2011年01月16日

成瀬巳喜男 「山の音」感想



小津映画の原節子だけでは飽き足らずに、成瀬巳喜男作品に出演した「山の音」「驟雨」「めし」を観た。
第二の小津などと呼ばれた成瀬だけれども、こうして小津作品をまとめてみた後で鑑賞すると、随分と世界が違うと感じる。成瀬作品の女性は、とても生々しい。細やかな女性の感性を描き出すことでは、小津の比ではない。というよりは、小津映画は、どんなに現実的な女性が登場しても、どこか現実の女性とは違う昇華されたもの、能や狂言の人間の扱いと通ずるものがある。現実の女が描けてないという見方をする人もいるかもしれない。
成瀬作品の女性には皆現実の生々しい臭いがする。ほとんど現代のメロドラマのようなところもある。とはいえ、それも映画なので本質的には虚構であり、映画的創造だ。その点では、小津も成瀬も変わりない。ただ似たような題材や役者を扱うようにみえて、両者はむしろ対照的な個性である。
両方の映画に出てくる長岡輝子の扱い一つとってもそうだ。小津映画では、女中だったりとなりのうるさい奥さんだったりして、あまり活躍していないが。例えば、この「山の音」でも、成瀬的な女性の典型的パターンとして、よく喋り存在感を発揮して実に生き生きしている。それが、成瀬映画の女性の現実感にうまくマッチしているのだが、小津映画にこういうある種俗な女性が登場したら違和感があるだろう。
そういう意味で「原節子」という存在も、本来は小津映画的である。現実の人間というよりは、どこか神話的な存在で、あくまでスクリーン上の純粋なイメージとしてだけ存在しているところがある。そういう個性が小津映画の本質に適合しているのだ。
成瀬映画のどの三本でも、原節子はもっと現実的な役を演じている。そして、3本とも全く違うタイプの女性なのだが、原はどれも見事に成りきっている。原は、小津映画だけでなく、黒澤映画でも何でも、深いところで自然に役の本質になりきっている。それも表面的な技巧でなく、深いところで役の人間そのものに成りきるタイプだ。単に美しい女優ではなく、根っから役者なのだ。特に、成瀬映画の3本を見ていて、改めてそのことを感じた。
とはいえ、原節子の場合、どんな生々しい役を演じても、そこに一種の抽象化や昇華が入る。決して、現実の女性になりきるのでないのだ。それが、成瀬映画の役者としては微妙にそぐわないところでもある。成瀬映画の中心女優は、原節子ではない。やはり、小津映画に一番ピッタリくる存在だ。
しかしながら、今回成瀬映画をみて一番感じたのは、原節子がどの作品も例外なく美しく撮れているという事である。どの作品も、「麦秋」から「東京物語」とだいたい重なる時期の作品なのだが、原の女性としての美しさや魅力がよくてでている。それは、今まで述べてきた成瀬と小津の映画の特質とも関係するのだろう。小津作品の女性は、極端に言うと生身の人間というより美しい人形といったところがある。だから、小津作品では人間のシーンと自然のシーンがうまく調和して連続するところもあるのだと思う。一方、成瀬作品に登場するのはれっきとした人間の女である。だから、当然、原も美しくスクリーン上で映える。率直に言って、原を美しく撮ることでは、小津は成瀬の比ではないとまで感じた。
この「山の音」は、1954年の作品。小津の「東京物語」が1953年でその翌年。当時原節子34歳である。成瀬作品の多様な役の中では、一番原節子らしいキャラクターだ。夫の浮気に耐え忍びながらも、芯が強くて激しく反発し、義父義母に対しては優しく明るいよい娘。家の中でゴソゴソやっている鼠に対して、原が「ニャア」と言っておどかす珍しいシーンも。それも、なんとなく成瀬的である。
不倫している上原謙との夫婦関係が表のテーマだが、何と言ってもそれ以上に義父の山村聡との微妙な関係が印象に残る映画である。山村が義理の娘の原に対して優しい思いやりを示すのだが、それが明らかに思いやりの範囲を超えている。自分の妻の長岡輝子にも指摘されるが、山村聡は「女の気持ちなんか分からない」男のタイプだ。どちらかというと、鈍感でマメに女性に関わるようなタイプではない。だから、原に対する心遣いも、優しさとは微妙に異なる美しい娘に対する思いが混入してしまっている。そういう感じを、うまく映画の絵の力で表現している。原の方からも、基本的には義父の優しい心遣いに感謝しているだけだが、立派で男ぶりもよい義父に対する無意識の自然な感情をどうしても観ている人間は感じ取ってしまう。
原が鼻血を出した際に山村が介抱するシーンなど、そういう無意識な二人の感情が顕在化しているようでハッとする。また、山村が上原の浮気をとがめるために、家を飛び出して上原を必死に説得するシーンなども、父親の義理の娘に対する思いやりから完全に逸脱してそれ以上の感情を感じさせてしまう。その辺りの演出が成瀬は実にうまいのだ。
といっても、義父と娘の不義の愛といった通俗的なテーマに最後まで落ちこむ事はない。最後まで、二人は節度をもって接するし、そもそも二人とも自分ではその種の感情を全く意識していないのだ。それに気づいているのは、映画を観ているあなたや私だけであり、それがなんとも映画的なのである。
最後の山村と原の公園のシーンも美しく終わる。二人は思いやりを向け合う義父と娘として最後までその関係を保ち。映画を観ている人間だけが、底に流れるそれ以上のものものを感じ取り続けているので、なんともいえない余韻が残るのだ。


