2011年01月28日

小津安二郎 「浮草」雑感



小津と宮川一夫NHKが唯一組んだ作品。BSで宮川一夫ドキュメンタリー番組でも、この映画のことを取り上げていた。
宮川は少年時代に、陽が射す縁側に置いてあった金魚鉢に薄墨を流し込んだ際にきらめいた金魚の色彩が忘れられなかったそうである。そういう原体験があり、赤へのこだわりがあり、同じく赤が好きな小津と出会う。この「浮草」では、ほとんどあらゆるシーンに赤が組み込まれている。何度も映って印象的なのは、杉村春子宅の庭に咲き誇る赤い花だろう。
また、小津映画には少ない激しい雨のシーンは宮川の影響ともいえる。中村鴈治郎と京マチ子が、激しい雨の中で向かいあう軒先で激しく言い合うシーン。確かに、美しい映画的な場面なのだけれども、なんとなく小津的ではない。静的形式感の小津映画に、溝口のドラマティックな要素が、宮川を通じてながしこまれたということなのだろうか。
さらに、若尾文子と川口浩が逢引するシーンで、川口の顔が暗く隠れるのも小津映画では珍しいそうである。確かに妙に暗示するような映し方などしない小津映画では珍しい。
全て私は、「浮草」を見返してから、宮川のドキュメンタリーをまた見てみたのだが、確かにこの二つのシーンとも、とても印象的であると同時に小津的でない違和感も感じたのだ。特に後期の小津は、常に静的な絶妙な均衡が画面を常に支配しているのだが、そこに宮川が亀裂をもたらして動的な緊張をもたらしているとでもいうか。この「浮草」は、後期小津には少し珍しい「ドラマ」なので、宮川カメラがあっていたのかもしれない。
きわめつけは、冒頭あたりで旅一座が、チラシを配るために町をねり歩くシーン。はっきり俯瞰カメラである。これは、ローアングルの小津映画ではほとんど唯一だそうである。さらに、笠智衆が楽屋を訪れるために道を歩いてくるシーンも俯瞰気味で珍しいとのこと。
それと、余計なことだが、宮川は女優を美しく映すことでも定評があり、それはやや上からのアングルであごの線がはっきりするからだという。私は、小津映画と成瀬映画を見ていて、どうも成瀬映画の方が女優がきれいに撮れていると感じていたのだが、小津のローアングルもそう感じる理由の一つなのかもしれない。
映画自体は素直にとてもよい。ラスト近くの中村鴈治郎、杉村春子、若尾文子、川口浩のシーンで不覚にも号泣してしまった。普通によく描けている。だいたい、後期小津で「泣く」映画など基本的にありえないのだが、後期にこういう作品が残っているのも、なんとなく嬉しい。
中村鴈治郎と杉村春子のからみなども、二人とも実にうまい。杉村も抑制気味の演技の中に全てを表現していて見事だ。後期小津のホームドラマではなくて、旅一座の人間の物語なので、役者も自由に演技したり表現したりする余地のある作品になったのかもしれない。
そして、京マチ子も若尾文子も普通に美しい。女優が「女優」であった古きよき時代である。
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木下惠介「カルメン故郷に帰る」感想



