2011年01月31日

成瀬巳喜男「春のめざめ」メモ

1947年の作品。久我美子が女子高校生を演じている。
思春期の男女高校生の、異性に対する意識や性の目覚めを描いた作品。さすがに時代を感じさせるテーマだけれども、高校生の描き方や、その時代の風景などが、なんとものどかで懐かしさのようなものを感じさせる。と言っても、私もその時代をよく知らないが。少なくとも、成瀬の現代ものを見た後だと、時代にはまっていると思う。
成瀬らしい映像もあり、特に嵐の晩の映し方は美しくて見事だ。成瀬の映画には雨が頻繁に登場するが、どのシーンもピッタリはまっている。
また、爽やかな青春ドラマなのに、女友達の中にに芸者の家族がいるのも成瀬らしい。
純真無垢な役柄の設定の久我美子が、両親に勉強で悩んでいると言ってウソの涙を流して、妹にそれを打ち明ける場面は、ちょっと意表をつく。成瀬らしくて面白い。また、妹に「お姉さんは大人なの」と言われて、不安定な感情が爆発して笑いころげるシーンも印象的だ。随所に成瀬的な演出の妙味を味わうことができる。
ただ、志村喬の父親に息子が「好きな娘が出来た」と打ち明け、志村も「よくいった」と褒めるシーンは、さすがに現在ではありえない。現代にそんな父子がいたら相当気持悪いはずなのだけれども、この時代だとそんなんに違和感はなかったのだろうか。さすがに、そんなことはないような気がするのだけれども。






posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

成瀬巳喜男「乱れる」メモ



「女の座」と設定や役者や雰囲気が似ていて姉妹編のような作品。なんだかテレビのホームドラマの大家族もののようだ。と思ったらテレビドラマがもとらしい。なるほど。
「女の座」でも変わり者のオールドミスを怪演していた草笛光子が、ここでもイヤな女をやっていて憎たらしくて素晴らしい。前半は、コメディタッチで加山雄三もうまくはまっている。後半は、加山と高峰秀子の純愛の様相を帯びる。加山に告白された際あたりで電話の会話のシーンで見せる高峰の女らしい表現はさすがに巧みである。「浮雲」のような世界が展開されるのかと、ちょっと期待してしまう。但し、真剣な愛のシーンになると、加山の方はちょっと繊細さに欠ける。そういう役の設定だけれども、こういう愛のドラマの高峰の相手役としては、すくし物足りなくて役不足のように感じてしまう。
そしてラストもあまりに唐突だ。全体に、脚本が粗い。コメディっぽいホームドラマのようだったり、少し練れてない愛情劇だったり。まだ、「女の座」の方が、コメディに徹していて面白いと思う。どちらにしても、成瀬が現代劇と取組んで苦戦しているように思えてしまう。どうしても古い時期の素晴らしい成瀬作品と比べてしまうと。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月29日

小津安二郎「小早川家の秋」雑感



松竹の小津が唯一東宝で監督した作品。東宝のスターにまんべんなく総出演させているせいか、作品全体の凝集力、テーマの統一性はやや低いと感じる。他の小津の後期の名作郡と比べると、やや印象の薄い映画である。
いきなり冒頭から森繁久彌が登場するが、これが全然小津の様式感とマッチしていない。まるで、駅前シリーズや社長シリーズのキャラクターのまま演技している。余計な細かい動きや小細工が多すぎる。この映画を最初に見たときから、私はそう感じて、ちょっとイラッとしたのだ。
それが、今回ウィキペディアを読むと、森繁久彌は「小津をへこましてやろうという闘争心剥き出しだった」そうである。いやはや、そういうのって画面からハッキリ伝わるものなのですね。小津も、多分諦めて森の好きなようにやらせたんだろうなという感じの映像である。そんな森も原節子にキッパリ振られていいキミである。
中村鴈治郎が老いてなお妾役の浪花千栄子のところへ入り浸るのだが、その辺りの描き方は流石に見事だしいいと思う。その物語だけに専念して描いたいたらと思うのだが、なんせ他にも色々な話題が断片的に登場しすぎなのだ。
中村鴈治郎が孫とキャッチボール際の奇妙奇天烈な投球フォームが面白い。
団令子が浪花千栄子の娘役で登場する。最初に来て出てくるドレスがなんだかすごい。成瀬の「女が階段を上る時」では、中村鴈治郎を誘惑して銀座でバーを開いていたが、ここでもミンクのコートをねだったりしている。やはり強烈な個性の役者だ。
原節子と司葉子が、コンビのように何度か断片的に画面に登場する。小津的な不自然な同じ動きで。この二人が出てくるシーンは、独立したシーンとしては見ものなのだけれども、勿体無い使い方だ。司葉子の関西弁は、ちょっと下手くそかも
ちなみに、「浮草」に宮川カメラによって小津では唯一の俯瞰シーンがあると書いたが、実は原節子と司葉子を思いきり俯瞰で映しているシーンがあった。それと似た感じで思い出したけれど、「東京物語」の熱海で笠と東山が海岸で座るシーンも俯瞰だった。競輪のシーンが俯瞰になるのはこれは仕方ないけれど。探せば、もっとあるのかもしれない。
ラスト近くで笠智衆と望月優子が川で仕事をする夫婦で登場する。「お茶漬の味」でもそうで、望月にセリフもほとんどなかったが、ここでは重要な役割を果たしている。
その二人も登場するラストの中村鴈治郎の葬儀のシーンは、小津もかなり力を入れていて、かなり小津的な出来栄えになっている。但し、黛敏郎の音楽は、あまり小津には合わないと思う。「おはよう」でも担当していてあれはそれなりにキャラクターがあっていたが、やはり小津の音楽は斉藤高順で決まりだ。
原節子と司葉子が二人とも黒の喪服の着物の川辺のシーンはとてもいい。「麦秋」のラストの原節子と三宅邦子のシーンを何となく思い出してしまう。原は若い方の役から年長の方に変化するが。
それ以外にも煙突からの煙、黒の喪服で全員で橋を渡るシーン、笠と望月の会話、川辺の風景や烏など、このラストの映像詩を観るためだけでも価値があるかもしれない。
というわけで、ホームではない東宝でとったために色々な違和点もあるが、部分的にはみどころの多い作品である。




