2011年01月05日

小津安二郎「東京物語」雑感



先日、TSUTAYAで中古の小津安二郎ボックスをみつけて衝動買いした。収録されているのは、どれも何度も見たことがある名作なのだが、好きな時にすぐ引っ張り出して観ることが出来るのはありがたい。正月にまとめて何本もみて懐かしかった。

付録特典DVRに、ヴィム・ヴェンダースのインタビューが入っている。小津映画の美意識について語るのかと思いきや、小津映画の家族について熱く語っている。小津映画に登場する家族は美しく、ある種家族の理想形だとか何とか。正直、本気かよと思った。日本人が小津映画の家族を観る目はもっとクールだろう。ある時代にはそういう家族もあったけど、基本時には美化したフィクションであり、小津も何かテーマが必要なので家族の物語をもってきただけで、それを描き出す小津の美意識、様式観があくまで肝なのではないかと。
しかし、ヴェンダースの熱弁を聞いていて、確かに小津映画の「家族」というのは確かにありえないがそうあるべき家族の姿を描き出しているのかもしれないと思い始めた。日本の家族だって、現実は勿論あんなに超俗的な美しいものじゃない。しかし、現実の家族の醜さを描き出すという手法などくだらないとも思う。現実の家族の真実が、放っておいてもにきついものなのにわざわざそれを映画にするまでもあるまい。だから、ありえない普通の家族を描き出すのがよろしいという小津の達観した視点。
そもそも、小津自身が終生自分の家族を持たなかった人だった。だから、小津映画の家族というのは小津自身にとっても憧れの存在なのだろう。ヴェンダースのような外国人がどう思っているのかは知らないが、あれは一種の家族の昇化した理念形なのであって、現実にはないが本来そうあるべきイディアなのだ。だから、小津の通俗的な部分を一切排した芸術的な思考が、その題材に合致するのだ。けっして、小津には現実の歴史ものなど撮れないだろう。

だいたい、小津安二郎の「普通の」家族に登場する俳優が全然普通じゃない。そもそも、原節子や笠智衆が出てくるのだ。この「東京物語」の原節子は彼女の代表作といってもよいある典型的な姿を表現している。心優しくて清らかで美しいごく普通の娘。そして、原節子は見事にそれに成りきっているわけだが、勿論原節子は全然「普通の」存在じゃない。だいたい外見やスタイルからして日本人離れしている。同時代の西欧古典映画に登場してもそんなに違和感はないだろう。原節子は本来日本かなんかに生まれるはずじゃなかったのに、小津や成瀬や黒澤など黄金期の日本映画に出演するために、間違えてあるいは敢えて日本に生まれてきた存在のように思える。
原節子のこの「東京物語」の役と一番対照的なのは、黒澤明の「白痴」におけるナターシャだろう。原節子は、あの難しい役を見事に演じきっている。心に憎悪と悲しみとと愛を抱え込む「普通」とは対極のこの人物を黒澤が徹底的な表現主義的な手法で演出しているのだが、それに原は過剰な演技で見事に応えている。原節子自身も内部に異常な過剰な何かを抱えている存在だったはずである。だからこそ、「東京物語」の紀子のような普通そのものの存在になりきれるのだ。小津にも同じことが言える。「東京物語」は全く普通ではない人達がつくった普通な家族の物語なのである。

脇役では、例えば小津映画の常連の三宅邦子なども印象的だ。「麦秋」でも「東京物語」でも原節子の義姉役として登場するのだが、やはり彼女もどこか日本人離れしたところのある役者である。やはり古典のドイツ映画にでも出てきそうな容貌と雰囲気を湛えていて、個人的に小津ガールズの中でも好きな女優だ。特に「麦秋」ラスト近くでの原節子と二人の海岸のシーンは―敢えてこの表現を使うが―エロティックですらある。小津映画に常に起こることだが、日常的なシーンにふと侵入する得体の知れないものがでている。そして、そういうものを表現するには、原節子や三宅邦子がごくごく普通の家族の一員として生活していなければ「ならない」のだ。小津映画の必然性である。

改めて「東京物語」をみると本当に美しい映画だ。そもそも、私は「東京物語」をそんなに買っていなかった。むしろ、モノクロ時代では「麦秋」の方がはるかに好きだった。ああいうコメディタッチが小津の本領で、悟り済ましたような「東京物語」は小津本来のものではないと。例えば「東京暮色」はトラジディを描こうとして失敗している作品で、結果的には最大のコメディのよゆうに仕上がってしまっている。小津に悲劇は似合わない。しかし、「東京物語」を改めてみてその美しさに素直に感嘆してしまった。それは、この作品が悲劇だからではないからだろう。
実はこの作品は、笠智衆と東山千栄子の老夫婦が東京で居場所がなくて放浪する物語である。その一種の切なさと無常感が小津独特の美意識の映像と実によくマッチしているのだ。家族の物語というよりは、二人の老夫婦が世界から外れた場所で意味なく漂う物語なのである。基本的に小津にはコメディが似合うという考え方に変りはないのだが、偶然テーマが小津的な感性にピッタリと合致したとでもいうか。「東京物語」は、よく思われているように小津の典型的な家族の物語なのではなく、例外的な非家族の物語なのである。そして、笠智衆と東山千栄子の姿は、世間からどこか寂しく離れた位置にある小津安二郎の姿そのままなのだろう。だから、この物語はむここまでリアルで切実なのだ。笠智衆が物干しで佇む姿や二人が公園で座っているシーンの寂しさと美しさ。

しかし、小津映画ついては各シーンの構図美について語らないと仕方ないだろう。そして、それが一番文章化するのが難しい部分だ。言い出したらきりがない。映画を観るしかない。私が改めて感嘆したのは、例えば、東山千栄子が死んで笠智衆が朝の海の前に立つところに後姿の原節子が駆け寄っていくシーン、笠智衆と東山千栄子が電気の消えた二階の部屋で静かに佇むシーン。
そして、前述したテーマとの関連で、笠智衆と東山千栄子が絡むシーンは、全て例外なく詩的で美しい。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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