2009年07月28日

原節子のナスターシャ・フィリポヴナーーードストエフスキーと黒澤明の「白痴」



突然列車の中でうめき声が響き渡る。乗客が一斉に何事かと身構える。森雅之演じるムイシュキン公爵が、悪夢にうなされて目を覚ましたのだ。三船敏郎によるロゴージンが話しかける。そういういかにも映画的なシーンで、黒澤明の「白痴」は始まる。
最近ドストエフスキーの「白痴」を新潮文庫、木村浩訳で読んだ。小林秀雄のドストエフスキー評論を読んで興味がわいたのである。今までこの名作をちゃんと読んだことがなかっのだ。ちなみに黒澤の映画は既に見ていた。
ドストエフスキー自身によると、この小説の狙いは「根本の考えは、無条件に美しい人間を表現しようというところにある。」確かにムイシュキンは美しい人物だ。この作品に対して、小林秀雄も批評しているが、それはこの小説に対する通俗的な解釈を徹底的に拒否しようとする姿勢に貫かれている。ムイシュキンは、単に倫理的な善良性を託された人物ではないと。「作者の描き語ったのは善良性ではない純粋性である。」ムイシュキンは、純粋な人間ではあるが、底知れぬ暗部を内部に抱え込んでいる不気味な人間であり、単なる無知による善人でなく、人間の深い即知れぬ深淵をムイシュキンを通じてドストエフスキーは表現しているのだと。単に理想の善良な人格を見ているだけでは、何も読んだことにはならないと。
一方、黒澤明の「白痴」で森雅之の演じる亀田=ムイシュキンは、もっと分かりやすく「善良」な人間である。黒澤流のヒューマニズムに徹底的に貫かれた作品であり、原節子による那須妙子=ナスターシャも狂ったような激しい攻撃性を発揮しながらも、実は心の優しい人間として描かれている。それは、黒澤の通俗性のなせるわざなのだろうか?
多分そうではない。文学作品の「白痴の正確で深い解釈として、小林秀雄の読みは実に的確である。言語表現として成立した作品としては、当然映像化を拒否する複雑な部分を内包しており、小林の読みは、ひたすらそういう部分を抉り出そうとしているようでもある。
しかし、当たり前だが、文学と映画は全く異質な表現手段である。文学的な深い心理の機微や思想を、映像で表現するのは不可能である。映像化に当たって、多くのものを捨て去る必要がある。実際、黒澤の「白痴」は、文学的見地からすれば、通俗化され希薄化したドストエフスキーに過ぎないかもしれない。そんなことは分かりきったことだ。しかし、大切なのは、それにもかかわらず、黒澤の映画が過剰な何かを明らかに表現していることである。それは、言葉ではない具象的な生々しいイメージが喚起するものに他ならない。文学的なものを大胆に捨象してしまっているかわりに、ほとんど暴力的なまでに突き刺さってくるイメージの力に圧倒されるのである。黒澤の行為は、ドストエフスキーの文学性の否定であると同時に、その精神的本質をちゃんと把握した再創造行為である。表現しているものは、原作とは全く異なるにもかかわらず、明らかに両者は深いところでつながっている。
何より圧倒的なのは、原節子のナスターシャである。ナスターシャは、原作においてほとんど狂気の人間として描かれている。先述したように、黒澤の演出は、彼女にも人間らしさを設定していて甘いのだが、原節子の演技は、黒沢の演出意図を,軽々と乗り越えて、あるいは踏みにじって、原作のイメージに完全に忠実という印象を受ける。原の演技には、映画的な甘さが全く無いのだ。演技しているというよりは、ナスターシャそのものに完全になりきっている。
最初に、那須妙子=原節子の写真が肖像画として映画にでて来るのだが、その原の「目」は尋常ではない。本当に恐ろしい。亀田欽司=亀田欽司は、すぐに彼女の底知れぬ苦悩を一目で直感して見抜く。その後登場する原節子の目の恐ろしさ、迫力は
言葉では表現しがたいくらい凄まじいものである。心底自分に絶望し、自暴自棄になった人間の狂気が、それ以上ありえないような形で原節子によって形象化されているのだ。
原節子と言えば、小津安二郎の「東京物語」での、優しい娘のイメージが定番である。この「白痴」での演技は、その対極である。なぜ、同じ役者が、これだけ違う役柄を完璧に演じ分けることができるのだろうかというくらいに。そして、恐らくそのどちらのイメージも偽りではない。「東京物語」の心の美しい娘も、「白痴」の狂気の女も、どちらも極端すぎて現実的な存在ではない。原節子というのは、おそらく我々が考えている以上に、凄い役者だったのだろう。彼女の中には、ドストエフスキーのムイシュキンに小林秀雄がよみとったような、人間の心の底に垣間見える深淵が潜んでいる。単原はなる「善良」とか「狂気」と言った一面性では言い尽くせない何物かを表現する幅の広さのある得体の知れな役者なのだ。この「白痴」を見ていて、そういう妄想にとらわれずにはいられなかった。ドストエフスキーの文学による言語表現と、黒澤による映像によるイメージ表現が全く異質なものでありながら、本質的なところで表現しえない得体の知れないものを表現することを指向していると点でつなかっている。そして、原節子の過剰な演技が、黒澤の意図さえ超えて、そういう何かを表現していると思う。
この映画について、語りだしたらキリが無い。原節子だけでなく、森も三船も本当に素晴らしい。ラストのシーンで、小説でムイシュキンがナスターシャを殺害したロゴージンの頭やほっぺたを子供に対する様になでる恐ろしいシーンがあるのだが、その場面でのイメージは、最高の成功例の一つだろう。
また、ドストエフスキーの名文句「女が女を理解した。」という激しく憎みあう原節子=ナスターシャと久我美子=アグラーヤが対決するシーンも、ドストエフスキーの小説のイメージ再創造に成功していると思う。ここでの、原節子は、本当に身の毛がよだつほど恐ろしいのである。
千秋実によるガーニャの癖のある小心者の卑劣さも見事だ。さらにもうひとつ、キャスティングとして、黒澤のユーモアのセンスを感じるのは、レーベジェフに左左卜全を起用していることだろう。レーベジェフは、原作では道化的ながら性格上で重要な役割りなのだが、それは黒澤は左卜全によって、純粋な笑いに変換して見せた。これも、一種の見事な再創造行為と言えるのだろうか?
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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