posted by rukert | Comment(2) | TrackBack(0) | 映画

黒澤明 「一番美しく」感想



戦時中につくられた映画。背景が気になるが、ウィキペディアによると、敗戦濃厚な戦争末期に撮られたそうである。当然、当局の戦意高揚の意図にそっているが、黒澤は「敵国」アメリカのスーザの曲を使うなど、ささやかな抵抗も示しているようだ。検閲で気がつかれなかったのだろう。あるインタビューでこれは「反戦映画ですよね?」の問いに、明言はしなかったものの、そういう「含み」もあった映画だと認めているそうである。黒澤が自作の中で「一番可愛い」といい、木下恵介は黒澤作品の中で一番好きな作品としてあげているとのこと。
当然、そういう政治的背景や検閲の問題は重要だけれども、そういう部分を全てカッコに入れて見た場合にも、なかなかの映画である。若い女性だけが大人数集合した独特の世界。男だけでは絶対に出ないものを巧みに映像で描写している。
とにかく、全員が一体となって協力しなければいけない状況下で、一人一人の女性が健気にふるまい、結束して目標に立ち向かう。そして全員明るくて活気に満ちている。「渡辺さん」という強烈な個性のリーダーがいて、彼女たちを優しく大きな包容力でつつみこむ寮母の水島徳子(入江たか子)がいる。そういうある種メルヘンティクなまでに、善意の人間性だけで成り立つ女性集団を黒澤は描き出している。黒澤らしいヒューマニズムだ。
たまたま、戦時中の女性たちが題材だが、黒澤はそういう人間を描こうとする監督だった。「赤ひげ」の強烈なヒューマニズムもそうだ。それは、恐らく現実世界にはありえないのだろうが、そういう美しい人間性の幻の世界に対する率直な憧れのようなものが黒澤にはある。むしろ、そういう理想主義的な部分は、当時の他の日本の映画監督にもなかったかもしれない。それを「甘さ」と解釈する向きもあるかもしれないが、私は黒澤のそういうところが好きである。
もっとも、この映画で彼女たちのモティベーションになっているのは「お国のため」という名目である。だから、冷徹に批判するならば、彼女たちの意図は純粋でけがれがないけれども、戦争に加担してしまっているという見方になりかねない。しかし、そんな見方は実にくだらない。戦争について、客観的な視座で捉える必要もあるが、それとは別に当時の人間の生身の立場にたって考える必要もある。むしろ、その方がよほど大切だ。そういう意味では彼女たちの姿は「一番美しい」のである。
先ほど紹介したインタビューとの関連で言うと、この映画は単純な「反戦映画」などではないと思う。黒澤がはっきりこたえずに「含み」もあると答えたのはね決して誤魔化したのではなく正確な答えだろう。なぜなら、黒澤は彼女たちの置かれた状況とそれに立ち向かう姿を心から愛して描いていて、それは皮肉でもなんでもないから。
恐らく「反戦」と解釈するのは、そういう状況に彼女たちを追い込んだ戦争に対するプロテストという意味だろう。しかし、黒沢はそんな単純な意図でこの映画を撮っているのではないような気がする。戦争に限らず、人間は自由に正しく行為できる状況では暮らしていない。それは、戦争中でも平和な今でも同じだ。そういう中で、人間がどう「美しく」生きられるかということを黒澤は考えているのではないだろうか。
これを知的な理解で一ひねりした「反戦映画」だと解釈されたりするのは、黒澤にとってはあんまりうれしいことではなかったような気がする。だから、黒澤のはっきりしない応えかたになるのだ。映画は、表面的な批評や浅い解釈をはるかに超えている。もし映画に価値があるとしたら、恐らくその点にしかない筈だ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月28日

小津安二郎 「浮草」雑感



小津と宮川一夫NHKが唯一組んだ作品。BSで宮川一夫ドキュメンタリー番組でも、この映画のことを取り上げていた。
宮川は少年時代に、陽が射す縁側に置いてあった金魚鉢に薄墨を流し込んだ際にきらめいた金魚の色彩が忘れられなかったそうである。そういう原体験があり、赤へのこだわりがあり、同じく赤が好きな小津と出会う。この「浮草」では、ほとんどあらゆるシーンに赤が組み込まれている。何度も映って印象的なのは、杉村春子宅の庭に咲き誇る赤い花だろう。
また、小津映画には少ない激しい雨のシーンは宮川の影響ともいえる。中村鴈治郎と京マチ子が、激しい雨の中で向かいあう軒先で激しく言い合うシーン。確かに、美しい映画的な場面なのだけれども、なんとなく小津的ではない。静的形式感の小津映画に、溝口のドラマティックな要素が、宮川を通じてながしこまれたということなのだろうか。
さらに、若尾文子と川口浩が逢引するシーンで、川口の顔が暗く隠れるのも小津映画では珍しいそうである。確かに妙に暗示するような映し方などしない小津映画では珍しい。
全て私は、「浮草」を見返してから、宮川のドキュメンタリーをまた見てみたのだが、確かにこの二つのシーンとも、とても印象的であると同時に小津的でない違和感も感じたのだ。特に後期の小津は、常に静的な絶妙な均衡が画面を常に支配しているのだが、そこに宮川が亀裂をもたらして動的な緊張をもたらしているとでもいうか。この「浮草」は、後期小津には少し珍しい「ドラマ」なので、宮川カメラがあっていたのかもしれない。
きわめつけは、冒頭あたりで旅一座が、チラシを配るために町をねり歩くシーン。はっきり俯瞰カメラである。これは、ローアングルの小津映画ではほとんど唯一だそうである。さらに、笠智衆が楽屋を訪れるために道を歩いてくるシーンも俯瞰気味で珍しいとのこと。
それと、余計なことだが、宮川は女優を美しく映すことでも定評があり、それはやや上からのアングルであごの線がはっきりするからだという。私は、小津映画と成瀬映画を見ていて、どうも成瀬映画の方が女優がきれいに撮れていると感じていたのだが、小津のローアングルもそう感じる理由の一つなのかもしれない。
映画自体は素直にとてもよい。ラスト近くの中村鴈治郎、杉村春子、若尾文子、川口浩のシーンで不覚にも号泣してしまった。普通によく描けている。だいたい、後期小津で「泣く」映画など基本的にありえないのだが、後期にこういう作品が残っているのも、なんとなく嬉しい。
中村鴈治郎と杉村春子のからみなども、二人とも実にうまい。杉村も抑制気味の演技の中に全てを表現していて見事だ。後期小津のホームドラマではなくて、旅一座の人間の物語なので、役者も自由に演技したり表現したりする余地のある作品になったのかもしれない。
そして、京マチ子も若尾文子も普通に美しい。女優が「女優」であった古きよき時代である。
posted by rukert | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画

木下惠介「カルメン故郷に帰る」感想



最近、昔見た古い映画―中には細かいところはすっかり忘れてしまったものも多い―を手当たり次第に見ているのだけれども、結果的に亡くなった高峰秀子の追悼のようになっている。私はどちらかというと原節子派なのだけれど、やはり日本映画に対する全般的な貢献や日本の女優らしさという点では高峰秀子の方よとるべきなのかもなのかもしれない。もっとも、二人は全然個性が異なるので比較しても無意味だけれども。
1951年の作品。国産初のカラー映画である。この年には、小津の「麦秋」、黒澤の「白痴」、成瀬の「めし」も生まれていて、とんでもない年である。まさしく、日本映画の黄金期だ。どうしてこの時代の映画は、どれもこれも例外なく素晴らしいのだろう、。
ほとんど、屋外ロケで浅間山が美しい。木下の人物の描き方も、全く曖昧にところがないがそれでいてキメ細かでもある。どの人物も、悪役を含めて気持ちよいのだ。
この映画から受ける感触に、どこかしら覚えがあると思ったら、ジョン・フォードの西部劇だ。広々とした山の光景、馬が働き、牛が放牧される。そして登場人物はみんな例外なく人の良さを残している。都会で働くカルメンを含めて、都会人ではなく、「西部劇」に登場する人たちのようだ。
笠智衆の校長がとてもよい。見事な一本背負いを披露して悪役の丸十を投げ飛ばしたりするのだが、その後に「教育者たるワシが、しかし後悔はせん」とか何とか言う、全てそんな調子で、のどかそのものなのだ。笠智衆の真面目で不器用で実直な個性がすごくいきている。
他の役者のキャラクターも分かりやすい。佐野周二の盲目で心が美しい村の音楽家、それを馬をつかって女手一人で働いて支える聡明で美しい妻の井川邦子。真面目で爽やかで純情な高校教師、佐田啓二。悪役の丸十もその手下もどこか憎めない。
カルメンの姉役の望月優子が、人懐っこくて人がよくて明るくて田舎の人のいいお母さん的でハマリ役である。成瀬の「晩菊」でも素晴らしかったが、この時代の個性的で魅力的な貴重なバイプレイヤーの一人である。
高峰秀子は、自分では芸術家と言っているが、実は都会でストリッパーをしている。と、ウィキペディア等、どこにもそう書かれているのだが、そういう設定なのだろうか。坂口安吾のエッセイなど読むと、あの時代にはレビューダンサーというのがいて、銀座などのダンスホールでセクシーな衣装で踊っていたそうだ。それは、一応いわゆるストリッパーとはちょっと違うと思うのだけれども。カルメンも友達も、自分たちの踊りを「芸術」と呼んでいるので、彼女たちの仕事は、東京のダンスホールの踊り手なのではないだろうか。よく分からないのだけれども。
とにかく、高峰秀子が伸びやかな健康美を惜しげなく披露して、浅間山をバックにダンス仲間の小林トシ子と踊るシーンは、なんとも不思議で美しくてよい。
田舎の人間たちも、彼女たちを尊敬するわけでもなく拒否するわけでもなく、憧れるわけでも見下すわけでもなく、彼女たちの存在と踊りを楽しんで逞しく受け入れてしまうのだ。日本の田舎は意外に排他的ではなくて、外国などの異質な文化を寛容に受容する。実際に東北の一部など。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

