2009年07月31日

小林秀雄 「無常といふ事」

旧全集第八巻に収録されている「無常といふこと」を読んだ。
坂口安吾が「教祖の文学」で、この頃の小林に噛みついている。あれは、言うまでもなく安吾の小林へのラブレターであって、全然批判という類のものではない。安吾の言っていることは相変わらず面白いが、小林に対してと言うより、安吾自身の小説観や生き方を語っていて、今冷静に読むと必ずしも小林自体には届いていないと感じる。
「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例(ため)しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)

これに安吾は噛みついて、生きている人間の方が大切だ。小林は生きた人間を見ることをやめてしっまた骨董鑑定屋になり下がった邪教の教祖に過ぎないと。私自身、安吾の「人間的過ぎる」小説が大好きだし、安吾のいいたいこともよく分かるのだけれども、小林の側から見ると決して悟り済ましているというようなことではないと思う。
小林は戦争を真正面から逃げずに受け止めた。多分イメージとは違って、小林は花のように恐ろしく繊細な心の持ち主で、戦争体験によって。生と死の姿というものを理屈ではなく深く感じずにはいられなかったのではないかと思う。引用した表現もふざけたなめた言い方のようだが、まさしく「無常」を心の底から感じた人間の言葉だと思う。
安吾の言う通りに、人間の場合生きていることが何より大切だ。しかし、それは死の認識と、と言うよりは実感によってこそ、本当の意味を持つものでもある。小林の「無常といふこと」の一連の作品には、そうした人間の生と死の無常の姿への深い実感が底流に流れていて、だから、あれだけ人を動かすのである。
実は、安吾も、死の方のこともよく分かっていた人物で、そもそも仏教哲学か何かを学ぶことから始めたのだし。安吾の作品も、徹底的な生の肯定とであると同時に常に巨大な虚無が不気味にポッカリ穴をあけているというようなものだった。そういうところが安吾の魅力である。だから、基本的には小林とは、むしろ共通する部分が大きい。安吾が、生の方に重きを置き、小林が死を見つめる方に重きを置いている。そういう違いだけである。結局、小説家と批評家の違いだ。
個人的な感傷的な思い出話になってしまうが、私は大学入試の浪人時代に、小林西行や実朝を読んで、とても感動したことがある。人並みに浪人生活で苦しい思いをしていて、今思えば軽い鬱病のような状態だったと思うのだが、小林のこれらの作品は、心にしみいったし本当に救われるような思いがした、心が弱り切っている時は、ある種感受性が研ぎ澄まされていて、本物をいつも以上に正確に感知するものである。私自身、小林の言っていることをよく理解していたわけではないが、西行や実朝の内容というよりは、そこからはつきりと伝わってくるイメージにうたれたのである。いま思えば、小林が戦争体験した後の無常観や孤独、そうしたものを見つめる伝統的な精神を直覚していたのだと勝手に思っている。

但し、今回改めて読み直すと、必ずしも小林の書き方は客観的ではないと感じた。

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ

この実朝の万葉調の歌を、小林は「大変悲しい歌}と読んでいる。実際、ここまでの小林の文章を読んでくると、そのように思えていまう。小林の文章の説得力、感染力は恐ろしいのだけれども、やはりこの歌の姿自体からそのように読み取るのは無理だと思う。西行の歌にしても、「自意識」の問題を勝手に見て取りすぎているという印象を受ける。
つまり、客観的な西行像、実朝像ではなく、あくまで小林流の解釈なのである。しかし、それが悪いということではない。むしろ客観的な解釈にこだわるあまり、退屈極まりない解釈よりよほどよい。例えば、ベートーヴェンの音楽が指揮者の解釈によって全く異なるものに聴こえながら、それでも音楽自体がベートーヴェンのものであり続けているように、小林流の西行や実朝も、あくまで個人的な解釈でありながらオリジナルを全然殺したり、損ねていないばかりか、最大限に魅力を伝えることに成功しているのだ。