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2011年01月14日

小津安二郎「秋刀魚の味」雑感



小津の遺作。笠智衆の演じる父親が年頃の娘を結婚させようとする設定は「晩春」のリメイクともいえる。そして、「彼岸花」「秋日和」の不良三人オヤジの、佐分利信、中村伸郎,北竜二のうち、佐分利に笠が代わるコメディ路線の継続。さらに、佐田啓二と「秋日和」で名演を見せた岡田茉莉子による新世代夫婦、東野英治郎と杉村春子の父娘と色々な要素が詰め込まれている欲張った作品。
そのせいか、作品全体としては統一感にやや欠け、「晩春」のような父娘関係の深い描写や「秋日和」の良質なコメディと比べると中途半端である。やはり不良オヤジ三人組には佐分利信が合っている。笠智衆だと真面目すぎるのだ。笠は小津映画を象徴する存在だが、そもそも時代が微妙に小津と齟齬をきたしはじめてきていたという気もする。小津は賢明に「現代的」なテーマの映画を撮ることを拒否し続けたが、この作品を見ているとそれも限界点に来ていると感じる。遺作になってよかったのりかもしれないとさえ思う。
原節子もこの後すぐ引退するが、それも賢明だったような気がする。原節子にピッタリくるのは小津のモノクロ作品である。小津に限らず、時代的に原節子のよさがいきる映画はもはや撮られなかったという気がするのだ。
岩下志麻の娘も、佐田啓二夫婦も役者としてよくやっている。しかし、その現代的な感覚が小津映画の本質と微妙にずれているのだ。小津映画に登場する、美しい家族像というのは小津の時代においてもある種の「幻想」だったのかもしれないが、それでも小津的な古典的な感性にかなうものだった。人間には明らかにその人間にあう時代とあわない次代がある。小津は自分に丁度あう次代を生きて映画を撮ることが出来た幸福な作家なのだと思う。
現代(その当時のだけれど)を描く場面が続くが、最後の方で中村伸郎と北竜二が碁を打っているところに笠智衆が来てそれを三宅邦子が迎えるシーンは、「あぁ、これは小津映画だ」となんだかホッとする。小津が小津らしい映画を撮り続けるためには、役者も限定して時代遅れと思える映画を撮るしかなかっただろう。だから、これが遺作としては丁度良かったのだ。多分。
映画の内容は当然に時代との相関性が問題になるが、映画の形式は時代とは無関係だ。小津独特の様式感は歳をとっても変化せず、むしろ洗練度を最後まで深めていたように思う。ローアングルの固定カメラで、ミリ単位で茶碗の位置などを調節したという伝説のある、絶妙の均衡を保った画面構図。廊下や部屋を縦横から映す完全に自分の個性と化している構図。風景をまるで音楽のように人間のシーンと自然に連続させてつなぐ様式感。さらに、カラーの色彩の絶妙に計算された配置も加わって、画面だけを純粋に見ているだけでも素晴らしい映画なのである。例えば、東野英治郎が夜に酔って笠と中村に付き添われて自分のラーメン屋に帰る際に、黄色っぽいドラム缶の群れが夜の街灯に浮かび上がる美しさ。
それと妙に小津的だと感じたシーン。岸田今日子がママをしているバーで笠智衆と加藤大介が酒を飲み、軍艦マーチにのって加藤が敬礼しながら踊るシーン。内容的には他愛もないシーンなのだが、加藤の動きや絵の構図がなんとも普通でない不思議な雰囲気を醸しだしている。こういうのは多分最初から狙って出来るのではなく、その場で撮ってみて何か計算できない「事件」のようなものが起きて映画的なシーンになるのではないだろうか。
そして、小津映画の本質は、恐らく何を撮るかではなく、それをどのように映画的な文法に則って撮り、結果的にフィルムに非日常的ではない特別なものがあらわれるということに尽きるのではないだろうか。それは、このようなバーのどうでもいいシーンでも「彼岸花」のごく普通なクラス会のシーンでも何でもよいのだ。
小津映画では、階段は映されない。しかし、ラスト近くで階段が効果的に画面に出てくる。小津は無意識にこれが遺作だと知っていたのだろう。
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2011年01月09日