溝口健二「祇園の姉妹」メモ



1936年の作品。一部のフィルムが失われているために、最後はやや唐突に終わるのだが、山田五十鈴の演じる芸者「おもちゃ」が、「芸妓なんて、こんなもん、なかったらええんや」と叫ぶのが切実だしラストでもおかしくないと思わせる。
当時、山田五十鈴は19歳くらいである。美しいのもそうなのだが、あまりにも上手いのに驚かされずにはいられない。闊達な演技、女性の魔性と魅力。まさに天才少女である。
同年の「浪華悲歌」同様、全く古さを感じさせない。それどころか、後期の溝口の大作郡よりも、より自由に率直につくっているので本当に「溝口らしい」映画とは、こういうものだったのではないだろうかと思ってしまうのだ。
古い映画なので、山田五十鈴以外の役者はサッパリ分からないのだが、声だけで進藤英太郎だと分かるのは流石である。ダメになった問屋のオヤジ役の志賀迺家辨慶という人も実にいいアジを出している。
山田五十鈴の、男の騙しっぷり、あしらいっぷりが見事すぎる。ラストシーンのように芸妓という存在のつらさ、悲しさを切々と描いた名品なのだけれども、むしろそういう世界に対する懐かしさのようなものを感じさせずにはいられない映画でもある。男と女が、駆け引きして騙しあい、愛し合い、憎しみ合う世界の懐かしさ。そして、溝口は、山田五十鈴に芸妓という存在の悲しさを語らせ、その社会的意味もある程度は認識しながらも、そういう世界を愛し、そういう世界を生き、描かずにはいられにない人だったのだろう。
この「祇園の姉妹」や「浪華悲歌」は本当に溝口らしくて素晴らしすぎて言葉を失う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月27日

小津安二郎 「宗方姉妹」雑感



何と言っても山村聡と田中絹代と夫婦喧嘩・・を通り越して対決するシーンがすごすぎる。山村が狂ったように田中の顔をひっぱたき、田中が微動もせずにそれを受け入れる。
このシーンに限らず、二人を描き出す小津の演出力は見事だ。「東京暮色」で、小津に悲劇は向かないなどと書いたばかりだけれど、舌の根のかわかないうちに前言撤回しないといけない。いや、本質的にコメディの方があうとは今だに思うのだけれど、少なくともちゃんと悲劇を演出する能力があることだけは確かだ。
だとすると、「東京暮色」が、あんなにうまくいっていない(と私は感じる)のは、なぜかしら。役者と脚本のせいなのかなぁ。この「宗方姉妹」がうまくいっている要因は、間違いなく山村聡と田中絹代が素晴らしい役者だということだし。東京暮色」は、撮り方をちょっとひねっているのが関係しているのかもしれない。この「宗方姉妹」は余計な小細工せずに、そのまま二人を撮っている。
さて、二人の名演はさておいて、この脚本に描かれている二人について感じたこと。大佛次郎の原作で、それをどの程度忠実に再現しているのかは知らない。が、私は田中絹代の演じている節子という女に全然共感できない。山村聰の演じる夫、三村亮助に献身的に尽くす妻である。しかし、昔に上原謙の演じる田代宏と、お互いに好意をもちあっていて、それを日記に書いていたのを三村に読まれてしまう。無論、それは昔の話だし、二人の間には何もないのだが、現在も二人は好意を胸にしまったまま会って、節子は田代の援助を受けようとする。それを三村は知って、嫉妬に苦しんで怒る。これは、当然ではないか。だって、二人は好意をもちあっているのに、それを知らぬ振りをして、夫には忠義を尽くす立派な妻であり続けようとしているのだから。
三村は、仕事もなく精神的にもダメ男なのだけれども、もしそうでなくとも怒ったり苛立ったりするが自然だろう。そして、実は精神的な裏切りをしておきながら、平然と私はちゃんとした妻でございますという顔をしている節子に、「おまえのそういうところが我慢できないんだ」と逆上して何度も殴りつけてしまう三村の気持も、痛いほどよくわかってしまうのだ。(あっ、あんなに女の人を殴りつけていいというわけじゃないです・・。)
節子という女は、表面的な好意や態度では立派な妻だけれども、実は全然三村のことを愛していないし、むしろそういう「立派な妻」としての自分を愛しているのだと言わざるをえない。むしろ、田代が好きだといって、三村の元を去ってくれた方が、三村にとってはまだマシだろう。表面上は立派な妻であり続けながら、精神的には三村を苦しめ続けるのだから。
ついでに言うと、田代という男も田代という男だ。本当は、節子が今でも好きなくせに、それを表には出さずに節子を財政援助しようとする。節子も田代も、自分たちでは全然意識していないが、善人ぶった恐ろしく残酷な人たちなのである。
だから、私は三村がどんなにダメ男でも、すっかり同情して見てしまったのである。だからというわけでもないが、ここでの山村聡の演技は本当に素晴らしいと思う。酒に溺れて苦しみのた打ち回るみじめな姿が、何ともやりきれないのだ。
小津は、勿論私が書いたような見方、演出をしているのではない。節子は、真面目な夫に尽くそうとする女で、何も悪い事をしていない。だから、田中絹代は夫に何を言われても毅然としていられるのだが、私がいま書いたような見方からすると、そういう田中=節子の自分の悪を自覚していない態度が実に空恐ろしくて、見事な演技だと感じる。小津の演出意図とは全く違うところで、私は田中の演じるある種の古い女の姿の恐ろしさに震撼させられるのだ。
上原謙の演じる田代もそうだ。小津は彼を、優柔不断だけれどもいい男として描いているのかもしれない。しかし、例えば、田代と
節子が一緒になろうと決意した夜に、三村が酔って「仕事が出来た」(多分でまかせ)といいに来た際に、田代は何の邪気もない笑顔で「おめでとう」と言うのだ。これも田代には何の悪気もないのだろうが残酷すぎる。せめて、節子をなぐったことを怒り、三村を責めて、修羅場になってもいいから、物事をはっきりさせてやるのが、人間的な行為ではないだろうか。しかし、上品な田代は決してそういうことをしない。私は上原謙の笑顔にゾッとして感心するのだが、勿論それは小津の演出意図とは関係ないことだ。
さらに、三村が急死した後も、節子は三村が気になるといって田代と一緒になることを拒む。そして、田代も無理に説得せずに「いつまでも待つ」とまた笑顔でいう。これも私には全然美談には思えない。そういう、おまえたちの偽善のせいで、どれだけ三村が苦しんだのか、まだ分からないのかと、三村にかわって逆上しそうになるのである。
というわけで、私は脚本には全然共感できなかったのだが、作品としての迫真性にはすっかり圧倒されたわけである。
冒頭には、小津のサイレント時代の大主役の斎藤達雄が登場したりする。そして、高峰秀子が新時代を象徴する若い娘として登場する。もっとも、私に言わせれば、姉の節子に同情している時点で、節子と考え方は違っても、「旧時代」だけれども。本当の「新時代」なら、三村に同情しないといけないはずだ。
高峰は、舌をペロッと出したり、声色を使ったりして大奮闘である。やはり、高峰の存在感はすごいものがある。いきなり、ストッキングを直すために、スカートを自分でめくりあげて美脚を披露する場面があったりして、小津映画なのでドキッとしたりする。
京都の風景が、ふんだんに使われていて美しい映画でもある。内容とは対照的に。
posted by rukert | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画