美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない

この有名な言葉は、結局小林の批評において、この後も大きな意味を持ち続けた。例えば本居宣長の思想の受け取り方というのも、乱暴に端的に言えばこういうこととである。しかし、やはりこれは小林の長所であるとともに弱点でもある。
観念的な美や思想や言葉や文学の脆弱性に対するほとんど本能的な嫌悪が小林にはあって、それは我々の生きる現代の問題でもあるのだけれども、そのために小林の場合、意識的な対象化とか客観かをおろそかにしてしまうところがある。無論、小林の場合、その辺は決して単純に考えてないわけだが、例えば「本居宣長」を読んだ時に、小林的な態度のギリギリの欠点が露呈しているようにも感じた。同時に、ギリギリまで、観念性の否定を突き詰めていくところが「本居宣長」の面白いところでもあるのだが。

しかし、そんなことより何よりも、この「無常といふこと」は、とても美しい音楽だと思う。安吾の言うように、かなり独特な色彩の音楽であって、全ての人向きというわけにはいかないのかもしれないが。少なくとも私にとっては、大の愛聴盤である。
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2009年07月30日

小林秀雄全集(旧全集版) 第七巻 歴史と文学

小林の戦争時、あるいは戦争に関する文章が多く収められている。小林は、知識人的な反戦主義者ではなく、戦争という日本の運命を多くの国民と同じく黙って受け入れる立場だった。いや、立場というよりは個人の資質としてそうせざるをえないタイプだったと言うべきか。小林は、上っ面の反戦主義を気取る知識人的態度に苛立ち、ほとんど放言ととられても仕方ないような発言もしている。それを、現在の目で批判するのは容易だ。また、場合によっては批判する必要もあるのかもしれないが、あまりそういうことに私は興味が無い。
それよりも、戦争体験によって、小林の繊細で鋭敏な感受性が心底震撼させられるような影響を受けたのかが良く伝わってくる事のほうが大切だ。戦争を一歩外に立って批判していた知識人たちよりも、真正面から戦争と言う出来事の意味を受け入れ、自分自身や日本という国の伝統の深いところで再確認する契機になったことが、よく分かる。この後、小林は「無常といふこと」にまとめられた素晴らしいエッセイ類を書くのだが、あの文章のなんともいえず人を深いところでひきつけずにはいれない迫力とは、小林の戦争体験、そしてそれをまったく逃げることなく真正面から受けとめた心が書かせたものなのだと痛感する。西行や徒然草についての素晴らしいエッセイは、小林自身のことを語っているのだ。だから、自分以外の対象のことを語っていながら、あれだけ生きたことを書けるのだろう。そういう対象への向かい方は、小林のどの時期についてもいえることだが、特にこの後あたりの時期では、日本という伝統の形を、どんな時期よりも、小林がありありと実際のもののように生々しくイメージして書いている。、小林が体ごと戦争体験を受け入れたことが、「無常といふこと」という美しい結実をもたらしたとも言えるだろう。
勿論、それと小林のような戦争の受けれ入れ方が正しいかどうかは、全く別問題である。例えば、ナチに対する協力が戦後問題になったフルトヴェングラー。彼のナチへの具体的協力の内容、程度はともかくとして、フルトヴェングラーは、心底ドイツ的な指揮者で、彼が国に残って演奏し続けたのは、善悪を超えてよく理解できるところである。トスカニーニは、明快にナチを否定し、フルトヴェングラーも激しく批判した。政治的行為としては、どう考えてもトスカニーニのとった態度のほうが明快だし「正しい」わけなのだが、それでも人間の本質的なタイプとして、フルトヴェングラーは破滅に一直線に向かう祖国に残ってその宿命を身をもって国民と共にするしかないという人間だったのではないかとも思う。
勿論、ナチと日本の問題は全然違うのだが、小林についても、似たようなものを感じる。小林は、マルキシズムも深く研究したり、政治的問題で啖呵をきったりはしているが、本質的には、徹底的に非政治的なタイプだったのではないかと思う。小林の一種の理論性が錯覚させるのだが、色々政治について発言してはいるものの、実際には政治的な面では全く役に立たないタイプだったのではないだろうか。むしろ、どうしようもなく繊細で外部の出来事からナイーブ過ぎる影響を受けずにはいられない根っからの非政治的文人タイプだったという気がする。これは善悪の問題ではなく、小林は人間として本質的にそういうタイプだったのであり、彼らしく戦争を受け止めるという小林の宿命に従ったということなのではないだろうか。
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2009年07月28日