小津安二郎「彼岸花」雑感



毎回最初に話題にしてきた原節子は出てこないが、とても好きな作品。1958年。原の代わりというわけではないが田中絹代が登場する。もともと小津映画には出ていたが、後期ではこの作品だけ。やはり田中の場合は溝口のイメージが強いが、こうして小津作品に出ても、作品の様式観を乱さずにきちんと対応して画面に収まっている。有名な俳優だからといってどの作家にも合うかとというとそんなことはなくて、例えばポール・ニューマンがヒッチコック映画に出た際の違和感などは相当なものがあった。
冒頭では、佐分利信、中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が、飲み屋の女将・高橋とよを品のないジョークでからかう定番の場面がある。これを小津も気に入ったのか、「秋日和」などで本格的に展開していくことになる。
例によって、父親とその娘の結婚をめぐる物語なのだが、親子の情愛というよりは、佐分利信が徹底的に頑固なものわかりの悪いオヤジ像をコミカルに熱演する、ちょっと変った作品である。例えば、娘の有馬稲子に対して、恋人の佐田啓二と「おまえ、まさか関係はあるのか」と、見境なく問いかけてしまって有馬にとことん軽蔑されてしまうシーンなど、かなりおかしい。すごく重厚な佐分利信がやるので、あかしみが増している。
他にもこの映画では、随所にくすぐりが巧妙にしこまれている。例えば、浪花千栄子lがお土産を佐分利家にもっていき、お手伝いの長岡輝子に渡して、「それ、むおうちにですよ、あなたにじゃありませんで」とか何とかいって、長岡が無表情に「はっ、わかっておりす」と返す絶妙なコント、田中絹代が佐分利信に色々言われて反撃する際に着物をきれたように放り出す迫力、高橋貞二がルナで飲んでいると来るはずのない佐分利がやってきて、あわてて店員でもないのに「いらっしゃい」とやるシーン等々。どれも、こうして文字化しても面白みが全然伝わらないだろうが、全てがきちんと統制され計算されつくした絶妙のコメディ、コントになっているのである。そういえば、ルナのシーンは若い時に初めて劇場で見たときにゲラゲラ声を出して笑ってしまったことを思い出した。
そして、原の代わりというわけではないのだろうが、山本冨士子がゲストで登場するのだが、これが大変美しくて華やかである。常に着物で登場するのだが、改めてみて実に派手ながら趣味が良い見事な着物で映えている。浪花千栄子と並んで早口でポンポン喋ると、顔が全然違うのに本当の親子のように見えてしまうから不思議だ。
全体に軽妙なコメディなのだけれども、勿論絵は小津らしいものだ。例えば、山者冨士子の東京での住まいのセットの美しさ。佐分利家もそうだが、今はもうほとんどないこういう和式の家に住みたいと思ってしまう。
こういう作品だと、笠智衆はどうしても脇役だが、見せ場もある。同級生とのクラス会で詩吟を披露するシーン。笠智衆らしく、不器用だが誠実な語りぶりが感動を誘う。そして、それに静かにじっとききいる友人たち。あの場面の設定やつくり方、撮り方は流石に見事で、単なるクラス会のシーンが何か神聖な場のように化してしまう。そして、中村伸郎が静かに歌い出して、皆で唱和する。ごくごく日常的な場面を映しながら、それがそのまま非日常的な特別な場として映像に定着されている、いかにも小津らしい素晴らしいシーンである。
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2011年01月08日