小津安二郎 「お茶漬の味」雑感



1952年の作品。1951年の「麦秋」の次の作品であり、基本的に似たようなコメディタッチの映画である。
「麦秋」では、原節子の結婚をめぐって、兄と妹、両親と娘の関係が中心になるが、この作品では木暮実千代と佐分利信の夫婦の物語である。
小暮が小津作品では珍しいが、夫に対して腹を立てるシーンの迫力などみると、やはりはまり役である。小津も、そういう効果を狙ったのだろう。どんな男だって、木暮実千代にあんな剣幕でどやしつけられたらビビります。
といっても、夫婦の深刻な問題ではなく、ものの食べ方などちょっとした感覚の違いによる夫婦喧嘩、といてうよりは小暮が一人で怒っているのである。そして、最後は和解する。仲直りした木暮実千代が、ノロケ話をしまくって、淡島千景と上原葉子を辟易させるシーンはなかなか笑えるのである。
でも、「麦秋」と「お茶漬の味」のどちらをとるかというと、やはり「麦秋」になってしまう。冷静に考えるとコメディとしてのレベルは同程度のような気もするのだが。木暮実千代も素晴らしい女優だけれど、やはり小津映画には原節子が似合うということなのかなぁ。
それと、夫婦関係よりも血のつながりの関係がテーマとして小津に合うというのもあるのかもしれない。どちらも、基本はコメディなのだけれども、軽い話の中に深い奥行きをもたらすテーマとして、小津の場合は、他人同士の夫婦の関係よりも、もっと理屈抜きの原始的な血縁関係が向いている。小津映画は、さりげないどうでもいい話のようでいて、ひょっと人間の本能の根源の姿を垣間見させるところがあって、だから親子の本能的な関係が適しているといったら強引過ぎるか。
若き日の鶴田浩二が出ているのも珍しいが、ちょっと加瀬大周と似ていたりする。
笠智衆がパチンコ屋のオヤジで登場するが、その奥さん役で望月優子がチラッと登場する。この時期の映画を見ていると、同じ顔ぶれがいろいろな形ででてきて面白い。
小暮の女友達の、黒田高子役の上原葉子(小桜葉子)が、健康的な美人で、妙に人をひきつける存在感がある。私は知らなかったのだが、上原謙夫人で加山雄三のおっかさんだそうである。結構若い感じて、近い時期に黒澤映画に出ていた加山雄三との年齢関係がよくわからなかったのだが、ウィキペディアを読むと、19歳の時に加山を生んでいるそうだ。
そして、美容体操の元祖でもあるそうだ。小暮が佐分利に旅行先から電話して、「高子が病気なの」とウソをつくシーンで、その背後で当の上原葉子が元気一杯に伸びをして笑わせるのだが、その動きに妙にキレがあって納得させられたのであった。
それと、鶴田浩二がバーで飲んでいると、女給が画面に入ってきて佐分利信を「いらっしやい」と迎えるシーンがあるが、その女給が、北原三枝だそうである。石原裕次郎の奥さん、石原まき子である。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月26日

成瀬巳喜男「女が階段を上る時」メモ



1960年の作品。モノクロ。
高峰秀子が銀座のママを演じて、そこを行きかう人間模様を高峰を中心にして描いた作品。成瀬映画は、この60年辺りからは現代ものになってきて、それまでの芸術的な成瀬映画とは別ものだと割り切って見たほうがいいのかもしれない。とにかく、オールスターキャストで、それぞれの役者の個性を楽しめる作品てせある。
バーのホステスでは団令子の甘えた、ちゃっかりした女性ぶり。ある種の怪演ぶりだ。ウィキを見たら「椿三十郎」にも出ていたらしい。そうだっけ。
女の世界で、バーのホステスが多数出てくるが、成瀬映画なのに、なぜか男性陣が印象に残る映画だ。まぁ、全員が高峰秀子を狙って争うという設定なので自然とそうなるか。
小沢栄太郎の堂に入った悪漢ぶり、いつまでたっても女性が大好きなおじいさんがハマっている中村鴈治郎、そして仲代達矢は、ここでも若くて鋭角的でギラギラしているのだ。
しかし、加東大介にはすっかり私まで騙された。高峰の亡夫が、太っていて人間がいいという丁寧なネタフリつきで、してやられた。そして、加東大介も、すっかり自分でも勘違いしてなりきっているのだ。そうだよな、成瀬映画でそんなハッピーエンドのわけがない。
森雅之と高峰秀子が愛し合うシーンは、当然「浮雲」を連想してしまう。そのせいなのか、この二人の場合、なぜか演技でなく本当に愛しあっているのではないかという雰囲気が画面からにじみ出る。要するに二人とも偉大な役者だったということなのだけろうが、やはり相性のよさのようなものもあったのではないかと思う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

成瀬巳喜男 「乱れ雲」メモ



成瀬の遺作。
司葉子は相変わらず、かわいくて美しい。相手役は加山雄三。加山雄三は黒澤の「椿三十郎」や「赤ひげ」では本当に素晴らしかった。しかし、こうしてすっかり「加山雄三」になった加山雄三は、正直私には濃すぎる。成瀬映画でいうと森雅之画懐かしくなる。なぜか、私はあの時代の映画や俳優が好きなのだ。勿論、個人的な趣味の問題に過ぎないけれど。
ストーリーは、ある女性が自分の夫を自動車事故で、過失とはいえ死亡させた男と憎みあいながら、いつしか惹かれあい、ついには愛しあうようになるという物語である。こう書くとちょっとメロドラマ的だ。但し、結末は道徳的である。きちんと描けているとは思うけれど、何となく物足りなさも感じる。「浮雲」の非道徳的な突き放した完全に男と女だけの世界が懐恋しくなる。時代的に、もうそういう映画を撮るのが不可能だったのだろうか。
加山と司がタクシーにっのて旅館に向かう際に、踏み切りで待つシーンが、ちょっと印象的。何も会話は交わされず、加山と司の表情、タクシー・ドライバーのミラー越しの目、踏み切りの前で止まる車が映し出される。映画的な緊迫感をかもし出すシーンだ。但し、その後、過去を思い出させる自動車事故の現場のシーンになって、それが説明的で少しガッカリするのだけれど。
音楽は、武満徹。この晩年の成瀬の映像とうまくあっているかは微妙だと感じた。
成瀬の場合、やはりカラーよりもモノクロがいいと感じる。例えば、小津などはカラーでの独特な色彩のこだわりと感受性がある。しかし、成瀬の場合は、白黒テレビがカラーテレビに変っただけという感じだ。また、役者や時代背景も、少し前の時代のほうがしっくりする。成瀬は、日本映画の黄金期の人だったのだと思う。そして、この「乱れ雲」よりも、ずっと世代的には後の人間の私も、なぜだか、この時代には違和感を覚えて、それ以前の時代が恋しいのだ。どうしてなのだろう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月25日

