2011年01月27日

小津安二郎 「宗方姉妹」雑感



何と言っても山村聡と田中絹代と夫婦喧嘩・・を通り越して対決するシーンがすごすぎる。山村が狂ったように田中の顔をひっぱたき、田中が微動もせずにそれを受け入れる。
このシーンに限らず、二人を描き出す小津の演出力は見事だ。「東京暮色」で、小津に悲劇は向かないなどと書いたばかりだけれど、舌の根のかわかないうちに前言撤回しないといけない。いや、本質的にコメディの方があうとは今だに思うのだけれど、少なくともちゃんと悲劇を演出する能力があることだけは確かだ。
だとすると、「東京暮色」が、あんなにうまくいっていない(と私は感じる)のは、なぜかしら。役者と脚本のせいなのかなぁ。この「宗方姉妹」がうまくいっている要因は、間違いなく山村聡と田中絹代が素晴らしい役者だということだし。東京暮色」は、撮り方をちょっとひねっているのが関係しているのかもしれない。この「宗方姉妹」は余計な小細工せずに、そのまま二人を撮っている。
さて、二人の名演はさておいて、この脚本に描かれている二人について感じたこと。大佛次郎の原作で、それをどの程度忠実に再現しているのかは知らない。が、私は田中絹代の演じている節子という女に全然共感できない。山村聰の演じる夫、三村亮助に献身的に尽くす妻である。しかし、昔に上原謙の演じる田代宏と、お互いに好意をもちあっていて、それを日記に書いていたのを三村に読まれてしまう。無論、それは昔の話だし、二人の間には何もないのだが、現在も二人は好意を胸にしまったまま会って、節子は田代の援助を受けようとする。それを三村は知って、嫉妬に苦しんで怒る。これは、当然ではないか。だって、二人は好意をもちあっているのに、それを知らぬ振りをして、夫には忠義を尽くす立派な妻であり続けようとしているのだから。
三村は、仕事もなく精神的にもダメ男なのだけれども、もしそうでなくとも怒ったり苛立ったりするが自然だろう。そして、実は精神的な裏切りをしておきながら、平然と私はちゃんとした妻でございますという顔をしている節子に、「おまえのそういうところが我慢できないんだ」と逆上して何度も殴りつけてしまう三村の気持も、痛いほどよくわかってしまうのだ。(あっ、あんなに女の人を殴りつけていいというわけじゃないです・・。)
節子という女は、表面的な好意や態度では立派な妻だけれども、実は全然三村のことを愛していないし、むしろそういう「立派な妻」としての自分を愛しているのだと言わざるをえない。むしろ、田代が好きだといって、三村の元を去ってくれた方が、三村にとってはまだマシだろう。表面上は立派な妻であり続けながら、精神的には三村を苦しめ続けるのだから。
ついでに言うと、田代という男も田代という男だ。本当は、節子が今でも好きなくせに、それを表には出さずに節子を財政援助しようとする。節子も田代も、自分たちでは全然意識していないが、善人ぶった恐ろしく残酷な人たちなのである。
だから、私は三村がどんなにダメ男でも、すっかり同情して見てしまったのである。だからというわけでもないが、ここでの山村聡の演技は本当に素晴らしいと思う。酒に溺れて苦しみのた打ち回るみじめな姿が、何ともやりきれないのだ。
小津は、勿論私が書いたような見方、演出をしているのではない。節子は、真面目な夫に尽くそうとする女で、何も悪い事をしていない。だから、田中絹代は夫に何を言われても毅然としていられるのだが、私がいま書いたような見方からすると、そういう田中=節子の自分の悪を自覚していない態度が実に空恐ろしくて、見事な演技だと感じる。小津の演出意図とは全く違うところで、私は田中の演じるある種の古い女の姿の恐ろしさに震撼させられるのだ。
上原謙の演じる田代もそうだ。小津は彼を、優柔不断だけれどもいい男として描いているのかもしれない。しかし、例えば、田代と
節子が一緒になろうと決意した夜に、三村が酔って「仕事が出来た」(多分でまかせ)といいに来た際に、田代は何の邪気もない笑顔で「おめでとう」と言うのだ。これも田代には何の悪気もないのだろうが残酷すぎる。せめて、節子をなぐったことを怒り、三村を責めて、修羅場になってもいいから、物事をはっきりさせてやるのが、人間的な行為ではないだろうか。しかし、上品な田代は決してそういうことをしない。私は上原謙の笑顔にゾッとして感心するのだが、勿論それは小津の演出意図とは関係ないことだ。
さらに、三村が急死した後も、節子は三村が気になるといって田代と一緒になることを拒む。そして、田代も無理に説得せずに「いつまでも待つ」とまた笑顔でいう。これも私には全然美談には思えない。そういう、おまえたちの偽善のせいで、どれだけ三村が苦しんだのか、まだ分からないのかと、三村にかわって逆上しそうになるのである。
というわけで、私は脚本には全然共感できなかったのだが、作品としての迫真性にはすっかり圧倒されたわけである。
冒頭には、小津のサイレント時代の大主役の斎藤達雄が登場したりする。そして、高峰秀子が新時代を象徴する若い娘として登場する。もっとも、私に言わせれば、姉の節子に同情している時点で、節子と考え方は違っても、「旧時代」だけれども。本当の「新時代」なら、三村に同情しないといけないはずだ。
高峰は、舌をペロッと出したり、声色を使ったりして大奮闘である。やはり、高峰の存在感はすごいものがある。いきなり、ストッキングを直すために、スカートを自分でめくりあげて美脚を披露する場面があったりして、小津映画なのでドキッとしたりする。
京都の風景が、ふんだんに使われていて美しい映画でもある。内容とは対照的に。
posted by rukert | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画