原節子のナスターシャ・フィリポヴナーーードストエフスキーと黒澤明の「白痴」



突然列車の中でうめき声が響き渡る。乗客が一斉に何事かと身構える。森雅之演じるムイシュキン公爵が、悪夢にうなされて目を覚ましたのだ。三船敏郎によるロゴージンが話しかける。そういういかにも映画的なシーンで、黒澤明の「白痴」は始まる。
最近ドストエフスキーの「白痴」を新潮文庫、木村浩訳で読んだ。小林秀雄のドストエフスキー評論を読んで興味がわいたのである。今までこの名作をちゃんと読んだことがなかっのだ。ちなみに黒澤の映画は既に見ていた。
ドストエフスキー自身によると、この小説の狙いは「根本の考えは、無条件に美しい人間を表現しようというところにある。」確かにムイシュキンは美しい人物だ。この作品に対して、小林秀雄も批評しているが、それはこの小説に対する通俗的な解釈を徹底的に拒否しようとする姿勢に貫かれている。ムイシュキンは、単に倫理的な善良性を託された人物ではないと。「作者の描き語ったのは善良性ではない純粋性である。」ムイシュキンは、純粋な人間ではあるが、底知れぬ暗部を内部に抱え込んでいる不気味な人間であり、単なる無知による善人でなく、人間の深い即知れぬ深淵をムイシュキンを通じてドストエフスキーは表現しているのだと。単に理想の善良な人格を見ているだけでは、何も読んだことにはならないと。
一方、黒澤明の「白痴」で森雅之の演じる亀田=ムイシュキンは、もっと分かりやすく「善良」な人間である。黒澤流のヒューマニズムに徹底的に貫かれた作品であり、原節子による那須妙子=ナスターシャも狂ったような激しい攻撃性を発揮しながらも、実は心の優しい人間として描かれている。それは、黒澤の通俗性のなせるわざなのだろうか?
多分そうではない。文学作品の「白痴の正確で深い解釈として、小林秀雄の読みは実に的確である。言語表現として成立した作品としては、当然映像化を拒否する複雑な部分を内包しており、小林の読みは、ひたすらそういう部分を抉り出そうとしているようでもある。
しかし、当たり前だが、文学と映画は全く異質な表現手段である。文学的な深い心理の機微や思想を、映像で表現するのは不可能である。映像化に当たって、多くのものを捨て去る必要がある。実際、黒澤の「白痴」は、文学的見地からすれば、通俗化され希薄化したドストエフスキーに過ぎないかもしれない。そんなことは分かりきったことだ。しかし、大切なのは、それにもかかわらず、黒澤の映画が過剰な何かを明らかに表現していることである。それは、言葉ではない具象的な生々しいイメージが喚起するものに他ならない。文学的なものを大胆に捨象してしまっているかわりに、ほとんど暴力的なまでに突き刺さってくるイメージの力に圧倒されるのである。黒澤の行為は、ドストエフスキーの文学性の否定であると同時に、その精神的本質をちゃんと把握した再創造行為である。表現しているものは、原作とは全く異なるにもかかわらず、明らかに両者は深いところでつながっている。
何より圧倒的なのは、原節子のナスターシャである。ナスターシャは、原作においてほとんど狂気の人間として描かれている。先述したように、黒澤の演出は、彼女にも人間らしさを設定していて甘いのだが、原節子の演技は、黒沢の演出意図を,軽々と乗り越えて、あるいは踏みにじって、原作のイメージに完全に忠実という印象を受ける。原の演技には、映画的な甘さが全く無いのだ。演技しているというよりは、ナスターシャそのものに完全になりきっている。