最近、昔見た古い映画―中には細かいところはすっかり忘れてしまったものも多い―を手当たり次第に見ているのだけれども、結果的に亡くなった高峰秀子の追悼のようになっている。私はどちらかというと原節子派なのだけれど、やはり日本映画に対する全般的な貢献や日本の女優らしさという点では高峰秀子の方よとるべきなのかもなのかもしれない。もっとも、二人は全然個性が異なるので比較しても無意味だけれども。
1951年の作品。国産初のカラー映画である。この年には、小津の「麦秋」、黒澤の「白痴」、成瀬の「めし」も生まれていて、とんでもない年である。まさしく、日本映画の黄金期だ。どうしてこの時代の映画は、どれもこれも例外なく素晴らしいのだろう、。
ほとんど、屋外ロケで浅間山が美しい。木下の人物の描き方も、全く曖昧にところがないがそれでいてキメ細かでもある。どの人物も、悪役を含めて気持ちよいのだ。
この映画から受ける感触に、どこかしら覚えがあると思ったら、ジョン・フォードの西部劇だ。広々とした山の光景、馬が働き、牛が放牧される。そして登場人物はみんな例外なく人の良さを残している。都会で働くカルメンを含めて、都会人ではなく、「西部劇」に登場する人たちのようだ。
笠智衆の校長がとてもよい。見事な一本背負いを披露して悪役の丸十を投げ飛ばしたりするのだが、その後に「教育者たるワシが、しかし後悔はせん」とか何とか言う、全てそんな調子で、のどかそのものなのだ。笠智衆の真面目で不器用で実直な個性がすごくいきている。
他の役者のキャラクターも分かりやすい。佐野周二の盲目で心が美しい村の音楽家、それを馬をつかって女手一人で働いて支える聡明で美しい妻の井川邦子。真面目で爽やかで純情な高校教師、佐田啓二。悪役の丸十もその手下もどこか憎めない。
カルメンの姉役の望月優子が、人懐っこくて人がよくて明るくて田舎の人のいいお母さん的でハマリ役である。成瀬の「晩菊」でも素晴らしかったが、この時代の個性的で魅力的な貴重なバイプレイヤーの一人である。
高峰秀子は、自分では芸術家と言っているが、実は都会でストリッパーをしている。と、ウィキペディア等、どこにもそう書かれているのだが、そういう設定なのだろうか。坂口安吾のエッセイなど読むと、あの時代にはレビューダンサーというのがいて、銀座などのダンスホールでセクシーな衣装で踊っていたそうだ。それは、一応いわゆるストリッパーとはちょっと違うと思うのだけれども。カルメンも友達も、自分たちの踊りを「芸術」と呼んでいるので、彼女たちの仕事は、東京のダンスホールの踊り手なのではないだろうか。よく分からないのだけれども。
とにかく、高峰秀子が伸びやかな健康美を惜しげなく披露して、浅間山をバックにダンス仲間の小林トシ子と踊るシーンは、なんとも不思議で美しくてよい。
田舎の人間たちも、彼女たちを尊敬するわけでもなく拒否するわけでもなく、憧れるわけでも見下すわけでもなく、彼女たちの存在と踊りを楽しんで逞しく受け入れてしまうのだ。日本の田舎は意外に排他的ではなくて、外国などの異質な文化を寛容に受容する。実際に東北の一部など。
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溝口健二「祇園の姉妹」メモ



1936年の作品。一部のフィルムが失われているために、最後はやや唐突に終わるのだが、山田五十鈴の演じる芸者「おもちゃ」が、「芸妓なんて、こんなもん、なかったらええんや」と叫ぶのが切実だしラストでもおかしくないと思わせる。
当時、山田五十鈴は19歳くらいである。美しいのもそうなのだが、あまりにも上手いのに驚かされずにはいられない。闊達な演技、女性の魔性と魅力。まさに天才少女である。
同年の「浪華悲歌」同様、全く古さを感じさせない。それどころか、後期の溝口の大作郡よりも、より自由に率直につくっているので本当に「溝口らしい」映画とは、こういうものだったのではないだろうかと思ってしまうのだ。
古い映画なので、山田五十鈴以外の役者はサッパリ分からないのだが、声だけで進藤英太郎だと分かるのは流石である。ダメになった問屋のオヤジ役の志賀迺家辨慶という人も実にいいアジを出している。
山田五十鈴の、男の騙しっぷり、あしらいっぷりが見事すぎる。ラストシーンのように芸妓という存在のつらさ、悲しさを切々と描いた名品なのだけれども、むしろそういう世界に対する懐かしさのようなものを感じさせずにはいられない映画でもある。男と女が、駆け引きして騙しあい、愛し合い、憎しみ合う世界の懐かしさ。そして、溝口は、山田五十鈴に芸妓という存在の悲しさを語らせ、その社会的意味もある程度は認識しながらも、そういう世界を愛し、そういう世界を生き、描かずにはいられにない人だったのだろう。
この「祇園の姉妹」や「浪華悲歌」は本当に溝口らしくて素晴らしすぎて言葉を失う。
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