2011年01月29日

小津安二郎「小早川家の秋」雑感



松竹の小津が唯一東宝で監督した作品。東宝のスターにまんべんなく総出演させているせいか、作品全体の凝集力、テーマの統一性はやや低いと感じる。他の小津の後期の名作郡と比べると、やや印象の薄い映画である。
いきなり冒頭から森繁久彌が登場するが、これが全然小津の様式感とマッチしていない。まるで、駅前シリーズや社長シリーズのキャラクターのまま演技している。余計な細かい動きや小細工が多すぎる。この映画を最初に見たときから、私はそう感じて、ちょっとイラッとしたのだ。
それが、今回ウィキペディアを読むと、森繁久彌は「小津をへこましてやろうという闘争心剥き出しだった」そうである。いやはや、そういうのって画面からハッキリ伝わるものなのですね。小津も、多分諦めて森の好きなようにやらせたんだろうなという感じの映像である。そんな森も原節子にキッパリ振られていいキミである。
中村鴈治郎が老いてなお妾役の浪花千栄子のところへ入り浸るのだが、その辺りの描き方は流石に見事だしいいと思う。その物語だけに専念して描いたいたらと思うのだが、なんせ他にも色々な話題が断片的に登場しすぎなのだ。
中村鴈治郎が孫とキャッチボール際の奇妙奇天烈な投球フォームが面白い。
団令子が浪花千栄子の娘役で登場する。最初に来て出てくるドレスがなんだかすごい。成瀬の「女が階段を上る時」では、中村鴈治郎を誘惑して銀座でバーを開いていたが、ここでもミンクのコートをねだったりしている。やはり強烈な個性の役者だ。
原節子と司葉子が、コンビのように何度か断片的に画面に登場する。小津的な不自然な同じ動きで。この二人が出てくるシーンは、独立したシーンとしては見ものなのだけれども、勿体無い使い方だ。司葉子の関西弁は、ちょっと下手くそかも
ちなみに、「浮草」に宮川カメラによって小津では唯一の俯瞰シーンがあると書いたが、実は原節子と司葉子を思いきり俯瞰で映しているシーンがあった。それと似た感じで思い出したけれど、「東京物語」の熱海で笠と東山が海岸で座るシーンも俯瞰だった。競輪のシーンが俯瞰になるのはこれは仕方ないけれど。探せば、もっとあるのかもしれない。
ラスト近くで笠智衆と望月優子が川で仕事をする夫婦で登場する。「お茶漬の味」でもそうで、望月にセリフもほとんどなかったが、ここでは重要な役割を果たしている。
その二人も登場するラストの中村鴈治郎の葬儀のシーンは、小津もかなり力を入れていて、かなり小津的な出来栄えになっている。但し、黛敏郎の音楽は、あまり小津には合わないと思う。「おはよう」でも担当していてあれはそれなりにキャラクターがあっていたが、やはり小津の音楽は斉藤高順で決まりだ。
原節子と司葉子が二人とも黒の喪服の着物の川辺のシーンはとてもいい。「麦秋」のラストの原節子と三宅邦子のシーンを何となく思い出してしまう。原は若い方の役から年長の方に変化するが。
それ以外にも煙突からの煙、黒の喪服で全員で橋を渡るシーン、笠と望月の会話、川辺の風景や烏など、このラストの映像詩を観るためだけでも価値があるかもしれない。
というわけで、ホームではない東宝でとったために色々な違和点もあるが、部分的にはみどころの多い作品である。




posted by rukert | Comment(2) | TrackBack(0) | 映画

黒澤明 「一番美しく」感想



戦時中につくられた映画。背景が気になるが、ウィキペディアによると、敗戦濃厚な戦争末期に撮られたそうである。当然、当局の戦意高揚の意図にそっているが、黒澤は「敵国」アメリカのスーザの曲を使うなど、ささやかな抵抗も示しているようだ。検閲で気がつかれなかったのだろう。あるインタビューでこれは「反戦映画ですよね?」の問いに、明言はしなかったものの、そういう「含み」もあった映画だと認めているそうである。黒澤が自作の中で「一番可愛い」といい、木下恵介は黒澤作品の中で一番好きな作品としてあげているとのこと。
当然、そういう政治的背景や検閲の問題は重要だけれども、そういう部分を全てカッコに入れて見た場合にも、なかなかの映画である。若い女性だけが大人数集合した独特の世界。男だけでは絶対に出ないものを巧みに映像で描写している。
とにかく、全員が一体となって協力しなければいけない状況下で、一人一人の女性が健気にふるまい、結束して目標に立ち向かう。そして全員明るくて活気に満ちている。「渡辺さん」という強烈な個性のリーダーがいて、彼女たちを優しく大きな包容力でつつみこむ寮母の水島徳子(入江たか子)がいる。そういうある種メルヘンティクなまでに、善意の人間性だけで成り立つ女性集団を黒澤は描き出している。黒澤らしいヒューマニズムだ。
たまたま、戦時中の女性たちが題材だが、黒澤はそういう人間を描こうとする監督だった。「赤ひげ」の強烈なヒューマニズムもそうだ。それは、恐らく現実世界にはありえないのだろうが、そういう美しい人間性の幻の世界に対する率直な憧れのようなものが黒澤にはある。むしろ、そういう理想主義的な部分は、当時の他の日本の映画監督にもなかったかもしれない。それを「甘さ」と解釈する向きもあるかもしれないが、私は黒澤のそういうところが好きである。
もっとも、この映画で彼女たちのモティベーションになっているのは「お国のため」という名目である。だから、冷徹に批判するならば、彼女たちの意図は純粋でけがれがないけれども、戦争に加担してしまっているという見方になりかねない。しかし、そんな見方は実にくだらない。戦争について、客観的な視座で捉える必要もあるが、それとは別に当時の人間の生身の立場にたって考える必要もある。むしろ、その方がよほど大切だ。そういう意味では彼女たちの姿は「一番美しい」のである。
先ほど紹介したインタビューとの関連で言うと、この映画は単純な「反戦映画」などではないと思う。黒澤がはっきりこたえずに「含み」もあると答えたのはね決して誤魔化したのではなく正確な答えだろう。なぜなら、黒澤は彼女たちの置かれた状況とそれに立ち向かう姿を心から愛して描いていて、それは皮肉でもなんでもないから。
恐らく「反戦」と解釈するのは、そういう状況に彼女たちを追い込んだ戦争に対するプロテストという意味だろう。しかし、黒沢はそんな単純な意図でこの映画を撮っているのではないような気がする。戦争に限らず、人間は自由に正しく行為できる状況では暮らしていない。それは、戦争中でも平和な今でも同じだ。そういう中で、人間がどう「美しく」生きられるかということを黒澤は考えているのではないだろうか。
これを知的な理解で一ひねりした「反戦映画」だと解釈されたりするのは、黒澤にとってはあんまりうれしいことではなかったような気がする。だから、黒澤のはっきりしない応えかたになるのだ。映画は、表面的な批評や浅い解釈をはるかに超えている。もし映画に価値があるとしたら、恐らくその点にしかない筈だ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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