小津安二郎「秋日和」雑感



まずは、やはり原節子の話から。1960年の作品だから、当時40歳である。24歳という設定の娘の司葉子の母親役なので、老け役ということになる。しかし、DVDボックスのパンフレットに収録されている衣装合わせ打ち合わせでの私服の写真をみると、実はまだまだ若々しくて妖艶な感じである。敢えて、それを殺した化粧やら衣装やらで老け役に徹している、あるいは徹することを余儀なくされているのだと思う。正直、勿体ない。小津の映画あるいは時代背景だと、どうしても40というと母親か妻という設定になってしまうのだろうが、現代だったらまだまだ「女性」を演じられたはずである。勿論小津映画では無理だけれども。
とはいっても、演技という面では原節子は見事に夫に先立たれ、娘と二人で暮らす母親になりきっている。技術的なことではなくて、オーラまですっかり役柄になりきってしまっていて、原はやはり見事な役者だった。
娘の司葉子とトンカツ屋で食事して自宅に帰って会話する場面は、いかにも母娘二人だけで支えあっているとい雰囲気が出ている。何か切ない。昔見たときは全然そんなことは感じなかったのだが、年齢に応じて反応する場所も変ってくるものだ。
この辺りの作品まで来ると、小津の技術的はすっかり円熟してくる。特に冒頭の法事のシーンは実に深々とした素晴らしい絵だ。小津特有の風景のいくつもつないではさんで普通の場面につなぐスタイルも完成の域に達している。特にこの時期の映画に独特のカラーが、監督の色彩感覚を明快に反映させることを可能にして、この法事の一連のシーンは美しい音楽を聴いているかのようだ。まさに映像そのものが゛純粋に語りかけてくる。
ところが、映画の内容は別に高邁ではない。むしろ、佐分利信、中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が下ネタトークを繰り広げていたりするのだ。格調の高いことこの上ない映像の中で。もっとも、不良といってもたわいない会話で、むしろ大人の男が、すっかり子供に戻ってはしゃいでいる感覚で嫌味がなくて心地よいのだ。恐らく小津も最後までそういう人だったのではないだろうか。
そして、この時期の作品の陰の主役は、何と言っても中村伸郎だろう。ヤンチャで陽気で賑やかで子供のようで、でも品のある得がたいキャラクター。彼なしには後期小津映画は成立しなかっただろう。こういう映画だとどうしても真面目な笠智衆は脇役に回らざるを得ない。
しかし、何と言ってもこの心地よい大人のコメディの最大殊勲賞は岡田茉莉子だろう。不良中年オヤジ三人組に怒鳴り込むシーンは何度見ても笑ってしまう。ピンクパンサー4でハーバート・ロムがクルーゾーの弔辞を読むシーンと同じくらい笑えるし好きだ。改めて観ると、流石に中村や北の受け方も実にうまい。そして北竜二は寿司屋で原節子への永遠の愛を何度も誓わされる羽目になるというわけである。それにあきれ返って冷やかす佐分利と中村、完璧である。全てが節度をもって完璧にコントロールされて誤魔化しのないコメディ。時代とは関係なく、こうしたしっかりとした形式間をもつ笑いが現代ではっすかり失われてしまった。
ラスト近くで原節子と司葉子が旅行して、素晴らしい秋の日に茶屋で甘いものを食べるシーン。今回気づいたが、背景では、陽の光が屋内に当たってゆらめく効果が、冒頭の法事のシーンでも多用されていたのと形式的にきっちり対応している。そして、随所にはさまれる秋の山が、二人の心情と実にうまくマッチして連続した絵として構成されている。理屈ではなく、人間のシーンと自然のシーンがうまく調和しているのだ。これはやはり小津にしか出来なかったスタイルだろう。
武満徹が、タルコフスキーの映画を音楽だと言ったことがあったが、小津安二郎の映画もやはり完璧に構成され、なおかつ停滞することなくなめらかに流れていく音楽である。そして、「秋日和」は小津の作った最も美しい音楽の一つだったと思う。
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2011年01月07日