小津安二郎「東京暮色」雑感



妊娠した有馬稲子から逃げ回っていた卑劣な情けない男が、ラーメン屋で有馬と出くわして、ビンタを何発もくらう。そして、有馬は去り、男が一人ラーメン屋に残されて泣く。深刻なシーンなのだけれども、なんだか笑ってしまった。まるでコメディのようなのだ。名匠小津の残した珍シーンにあげたくなってしまう。その男の役者は、お世辞にも見事な演技とはいえなくて、役者がどうかというのもあるけれども、全般に小津の演出にも問題があるように思える。
有馬稲子が、山田五十鈴に「お母さんなんか、嫌いよっ」と言い捨てるシーン、原節子がやはり山田五十鈴に、妹が死んだのは「あなたのせいです」と責めるシーン。なんだか唐突で、どうもうまく「悲劇」になっていないように感じるのだ。原は、黒澤映画でも分かるとおりにデモーニッシュな側面も持つ、なんでも出来る俳優で、こうした「悲劇」にも十分適応できる役者のはずなので、やはり演出の問題なのだという気がする。
小津は成瀬の「浮雲」を見ていたく感銘をうけたらしいが、自分もそういうのを撮りたいと思ったのだろうか。「浮雲」が1955年、本作品は1957年である。単に作品としての失敗ということではなく、小津という作家や人間の本質を考える上でも、この作品は興味深いと思う。
「麦秋」やカラーの作品の多くは「コメディ」である。小津の名作はたいていそうだ。小津にそういうのが合うのは間違いない。ただ、「東京物語」はどうか。あれは、勿論コメディではない。しかし、トラジディでもない。老夫婦の悲しいが美しい無常の物語である。短調の音楽なのだけれども、激しく嘆き悲しむ音楽ではなく、切々と悲しい美しいメロディだ。
本作品でも、現実の激しいトラジディの場面ではうまくいっていないが、悲しい場面では見事な演出ぶりだ。例えば、山田五十鈴と中村伸郎が北国に電車で向かう際に、山田が娘の原が見送りに来ていないかと、何度も何度も車窓の外をみやり、中村が「きやしないよ」とか、さりげなく言うシーン。素晴らしいと思う。こういう、現実の激しい悲劇ではない、もの悲しいシーンは小津はむしろ得意なのだ。
小津には、やはり生々しい現実と直に向き合うというより、そこからある程度距離を置いてそれをみつめる態度が本質的にあったのではないだろうか。それは、映画制作だけでなく、多分小津という人間の本質に関わる部分なのかもしれない。
もっとも、小津は中後期の名作郡だけでなく、実は色々なタイプの映画を撮っている。小津没後何周年かの特集でNHKのBSがサイレントを含めてほとんど全ての作品を放映された際に私も全部見て、小津の本質が後期の「小津らしい」作品だけでは判断できないと思った。ただ、私は忘れっぽくて、それらの作品をよくは覚えてないので何とも言えないのだけれども。録画に残しておけばよかった。小津映画なら全ての作品を見ようと思えばいつでも見られると思っていたのだが、現在は必ずしもそういう状況ではない。
この作品は笠智衆と原節子の父娘が見られる貴重な作品なのに、両者のよさがほとんど出ていないのが本当に惜しいと思う。もっとも、私などは原節子を見ているだけでもいいのだけれども。有馬稲子も熱演していて立派だが、例えば最近見た成瀬の「晩菊」で脇役で現代風の娘をやっている方が、はるかに魅力的なのだ。
ただ、先ほども書いたが山田五十鈴と中村伸郎の男女は大変よい。山田が、子供を早いうちに捨てて、どこかやはり細やかな心配りが足りないが、しかし基本的に愛情は豊かな女という雰囲気を見事に出している。そして、それをさりげなく支える中村伸郎も素晴らしい。後期のコメディ調の作品でも、「東京物語」の杉村の夫でも、本作でも、中村は決して重い演技ではなく、軽いさりげない粋な演技でありながら、その役どころに求められるものを過不足なく表現していると思う。そして、常に何をやっても一種の品格,矜持のようなものを失わない。本当に素晴らしい役者だ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月24日

成瀬巳喜男「晩菊」雑記



杉村春子の金貸しのオバサン、婆さんがはまりすぎ。本当に憎たらしくて素晴らしい。ただ、上原謙の前だけだと、「女」になりかけるのだけれど、杉村だと自立心が強烈過ぎてちょっと似合わない。例えば、同じく出ている沢村貞子なら、そういう一面はうまくやりそうだが、それだと金貸しとしては物足りなくなってしまうか。とにかく難しい役だが、偉大な役者の杉村がやりきっている。上原との出会いの期待と幻滅のシーンは、内心のモノローグの手法も使っていて珍しい。幻滅におわる過程の描き方は、成瀬らしくて見事だ。
1954年の作品。沢村貞子もなかなか美しく撮れている。1960年の小津の「秋日和」だと、もう結構なオバサンに見えるのに、こちらだとまだ色気のようなものもある。役の違いもあるが、どうも小津より成瀬の方が女性を美しく映すような気がして仕方ない。
有馬稲子が、現代風の娘をやっている。演出なのだろう、ラーメンを少し品なくすすらされたりしているのだが、とてもかわいい感じだ。小津の「彼岸花」では品のいいお嬢さんだったが、こっちの方がよほどいいと思う。もっとも、趣味の問題で、小津のように上品な感じの美しさで女性を撮ってくれた方が好きだという人もいるのかもしれない。「東京暮色」ではどんな感じだったかよく思い出せないので、また見てみよう。
しかし、この映画では、芸者あがりの、細川ちか子と望月優子が、とてもいいと思った。細川は人がよくておっとりしていてどこか上品な女、望月は元気で明るくて庶民的な女。それぞれ、現代的な息子と娘をかかえていて、その最底辺の生活を受け入れて諦念を抱きながらも、しっかり生きている感じがとてもよい。それぞれの子供との関係も、問題を抱えながらあたたかく描かれている。
細川が酔って、どんな人生を過ごそうとも、所詮は一場の夢だと語る部分は印象的だ。望月の方は、若い娘のマネをしてモンロー・ウォークをしてふざける場面がいい。
杉村のかつての心中相手も登場したりするが、何か起こりそうで特に何も事件は起きない。あくまで、日常の暮らしと登場人物の心持を淡々と描いて、しみじみとさせる佳品である。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月23日

