2011年01月14日

小津安二郎「秋刀魚の味」雑感



小津の遺作。笠智衆の演じる父親が年頃の娘を結婚させようとする設定は「晩春」のリメイクともいえる。そして、「彼岸花」「秋日和」の不良三人オヤジの、佐分利信、中村伸郎,北竜二のうち、佐分利に笠が代わるコメディ路線の継続。さらに、佐田啓二と「秋日和」で名演を見せた岡田茉莉子による新世代夫婦、東野英治郎と杉村春子の父娘と色々な要素が詰め込まれている欲張った作品。
そのせいか、作品全体としては統一感にやや欠け、「晩春」のような父娘関係の深い描写や「秋日和」の良質なコメディと比べると中途半端である。やはり不良オヤジ三人組には佐分利信が合っている。笠智衆だと真面目すぎるのだ。笠は小津映画を象徴する存在だが、そもそも時代が微妙に小津と齟齬をきたしはじめてきていたという気もする。小津は賢明に「現代的」なテーマの映画を撮ることを拒否し続けたが、この作品を見ているとそれも限界点に来ていると感じる。遺作になってよかったのりかもしれないとさえ思う。
原節子もこの後すぐ引退するが、それも賢明だったような気がする。原節子にピッタリくるのは小津のモノクロ作品である。小津に限らず、時代的に原節子のよさがいきる映画はもはや撮られなかったという気がするのだ。
岩下志麻の娘も、佐田啓二夫婦も役者としてよくやっている。しかし、その現代的な感覚が小津映画の本質と微妙にずれているのだ。小津映画に登場する、美しい家族像というのは小津の時代においてもある種の「幻想」だったのかもしれないが、それでも小津的な古典的な感性にかなうものだった。人間には明らかにその人間にあう時代とあわない次代がある。小津は自分に丁度あう次代を生きて映画を撮ることが出来た幸福な作家なのだと思う。
現代(その当時のだけれど)を描く場面が続くが、最後の方で中村伸郎と北竜二が碁を打っているところに笠智衆が来てそれを三宅邦子が迎えるシーンは、「あぁ、これは小津映画だ」となんだかホッとする。小津が小津らしい映画を撮り続けるためには、役者も限定して時代遅れと思える映画を撮るしかなかっただろう。だから、これが遺作としては丁度良かったのだ。多分。
映画の内容は当然に時代との相関性が問題になるが、映画の形式は時代とは無関係だ。小津独特の様式感は歳をとっても変化せず、むしろ洗練度を最後まで深めていたように思う。ローアングルの固定カメラで、ミリ単位で茶碗の位置などを調節したという伝説のある、絶妙の均衡を保った画面構図。廊下や部屋を縦横から映す完全に自分の個性と化している構図。風景をまるで音楽のように人間のシーンと自然に連続させてつなぐ様式感。さらに、カラーの色彩の絶妙に計算された配置も加わって、画面だけを純粋に見ているだけでも素晴らしい映画なのである。例えば、東野英治郎が夜に酔って笠と中村に付き添われて自分のラーメン屋に帰る際に、黄色っぽいドラム缶の群れが夜の街灯に浮かび上がる美しさ。
それと妙に小津的だと感じたシーン。岸田今日子がママをしているバーで笠智衆と加藤大介が酒を飲み、軍艦マーチにのって加藤が敬礼しながら踊るシーン。内容的には他愛もないシーンなのだが、加藤の動きや絵の構図がなんとも普通でない不思議な雰囲気を醸しだしている。こういうのは多分最初から狙って出来るのではなく、その場で撮ってみて何か計算できない「事件」のようなものが起きて映画的なシーンになるのではないだろうか。
そして、小津映画の本質は、恐らく何を撮るかではなく、それをどのように映画的な文法に則って撮り、結果的にフィルムに非日常的ではない特別なものがあらわれるということに尽きるのではないだろうか。それは、このようなバーのどうでもいいシーンでも「彼岸花」のごく普通なクラス会のシーンでも何でもよいのだ。
小津映画では、階段は映されない。しかし、ラスト近くで階段が効果的に画面に出てくる。小津は無意識にこれが遺作だと知っていたのだろう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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