小津安二郎「晩春」雑感



原節子の小津デビュー作。1949年の作品だから原節子は当時29歳である。他の小津作品を見ていて思うのは、小津と原節子があと5年早く出会っていたらということなのだが、こればかりは仕方ない。そして、笠智衆と原節子が実の父娘役をしている貴重な作品でもある。役柄の設定でも、原の若さでも小津の理想的で典型的な作品とも言える。
そして、同時期のモノクロ作品と比べても、やはりこの作品の原節子が一番美しいと感じた。それにしても原節子というのは一体なんなのだろう。全く同時代を経験していない私のような人間にとっても、やはりフィルムを見ていると完全に別格の存在であり続けている。早めに引退してその後世間に全く姿を現していないのも実に賢明である。
この作品ではファッションや髪型や化粧も、同時代の欧米の女優を連想させる感じのものである。その美しさや華に圧倒されるしかない。ただ、たんなる美しさだけではなくあの圧倒的な存在感は本当になんなのだろうか。と、懐かしく見ながらすっかりミーハーなファンになってしまった。要するに私も相応に歳をとったということだ。
そして、父親の笠智衆に三宅邦子との再婚話が持ち上がった際の、原節子の表情のこわさといったら。ひびります。能楽堂で三宅邦子を睨みつける顔、自宅で笠智衆に向ける冷たい視線。おっかないです。やはり黒澤明の「白痴」を思い出してしまうが、原節子はたんなるアイドル女優でなく内部に過剰な何かを持っていた人である。
杉村春子も笑わせてくれる。鎌倉で財布を拾って警察に届けるとか言いながら、警官が通りかかっても気がつかずに知らん振り。原節子の結婚相手の名前が熊太郎で「私は何て呼べばいいんだろう、熊太郎じゃ山賊みたいだし、熊さんじゃ八っあんみたいだし、熊ちゃんもどうかしら、だから私はクーちゃんと呼ぼうかと思っているの。」そして笠智衆が「くーちゃん?」と驚いたように反応するのが絶妙すぎて腹を抱える。さらに、「おまえ、財布を忘れずに届けておくんだぞ」と。結局届けていなかったのかよと。絶対そのまま忘れるだろと。この辺りは小津一流の見事なとぼけたコメディである。
原節子が、京都の旅行先で笠智衆に対して「お父さんとこのままずっといたいの」というシーンもすごい。あまりに艶かしくてドキっとする。小津の演出意図がどういうものか知らないが、あれは単なる父親に対する思慕の念を完全に超えてしまっている。それに対して笠智衆が夫婦の道について真面目に熱弁をふるって原も素直に納得するのだが、見ている人間はあの原の生々しさにとりつかれたままである。これも小津独特の日常に侵入する非日常の見事なシーンだと思う。原節子という特別な役者のせいなのか、小津の演出なのかは良く分からない。多分両方なのだろう。
そして原節子が花嫁姿で笠智衆に挨拶する定番の名シーン。杉村春子が、部屋を出る際にぐるりと能の様に回る名演技つきである。同じシーンが「秋刀魚の味」で笠智衆・父親、岩下志麻・娘で繰り返されるのだが、そこではきちんとした挨拶を笠智衆が「わかっている」といって省略させるのが粋だ。やはりあの挨拶はこの時代にしか合わないと感じる。そして、何と言っても原節子が綺麗過ぎるのだ。(こればっかりだ。
演出的には、最後のリンゴを取り落とすシーンとか、雑誌が転げるシーンとかは小津の若さや時代を少し感じさせる。後年の円熟した小津はこういうのはやらないだろう。
ただ、ラストに挿入される夜の海のシーンはやはり小津調だ。「東京物語」でも、笠智衆と東山千栄子が熱海にいく場面で、熱海の海が唐突に挿入されるのだが、あの感動は一体なんなのだろう。「秋日和」のラスト近くで原節子と司葉子の母子が旅行する際に秋の山がいきなり挿入されるのだが、若い時に私が初めて見たときに異常に興奮して感動したのを思い出した。日本的な感性で、家族の小ドラマと自然が対立することなく感応しているというり理屈っぽくなってしまう。言葉では表現不能な、それまでの人間ドラマと自然のシーンの必然的連続性、映画的言語の文法が小津映画には間違いなくあると思う。あれらはちょっとここで自然の光景を入れておこうとかいうことでは決してないのだ。
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2011年01月06日