成瀬巳喜男 「女の座」雑記

原節子出演の成瀬映画が見たくて、ビデオを探したらスカパーで成瀬映画を録画しておいたのをたくさん発見して少しずつ見ている。
この 「女の座」は1962年の作品。モノクロで撮られている。
女がやたら多い現代家族の物語で、成瀬作品らしくオールスターの色々な女優のそれぞれの女性らしさが楽しめる。
司葉子が、相変わらず日本のオードリー・ヘップバーン的雰囲気をかもし出している。1960年の小津の「秋日和」にも原の娘役で出ていてその2年後だが、比較してもやはり女性を美しく撮るのが成瀬はうまいと思う。変わり者で貧乏だが人間がよくてハンサムな夏木陽介といいところの息子で金持ちだがあまり感じがよくない男のどちらかを選ぶことになり、見ている人間は当然夏木との純愛を期待するが、司葉子はあっさりと金持ちの息子の方を選ぶ。なんとなく成瀬的である。
草笛光子が、独身の気ままでプライドが高くて我儘な女性を演じているのが強烈な印象を残す。宝田明に一目ぼれして、宝田のアパートで、自分から告白、プロポーズするシーン。大真面目なのだが、部屋の外で、アパート管理人の娘が盗み聞きしていて、部屋から出てきた草笛をニヤニヤみつめて「オールドミスっいすごいわね。」という。なんとも意地悪な成瀬の演出で、こういうところも成瀬的だ。
そして、宝田が好きな高峰秀子に猛烈に嫉妬して、高峰が本当は単なるワルの女たらしの宝田の本性を見抜いて、草笛などに関わらないように説得するのを誤解して、こっそり会うなんてと、高峰のほっぺたを張り飛ばす。これまた成瀬的だ。
それでも、高峰は黙ってじっと耐える。「流れる」の田中絹代同様、ここでの高峰秀子はめちゃくちゃイメージアップのいい役だ。
宝田明は、とんでもない詐欺師の女たらしなのだが、高峰秀子のことだけは本当に真面目に好きになったようだ。そして、宝田も真面目に高峰に告白する。高峰も未亡人なで一応は自由の身だ。ロマンティックな映画ならば、ダメな男とそれをささえる優しい女という展開になってもおかしくない。しかし、高峰の反応はきわめて現実的だ。はっきり、「迷惑だ」と断り、さらに「あなたは自分の不幸を売り物にしているのよ」と辛辣極まりないセリフをはく。悪役の宝田が気の毒になるくらいだ。というのも、実に成瀬的ではないか。
といった具合に、成瀬的なさめた視点で、個性派の役者たちの人間模様をユーモラスに、あるいは少し真面目に描き出した作品である。しかし、脚本は高峰の高校生の息子が急に電車に飛び込んで自殺したりして、なおかつその葬儀をコミカルに描いたり高峰の真面目な愁嘆を描いたりよくわからい映画である。作品としての完成度は高くないのかもしれない。
ところで、ラスト近くで、笠智衆と杉村春子と高峰秀子が、老後に一軒家で静かに暮らそうと他人の家を物色してのぞきこむと、その家の男と顔を合わすシーンがあるが、チラッと映ったのが前田吟のような気がするのだけれど違うだろうか。
とにかく、辛辣で現実主義的な成瀬的視点にニヤニヤしてしまう映画である。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月22日

成瀬巳喜男「流れる」感想



昨日「浮雲」について書いたのだか、読み返すとうまく言いたいことが言えていない。暗くて救いのない映画だけれども、それを徹底的に突き放す成瀬演出が効果をあげ、森と高峰の迫真の演技もあり、圧倒的な感銘を残す作品になっていると言いたかっただけだ。成瀬的日本的な感覚について、つべこべ言っているのはあくまで付け足しである。
それと大切なことを言い忘れた。高峰秀子が昨年末に亡くなって、すぐ「浮雲」を見たいと思ったのだが、手元になくてやっとみれたというわけである。
さて、その高峰もでている「流れる」。「浮雲」のような強烈さはないけれども、成瀬らしい傑作ということでは、むしろこちらをあげる人が多いのではないだろうか。
花街の人間模様をきめ細かく優しく、そして時には残酷に描いた成瀬らしい作品である。当然女性が中心の映画で、男性は宮口精二が、田舎者の粗野なオヤジを好演、怪演している以外は、本当に脇で加東大介や中村伸郎が顔見せ程度に出てくるくらいだ。
そしてオールスターキャストの女性陣がみな素晴らしい。溝口健二の「赤線地帯」もオールスターキャストで遊郭を描いて、とても面白い映画で、溝口特有のアクの強さが魅力的だったが、こちらはあくまで成瀬的で自然で繊細な描き方だ。二人の巨匠の個性がよく出ている。
それにしてもどの女優も魅力的だ。
田中絹代は苦労人でしっかりもので礼儀正しくて慎ましくて優しくて、これでは全く天使ではないか。いつも、なんだか忙しそうにキビキビ働きまわっているのだ。演出上ノンビリした動きをすることをこの映画では許されていない。
山田五十鈴は、年増だが十分に美しくて、芸が確かで、性格も大らかで優しいが、本質的には芸者向きではない。零落していく芸者屋の主人公にふさわしい。ラスト近くで、売り払われるのも知らずに三味線を優雅に弾くシーンが泣ける。
その山田を親身になって世話をする栗島すみ子。大御所がこの映画のために復帰したらしいが、その貫禄と品格がすごくて、表現は悪いがいかにも女ボスという感じだ。そして、最後にずっと親身に世話をしていた山田五十鈴たちを追い出して小料理屋を開こうという田中に打ち明けるシーンがすごい。それをサラッと言ってのけるのだ。成瀬的な世界という感じがする。そして、田中絹代はさの小料理屋にスカウトされてしまうのだが、丁寧にしかしキッパリ断りをいれる。世話になっている山田五十鈴への筋を通したのだが、この映画での田中絹代はイメージアップしすぎである。また、そういう役が何の違和感もなく似合うのだ。
高峰秀子は、花柳界になじめない生真面目ですこし気が強い娘役。でも、母親の山田五十鈴をこよなく愛している。「浮雲」よりも、この役の方が似合っているような気がする。というか「浮雲」の世界は誰がやっても難しいし、本来は高峰秀子に似合わない役なのかもしれないが、本当になりきってぃた。森もそうで多分本来のキャラクターちとは異なる役で、二人とも大したものなのである。
中北千枝子は、山田五十鈴の妹で、だらしない怠け者の役。これも、はまっている。娘が中村伸郎の医師に注射をされる際に、自分の子供なのに抑えないで目をつぶってしまうだらしなさ。こういう演出もうまい。そして、ここでも田中絹代が娘を優しく説得し寄り添って寝てしっかりおさえるのだ。もう、かっこよすぎである。
そういえば、栗島すみ子が田中絹代に大金を預けるシーンで、もしかして金が盗まれて田中絹代が大変な事になるのではないかと心配になった。普通、そう考えますよね。でも、何事もなくしっかり山田五十鈴に渡す。ここら辺も、多分ちょっとした肩透かしを狙った演出なのではないだろうか。
岡田茉莉子は若くて元気な芸者役でこれもはまっている。
そして、杉村春子が特に後半に大活躍。酔って夜中に岡田茉莉子と踊って、それを子供の娘が澄んだ目でみつめるところなど、何となく切ないいいシーンだ。こういう、ちょっとした繊細な演出が成瀬は本当にうまい。
そして、男に捨てられて酔って山田五十鈴に給金のことで絡み、高峰秀子に「男を知っていることがどうして自慢になるの」と叱責されて、「女に男が要らないだって」と酔って笑いながら捨て台詞するところは掛け値なしに名シーンだ。杉村春子以外には無理だろうと思う。
ダラダラと内容の説明を続けてしまったが、そういう細かいさりげない名シーンの連続なのである。そして、根底には没落する花街へのあたたかい視線と無常感が漂っていて、何ともいい映画だ。
女性を描かせたら他の追随を許さないとされる成瀬の本領が発揮された名品である。こうして書いていると、成瀬映画の女というのは、男性がこうあってほしいという理想の女だという気もする。私も男なのでそれはよく分かる。もっとも、女性が成瀬映画を見てどう思うかは別なのではないかとも思った。すごく女性らしい女性たちだけれど゜も、現実の女性とは違うのかもしれない。でも、そういう男性が勝手に思い描く女性というのは、幻想かもしれないが、きわめてリアルな存在である。きっと映画とは、そういうものだろう。


posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月21日

成瀬巳喜男「浮雲」感想



成瀬の最高傑作とされる映画である。だが、私は始めて見たときに正直好きになれなかった。男女の世界を描いた名品だという。決してそういう世界は嫌いではないのだけれど、監督の目がなんと言うか日本的に冷酷なのだ。この作品のウィキペディアをみると、「ゆき子と富岡は何度も衝突しその度によりを戻すが、成瀬はその別れられない理由については「身体の相性が良かったから」といった類の発言をしている。」そうである。
例えば私が好きなベルイマン映画でも男と女の地獄のような世界を描いていて、その過酷さは成瀬よりひどいくらいだけれども、根底には救いを求める視線のようなものがあって、あるいは現実と理想の緊張関係があって、その映画に深みをもたらしている。
溝口健二も過酷な現実を描いているようで、そういう現実を超えていこうと何か、憧れのようなものを感じる。この成瀬映画には、そういう甘さはないと思う。
この「浮雲」の男女の世界は、救いのない男女の世界が、そのままありのまま投げだされて観る者の目の前に晒される。それが日本的な独特な感性といえるのかもしれないが・・。ラストで二人の愛が確認されるけれども、そういうストーリーとは関係なく監督の目が鬼なのだ。
この映画を見た小津安二郎が「私には撮れない」といって褒めたという話があるが、まさしくそうだろう。絶対に撮れない。人間は自分と正反対のものに憧れるのだ。
但し、そういう作品に対する好き嫌いを超えて、強烈で圧倒的な印象を与える作品であることは間違いない。小津の感想も、とにかく作品の力に圧倒された人間の率直な言葉だ。
そして、今回改めて作品の内容を承知した上である程度冷静に見たが、要するに高峰秀子と森雅之が素晴らしいのだ。特に森は、他の映画の作品と違って、冷酷でだらしなくて卑劣だが女には魅力のある男という存在に深いところでなりきっている。高峰もそうだ。
映画は、どんなに現実をありのままに描いているようでも決して現実ではない。成瀬はある種自然主義的リアリズムの冷たい視線で男女の世界を描き出すが、その救いのない男女を二人は、救いのないままの形で、なおかつ映画的な神話創造作業を行いながら行っている。ここでの二人は、現実でありそうでいて、全く現実にはありえない男女なのである。
不思議なことがおこっている。成瀬の視線は冷たく突き放しているが、結果的には男女のメルヘンになっている。最後に林芙美子“花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき”と字幕が流れるが、救いのない現実をそのまま描くことで「花」になっている。映画の魔法だ。
勿論、成瀬もこの字幕を最後にもってくるくらいだから、悲惨な現実を描きながらそれが映画的な美しい創造になることをちゃんと理解し計算して映画を撮っているのだろう。彼は小説家ではなく映画作家なのだから。だから、私が最初に書いた成瀬の視線の冷たさなど本当はどうでもいいことなのかもしれない。とにかく見事な映画なのだから。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月20日

原節子主演、今井正監督「青い山脈」



原節子は、女学生とバスケットボールをするシーンで登場する。理想に燃える女性教師役がはまりすぎだ。ちょっと、雰囲気が宝塚的でもある。杉葉子と踊るシーンとか。
1949年の作品だが、現在の、というよりは古きよき時代のテレビ・ドラマのようだ。理屈ぬきに楽しいし、どのキャラクターも分かりやすく性格づけられている。メガネ娘のおしゃまな若山セツ子。おっとこ前な池部良。伸びやかな女子高生、杉葉子。大らかな大物で正義感の強い龍崎一郎。意地悪女子高生の山本和子。人のいいとぼけた伊豆肇。いい味出してる真面目で純朴な藤原釜足等々。
一応は町の因習的な道徳と民主的な自由な思想の対立というテーマだけれども、深刻にならずに予定調和の「テレビ・ドラマ」として楽しめる。杉葉子に意地悪する山本和子にも、最後にはちゃんと和解の場面が用意されているのだ。
原の出演した、小津、成瀬、黒澤といった正真正銘の「映画監督」の作品を見続けた後では、軽く感じられるけれども、日本の「テレビドラマ」というのも独特のスタイルと伝統をもった素晴らしい世界である。両者に差別はないし、どちらも深く楽しもうと思えばいくらでも深く楽しめる。この「青い山脈」は、日本独特のテレビドラマ(映画でもいいが)の先鞭となった作品だと感じた。理屈っぽくいうとそうなるが、とにかく見ていて楽しくて、すっかりいい気分になったのである。
それと、何と言っても芸者の梅太郎を演じる木暮実千代が絶品である。実に女性らしくて色っぽい。沼田医師と一緒に自転車に乗ってきわどいジョークをいうシーン、初めて原節子を見てライバルに感心するシーン、酔っ払って威勢良くグチるシーン、理事会での悪役教師を震え上がらせるシーン、どれも素晴らしい。この映画は、なんとなくテレビドラマ的なところがあって、場合によっては原節子の登場シーンでもそうなりがちだが、木暮実千代が出てくると見事に「映画」になるように感じた。その出来のよさは原節子を、ちょっとくっているくらいである。溝口の「祇園囃子」でも本当によかったが。
この作品の役割がはまりすぎることでも分かるように、原節子は全然本来伝統的な日本女性のタイプではない。役ということでなく、原の場合はスクリーンに映るだけで、完全に存在として「個」の姿になるのだ。それは、男性の俳優でもそんなにないことだろう。小津や成瀬の映画の中の女性らしい姿のイメージが強すぎるけれども、本来欧米の映画の中で自分をしっかり主張する役割が似合う人だったような気がする。そういう映画は、当時の日本にはなかったけれども。だから、原のキャラクターの本質を一番よく見抜いて生かしたのは、黒澤明の、ある種異常な二本だったのかもしれない。
この「青い山脈」は、そういう役としてはピッタリだけど、こういう原の特質を深く掘り下げて描く「映画」が残っていないのは、少し残念な気もする。
ちなみに、ラストで丘に座って微笑む原節子は、これは文句なしにめっちゃきれいです。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月19日

黒澤明「わが青春に悔なし」雑談




マルセ太郎という変った芸人がいて、オラウータンの物真似で有名だったが、裏芸として黒澤明映画の一人再現芝居をやっていた。「生きる」とかを。黒澤の現代物って、表現主義過剰みたいなところがあるじゃないですか。時代ものの、例えば「羅生門」とかだと、それが実に効果的だけれど、現代物だとパロディの対象としても成立してしまう。あまりに真剣で真面目すぎるものは、笑いを誘ってしまうのだ。マルセ太郎の芸は、その辺をうまくついたもなかなかのものだった。
さて、この黒澤映画も、そういうところがある。冒頭の若者のシーンとか、ちょっと引いて照れくさくなる。原節子が川を渡れないところに、二人の男が手をさしのべて、野毛がずかきずかと進み出て川に踏み込み原を抱きかかえて渡らせてしまう。そして、それを複雑な表情で見やる糸川。青春である。マルセ太郎がうまく演じそうなところだ。
原節子も若い。1946年公開だ。そして、屋敷で「展覧会の絵」をピアノで大袈裟な身振りで弾くシーン。黒澤の現代ものというのは、ちょっと時代を感じさせることもある。正直言って。
テーマも政治なのだけれど、こういうのは難しい。どうしても、正義の側とそうでない方を、単純に対比してしまいがちだ。ここでは、野毛と糸川が対照的な政治的な立場、処世術の存在として描かれている。そして、勿論、野毛とそれを支える原が演じる幸枝を好意的に描いていて、別にイヤじゃないけれど、こういう単純な政治的割りきり方をそのまま受け入れる気にはちょっとならない。「生きる」でも、そういう単純な善と悪の対比がされているが、あの話は基本的にフィクションなので気にならないが、こういう政治的問題を真正面から取り上げている作品では、単純な善悪の対比には、どこかしらモヤモヤしたものが残る。
しかし、この映画で大切なのは、そういうことじゃない。あくまで、原節子が農婦になって働き戦うシーンの映画的リアリティが全てだ。あれは、もう文句ない。原節子が、もう原始人みたいなメイクで、ガムシャラに働く迫力。原は、眼光も鋭くて「白痴」でもさそうだったが、黒澤的な過剰な表現主義に全く負けない稀有な女優なのだ。
そして、野毛の実家にはられた「スパイ」の落書きとか、原を見つめる子供たちや百姓の表情の撮り方、あの大袈裟な撮り方と表現が、あまりに過激すぎて現実離れしているために、かえってリアルな説得力を生むのだ。
そして、野毛の母親役の杉村春子が、原と田植えを終えた際に、ものすごい笑い声をあげる。あの、原始的な生命力に満ちた笑いは、忘れようにも忘れられない。杉村も、やはり普通じゃない役者だ。
黒澤映画には、そういうあまりに熱狂没頭しすぎる迫力があって、それは冷静にひいてみると笑いの対象にもなりかねない。しかし、この映画の後半の農村のシーンが典型的だが、あまりに気違いじみた迫力に否応なしに観る人間は納得して巻き込まれ、素直に感動してしまうのだ。もはや、知的な批判精神が停止するところまで、黒澤はとことんやってくれる。
マルセ太郎は、例えば「生きる」をバカにしてパロディにしていたのではない。そうじゃない。黒澤の過激な演出が好きで好きで、それに完全につかまってしてゃられながら、同時に笑っているのだ。
私も、この映画の後半では、完全にしてやられてそういう体験をした。そして、もはや杉村春子のように原初的な笑い声を発するしかないのだ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月18日

