2011年01月19日

黒澤明「わが青春に悔なし」雑談




マルセ太郎という変った芸人がいて、オラウータンの物真似で有名だったが、裏芸として黒澤明映画の一人再現芝居をやっていた。「生きる」とかを。黒澤の現代物って、表現主義過剰みたいなところがあるじゃないですか。時代ものの、例えば「羅生門」とかだと、それが実に効果的だけれど、現代物だとパロディの対象としても成立してしまう。あまりに真剣で真面目すぎるものは、笑いを誘ってしまうのだ。マルセ太郎の芸は、その辺をうまくついたもなかなかのものだった。
さて、この黒澤映画も、そういうところがある。冒頭の若者のシーンとか、ちょっと引いて照れくさくなる。原節子が川を渡れないところに、二人の男が手をさしのべて、野毛がずかきずかと進み出て川に踏み込み原を抱きかかえて渡らせてしまう。そして、それを複雑な表情で見やる糸川。青春である。マルセ太郎がうまく演じそうなところだ。
原節子も若い。1946年公開だ。そして、屋敷で「展覧会の絵」をピアノで大袈裟な身振りで弾くシーン。黒澤の現代ものというのは、ちょっと時代を感じさせることもある。正直言って。
テーマも政治なのだけれど、こういうのは難しい。どうしても、正義の側とそうでない方を、単純に対比してしまいがちだ。ここでは、野毛と糸川が対照的な政治的な立場、処世術の存在として描かれている。そして、勿論、野毛とそれを支える原が演じる幸枝を好意的に描いていて、別にイヤじゃないけれど、こういう単純な政治的割りきり方をそのまま受け入れる気にはちょっとならない。「生きる」でも、そういう単純な善と悪の対比がされているが、あの話は基本的にフィクションなので気にならないが、こういう政治的問題を真正面から取り上げている作品では、単純な善悪の対比には、どこかしらモヤモヤしたものが残る。
しかし、この映画で大切なのは、そういうことじゃない。あくまで、原節子が農婦になって働き戦うシーンの映画的リアリティが全てだ。あれは、もう文句ない。原節子が、もう原始人みたいなメイクで、ガムシャラに働く迫力。原は、眼光も鋭くて「白痴」でもさそうだったが、黒澤的な過剰な表現主義に全く負けない稀有な女優なのだ。
そして、野毛の実家にはられた「スパイ」の落書きとか、原を見つめる子供たちや百姓の表情の撮り方、あの大袈裟な撮り方と表現が、あまりに過激すぎて現実離れしているために、かえってリアルな説得力を生むのだ。
そして、野毛の母親役の杉村春子が、原と田植えを終えた際に、ものすごい笑い声をあげる。あの、原始的な生命力に満ちた笑いは、忘れようにも忘れられない。杉村も、やはり普通じゃない役者だ。
黒澤映画には、そういうあまりに熱狂没頭しすぎる迫力があって、それは冷静にひいてみると笑いの対象にもなりかねない。しかし、この映画の後半の農村のシーンが典型的だが、あまりに気違いじみた迫力に否応なしに観る人間は納得して巻き込まれ、素直に感動してしまうのだ。もはや、知的な批判精神が停止するところまで、黒澤はとことんやってくれる。
マルセ太郎は、例えば「生きる」をバカにしてパロディにしていたのではない。そうじゃない。黒澤の過激な演出が好きで好きで、それに完全につかまってしてゃられながら、同時に笑っているのだ。
私も、この映画の後半では、完全にしてやられてそういう体験をした。そして、もはや杉村春子のように原初的な笑い声を発するしかないのだ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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