2010年04月19日

村上春樹「1Q84 BOOK3」断片的感想

(以下ネタバレで書いているのでご注意ください。)



あらゆる要素が宙吊りのまま、全ての読者は未完成感の欲求不満に晒されずにはいられなかったBOOK1・2。3では読者にお望みの結末がもたらされ、問題は全て解決される。まるで作者が裏の裏をかいたかのようにストレートに。しかし、この大円団を迎えるBOOK3を読了して逆に痛感するのは、実はBOOK1と2で小宇宙としてパーフェクトに完結した作品だったということだ。青豆と天吾は、結局めぐり合えないままである。青豆は自殺してしまう。天吾は空気さなぎの中に10歳の少女の青豆の強烈なイメージを観る。二人が少年少女時代に、一瞬だけ心が通い合う。それは一瞬だけだが、永遠に通じていた。これ以上完璧なラブストーリはありえないだろう。それと比べると、BOOK3の結末は、余りに通俗的である。作者は、BOOK1・2では満足できない読者のためにBOOK3を書きながらも、実は物語が完結していたことを読者に異議申し立てしたかったのではないだろうか。

1Q84は、通常の論理が通用しない世界である。月が二つ見えるし、リトル・ピープルが日常世界に侵食している。青豆と天吾は、その世界から元の世界に帰還する。BOOK3は、空想世界から現実世界への帰還の物語でもある。ふたりは現実世界に戻ると、人間らしいセックスをして、二人で唯一つしかない月を眺める。1Q84では天吾とふかえりが、宗教的な儀式としてのセックスをしていたのとは対照的に。しかし、二人の間には1Q84て青豆が、リーターやふかえりや神聖な力歩を借りて処女懐胎した子供を連れ帰ってきている。青豆は、ガソリンスタンドの虎の向きがかつてと同じだったか確信をもてない。その意味では、完全に1Q84と縁を切ったわけでもなく、元の現実世界への帰還でもない。だから、完結編に思えるBOOK3の後にBOOK4が書かれても驚きはしない。恐らく作者が本当に1Q84の問題と直面する覚悟ができた時に続編は書かれるはずだ。

まさか牛河が第三の要素としてピックアップされるとは誰しも考えなかっただろう。二人の愛を妨害する要素として、物語に緊張感をもたらすために、或いは進行上の役割を与えられて。しかし、そういう物語構成要素として以外に、牛河は徹底的に世界から阻害されて行き続けざるをえない存在である。もっとも1Q84らしい人間ともいえる。牛河は、二人のように愛によって救われることもなく、悲惨な死を遂げる。しかし、リトル・ピープルが彼の死の際に訪れる。青豆と天吾のような救われ方はしないが、牛河も世界を孤独に自力だけで生きようとした点では青豆や天吾の同志である。

作者にとって、1Q84の世界は一体何だったのか。単なる幻想的で現実世界から一本ねじが欠けた欠陥のある世界だったのだろうか。1Q84では、現実世界に他界が干渉している。リトルピープル的なものが常に目に見えないところで、現実世界にメッセージを伝えようとしているし、さきがけのリーダーやふかえりのようなシャーマンも大きな力を発揮している。「ねこの街」も他界の象徴の一つだろう。作者は、そういう世界を否定して、BOOK3で現実世界への帰還、覚醒の物語を書きたかっただけなのだろうか。
しかし、青豆は1Q84の限界状況で一種の信仰告白をしている。処女懐胎も素直に直感的に受け入れる。彼女を支える天吾も同様である。現在の現実世界には、そのような要素は決定的に欠落している。青豆も天吾も1Q84で、ある種決定的な「他界」経験をすることで、初めて現実世界への帰還が許され、本当の意味で生きてゆくことが可能になった。作者にとって、1Q84のような「他界」は恐らく単なる幻想世界ではないはずだ。現実の生と同じくらいリアルで、なおかつ逆にのような「他界」がなければ現実の世界を生きることが不可能な切実な存在であるはずだ。しかし、人間はそのような「他界」だけに浸って生きていると転落して自らの生を見失う。現在決定的に見失われている「他界」をリアルに実感しながら、そこに溺れずに現実の生を地に足をつけて真摯に来き抜くこと、そんな素朴きわまりないメッセージがこの本のテーマだと私は考える。別に村上春樹がはじめて言ったことなんかじゃない、日本の伝統的な文学が常に語りかけ続けていたことに過ぎないのだ。



posted by rukert | Comment(2) | TrackBack(0) | 書評
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