最初に、那須妙子=原節子の写真が肖像画として映画にでて来るのだが、その原の「目」は尋常ではない。本当に恐ろしい。亀田欽司=亀田欽司は、すぐに彼女の底知れぬ苦悩を一目で直感して見抜く。その後登場する原節子の目の恐ろしさ、迫力は
言葉では表現しがたいくらい凄まじいものである。心底自分に絶望し、自暴自棄になった人間の狂気が、それ以上ありえないような形で原節子によって形象化されているのだ。
原節子と言えば、小津安二郎の「東京物語」での、優しい娘のイメージが定番である。この「白痴」での演技は、その対極である。なぜ、同じ役者が、これだけ違う役柄を完璧に演じ分けることができるのだろうかというくらいに。そして、恐らくそのどちらのイメージも偽りではない。「東京物語」の心の美しい娘も、「白痴」の狂気の女も、どちらも極端すぎて現実的な存在ではない。原節子というのは、おそらく我々が考えている以上に、凄い役者だったのだろう。彼女の中には、ドストエフスキーのムイシュキンに小林秀雄がよみとったような、人間の心の底に垣間見える深淵が潜んでいる。単原はなる「善良」とか「狂気」と言った一面性では言い尽くせない何物かを表現する幅の広さのある得体の知れな役者なのだ。この「白痴」を見ていて、そういう妄想にとらわれずにはいられなかった。ドストエフスキーの文学による言語表現と、黒澤による映像によるイメージ表現が全く異質なものでありながら、本質的なところで表現しえない得体の知れないものを表現することを指向していると点でつなかっている。そして、原節子の過剰な演技が、黒澤の意図さえ超えて、そういう何かを表現していると思う。
この映画について、語りだしたらキリが無い。原節子だけでなく、森も三船も本当に素晴らしい。ラストのシーンで、小説でムイシュキンがナスターシャを殺害したロゴージンの頭やほっぺたを子供に対する様になでる恐ろしいシーンがあるのだが、その場面でのイメージは、最高の成功例の一つだろう。
また、ドストエフスキーの名文句「女が女を理解した。」という激しく憎みあう原節子=ナスターシャと久我美子=アグラーヤが対決するシーンも、ドストエフスキーの小説のイメージ再創造に成功していると思う。ここでの、原節子は、本当に身の毛がよだつほど恐ろしいのである。
千秋実によるガーニャの癖のある小心者の卑劣さも見事だ。さらにもうひとつ、キャスティングとして、黒澤のユーモアのセンスを感じるのは、レーベジェフに左左卜全を起用していることだろう。レーベジェフは、原作では道化的ながら性格上で重要な役割りなのだが、それは黒澤は左卜全によって、純粋な笑いに変換して見せた。これも、一種の見事な再創造行為と言えるのだろうか?
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2009年07月06日

村上春樹「1Q84」読書メモ

(注意 ネタバレで書いています)




あのラストを読んだら、誰しも色々考えざるをえないだろう。考えさせるためのラストともいえる。読了から二日ほど立つが、いまだによく考えがまとまっていない。とりあえずの読書メモ。