小津安二郎 「お茶漬の味」雑感



1952年の作品。1951年の「麦秋」の次の作品であり、基本的に似たようなコメディタッチの映画である。
「麦秋」では、原節子の結婚をめぐって、兄と妹、両親と娘の関係が中心になるが、この作品では木暮実千代と佐分利信の夫婦の物語である。
小暮が小津作品では珍しいが、夫に対して腹を立てるシーンの迫力などみると、やはりはまり役である。小津も、そういう効果を狙ったのだろう。どんな男だって、木暮実千代にあんな剣幕でどやしつけられたらビビります。
といっても、夫婦の深刻な問題ではなく、ものの食べ方などちょっとした感覚の違いによる夫婦喧嘩、といてうよりは小暮が一人で怒っているのである。そして、最後は和解する。仲直りした木暮実千代が、ノロケ話をしまくって、淡島千景と上原葉子を辟易させるシーンはなかなか笑えるのである。
でも、「麦秋」と「お茶漬の味」のどちらをとるかというと、やはり「麦秋」になってしまう。冷静に考えるとコメディとしてのレベルは同程度のような気もするのだが。木暮実千代も素晴らしい女優だけれど、やはり小津映画には原節子が似合うということなのかなぁ。
それと、夫婦関係よりも血のつながりの関係がテーマとして小津に合うというのもあるのかもしれない。どちらも、基本はコメディなのだけれども、軽い話の中に深い奥行きをもたらすテーマとして、小津の場合は、他人同士の夫婦の関係よりも、もっと理屈抜きの原始的な血縁関係が向いている。小津映画は、さりげないどうでもいい話のようでいて、ひょっと人間の本能の根源の姿を垣間見させるところがあって、だから親子の本能的な関係が適しているといったら強引過ぎるか。
若き日の鶴田浩二が出ているのも珍しいが、ちょっと加瀬大周と似ていたりする。
笠智衆がパチンコ屋のオヤジで登場するが、その奥さん役で望月優子がチラッと登場する。この時期の映画を見ていると、同じ顔ぶれがいろいろな形ででてきて面白い。
小暮の女友達の、黒田高子役の上原葉子(小桜葉子)が、健康的な美人で、妙に人をひきつける存在感がある。私は知らなかったのだが、上原謙夫人で加山雄三のおっかさんだそうである。結構若い感じて、近い時期に黒澤映画に出ていた加山雄三との年齢関係がよくわからなかったのだが、ウィキペディアを読むと、19歳の時に加山を生んでいるそうだ。
そして、美容体操の元祖でもあるそうだ。小暮が佐分利に旅行先から電話して、「高子が病気なの」とウソをつくシーンで、その背後で当の上原葉子が元気一杯に伸びをして笑わせるのだが、その動きに妙にキレがあって納得させられたのであった。
それと、鶴田浩二がバーで飲んでいると、女給が画面に入ってきて佐分利信を「いらっしやい」と迎えるシーンがあるが、その女給が、北原三枝だそうである。石原裕次郎の奥さん、石原まき子である。
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