2009年08月22日

小林秀雄 「年齢」

孔子の言葉について面白いことを言っている。「六十にして耳に順(した)がう。」について。孔子は、熱心な音楽研究家だった、それまでは思索思想の研究も重ねてきたが、結局人の思想というのは、その人の物の言い方、調子、ニュアンスに現れるものだ。それをようやく、60にして感じ取ることができるようにになったというのが小林流の解釈である。
そこには、小林流の抽象的な空虚な思想への嫌悪がある。また、日本の古典や古寺や古美術についても、若い時は違和感をいだいていたが、ある程度の年齢を重ねると自然に分かるようになったと。若い時は幽霊の様な思想で頭を一杯にしていたために、対象を直に感じられなかったが、年を経てそれが自然に感知できるようになったためだと。例えば、徒然草のような古典の面白さは、理屈では説明できない。
こういう小林の考え方を、理論思想を突き詰めない姿勢として批判することは容易だ。しかし、これは誰でもある程度年を行った人間が実感することだろう。私もそう。全く意識的な努力などしていないのに、年をとって急に実感として理解できるようになったものがたくさんある。文学でも思想でも音楽でも桜でも何でも。
人間は、ただ生きているだけでも、自分の気づかない深い生を生きている。単なる浅い知恵や思想の発展だけを生きているわけではない。感覚や感情を知らず知らずのうちに深めているものだ。また、そういうものを深める事ができなければ、わざわざ各人が一人一人孤独に生きている意味などない。これは若い人にはなかなか受け入れがたいことなのかもしれないが。
ただ、だからといって年をとって思想放棄思考停止になってしまってもいいというわけではない。それがもし、死んだ偽者の作り物の思想ならば、ためらわずに拒否すればよいだけのことである。余計な思想を捨て去ることで、本物の知恵をはぐくんだり深化させることが可能なはずだ。各人の個人的感覚に裏づけされない思考思想はむなしい。小林が言っているのは、そういう簡単きわまりないことである。
そもそも、私自身も孔子の言葉に対して、昔はなんだか怪しげだとしか思わなかった。そのように年齢によって、都合よく人間が変わるものなのかと。でも、実際に人は年齢によって確かに内的な必然性を持って変わっていくものだと思う。勿論、それにはある程度の努力も必要だが。しかし、それは何かを思想家として文字の上で勉強する努力に限らない。どんな人でも、ただ生きていると必ず与えられる課題を普通にこなしていくだけで、十分立派な努力になるはずだ。孔子の言葉は、一分エリートだけのものではない。きちんと生きている全ての人間に対する言葉のプレゼントなのである。我々が、なかなかそのことに気がつきにくい生き方をしがちなだけである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。