2011年01月16日

成瀬巳喜男 「山の音」感想



小津映画の原節子だけでは飽き足らずに、成瀬巳喜男作品に出演した「山の音」「驟雨」「めし」を観た。
第二の小津などと呼ばれた成瀬だけれども、こうして小津作品をまとめてみた後で鑑賞すると、随分と世界が違うと感じる。成瀬作品の女性は、とても生々しい。細やかな女性の感性を描き出すことでは、小津の比ではない。というよりは、小津映画は、どんなに現実的な女性が登場しても、どこか現実の女性とは違う昇華されたもの、能や狂言の人間の扱いと通ずるものがある。現実の女が描けてないという見方をする人もいるかもしれない。
成瀬作品の女性には皆現実の生々しい臭いがする。ほとんど現代のメロドラマのようなところもある。とはいえ、それも映画なので本質的には虚構であり、映画的創造だ。その点では、小津も成瀬も変わりない。ただ似たような題材や役者を扱うようにみえて、両者はむしろ対照的な個性である。
両方の映画に出てくる長岡輝子の扱い一つとってもそうだ。小津映画では、女中だったりとなりのうるさい奥さんだったりして、あまり活躍していないが。例えば、この「山の音」でも、成瀬的な女性の典型的パターンとして、よく喋り存在感を発揮して実に生き生きしている。それが、成瀬映画の女性の現実感にうまくマッチしているのだが、小津映画にこういうある種俗な女性が登場したら違和感があるだろう。
そういう意味で「原節子」という存在も、本来は小津映画的である。現実の人間というよりは、どこか神話的な存在で、あくまでスクリーン上の純粋なイメージとしてだけ存在しているところがある。そういう個性が小津映画の本質に適合しているのだ。
成瀬映画のどの三本でも、原節子はもっと現実的な役を演じている。そして、3本とも全く違うタイプの女性なのだが、原はどれも見事に成りきっている。原は、小津映画だけでなく、黒澤映画でも何でも、深いところで自然に役の本質になりきっている。それも表面的な技巧でなく、深いところで役の人間そのものに成りきるタイプだ。単に美しい女優ではなく、根っから役者なのだ。特に、成瀬映画の3本を見ていて、改めてそのことを感じた。
とはいえ、原節子の場合、どんな生々しい役を演じても、そこに一種の抽象化や昇華が入る。決して、現実の女性になりきるのでないのだ。それが、成瀬映画の役者としては微妙にそぐわないところでもある。成瀬映画の中心女優は、原節子ではない。やはり、小津映画に一番ピッタリくる存在だ。
しかしながら、今回成瀬映画をみて一番感じたのは、原節子がどの作品も例外なく美しく撮れているという事である。どの作品も、「麦秋」から「東京物語」とだいたい重なる時期の作品なのだが、原の女性としての美しさや魅力がよくてでている。それは、今まで述べてきた成瀬と小津の映画の特質とも関係するのだろう。小津作品の女性は、極端に言うと生身の人間というより美しい人形といったところがある。だから、小津作品では人間のシーンと自然のシーンがうまく調和して連続するところもあるのだと思う。一方、成瀬作品に登場するのはれっきとした人間の女である。だから、当然、原も美しくスクリーン上で映える。率直に言って、原を美しく撮ることでは、小津は成瀬の比ではないとまで感じた。
この「山の音」は、1954年の作品。小津の「東京物語」が1953年でその翌年。当時原節子34歳である。成瀬作品の多様な役の中では、一番原節子らしいキャラクターだ。夫の浮気に耐え忍びながらも、芯が強くて激しく反発し、義父義母に対しては優しく明るいよい娘。家の中でゴソゴソやっている鼠に対して、原が「ニャア」と言っておどかす珍しいシーンも。それも、なんとなく成瀬的である。
不倫している上原謙との夫婦関係が表のテーマだが、何と言ってもそれ以上に義父の山村聡との微妙な関係が印象に残る映画である。山村が義理の娘の原に対して優しい思いやりを示すのだが、それが明らかに思いやりの範囲を超えている。自分の妻の長岡輝子にも指摘されるが、山村聡は「女の気持ちなんか分からない」男のタイプだ。どちらかというと、鈍感でマメに女性に関わるようなタイプではない。だから、原に対する心遣いも、優しさとは微妙に異なる美しい娘に対する思いが混入してしまっている。そういう感じを、うまく映画の絵の力で表現している。原の方からも、基本的には義父の優しい心遣いに感謝しているだけだが、立派で男ぶりもよい義父に対する無意識の自然な感情をどうしても観ている人間は感じ取ってしまう。
原が鼻血を出した際に山村が介抱するシーンなど、そういう無意識な二人の感情が顕在化しているようでハッとする。また、山村が上原の浮気をとがめるために、家を飛び出して上原を必死に説得するシーンなども、父親の義理の娘に対する思いやりから完全に逸脱してそれ以上の感情を感じさせてしまう。その辺りの演出が成瀬は実にうまいのだ。
といっても、義父と娘の不義の愛といった通俗的なテーマに最後まで落ちこむ事はない。最後まで、二人は節度をもって接するし、そもそも二人とも自分ではその種の感情を全く意識していないのだ。それに気づいているのは、映画を観ているあなたや私だけであり、それがなんとも映画的なのである。
最後の山村と原の公園のシーンも美しく終わる。二人は思いやりを向け合う義父と娘として最後までその関係を保ち。映画を観ている人間だけが、底に流れるそれ以上のものものを感じ取り続けているので、なんともいえない余韻が残るのだ。


posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。