かつてオウム真理教のポアという教義が問題になった。間違いを犯している(に特に限らないが)人間を、悟りを開いた人間が死の世界に魂を移行させて、苦しむ者の魂を救済するという教義。そもそも、死後の世界があるのかということを一度カッコに入れるにしても、普通の人間にすれば、宗教の勝手きわまりない行為、単なる殺人行為でしかない。それに対して、カルト側は、間違った生を送っている人間を救済する行為だと言い張る。実際問題としては、そんなカルトの主張などとりあうだけ無駄といってしまえばそれまである。しかし、一応形式論理上だけで言うと、両者の主張は平行論をたどる。だから、さらに仮定として(あくまで仮定として)、宗教側がいっていることが正しいとしたらどうなるのか。もし、人の魂を本当に救うとしても、勝手に人の生を人間が取り扱っても良いのか。そこまで来て、答えははっきりする。ノーであどんなに聖者に近いとしても、人間は人間である。人間が、勝手に他の人間の運命に介入する権利はない。それこそ「なぜ人は人を殺してはいけないのか」に対する根本的な理由だと思う。宗教的な思考の深みにはまっていくと、それがたとえカルト教団による思考でないにしても、「常識」が失われる恐れがある。しかし、結局人間の現実的な「常識」というものは実はギリギリのところでも通用するものなのである。むしろ。怪しげな宗教的な思考に対抗するためには、ごくごく素朴な「常識」のほうが、高度な思想などよりも、よほど有効なのである。
青豆は、家庭内暴力を振るう男たちを殺している。青豆と考え方を共有する老婦人の協力を得て。読者は、彼らの行為に共感せずにはいられないだろう。弱い立場の女性を虐待する虫けらのような男たちは、処罰を受け報いを得るのが当然だと。しかし、先ほど言ったように、それでも人は人を殺してはいけない。最悪な暴力男たちわ罰するのならば、他の方法を探らなければならない。それが常識である。無論、現実問題として、法律や社会が、そういう心を病んだ男たちをきちんと監視しきれていないということはある。病的な男たちは、もし野放しになれば、何度でも犯行を繰り返し、被害者が増え続ける。だから、青豆と老婦人は、彼らを殺しているのである。
しかし、それでも人間が人間を殺す権利はない。裁かれる人間がどんなに卑劣で生きる価値のない存在だとしても、青豆たちのしていることは、結果的にはオウム真理教と変わらない。青豆たちの行為が、心からの善意、というよりは正義感使命感により、オウムの行為が単なる狂信によるという違いはあるにしても。
青豆結局自殺する。なぜ、と我々読者は思う。なんとしても天吾と会おうとするべきではないか、そういてリーダーを殺したのを最後に殺人行為をやめて、新たに生き直すべきではないのか。あるいは、罪を告白して罰を受けるのも良い。しかし、そうはならない。青豆は自ら死を選ぶ。
青豆が「リーターー」を殺すのは、天吾を救うためである。だから、その任務が終わり、自分が天吾を心から愛しているという事実さえあるのならば、もう自分で命を絶っても構わない。そういう意味では、筋が通っている。しかし、別のハッピーエンドでなく、青豆に自殺させた作者の意図はどこにあるのだろうか。小説としての悲劇的な美しい側面が欲しかったからだろうか。そんな浅はかなものではあるまい。私には作者の意図はよく分からない、ただ、作者の意図というのは、単に意識的なものにはとどまらない。意図的にこうすべきと考えるのとは別な深い無意識の力が働いているはずである。優れた小説には必ず起こることだ。
結局、青豆は、人を殺し続けたということに対する深い意識が働いていたのだと思う。表面的な意識では、自分の行為の正しさを確信しながらも、その本質的な過ちを理解していた。それは、「リーダー」という自分が殺されることを承知している人物を殺すというギリギリの状況で、自分の行為の深い意味を考えさせられずにはいられないということも関係するだろう。だから、青豆は自分で自分の死を選んだ。天吾を愛していたということだけを唯一の救いとして。読者は、青豆の生い立ちやおかれた環境や天吾との関係を考えれば、胸を痛めずにはいられない。当然の事だ。青豆を読者として個人的には、徹底的に哀悼する。しかし、青豆の自殺はストーリーとしては「正しい」。作者がどの程度意識して書いているのかは、一切不明なのだが。

