや、問題提起するというよりは、そういう世界の悲惨さをよく理解しながら、そのまま突き放して描いて、とことん愛す立場とでもいうか。
何といっても、ラストのシーンが素晴らしい。すっかり自暴自棄になった角田富江に対して、田中絹代が自分の体験から心の叫びをして、街娼という身分の悲しさを叫ぶ。婦人記者の主張との対照。
さらに、それに納得した角田を田中が連れ出そうとするところに、足抜けようとする田中に対して街娼仲間が集団リンチをする迫力、それにいたたまれなくなって田中を救う街娼達、角田が田中にかけより二人でやっとの思いでその場を去り、そこに残される街娼達が動物のようにうずくまる。そして、カメラが上方へパンアップすると、聖母マリアの絵が映し出される。地獄絵図を見守るマリア。
これは溝口が撮ったシーンでも、最も壮絶で美しいシーンの一つではないだろうか。ベルイマンの「処女の泉」のような極限的な演出である。しかし、世界広しといえども、こんなものを撮れるのは溝口だけなのかもしれない。
ちょっと特殊な作品だが、名作とされる「雨月物語」や「西鶴一代女」にも負けない傑作だと個人的には思う。
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木下恵介「二十四の瞳」感想



この時代には、小津、溝口、黒澤、成瀬といった強烈きわまりない個性の監督が芸術的な映画を制作して競い合っていた。全員一癖も二癖もあるが、その中で木下には彼らのようなアクの強さはないが自然な大人の風格のようなものがある。この作品も題材は、芸術的というよりは通俗と取られかねないが、全然通俗になっていない。
小豆島の美しい自然が全篇にわたって流れるが、普通の撮り方なのだが、とても明晰な感じのする映像である。人物も、妙な小細工をしないが、しかしきちんとした意図のもとにしっかり撮られている。きちんとした意志の力で貫かれた古典的な透明感のある映像だ。
人物の描き方も、それぞれの個性に曖昧なところがなく、明確でありながらきめ細やかである。高峰秀子や笠智衆も、その個性が自然にいきていると思う。彼らが他の巨匠たちの映画に出たとは、また違う魅力がある。
反戦の考えが盛り込まれているのだが、それも妙に理屈っぽくなったり、逆に感情に流されていない。高峰の口を通じて、ごくごく常識的な普通の考え方が伝えられている。あっさり、そういう問題を明快に処理していて、つべこべいわないので説得力がある。
島の生活の苦しさも、淡々と、しかし着実に描かれていて胸を打つ。特に、まっちゃんはかわいくてかわいそうでたまらない。最後に、同窓会では井川邦子として、すっかり別嬪さんになって現れるので、ちょっとホッとするのだ(笑)。
戦争という時代背景もあり、とにかく次々に簡単に人が死んでいく映画である。映画をも見続けて、その流れを追っていくと、自然に世や人の無常を感じられる仕組みだ。時々挿入される、文字語りも効果的である。
ごくごく普通のようで、実は大変強靭な映画だと思う。
木下恵介はジャズで言うと、デューク・エリントンのような存在なのかもしれない。大人な音楽でエキセントリックなところはないが、実に深くて高度ない楽的な理論・技術の裏づけがある。小津、溝口、黒澤、成瀬といった巨匠達と比べても、それに負けないか、あるいは実は一段上の芸術家なのではないかと思わせるようなところがある。
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成瀬巳喜男「娘・妻・母」雑記



1960年。「秋日和」と同年公開の映画で、ここにも原節子が出ているのだけれども、さすがに少し歳をとった感じがしてしまう。成瀬は原節子のことを実にきれいに撮っているのだけれども、これは役柄の設定なのか、初期のカラーがうまくいってないのか、髪型や衣装のせいなのか、「秋日和」の方がいい。さらに、翌年の1961年の小津の「小早川家の秋」では、さらに逆に若返った感じがする。原は、この撮影当時40少し前だと思うので、微妙な年齢なのだが、現代ならもっと若い感じで映せたのではないかと、原ファンとしてはグチグチ嘆いてしまうのだ。
とはいえ、やはり美しいことは美しい。仲代達矢との、ちょっとしたキスシーンもある。私はタモリが吉永小百合ファンなのと同じタイプの原節子ファンなので、正直いらないシーンなのだけれども。
映画は、成瀬が後期によく撮ったホームドラマである。それを豪華オールスター・キャストでやっている。原節子と高峰秀子が共演している貴重な作品だが、あまり二人が深く絡むシーンはない。森雅之と高峰秀子が夫婦だったり、上原謙がチョイ役だったり、とにかくすごいメンバーだが、その中で団令子が、やはり独特の存在感を発揮している。
原節子は、いくら歳をとってもお嬢さんタイプの女性という役で原節子の従来のイメージ通り。ただ仲代達矢と大人の淡いロマンスもするというのが今までにはな役だ。しかし、母親を邪魔にする子供達の中にあって、一人だけ真面目に母親を守ろうとして、それは従来の原節子的である。
成瀬が時代に応じて、原に新しいタイプの役をさせようたというところもあるのかもしれない。原が普通に大人の男女の恋をすることが意外になかったので。そういう原などみたくないというファンもいるだろうし、私もそういうところがあったりするのだが、原はそういう役も本来十分こなせる役者だったような気もする。でも、それはむしろ日本的な男女の恋ではなく、フランス映画のような成熟した個の男と個の女の恋があさわしいと思う。勿論、そんな映画を当時日本に撮る監督はいなかった。ありえない妄想だが、カトリーヌ・ドヌーブのような原節子がちょっと見たかったではないか。
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