成瀬巳喜男「めし」感想



1951年の作品で原節子31歳。原は流石に売れっ子で一年に何本もの映画に出演しているが、この年はこの映画以外に、小津の「麦秋」、黒澤の「白痴」にも出ている。三人の巨匠の映画に出ていて、特に黒澤の「白痴」は役作りが難しそうで、大変だったのではないだろうか。でも、どれも結果的には見事な出来栄えである。
この「めし」では、生活と家事に追われる主婦という役だ。もっとも、もともとお嬢さんだったのが、結婚してそうなったという設定なので、別に原には無理な役ではない。労働に追われる役ということでは、黒澤の「わが青春に悔いなし」という極端な例も経験済みだし。それにしても、出演した黒澤映画で二本とも随分原は無茶をさせられたものだ。
上原謙とは「山の音」とこの作品で夫婦役。この作品は、端役がなかなか面白い。大泉滉がダメなボンボンをしている。後に小津の「あはよう」でモダンボーイ的な役割で登場して、やはりこの二人の監督は関係が深い。浦辺粂子が近所のオバチャンだったり、山村聡と長岡輝子がほんのチョイ役で出ていたり、進藤英太郎が存在感抜群の声を聞かしていたりする。
そして、原節子の家族が、ひたすら優しい母親の杉村春子(なんとなくイメージ的に不気味だ)と杉葉子と小林桂樹。小林が、甘ったれた島崎雪子を叱り飛ばして正論を吐くシーンがあるが、何となく小林にイラッとしてしまうのはどうしてただろう。その他のどの端役もなぜか全員妙に印象に残る映画だ。
甘えた我儘な娘を島崎雪子が演じているのだが、やはりめっちゃきれいだ。美しさでは原にも負けないところもあると思うが、役者としての深さとか品とか存在感だと原に比べるべくもない。だから、原に共感して島崎にいらだって自然にみてしまう。
原は猛烈な勢いで掃除をする躍動感が印象に残ったりするが、ストーリー自体が平板で大きな波乱もなくハッピーエンドで終わるので、原らしい特別な強烈な個性を感じる場面は意外に少ないかもしれない。でも、黒澤映画や小津映画のキャラの立ちかたと異なり、自然に美しい原節子を撮ってくれているのがありがたい気もする。
ところで、ネットで成瀬について検索すると、なぜか抽象的な理論的な分析をしているサイトが結構多く目に付いた。他の大家よりも。私はあんまりそういう映画論には興味がないのだけれど、全然抽象的でない成瀬映画に対してそういう批評をしたくなるのはなぜなのだろうか。
ただ、わりと成瀬映画を具体的に論じているサイトで、成瀬の映画の特徴として「目線の芸」があるというのはなるほどと思った。登場人物の目線の変化をカメラが追う手法。例えば、昨日書いた「驟雨」の冒頭のシーンなど確かにそうだ。そして、成瀬映画には「振り向く」シーンがやたら多いと。
こういったことは本物の成瀬マニアなら常識なのかもしれないが、素人の私でも気づいたのはあるぞ。役者の表情なり何なりを映して、サッと暗転させる手法。切れる直前のシーンがすごく印象にとどまると共に、細やかな余韻が残る。あくまで成瀬映画の印象が柔かくて繊細なのは、そういった技法の集成のためなのだろう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2011年01月17日

成瀬巳喜男「驟雨」感想

amazonのリンクをはろうと思ったら見当たらない。この名作が・・、原節子が出ているのに。ちなみに、私はスカパーの映画チャンネルで放映した際に録画しておいたものを改めて見たのである。
1956年の作品。原節子36歳が、倦怠期の主婦を演じているのだが、十分若々しくて美しい。小津の「秋日和」で、佐分利信と中村伸郎、北竜二の不良オヤジ三人組が未亡人の原節子について「あの色気は・・。」と言い合うシーンがあるが、まさしくそんな感じだ。但し、この「驟雨」の方が全然よい。年齢的にも。
佐野周二と原節子の倦怠期気味の夫婦の日常を、さりげなくコメディタッチで描いた佳品である。この二人は、小津の「麦秋」で会社の上役と秘書の間柄だった。さこでは佐野は、明るく陽気な役柄だったが、ここではすこし神経質で弱いところのある男を好演している。
原節子のほうは、本当に普通の主婦である。まぁ、当然「美しい」という設定だが、気が強くも弱くもなく、外交的なところがあるかと思うと内向的なところもあり、夫に献身的に尽くすというわけでもなく言いたいことも言うが別に仲が悪いわけでもない。要するに、ごく普通の夫婦で、こう書いていて演じるのが結構難しいのではないかと思うが、原はここでもごく自然に役に成りきってしまっている。
そういえば:香川京子も原の姪の役で登場する。「東京物語」でも、二人は似たような関係を演じていて、本当に小津映画と成瀬映画は色々かぶっている。
ただ、成瀬映画の特徴で、女性もそれなりに女性らしい自己主張をするので、原節子の魅力がよくでている。「山の音」でも書いたが、原節子を美しく魅力的に撮る点では、個人的には小津より成瀬に軍配をあげたい。そして、ここでも、「山の音」とは全く違うキャラクターをも見られて楽しい。
香川京子が新婚の夫の無神経さをさかんにこぼすと、原は同情して佐野はニヤニヤしてきいている。男と女の感性の違いが出ていて面白いシーンだが、こういうのも小津的でない成瀬的な世界だ。
そういえば、小津映画では、親子関係が軸となる作品に名作が多い。こういう、基本的には他人同士の夫婦の関係は人間的過ぎて苦手だったのかもしれない。そして、成瀬はこういうゴタゴタした男女関係を描くのが得意中の得意なのだ。
ただし、本作品は名作「浮雲」のようにシリアスでなく、あくまで大人の趣味のいいコメディ調で、男女の微妙なズレを軽妙につきはなして描き出している。原節子が出演した成瀬作品では一番好きだ。
背後には、ピアノのメロディが効果的に使われている。ラストの夫婦で、佐野がオタオタしながら、原がしっかりして堂々と風船を打ち合うシーンが何とも印象的だ。そもそも、原はそういう女性上位?というか、男よりもよっぽどしっかりした女性が似合う役者でもあった。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。