2011年01月08日

小津安二郎「秋日和」雑感



まずは、やはり原節子の話から。1960年の作品だから、当時40歳である。24歳という設定の娘の司葉子の母親役なので、老け役ということになる。しかし、DVDボックスのパンフレットに収録されている衣装合わせ打ち合わせでの私服の写真をみると、実はまだまだ若々しくて妖艶な感じである。敢えて、それを殺した化粧やら衣装やらで老け役に徹している、あるいは徹することを余儀なくされているのだと思う。正直、勿体ない。小津の映画あるいは時代背景だと、どうしても40というと母親か妻という設定になってしまうのだろうが、現代だったらまだまだ「女性」を演じられたはずである。勿論小津映画では無理だけれども。
とはいっても、演技という面では原節子は見事に夫に先立たれ、娘と二人で暮らす母親になりきっている。技術的なことではなくて、オーラまですっかり役柄になりきってしまっていて、原はやはり見事な役者だった。
娘の司葉子とトンカツ屋で食事して自宅に帰って会話する場面は、いかにも母娘二人だけで支えあっているとい雰囲気が出ている。何か切ない。昔見たときは全然そんなことは感じなかったのだが、年齢に応じて反応する場所も変ってくるものだ。
この辺りの作品まで来ると、小津の技術的はすっかり円熟してくる。特に冒頭の法事のシーンは実に深々とした素晴らしい絵だ。小津特有の風景のいくつもつないではさんで普通の場面につなぐスタイルも完成の域に達している。特にこの時期の映画に独特のカラーが、監督の色彩感覚を明快に反映させることを可能にして、この法事の一連のシーンは美しい音楽を聴いているかのようだ。まさに映像そのものが゛純粋に語りかけてくる。
ところが、映画の内容は別に高邁ではない。むしろ、佐分利信、中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が下ネタトークを繰り広げていたりするのだ。格調の高いことこの上ない映像の中で。もっとも、不良といってもたわいない会話で、むしろ大人の男が、すっかり子供に戻ってはしゃいでいる感覚で嫌味がなくて心地よいのだ。恐らく小津も最後までそういう人だったのではないだろうか。
そして、この時期の作品の陰の主役は、何と言っても中村伸郎だろう。ヤンチャで陽気で賑やかで子供のようで、でも品のある得がたいキャラクター。彼なしには後期小津映画は成立しなかっただろう。こういう映画だとどうしても真面目な笠智衆は脇役に回らざるを得ない。
しかし、何と言ってもこの心地よい大人のコメディの最大殊勲賞は岡田茉莉子だろう。不良中年オヤジ三人組に怒鳴り込むシーンは何度見ても笑ってしまう。ピンクパンサー4でハーバート・ロムがクルーゾーの弔辞を読むシーンと同じくらい笑えるし好きだ。改めて観ると、流石に中村や北の受け方も実にうまい。そして北竜二は寿司屋で原節子への永遠の愛を何度も誓わされる羽目になるというわけである。それにあきれ返って冷やかす佐分利と中村、完璧である。全てが節度をもって完璧にコントロールされて誤魔化しのないコメディ。時代とは関係なく、こうしたしっかりとした形式間をもつ笑いが現代ではっすかり失われてしまった。
ラスト近くで原節子と司葉子が旅行して、素晴らしい秋の日に茶屋で甘いものを食べるシーン。今回気づいたが、背景では、陽の光が屋内に当たってゆらめく効果が、冒頭の法事のシーンでも多用されていたのと形式的にきっちり対応している。そして、随所にはさまれる秋の山が、二人の心情と実にうまくマッチして連続した絵として構成されている。理屈ではなく、人間のシーンと自然のシーンがうまく調和しているのだ。これはやはり小津にしか出来なかったスタイルだろう。
武満徹が、タルコフスキーの映画を音楽だと言ったことがあったが、小津安二郎の映画もやはり完璧に構成され、なおかつ停滞することなくなめらかに流れていく音楽である。そして、「秋日和」は小津の作った最も美しい音楽の一つだったと思う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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