2011年01月07日

小津安二郎「晩春」雑感



原節子の小津デビュー作。1949年の作品だから原節子は当時29歳である。他の小津作品を見ていて思うのは、小津と原節子があと5年早く出会っていたらということなのだが、こればかりは仕方ない。そして、笠智衆と原節子が実の父娘役をしている貴重な作品でもある。役柄の設定でも、原の若さでも小津の理想的で典型的な作品とも言える。
そして、同時期のモノクロ作品と比べても、やはりこの作品の原節子が一番美しいと感じた。それにしても原節子というのは一体なんなのだろう。全く同時代を経験していない私のような人間にとっても、やはりフィルムを見ていると完全に別格の存在であり続けている。早めに引退してその後世間に全く姿を現していないのも実に賢明である。
この作品ではファッションや髪型や化粧も、同時代の欧米の女優を連想させる感じのものである。その美しさや華に圧倒されるしかない。ただ、たんなる美しさだけではなくあの圧倒的な存在感は本当になんなのだろうか。と、懐かしく見ながらすっかりミーハーなファンになってしまった。要するに私も相応に歳をとったということだ。
そして、父親の笠智衆に三宅邦子との再婚話が持ち上がった際の、原節子の表情のこわさといったら。ひびります。能楽堂で三宅邦子を睨みつける顔、自宅で笠智衆に向ける冷たい視線。おっかないです。やはり黒澤明の「白痴」を思い出してしまうが、原節子はたんなるアイドル女優でなく内部に過剰な何かを持っていた人である。
杉村春子も笑わせてくれる。鎌倉で財布を拾って警察に届けるとか言いながら、警官が通りかかっても気がつかずに知らん振り。原節子の結婚相手の名前が熊太郎で「私は何て呼べばいいんだろう、熊太郎じゃ山賊みたいだし、熊さんじゃ八っあんみたいだし、熊ちゃんもどうかしら、だから私はクーちゃんと呼ぼうかと思っているの。」そして笠智衆が「くーちゃん?」と驚いたように反応するのが絶妙すぎて腹を抱える。さらに、「おまえ、財布を忘れずに届けておくんだぞ」と。結局届けていなかったのかよと。絶対そのまま忘れるだろと。この辺りは小津一流の見事なとぼけたコメディである。
原節子が、京都の旅行先で笠智衆に対して「お父さんとこのままずっといたいの」というシーンもすごい。あまりに艶かしくてドキっとする。小津の演出意図がどういうものか知らないが、あれは単なる父親に対する思慕の念を完全に超えてしまっている。それに対して笠智衆が夫婦の道について真面目に熱弁をふるって原も素直に納得するのだが、見ている人間はあの原の生々しさにとりつかれたままである。これも小津独特の日常に侵入する非日常の見事なシーンだと思う。原節子という特別な役者のせいなのか、小津の演出なのかは良く分からない。多分両方なのだろう。
そして原節子が花嫁姿で笠智衆に挨拶する定番の名シーン。杉村春子が、部屋を出る際にぐるりと能の様に回る名演技つきである。同じシーンが「秋刀魚の味」で笠智衆・父親、岩下志麻・娘で繰り返されるのだが、そこではきちんとした挨拶を笠智衆が「わかっている」といって省略させるのが粋だ。やはりあの挨拶はこの時代にしか合わないと感じる。そして、何と言っても原節子が綺麗過ぎるのだ。(こればっかりだ。
演出的には、最後のリンゴを取り落とすシーンとか、雑誌が転げるシーンとかは小津の若さや時代を少し感じさせる。後年の円熟した小津はこういうのはやらないだろう。
ただ、ラストに挿入される夜の海のシーンはやはり小津調だ。「東京物語」でも、笠智衆と東山千栄子が熱海にいく場面で、熱海の海が唐突に挿入されるのだが、あの感動は一体なんなのだろう。「秋日和」のラスト近くで原節子と司葉子の母子が旅行する際に秋の山がいきなり挿入されるのだが、若い時に私が初めて見たときに異常に興奮して感動したのを思い出した。日本的な感性で、家族の小ドラマと自然が対立することなく感応しているというり理屈っぽくなってしまう。言葉では表現不能な、それまでの人間ドラマと自然のシーンの必然的連続性、映画的言語の文法が小津映画には間違いなくあると思う。あれらはちょっとここで自然の光景を入れておこうとかいうことでは決してないのだ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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