小津安二郎「麦秋」雑感



コメディタッチの軽快な作品で、原節子が明るく屈託のない女性を演じている。真面目だったり耐え忍んでいたり屈折したり凛々しかったりする役柄でなく、こういうひたすら明るい原節子が見られる作品は意外に珍しいのではないだろうか。その姿を見ているだけでも幸せな気分になれる。1951年の作品だから、原節子31歳だ。ただ、映画の中の役柄では「28歳です」と若干サバを読んだりもしている。
「東京物語」のような作品の方が、芸術的に高く評価されやすいのかもしれないが、個人的には小津のモノクロ時代の一番の傑作にあげたい作品である。小津には本質的にこういう色調の映画の方がピッタリくるように感じる。ちょっと、フランク・キャプラの映画のような臭いもするホッとする作品である。
笠智衆が原節子の縁談を勧める為に、突然寝室の襖をを開けて三宅邦子を驚かせて、三宅がのけぞって驚くシーンなどは、ちょっとしたサイレントのコメディ・タッチだ。
個人的に一番好きな小津作品なので、たくさん言いたいことがあると思ったのだが、とくに取り立てて書きたいことも意外にない。見て楽しめばそれで十分という種類の傑作である。
ラスト近くで、家族の心配をよそにお茶漬けをすする原節子が妙に生々しい。
そして、原節子と三宅邦子が海岸の砂丘で語り合う美しいシーン。似たような衣装で似たような動きを見せる小津パターンの独特な様式感。そして、縁談問題の重苦しさから開放されて、広々とした海辺で晴れ晴れとして二人の女が語り合う。そして、原が砂丘から駆け下りていく後姿をカメラが追い、三宅もそれを追って駆け下りてゆく。さらに、海辺を靴を脱いで静かに満ち足りて歩いてゆく二人。本当に素晴らしいシーンである。
「東京物語」の笠智衆と東山千栄子が東京を彷徨うシーンと似たところがあり、ありふれた日常生活を送りれながら、そこから静かにだが確実にずれて生の本当の姿を垣間見させる瞬間が小津映画には、どの作品にも織り込まれている。そうした日常と非日常を大袈裟に対比させるのでなく、ちょっとだけ日常をずらせてみせることで魅力的に表現するのが小津映画なのである。
だから、題材にはドラマティックなものはいらない。日常的な家族の出来事で十分なのだ。しかし、他の表現主義的などんな映画よりも、小津の作品は非日常を鮮やかにフィルムに焼き付けている。
そもそも、映画とはそういうものではないだろうか。
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2011年01月05日

小津安二郎「東京物語」雑感



先日、TSUTAYAで中古の小津安二郎ボックスをみつけて衝動買いした。収録されているのは、どれも何度も見たことがある名作なのだが、好きな時にすぐ引っ張り出して観ることが出来るのはありがたい。正月にまとめて何本もみて懐かしかった。

付録特典DVRに、ヴィム・ヴェンダースのインタビューが入っている。小津映画の美意識について語るのかと思いきや、小津映画の家族について熱く語っている。小津映画に登場する家族は美しく、ある種家族の理想形だとか何とか。正直、本気かよと思った。日本人が小津映画の家族を観る目はもっとクールだろう。ある時代にはそういう家族もあったけど、基本時には美化したフィクションであり、小津も何かテーマが必要なので家族の物語をもってきただけで、それを描き出す小津の美意識、様式観があくまで肝なのではないかと。
しかし、ヴェンダースの熱弁を聞いていて、確かに小津映画の「家族」というのは確かにありえないがそうあるべき家族の姿を描き出しているのかもしれないと思い始めた。日本の家族だって、現実は勿論あんなに超俗的な美しいものじゃない。しかし、現実の家族の醜さを描き出すという手法などくだらないとも思う。現実の家族の真実が、放っておいてもにきついものなのにわざわざそれを映画にするまでもあるまい。だから、ありえない普通の家族を描き出すのがよろしいという小津の達観した視点。
そもそも、小津自身が終生自分の家族を持たなかった人だった。だから、小津映画の家族というのは小津自身にとっても憧れの存在なのだろう。ヴェンダースのような外国人がどう思っているのかは知らないが、あれは一種の家族の昇化した理念形なのであって、現実にはないが本来そうあるべきイディアなのだ。だから、小津の通俗的な部分を一切排した芸術的な思考が、その題材に合致するのだ。けっして、小津には現実の歴史ものなど撮れないだろう。