この小説で私が一番気に入ったのは、最初のあたりで青豆が中年男性を誘って、というよりは強引に説得してセックスをする場面である。あの場面は、本当に小説として秀逸だと思う。ただ、勿論小説的な中心場面ではない。中心場面は、おそらく青豆がリーターと対面して殺す場面である。あれは、村上春樹による「カラマーゾフの大審問官の場面」なのだと思う。
パッシヴァとレシーヴァという難解な概念。そして、リトルピープル。ふかえりと天吾は、コンビを組むことで、反リトルピーブル的な力を発揮しているのだという。表面的な読みをすると、リトルピーブル=悪、ふかえり天吾=善とも取れる。しかし、恐らくそうではないのだと思う。リトルピープル的なものの力は、普段は人間が生きる世界には届いていない。それを、仲介する人間が現れた時だけ、人間の世界に届き、とんでもない力を発揮する。そして、多くの人間、特に心に弱点をもつ人間の生を軽々と破壊する。
しかし、ふかえりや天吾や青豆のような「何か」を自分の中に持っている人間には、リトルピープル的な力は一切手出しをすることが出来ない。つまり、リトルピープル的なものというのは、本来「別世界」に属するものなのだ。
一方、どんなにくだらない弱い人間であっても、とにかく全ての人間は「この世界」を生きている。少なくとも死ぬまではそうだ。だからこそ、人間の生は尊い。どんなに優れた聖人も、クズのような人間も、等しく各人の生を生き抜く。ところが、そこに間違った手段により「別の世界」の力が介入した場合にはどうなるか。其の場合、人間の自由は奪われる。弱点をもつ人間は「別の世界」の力によって破滅する。リトルピープル的な力というのは、決して「悪」ではないのだと思う。むしろ価値中性的な一つの巨大な力である。
普段、人間の生に介入することはない一つの裁く力である。ふかえりは、その力の実在にはなんら疑いを抱かないが、その力が間違って生きる人間の世界に介入してくることが誤りであることに気付く。それは彼女の宗教的な天才によるのではなく、彼女の人間としての歪みのない感性によるのだろう。リトルピープルは別に間違ったことをしているわけてはない、人間の世界に貫流してはいけないのだ。リーダーの肉体がポロポロになり、極限的な苦痛を味合うのもそのためである。彼は特別な能力を持つ代わりに、人間として破滅する。そして、青豆によって殺されることのみを望む。
だから、この1Q84は、決して善と悪の物語ではない。「別の世界」の力の強大な力と比べれば、限りなく卑小で限られた力しか持たない「この世界」の人間に対する徹底的な肯定の物語なのである。
青豆も天後も二つの月を見る。それは、(リーダーも語っていたように)パラレルワールドへの移行といったSF小説の出来事ではない。月が二つある世界は、れっきとした現実の世界である。それは、「シンフォニエッタ」を流したタクシー運転手も暗示していたことだ。彼は青豆の前に現れた預言者である。月が二つの世界も、れっきとした現実だし、喜びも悲しみも苦しみも生も死も全て、あるがままの現実である。ただ、目覚めた人間にとって、全く世界の見え方が変わってしまうだけである。それは、自己のパッシヴァとレシーヴァへの分裂した人間が見る月だ。また、自分の「空気さなぎ」を意識するか見てしまった人間に起こることとも言える。リトルピープル的なものの力を感じ取って、「別の世界」の追憶をしっかり感じ取りながらも、その魅力的ながらも破滅的な世界に回収されることを徹底的に拒否し、この大地上で生き抜いていくことを決意した生身の人間が、二つの月を見るのだ。それは1Q84に登場する青豆や天吾後だけに関係する話ではない。この世界に生きる、全ての人間、私やあなたも実際に関係している出来事なのである。
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