だいたい、小津安二郎の「普通の」家族に登場する俳優が全然普通じゃない。そもそも、原節子や笠智衆が出てくるのだ。この「東京物語」の原節子は彼女の代表作といってもよいある典型的な姿を表現している。心優しくて清らかで美しいごく普通の娘。そして、原節子は見事にそれに成りきっているわけだが、勿論原節子は全然「普通の」存在じゃない。だいたい外見やスタイルからして日本人離れしている。同時代の西欧古典映画に登場してもそんなに違和感はないだろう。原節子は本来日本かなんかに生まれるはずじゃなかったのに、小津や成瀬や黒澤など黄金期の日本映画に出演するために、間違えてあるいは敢えて日本に生まれてきた存在のように思える。
原節子のこの「東京物語」の役と一番対照的なのは、黒澤明の「白痴」におけるナターシャだろう。原節子は、あの難しい役を見事に演じきっている。心に憎悪と悲しみとと愛を抱え込む「普通」とは対極のこの人物を黒澤が徹底的な表現主義的な手法で演出しているのだが、それに原は過剰な演技で見事に応えている。原節子自身も内部に異常な過剰な何かを抱えている存在だったはずである。だからこそ、「東京物語」の紀子のような普通そのものの存在になりきれるのだ。小津にも同じことが言える。「東京物語」は全く普通ではない人達がつくった普通な家族の物語なのである。

脇役では、例えば小津映画の常連の三宅邦子なども印象的だ。「麦秋」でも「東京物語」でも原節子の義姉役として登場するのだが、やはり彼女もどこか日本人離れしたところのある役者である。やはり古典のドイツ映画にでも出てきそうな容貌と雰囲気を湛えていて、個人的に小津ガールズの中でも好きな女優だ。特に「麦秋」ラスト近くでの原節子と二人の海岸のシーンは―敢えてこの表現を使うが―エロティックですらある。小津映画に常に起こることだが、日常的なシーンにふと侵入する得体の知れないものがでている。そして、そういうものを表現するには、原節子や三宅邦子がごくごく普通の家族の一員として生活していなければ「ならない」のだ。小津映画の必然性である。

改めて「東京物語」をみると本当に美しい映画だ。そもそも、私は「東京物語」をそんなに買っていなかった。むしろ、モノクロ時代では「麦秋」の方がはるかに好きだった。ああいうコメディタッチが小津の本領で、悟り済ましたような「東京物語」は小津本来のものではないと。例えば「東京暮色」はトラジディを描こうとして失敗している作品で、結果的には最大のコメディのよゆうに仕上がってしまっている。小津に悲劇は似合わない。しかし、「東京物語」を改めてみてその美しさに素直に感嘆してしまった。それは、この作品が悲劇だからではないからだろう。
実はこの作品は、笠智衆と東山千栄子の老夫婦が東京で居場所がなくて放浪する物語である。その一種の切なさと無常感が小津独特の美意識の映像と実によくマッチしているのだ。家族の物語というよりは、二人の老夫婦が世界から外れた場所で意味なく漂う物語なのである。基本的に小津にはコメディが似合うという考え方に変りはないのだが、偶然テーマが小津的な感性にピッタリと合致したとでもいうか。「東京物語」は、よく思われているように小津の典型的な家族の物語なのではなく、例外的な非家族の物語なのである。そして、笠智衆と東山千栄子の姿は、世間からどこか寂しく離れた位置にある小津安二郎の姿そのままなのだろう。だから、この物語はむここまでリアルで切実なのだ。笠智衆が物干しで佇む姿や二人が公園で座っているシーンの寂しさと美しさ。

しかし、小津映画ついては各シーンの構図美について語らないと仕方ないだろう。そして、それが一番文章化するのが難しい部分だ。言い出したらきりがない。映画を観るしかない。私が改めて感嘆したのは、例えば、東山千栄子が死んで笠智衆が朝の海の前に立つところに後姿の原節子が駆け寄っていくシーン、笠智衆と東山千栄子が電気の消えた二階の部屋で静かに佇むシーン。
そして、前述したテーマとの関連で、笠智衆と東山千栄子が絡むシーンは、全て例外なく詩的で美しい。
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